2003年5月
2003年5月30日

 健康のため、毎週最低一回はプールに行き、800mぐらいは泳ぐようにしています。そうすると、泳ぎながら色々なことを考える。これまでの人生のこととか、これからの仕事のやり方とか、プールで泳ぐのは瞑想効果があるらしく、あれこれ色々考えます。ところが、そんな風に考えていると、必ず何m泳いだか忘れてしまう。それも、直前までは250mとか300mとか数えているのに、突然それが一周前に数えたことだか、さっき数えたことだか、分からなくなってしまう。
 時間感覚がなくなって来るという感じです。昔、スキューバ・ダイビングの訓練を受けたとき、水の中では記憶力が落ちる、と言われたのですが、本当にそう。300mを超えた頃から、数字というものが考えられなくなってしまう。ただ黙々と体を動かしている。それが気持ちよくなってくるのです。身体感覚と思考の一致というのはこういうものなのでしょうか。きっと魚も記憶なんかないのでしょうね。

 さて、水泳でもう一つ面白いのは、身体が時間とともに変わっていく感じがはっきりと感じられることです。200mぐらいまでは体が重くて、泳いでいるのが苦痛で仕方がない。脚もよく動かないし、手も棒みたい。ところが、200mを超えたあたりから俄然身体が軽くなって、泳ぐことが快感になってくる。手も足もいちいち脳で命令しないでも、自立して動いていく。その差がすごく明確です。調子に乗って、次の日筋肉が痛くなるまで泳いでしまいます。
 きっと身体はひどい保守主義者なんでしょうね。慣れていないことには、ひたすら抵抗をするのだけど、慣れてきたら、すぐそれなしではいられなくなる。本質的にaddict体質と言った方が適当なのかもしれません。そういえば、感情も一度それにはまりこむと、なかなか客観的になれない。

 この頃は、ちょっと年を取って賢くなったから、わざと身体をかつぐことにしています。原稿を書くときは、とにかく早めに始めて、身体がその気になるまでのウォーミングアップを長く取る。そうすると締め切り直前にはノリノリで、最後の最後まで手を抜かない。必然的に内容のレベルも高くなる・・・という風にすればいいのは分かってはいるのだけど、そうはいかないですよ。当たり前だけど。
 でも、小論文を書くときも案ずるより産むが安しです。とにかく書いてみると、悪いところも自然に目についてくる。今日ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読んでいたら、こんな文言にぶつかりました。「この本は、その内容を一度自分で考えた人にしか理解されないだろう。」言葉とは、その通りでなくても、何らかの仕方で、もうそのことを考えたことがある人にしか理解されない。つまり徹底的に自主的なものなんですね。その自主性をどうやって開発するか、それが一人一人の工夫なんでしょうね。
2003年5月26日

緊急連絡
web上から申し込まれた方からだと思うのですが、最近2度ほど、真っ白で何も書いてない申込書(appli form)が届きました。今までそういうことは一度も無かったのですが、もしかすると特殊な機種をお使いで、うまく届かない場合があるかもしれません。もし、申し込んでから3日以内にボカボからの返事が届かない場合は、申し訳ありませんが、メールで info@vocabow.com宛にご連絡下さい。

2003年5月23日

 金曜日に駿台予備学校千葉校に行った帰りに、千葉市美術館で「斎藤義重展」を見てきました。この美術館は地方美術館としては頑張っているところで、「高松次郎展」など現代美術の面白い展覧会を時々やる要チェックの美術館です。
 ところで「斎藤義重」は知っているかな。知らないと思うけど、現代美術界ではかなり有名な存在です。60年代から活躍しているのだけど、その頃からもう「おじいさん」という感じで、一目置かれていたとか。ところが、亡くなったのは2001年だから、40年間もずーっと「前衛のおじいさん」していたわけだ。すごい!
 作品は、しかしとてもパワフルで気持ちいい。単純な形の組み合わせなのだけれど、この「気持ちよさ」は何なのだろう、としばし考えこんでしまいました。たとえば「トロウッド」という作品など、赤い楕円と長方形がいくつか描いてあるだけ。長方形は角が丸くなっていて、そういえば寿司屋のトロに似ているかな。などと考えてしまう。待てよ、そんな馬鹿な種明かしはないよな、と思い返してもう一度見ると、ますますトロに見えてくる。現代美術なのだからもっと難しい「解釈」があるはずだと思いながら、やっぱりトロだトロだと頭の中が反響する。
 こういうユーモアがあるのが、彼の作品の特徴です。現代美術なのだけど、ちっとも気取ってなくて「横町のご隠居さん」のような風情がある。でも一方で、色の配置や形の組み合わせなどハッとするような知的なセンスがある。しかも、そのセンスが年を取ってくるにつれ、ますます鋭くなってくるのが凄い。
 1980年代以後の立体作品のところが圧巻でした。色は黒だけ。恐竜を思わせたり、梯子のようだったり、なんだか分からないマシンのようだったり、でもそれらが集まると空間をあっちに区切ったりこっちを包んだり、空間が変形されて、その感じがとても快い。しかも展示してある場所が良いのです。大きな作品は一回のホールに飾ってあって、エンタシスのちょっとレトロな空間に置いてあって、そのミスマッチがおしゃれでした。
 お勧めの美術展です。千葉はちょっと遠いけど、センスが光ります。
2003年5月17日

 ごめんなさい。気が付いたら「三日坊主通信」をもう半月も書いていませんでした。月日の経つのは速いもんですね。もちろん、たださぼっていた訳じゃありませんよ。毎日の予備校通いとvocabowの添削でちょっとお疲れ、というところ。ほとんど朝八時に出かけて夜十時過ぎに帰るという生活。空き時間はとにかく原稿を書いている。平均の仕事時間は十二時間を遙かに超えている。いったい、いつから私はこんなに忙しくなったんだろう。

 二十代の頃はこんなではありませんでした。昼は遺跡の発掘、夜はスタッフをやっていた演劇研究所の演出助手をしていました。発掘は面白かったですよ。地面に四角に白い線が書かれていて、そこをまっすぐ2メートル掘り下げるだけ。野原の真ん中でゆるゆる掘っていると、周りでトノサマバッタが飛び跳ねる。休み時間に追っかけると、あわてて羽を広げて飛び立つ。透明な羽に赤いマークが入っているから、何百匹ものバッタが空を埋めて、目の前がふわっと赤くなる。一緒に発掘をやっている人も、もちろん変な人が多い。インドにはまっている人は半年日本で働いて、半年インドに行っているとか。だから、将来なんてまったく心配してなかった。
 ちょっと忙しくなったのは、三十になってから。定収入を得ようと思って予備校の講師になってからです。それもはじめは週二日程度、でも二年目から週四日になり、三年目には週五日。あっと言う間に仕事が増えた。あちこちの予備校に売り込みに行ったら、どこも採用してくれるんですね。急に忙しくなって、時々授業中でも眠くなる。板書しているうちに意識がなくなって、頭を黒板にぶつけて目を覚ます。でも、その頃の予備校には悪いけど、あまりプロ意識は無かったと思います。だいいち予習していかなかったんだもの。
 いろいろ気を使い出したのは、やっぱり原稿を書き出してから。表現を工夫したり、構成を考えたり、いつの間にか二三時間経ってしまう。二十代はそれがかったるかったけど、書き始めると意外にこの集中した時間が好きなことに気づきました。原稿を書いたり、本にまとめたり、そんなことをくり返しているうちに、いつの間にかちょっとでも時間があると文字を書いている。そうすると、休み時間とかヒマという観念が無くなって、のべつ書いている。一方、授業のやり方も変わってくる。行き当たりばったりじゃなくなって、ばっちり予習してプラニングして、その通りに進めないと気分が悪い。そういうことが、いつの間にかプライドになっている。これじゃ、時間が無くなるのは当然ですね。
 働き方っていうのは、時間とともに自然に自覚が変わってくる。私なんて育ちが遅いのか、今から考えるとずいぶん迷いの時が長かったという気がする。今の学生は、若い的から就職の心配ばかりでかわいそうですね。だから、黒いリクルート・スーツを見ると、そんなにがんばらなくても何とかなるのに、と声をかけたくなります。

 ところで、友達には、若いのにもう何年も前から浮き世をリタイアしていて、ヨットに乗るのが日常という人がいる。「朝起きて『さて今日は何をしようか』と考える自由」があると言っていました。たしかに、これは究極の自由ですね。こんな境地を目指して、でももう少し私はがんばりたいと思います。こんど、彼のヨットに乗りに行ってきます。
2003年5月1日

 新緑の季節だーと思ったら、どんどん色が濃くなってきました。もう若葉と言うより、成熟した大人の葉ですね。しかし、年を取る毎に自然に救いというか癒しというか感じるようになりました。年々歳々同じ花が咲くのだけど、その確実さが今はとても大切な物に思えます。昔から、日本人の神は「自然」だと言うけれど、たしかにそうかも。自然の移り変わりを見ると、ほっとします。
 反面、キリスト教のGodの観念はどうも肌に合いません。というより、あの磔のヴィジュアルがいやなのかも知れません。スペインのプラド美術館に行ったことがありますが、一つの階が全部例のピエタ像で占められていて、血、血、血の連続でうんざりしたことがあります。その夜に見た劇場でも復讐の芝居をやっていて、これも殺人の連続で全部が血でベトベトしている。どうしてあんなものがいいのかね。
 メキシコで見たキリストとマリアの像はお雛様みたいでかわいかったけど、ヨーロッパの教会はどれも暗くて権威的で復讐と嫉妬のにおいがする感じです。あんな神様に命令されるのはいやだろうな、とつい思ってしまう。もっともこれは欧米人も同じらしくて、この間読んだ本では、自分はユダヤ人だけど、どうしても旧約聖書の残酷さには違和感を覚えてしまうと書かれていました。
 ヨブ記では、神が悪魔と賭をして、信心深いヨブにありとあらゆる災厄を与える。信心深さを試そうというのです。ヨブがそれに文句を言うと、神はもっと怒ってさらに災厄を与える。ヤハウェは逆ギレの神様というわけです。それでも従わなきゃいけないのですから、人間こそいい迷惑です。キリスト教は旧約の世界そのものじゃないけど、どうもその感じが抜けませんね。
 宗教的には、日本という淡泊なところに生まれてああよかったと本当に思います。風が吹き、雨が降り、花が咲くという平和な神=自然に感謝、です。


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