2003年12月

2003年12月29日

 私は小論文はクリシェやステレオタイプとの闘いだと思っています。クリシェとは、みんながよく使う決まり切った陳腐な言い回し、たとえば「環境にやさしく」なんて言い回しです。一方、ステレオタイプは常識的な思いこみです。「日本人は集団主義的だけど、アメリカ人は個人主義的だ」とかね。この頃、学生に小論文を書かせると、このタイプの文章がとても多い。小論文とは、とりあえずクリシェやステレオタイプを書けば、それで点数がもらえると思っている人も多いみたい。
 この間も「障害者スポーツ」を取り上げた問題がありました。漫画「スラムダンク」を描いている井上さんという漫画家のインタビューが載っているのです。私は知らなかったのだけど、彼は車いすバスケットボールについての漫画を書いているらしい。それを読んで「障害者スポーツ」について、自分の意見を書け、という出題でした。彼が言うには、車いすバスケットボールは純粋にスポーツとして面白いのだそうです。車いすの操作では、むしろ健常者の方が下手だし、車いすバスケットボールでは障害者と健常者の区別などなくなる、と言うのです。
 ところが、これについて学生が書いた小論文は「車いすバスケットボールを健常者がやれば障害者の気持ちが分かるようになって良い」とか、「健常者と障害者の交流の機会が増えて良い」などという答案がほとんどでした。「ノーマライゼーション」に触れた答案もあったけど、「障害者とのスポーツ交流は、障害者が生きやすい社会の基礎になる」というだけでした。だめだ、これは! と私はあきれてしまいました。この課題文のポイントが全く読めていないのです。
 ポイントは、「車いすを使うことで、障害者と健常者の区別などなくなり、対等になる」ということなのです。我々は障害者を身体能力が劣った弱者だと思いこんでいる。だから、保護しなくちゃ守らなくちゃ、と発想しがちだ。しかし、それは障害者を憐れむことであって、尊重することではない。むしろ、ある道具を使うことで、障害者と健常者が互角に渡り合って勝負を決する。そこでは、スピードも技も、それらと対応した身体能力の素晴らしさもある。それが障害者への尊敬の基礎となる、ということなのです。
 井上さんは、車いすバスケットボールを取材のために見ているうちに、プレイヤーを障害者ではなく、アスリートとして見るようになったと言います。しかも、狭い通路などにぶつかると「ああ、彼だったらここは通りにくいだろうな」と自然に相手のことを考えるようになったと言います。よく「思いやり」というと、弱者の保護というイメージにとらわれがちだ。しかし、「思いやり」とは、自然に相手の身になって考えられることだ。自分が健常者という優越感に浸って、障害者の保護を想像しているようでは、単なる慈善事業になってしまう。
 その意味で言うなら、学生たちの答案はみんな落第です。交流だって? 理解が深まる、だって? ノーマライゼーションの基礎、だって? みんな良くある陳腐なフレーズの繰り返しです。しかも、障害者が弱者で健常者である自分たちは強者なんだという前提は強固に残っている。これでは、課題文を読んだ意味が全くない。クリシェやステレオタイプがそのまま言葉になっているだけです。「お前等、何を考えているんだ!」と授業では、つい声を荒げてしまいました。でも、どこまで分かってくれたことか…
 「自然」あるいは「無自覚」に書くと、こういうことになってしまう、という典型ですね。現代は情報が溢れているから、クリシェやステレオタイプの伝染力も強い。ありとあらゆるメディアで「環境にやさしい」だの「弱者を守ろう」だのというメッセージが流れている。善意ある人々は、ついそういう言葉に従ってさえいれば、自分は良いことをしている、公明正大だと思いがちだ。でも、そういういい加減な言い回しの裏に潜んでいる欺瞞や差別にこそ気が付かなきゃいけない。ぼやっとしていたら、自分が単なる陳腐な常識の拡声器になってしまうのです。現代の大衆社会はそういう危険性が大きいですね。「自分の主張をする」とは、そういう「常識」との不断なる闘いでなければならないのです。

 さて、こんな事を書いているウチに2003年も終わりに近づいてきました。「三日坊主」通信も一年たってしまった。三日ごとに書く、なんて言ってはみたものの、結局終わってみれば十日に一度、というペースでした。「十日坊主」通信になってしまいました。ゴロが悪いね。でも、とにかく書き続けたのは偉い! と自画自賛、宣言したウチの三分の一でも出来れば上等と我田引水…。やはり、こういう自己満足に浸っていてはダメですね。

 あっ、それから一言報告します。
 ボカボ受講者から合格の知らせが次々と寄せられています。社会人入試、AO入試の方たち、それから法科大学院の一次選抜を突破した人たちなどです。晴れやかな合格の知らせを頂くと、本当にうれしいものです。もちろんそれぞれの方の努力の結果ですが、私をはじめとするボカボの添削人たちの仕事が報われたという感を新たにします。でもまだ結果はすべて出ているわけではありませんよ。来年はいよいよ法科大学院の試験・面接が始まる。もちろん、大学入試も秒読み。みなさん、クリシェやステレオタイプと闘いつつ、がんばりましょう。

2003年12月16日

 久しぶりに映画の「はしご」をしてしまいました。「女はみんな生きている」と「ポロック」です。二ヶ月ほど休みなしなので、一日ぐらい息抜きがあっても良いか、といわゆる「自分に対するご褒美」のつもりです。それでも、行き帰りの電車ではコンピュータを持ち込み、原稿を書き続け・添削をし続けてましたけどね。

 映画は対照的な出来でした。前者は最高、後者は最低!
 「女はみんな生きている」はフランスの女性監督で、最初の五分間の映像の面白さ、最後まで息つくまもなく引っ張っていく展開、細心で勘所を押さえた演出、俳優の演技の上手さなどほとんど文句の付け所がありません。何年に一度の出来の映画なので、絶対にお勧め。
 物語は、主婦のエレーヌがある娼婦と出会ってしまったところから、彼女の生活がガラガラと変わってしまい、最後には夫も息子も放りだして、新しい幸福を見いだす話。娼婦の方も売春組織を潰し、自分を虐げた男達に復讐を果たす。アクション場面もあるのだけど、それが大上段な暴力でなく、かわいらしいところもよい。最近の世界は暴力に暴力を、という風潮が強まっているけど、そうじゃない抵抗の仕方があるんだ、というメッセージが爽快だ。「ガンジー」なんかをくそまじめに描くより、ずっと効果的だよね。
 一方で、男はコケにされっぱなしで立つ瀬がない。仕事ばかりで周囲への配慮が足りない夫、怠惰で女の子と遊んでばかりの息子。それでいて、いい女にはすぐ熱を上げてしまう反省のない二人。救いようのない男達を男優たちが好演している。こういうカリカチュアライズは良くあるけど、なかなか笑えるところまで行かないのが普通。大人らしい苦みを漂わせて、お見事!  フェミニスト系の人でなくても絶対に面白いはず。

 一方の「ポロック」は、これ以上ひどい映画もまたとない、というほどひどい映画。予想はしていたのだけど、「ああ、やっぱり」と力が抜けてしまいました。だいたい「芸術家」を描くと、何でこう大げさなんだろう。「芸術家の悲劇」とか「天才」とか、19世紀以来のロマンティックの神話を飽きもせずにまだ繰り返している。頭、悪いんじゃないの?
 この映画でも、冒頭いきなり女性画家が主人公を訪ねてきて、一言「天才だわ!」と感心する。そのまま彼の才能を信じて妻になり、マネージャー役に徹する。古くさいというか、マッチョくさいというか、意味のない思いこみがすごいね。後は、いろいろな人がやってきて「天才だ」「がんばれ」と言い続け、生活苦にもめげずにがんばりました、が前半の内容。後半は、絵が何万ドルかで売れるようになった主人公が次第に描けなくなって、酒におぼれて身を持ち崩し、最後は自動車事故で死ぬ、というありきたりの悲劇。
 主役の意気込みは分かる。前半のスマートな体形が、後半ではデブデブになるところなど逆ダイエットとしたのだろう。でも、空回り。コンセプトが陳腐だから、いくらがんばってもしようがないのだ。目に付くのが、せりふの貧困さ。ポロックが新境地を見いだすときの妻の言葉はYou’ve done it!(やったわね!)だけ。何がどう「やった」なのか、さっぱりわからない。ポロックの絵はよく売れたから、これで伝わると思っているとしたら、あまりにもナイーヴで反省がない。後は彼の絵が何万ドルで売れただの、雑誌に載っただの、女遊びをしただのの低俗なスキャンダルばかり。ゴッホの絵というと、何億円するかばかり話題にする人がいるけど、そういうのとあまり変わりない。
 芸術家の陳腐な天才神話をあおりたてれば、映画が売れると思っている作り手の志の低さにも呆れてしまいます。しかし、こんな風に低レベルなセンチメンタリズムで満足する人も結構いるんです。そういう人は「これが芸術だ!」なんて感激したりするんです。私はポロックの絵が好きだから言うが、こんな映画は絵の鑑賞のじゃまなだけ。でも、勘違い映画は雑草のようになくならないんだよね。あーあ、文句を言うのも徒労だな。

2003年12月10日

 先週、今週と添削・原稿執筆に追われていました。それに、予備校の終講が重なって大忙し。
 とくに法科大学院の志望理由書・自己評価書の添削は、皆さん必死だから手が抜けない。この一週間、ずいぶん色々な人の人生に付き合った感じがします。薬剤師、高校教師、TV局のディレクター、医師、営業職など様々なバックグラウンドの人が世の中に正義をもたらしたいと考えて、法律家になろうとしている。こういう人々の意気込みを見ていると、日本の社会も捨てたものじゃないな、という気がしてきます。
 でも、みんな自己アピールは正直言って決してうまくないですね。よくやるのは情熱を見せすぎて空回りする、というタイプ。表現が力むばかりで、肝心の自分が何をやって来たか、どのように将来のイメージを持っているかがない。エピソードがバラバラで、一貫したストーリーが作れないものも多い。まとまった印象を与えたいから、ちゃんと一つのテーマで統一されていないとね。でも、つい「あれもこれも」という列挙になってしまう。それに、法律家になれば何でもできる、という幻想もナイーヴすぎるね。今までだって、改革しようとして出来なかったのだから、意気込むだけではいけないのです。冷静に今までの状況を分析しないといい提案も出てこない。そういう点を指摘しても、油断するとまた同じ傾向に陥ってしまう。だから庭の雑草を必死になって取っている感じです。
 とりあえず早稲田の提出日が終わって山は一つ越したみたい。でも、引き続き試験があるのだからまだ気を抜いてはいけないですよ。せっかく法曹界への門戸が一般にも開き、チャンスが訪れたのです。最後まで油断せず頑張ってください。

2003年12月4日

 法科大学院を受験する人たちは、志望動機書と自己評価書の準備に追われています。早いところはそろそろ提出期限だからです。これがいざ書いてみるとなかなか大変なんです。だって自分のことですから、もっとも客観的になりにくい。そこで書き方のポイントを大公開します(ちょっとオーバーだね)。これから書く人、どうもまとめられない人はぜひ参考にしてください。

 志望動機書というと、人柄を出すと良いとよく言われますが基本的には小論文と同じです。「なぜ法律家になりたいのか」、「法律家になって何をしたいのか」、その二つの問題に解決を与えればよいのです。
 よくある傾向として、自分の人生を順番に書いてくる人がいるけれど、それはかえってわかりにくい。まず、「動機はこうだ」と言い切ってしまってから、そのディテールを後からつけ加えればいいと思います。
 その際、具体例は一つないしは二つを厳選すべきであって、いくつも列挙する必要はありません。また、学校のことをやたらと賞賛する人もいますけど必要ありません。
 要は、「自分のやりたいことと人生経験が合致するようにストーリーを組み立てる」のです。職業経験がなかったら、そのぶん社会への関心と関連知識をアピールすべきです。そのためには多少自分の専攻したい分野の本を読んでおく必要がありますね。

 でも、これだけは言える。何度も書き直していくと、確実によくなる。最初に書いたのと完成させた物とを比べると大違い。これが私なの? と自分でも感心するはずです。最後に文章として完成させた動機が、あなたの本当の動機になるのです。文章を書いていく中で、自分を発見していくのですね。どうですか? こうやって考えると、書くことがずいぶん面白くなりませんか? 書く作業って、彫刻家が時間をかけて丹念に形を作っていくのとなんだか似てますね。