対象の配置と色彩            
             「70年代と色彩」 町田市国際版画美術館 1995より

 
 松本旻



 カレンダー、新聞、富士山、植物(図鑑)、風景、塔(ポール)これらが、70年代に私が制作した対象となるものの凡てである。これは従来画家がモチーフ(主題)と称したであろうと思われるものだが、私にとってのモチーフは、それらの背後(属性)の方にあって、対象は借りものにすぎなかった。

 
◇60年代から70年代へ

 最初(60年代後期)に対象となるものの条件として、「社会に浸透し、個人の生活に密着していて、物質としての量感が希薄であること」が重要で、「広告(Print)」「カレンダー」「新聞」を選んだ。その場合、それらの対象物をそのままの形で提出しなければならないのだが、変形を許さないと同時に、そのままコラージュしたり、オブジェとして出すことも不都合だった。あくまで似て非なるものをつくり出さなければならなかったからだ。そこで、写し取り、型に置き変え、摺り取ると云う版画技法や、当時やっと自由に製版し、刷れる様になった、写真製版によるシルクスクリーン(孔版)などは恰好の方法としてそれに合致するものであった。

 そこで、それをどの様に刷るか、「配置」と「色彩」が問題となってくるのだが、1969年の「新聞(カラー)」の場合(当時、新聞は黒1色刷りが常識だった)。青、赤、緑、黄、朱と5色に刷り分け、等間隔に併列させたが、これは読むためにある日常の新聞から、機能を抜きさり、トータルな新聞として純化されると考えてのことであり、決して増殖や、謳歌のためのものでなく、安っぽい色彩の、網点のかかった新聞なのだった。

 又、「WHITENEWSPAPER」は、文字の部分を抜き、ネガの状態にして白く刷り上げたが、これは、読まない(記事性を無化する)約束をとりつけ、上下に、タイトルの文字を色刷りで配したのは、新聞の白を際立たせると同時に、ポスターの様なスタイルにすることで、象徴性をかもしだすのではないかと考えたからであった。


◇70年代の富士の色

 l971年の自由が丘画廊での個展は「富嶽三十六色展」と言うタイトルだった。

 その対象としての富士の姿(景)は、最もポピュラーに出廻っている富士山の絵葉書から借りたが、それは、崇高な象徴性をおびた山でありながら、俗な部分をも包含している一般のイメージとしての富士が欲しく、巷で集めた「富士の景」であらねばならなかったし、絵葉書としての痕跡を消すため、更にそれを粗い網点(6線程)にして、4号P(21×33cm)に拡大したのだった。そして、それをカンバスに白色(シルクスクリーン)で刷り、その網点を1粒1粒、フェルト芯のカラーペンで彩色することをはじめた。それは絵具等の今までの色材では、どうしても絵画の重みが出てしまうからで、その頃売り出されたばかりのフェルトペンの色彩は、物質感がなく、軽く、槌色をうながすあやうさを秘めていて適切であった。

 36色入りのフェルトペンを幾ケースか使いきって、36点の富士の賦彩が完了したのだが、どうもそれだけでは不充分で、さらにシルクスクリーンでカンバスに黒色で刷ったもの、コーティング紙に刷ったもの、印画紙によるネガプリント(写真)に置きかえたもの、と広がり、4点を組として展示したのだが、それは、それら4点の内のどれと特定出来ない中間項に富士のイメージを誘ないたい欲望からだった。

 次に制作をした版画「富嶽十二色」は、和紙の下方に、粗い網点の富士をシルクスクリーン(グレイ)で刷り、上部には木版で地色を摺って、亜鉛凸版の富士を同色で刷り重ねたものだが、その亜鉛凸版は、和紙に刷ったシルクスクリーンと同じ版で(亜鉛板に)黒ニスを刷り防蝕し、硝酸液で腐蝕して作ったもので、版画の版画と言う構造で、逆さ富士の様に、下部と向き合って配置したものだが、これは、あくまで「景」ではなく、「色」としての富士を求めた結果のものであった。


◇植物の形に内在するもの

 この頃(70年代)になって野菜や果物の季節による循環が崩れはじめ、好まれる野菜は四季を問わず店頭に並ぶ様になったし、作為的な交配から、種なしの西瓜やぶどうが出て来た。

 この時期「型」によってつくり出されるものを立体版画に見立てて興味を持ち、「ピストル」「蛇口」「ドライヤー」等の実物やモデルをとりつけた組作品をつくったが、それらは工業的(人工的)な生産物で、男の「性」をイメージする硬質な機能をもったものであり、それに対するものとして「植物」を選ぶことになったのだが、それは自然の中から生まれ出て、軟質で、女「性」的なイメージを喚起させられるもの達であった。例えば「いちじく」や「桃」や「あけび」のカタチヘの興味と、それを年毎に実らせる仕組みの不思議さや、「種」として精巧にインプットされたものに、憧憬と同時に版画のプロセスとの類似性をみてとる思いがしたのだった。そう言う風に眺めてみると、植物の表面にある、色や、模様や、産ぶ毛の様なものまで、気高く、移ろい、槌めやすく、色材や技術で捉えることはとうていかなわず、それに腐心すれば、旧来の画家の姿に舞い戻ることとなり、そこで、その部分は、無表情に刷り物で、「図鑑」として配置し、色彩は約束事となってマークされ、記号化して処理する他なかったが、一度記号化された色彩は、画面の中の補助的な位置から「色」自体として独立することとなり、後の色点の繰り返しによる「配色」のシリーズヘの端緒をひらく要因の一つになった様に思う。


◇網点から色点へ

 70年代中期から始めた風景をドット(網点)に写し変える作業は、風景を求めて歩くことからはじまったが、草原があり、その向うに木立ちがあり、空が広がると言う、どこにでもあると思えた私の原風景は、その頃急速に進みはじめた開発に侵食され、見つけることがむつかしかったことを憶えている。

 モノクロ写真に撮られた風景は、粗い網点に引き伸ばされ、カンバスにアクリル絵具(黒)や、油絵具(黒)で写し変えられ、私のタブロー〔風景〕となるのだが、そこではじめて対象としての「風景」が出来上がることとなり、版画による色彩は、その「風景」の解体のためであり、抽象の海へ散開させる願いでもあった。

 「塔」は中世ヨーロッパのシンボル的な存在であり、今も街の中心にそびえたち、視線を集めているが、それをカラースライドに撮り、砂目スクリーンで3色分解し、「塔」を中心に分割し、トレーシングペーパーの表裏から刷り分け、「塔」の連作となったが、そこで使用した色彩は、シアン(青)、マゼンタ(赤)、イエロー(黄)、の印刷用プロセスカラーの三原色であり、刷り重ねてカラー印刷風にしたが、砂目スクリーンの色点で刷られ、トレーシングペーパーを通して透けて見える色合いは、鮮明な印刷物や、ハイビジョンを見た現在の目からは、何か懐かしく、これも70年代の色彩と言うことになるのだろう