2003年6月
2003年6月28日

 昨日27日、ボカボのホームページが急に文字化けして読みにくくなりました。
原因はよくわからないのですが、サーバーをチェックし直して、ようやく元の状態に復帰しました。アクセスしてくれた方には、大変失礼いたしました。
取り急ぎご報告いたします。
2003年6月22日

 6月もそろそろ終わりです。予備校の1学期は後に週間ほどで終わりだし、あじさいもそろそろしおれ加減。1年の半分が経っちゃった訳だから、時間の経つのは速いものですね。7月になったら、9日には富山、10日には宇都宮で日本入試センターの「小論文講習会」で高校の先生相手にお話しします。富山・宇都宮近辺の皆さん、質問があったら直接会場でお受けしますよ。
 さて日本は変わりつつあります、なんて大上段に構えた始まりですが、昨日の夜にサッカーの日本・フランス戦の録画ビデオを見たからです。ファウルの取り方とか、ちょっと審判の判定に一貫性がなかったけど、いい試合でしたね。何よりも、選手個人個人の意識が高いので、見ていて快い。印象的だったのが、ボールを取られてもすぐ取り返しにゆくこと。トルシェが監督の時だったら、ボールを取られたらまず自分たちの陣形を整えて相手の攻撃を防ぐという形になることが多かったと思う。その分攻撃が決まったときは、集団のメカニズムが働いてキレイな形で決着することが多かったのだけど、今度のチームは個人の力が局面を切り開いていく、というスタイルが確立したようです。
 私は、トルシェのスタイルもコンセプトがはっきりしたマスゲームみたいでスキなのですが、今度の方が選手の自主性が発揮されていてさらにスキです。なぜかというと、「自由」が本来持っている美しさ、快感があったからです。最近は「自由」なんてすっかり聞かなくなってしまいましたけどね。もちろんそれを実現するには、個人の自覚と、絶え間ない訓練があるのは当然です。今回はその上で、個人の自主性を組織化するために中田をはじめとして皆で徹底的に議論したそうです。たとえ意見が対立したとしても、そこから新しい戦略が見えてくるのだから、本音の議論は大切です。どうしても協調してしまいがちな、その場の空気に弱いと言われる日本人像とは明らかに違いました。私には「希望」にみえましたけれど、皆さんはどう思いましたか?

2003年6月15日

 13日の深夜、テレビでバッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」を聞きました。いやあ、これがよかったですね。今まで「マタイ」と言えば、リヒターとかメンゲルベルクとか聞いたことがあるし、たしか20年ほど前に日本の楽団で生でも聞いたこともあるんだけど、劇的な割には、あまりなじめなかったのです。アリアのいくつかはとても綺麗なので印象に残るのですが、好きな曲かと言われると二の足を踏む。やはり宗教曲だから、異教徒である日本人には分からない気がしてしまう。

 ところが、バッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」は、感覚的に納得できる演奏でした。全体的に速めのテンポをとっており、アリアの部分もあまり大仰ではない。第一部を聞いたとき、そのさりげなさに「あれっ」と思ったくらいです。でも、そのためアリア以外の物語の部分が際だってきて、第二部になってイエスが磔になる前後のあたりから急速に盛り上がってくる。全体の構成がくっきりと立ち上がってくるのです。これなら、キリストという神への信仰を抜きにしても、十分にイエスという人の悲劇として受け入れられる。
 エヴァンゲリスト(福音史家)やイエスはドイツ人のゲストが歌っているのだけど、アリアの一部は日本人が歌っていて、それが欧米人の歌手と比べて引けを取らない。カウンターテナーなど高い声まで澄んでいて、とても綺麗。管弦楽も古楽器を使っていて、くぐもったような繊細な響きがする。それがintimateな感じを強調して、聞いていてすんなりと抵抗なく入ってくるわけです。

 リヒターの演奏なんかは、すごく劇的に演出されていて、宇宙的大悲劇・大活劇という感じです。メンゲルベルクのCDなどは第二次大戦直前の演奏とかで、アリアの所など当時の緊迫した状況と重ね合って感じられるのか、聴衆のすすり泣きまで入ってくる。それがいやが上にも「マタイ受難曲」の雰囲気を黙示録的にしていて、「ワー、世界が破滅するー(!)」とかいうオーラがある。平和な日本で聞いている私としては、そのギャップがすごすぎて信仰がないと埋められない。
 でもバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は、その大仰な話を等身大に引き戻している感じなのです。悲しいところは自分たちが悲しいように、美しいところは自分たちが美しく感じるように。へんに威圧的になったり、神秘的になったりしないで、でも技術的には高い水準を保っている。そういう演奏はキリスト教信者からすれば違うのかも知れないが、とりあえず安心してバッハの音を楽しむことができる。

 自分が納得できることを元にして、芸術作品を組み立てられるということは、いいことだと思いました。文章などでは、いまだに欧米と日本を比較して「個人が確立していない」とか「一神教の伝統がない」とか、文化の違いをことさらに言い立てるするものがいまだにある。でも、そんな風に肩肘張らなくても、対象をきちんと分析して、自分たちの感覚に忠実に音を作れば、十分に音楽は説得的になる。この演奏は、芸術は宗教や文化の違いより普遍的だということをはっきり示してくれたと思いました。
 日本人も欧米カルチャーに対してやっと冷静な距離が保てるようになったのでしょうか。経済は不況だけど、こういう変化があるということは、日本も捨てた物じゃない。しかも、これが孤立した個人の努力の結果ではなく、集団の達成だったことが意味があるような気がします。人を動かすには、言葉がより強く明確でなければなりません。組織した指揮者の力の大きさと、そのコンセプトを理解してそれに応えた団員達の理解力と技量がよっぽど高かったんだろうなー。
 以上、素人の勝手な思いこみかもしれませんが、とにかくよかったことはたしかです。
2003年6月9日

 土曜日の朝に、電車の中で面白いものを見ました。若い男の二人連れなのだけど、一人は口を開けて眠っていて、もう一人は起きている。寝ている方は(Bとしましょう)は起きている方(A)の肩に頭をもたれかけている。これだけなら良くある風景です。この頃、電車の中で寝ている人は多いですからね。彼らの左側にいる男の人(C)も眠っていました。つまり、私の目の前にC-B-Aと左から順に座っているわけです。
 ところが、BはAの膝の上に横になったのです。脚は左側の方に行き、Cの膝の上に載せる。Cもさすがに目を覚ます。AはCに謝りながら、その脚をどける。すると今度は、その手を払いのけながら、180度回転してCの膝に頭をのせようとする。Aはあわてて、その頭を自分の方へと引き寄せる。しかし、BはCの腕にしがみつき、そうさせまいとする。それをAがまた引き離す。BはいったんはAの肩に戻るのだけど、手はCの方へと伸び、彼の手を握ろうとする。Aはそれを引き離そうと悪戦苦闘。この間、Bは一度も目を覚ましません。これには呆れたのを通り越して、びっくりしてしまいました。何よりも、目を覚まさないでこれだけの複雑な動作ををやれるのがすごい。Cの男の人も途中から苦笑いしていました。

 電車の中で寝ている人は、この頃たしかに多い。何でこんなに多いのだろうと思う。ニューヨークやパリでは一度も見たことがない。それも当然で、眠っていれば物を取られたり、すられたりする恐れがあるからです。だから、みんなちょっと緊張したような顔で座っている。だから日本人は……と言いたいのではありません。実際、東京で白人のビジネスマンが口を大きく空けて寝ていたのを私は目撃しています。つまり、民族や国民性ではなく、社会の構造が電車で寝やすくできているのだろう。
 治安が良いせいかもしれません。でも、冒頭の例のようなことを見ると、それだけでは説明が付かなくなってしまう。Bが起こされているのに起きないで寝続けているのは、単に安全だからではなく、眠り続けようという意思表示の表れのような気がするのです。普通は寝ていても、自分の降りる駅が近づくと何故か目を覚まして、降りていく。これは、自分の位置をおぼろげながらも意識している証拠でしょう。しかし、この場合はそれすら分からなくなる。無意識にでも社会に適応しようという気持ちがない。

 ポスト・モダン以降、主体とは無制限の自由ではなく、ネットワークの結節点であるという言い方があるけど、今はその感覚が極点に達しているような気がします。自分だけでは何もできない。社会システムに支えられなければ、電話も食事も仕事も遊ぶこともできない。全てが情報とその中での選択からできている。しかもその選択でさえ、自分の欲望というより、宣伝操作の結果だったりする。
 このような状況の中で、自分でできることと言ったら、そのネットワークから完全にはずれること、つまり寝てしまうことしかないのかも知れない。つまり、「プラグをはずす=アンプラグド」というヤツです。リラックスだけでは十分ではない。だって、そのリラックスも「リゾート」とか、社会システム化されているからです。「アンプラグド」するには、徹底的にシステムからはずれねばならない。
 そのためには、とりあえずこの世との関わりを切って、主体を消し去るのがいいことなのでしょうね。何もしないで眠ること、究極の「アンプラグド」。この車中の風景は、そんなことを指し示しているような気がします。その事情を理解・共有しているからこそ、Aも隣の人も怒る気になれない。何となく、みんなで大事にならないように支え合う。そう考えると何だか哀しいものがありますね。
2003年6月2日

 今日、塚本晋也監督「六月の蛇」を見て来ました。全体にヘビメタ系思いこみの世界というか、設定もエロスとタナトス、作り手の妄想する脳の中に巻き込まれるという感じで、激烈すぎて見ていて苦しい。ラストも幸せな日常への回帰という感じでちょっと物足りない。でも、とりあえず日本の映画に希望が持てるという感じはしたなー。
 何よりも、監督が自分の感覚を追求しているのが気持ちいい。雨がずっと降り続けている設定や排水溝の執拗な描写など、私の趣味では全然ないけど、イメージが個人のもの、つまり個性として明快に伝わってくる。実を言うと、この個人性がない映画が多すぎるんだよね。個性や才能をうたっていながら、実は社会の通俗的なイメージに寄りかかって作られている映画がいかに多いことか。もうやんなっちゃうくらい。

 とくに、ここ10年間ぐらい日本映画には違和感ばっかり。最初は岩井俊二監督の「スワローテイル」からです。この映画はずいぶん評判になって、観客動員数も多かったけど、あまりにも幼稚でびっくり。トーキョー・シティだったかな、近未来の東京ではみ出し者達が住んでいる地域があり、そこで英語と日本語、中国語ちゃんぽんでしゃべる男が出てきたり、銀行強盗(だったかな?)があったり、筋立てだけは派手だけど、リアリティがゼロ。
 呆然としたのが、盗んできた何億円という紙幣を子供達がたき火にして燃やす、というシーンでした。「自由」を象徴しているつもりなのかな。主人公達はお金という社会のシステムから自由に生きているというメッセージ。でも、でも、ちょっとお手軽ですよね。 なぜって、お金が大事という常識に作り手が強固に持っているから、燃やすことを「自由」の象徴として使うわけでしょう? 無神経というか無反省というか、自分が通俗にとらわれていることを如実に示している。
 それに、途中で出てくる阿片窟だかの描写の陳腐さ。役者にグロテスクな表情をさせれば雰囲気が出ると思っている。しかも、その描写たるや、深夜の電車の酔っぱらいと大差ない。何となくグチャグチャした感じにしとけば、とりあえず阿片窟でしょ、という感じ。観客をなめているとしか思えない。全てが社会的「記号」になっていて、通俗の極み。
 しかし、それを指摘した批評が全然なかったのも、またまたビックリ。ある批評家など「最近の日本映画は元気がないから、あまり文句を言わないで見てやろう」なんて、露骨に身びいきする。イギリスのローリング・ストーン誌で「そもそも映画になっていない」とムチャクチャけなされていたのを知らない訳じゃないだろうに。日本では、作り手と批評家が結託して、観客をだまそうとしているのだろうか。

 二、三年前に上映された青山真二監督の「ユリイカ」もひどかった。これはいわば癒しの物語です。バスジャック事件で「心の傷」を負った運転手と幼い兄弟がバスに乗って日本中を回って、そのトラウマから回復する、というお話。これも「日本映画の未来はここにある」なんて持ち上げられたけど、だいたいトラウマからの回復という設定がいかにも当時の流行でステレオタイプだと思うけどなー。
 冒頭の殺人シーンからしてわざとらしいけど、一番いやだったのが「心の傷」を負った男の子が連続殺人を犯すのに気づいた運転手が、その子を諭して警察に自首させるところ。「おまえが出てくるまで何年でも待っているから」なんてしみじみ言うのだけど、何で警察に引き渡しちやうわけ? 男の子が殺人するのをやめさせたければ、自分が身体張って止めればいいじゃない!? 警察が「反省」や「改心」の場所になっている。テレビの刑事ドラマじゃあるまいし、いつから警察はそんな象徴的意味を持っちゃったのだろう? お前は公安委員会からの回し者か!?
 そういうわけで、最後の自然に抱かれて、トラウマから回復するラストシーンも信用ならない。空撮で金をかけたな、他の国の映画ではこんなに費用のかかることはできないよなーという感じがして仕方がない。何でそんな妙なことを考えてしまうかというと、全体が通俗なイメージに頼っているせいだろう。まだまだあるけど、スペースがもったいないからこれ以上は挙げない。

 通俗がなぜ皆好きなのか、私には分からない。しかもこれほどはっきりしているのに、誰もそのことを批判しないで、口を拭っている。それどころか、素晴らしい個性だと持ち上げる。私の感覚の方が間違っているのかと思って、見たという学生に聞いてみた。すると「スワローテイル」は素晴らしかったと口をそろえて言う。「どこが?」「全部!」「特にここがっていう所は?」「だから全部!」「だから、どこが?」「……」しつこく食い下がるとあからさまにこちらを無視。分からないヤツには、問答無用ということか。それとも批判する者は排除するのか…。

 そんなわけで、ずっと日本映画の未来は暗いなーと思っていたわけです。

 しかし「六月の蛇」を見てちょっと安心したのは、作り手が堂々と自分の信じたイメージを貫いていて、通俗的イメージと裏取引してないことです。前述したように、私はこのイメージは好みじゃない。でも、本人が信じているんだから認めてあげたい。この監督は「身体を張って」映画を作っているのが分かるからね。こういう人が評価されるのはよいことだ、やっぱり世の中も捨てたものじゃないと思うわけです。   

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