2004年11月
11月18日

 アメリカはイラクにどんどん侵攻しているみたいだけど、私はこの戦争は日華事変に似ていると思う。「頑迷固陋な中国を懲らしめる」という名目で日本はかつて中国との戦争に突入したけど、その結果ゲリラ戦に巻き込まれてさんざんな結果になりました。相手が市民かゲリラか分からないから、とりあえず疑いがある者は皆攻撃して殺す。その恨みがまた次のゲリラを生む。結局残ったのは「南京大虐殺」の汚名です。

 アメリカのファルージャ攻撃でも同じことが起こっているみたいですね。ゲリラ戦では、こういう悲劇的状況が必ず起こるみたいです。残虐行為の映像はこれから次々に出てくるでしょう。岸田秀という人は「アメリカはインディアンを虐殺したトラウマを認めない。そのために同じような虐殺を何回も繰り返す国家である」と言っています。「民主主義を世界に広める」などという妄説を捨てない限り、この暗い状況は続きますね。

 こんな敵意の渦巻く状況の犠牲になって、先月イラクで殺された香田証生さんはお気の毒でした。「危ないから行くな」と止められたら行ってはいけないのだ、と批判されているみたいだけど、私は彼は人間の善意を素朴に信じていたのだと思う。バックパッカーが半ズボンで行くなど目立って仕方がないという人もいたけど、中東の専門家の酒井さんが「あの辺は元々バックパッカーたちがうろうろしていたところなので、責められない」と書いていました。同感です。責めは香田さんにあるのではなく、平和を危険へと一瞬に変えてしまった人間の側にあると思うのですが…。それに、今さら亡くなってしまった方に文句を言っても仕方がない。彼はその行動の結果を引き受けたのですから。

 それにしても考えるのは、人質になって生きたまま解放された高遠さんのすごさのことです。日本では高遠さんの画期的な価値は十分認識されていないと思う。しばらく前にイタリア女性で人質とされて解放された人を励ましに行ったところをテレビで見たのだけど、その語り口に圧倒されました。こんな力強い英語を喋る日本人はめったにいないんじゃないか?一語一語がハッキリしていて、明瞭で淀みがない。何よりも、リアリティに溢れている。メディアに出た人で、こんな英語を喋る人は見たことがない。

 普通、日本人で英語が上手い人はつるつる喋れても、内容がない場合が多い。前に「英会話な人々」と揶揄しましたが、世の「英語使い」と言われる人の大部分は、そのジャンルの人々です。報道番組でよく英語でやりとりをする人がいるけど、その質問の陳腐さ・語調のひ弱さはひどいもんです。とくに私の嫌いなのは、××テレビの男性アナウンサー。それなりに英語は上手いのだろうけど、質問が一般的・表面的で何を聞きたいのか分からない。「お前自身の主張は何なのだー!」と画面に向かって叫び出したくなってしまう。

 日本人英語とよく言われるけど、別に発音がおかしいとか、言い方がおかしいとか、なんて関係ない。アメリカでは、変な発音で英語を喋っているけど尊敬されている人は沢山いる。むしろ、何を喋っているのか、自分に実感を持った内容を喋っているのか、内容と語調があっているのか、が問題なのです。それが全然ないままに、教えられたとおりの内容を、無表情にベラベラ話しているからバカにされる。いくら勉強しても、そこが直らないから「あ、日本人の英語だな」と分かる。さっきの男性アナウンサーなど、その典型ですね。クリシェやステレオタイプの極みです。比較的いいなと思うのは、NHKの国広さんという女性キャスターかな。でも、ちょっとお行儀が良すぎる。

 高遠さんの英語はお行儀は良くないけど、迫力がすごい。「私は同じ目にあったから、彼女たちの気持ちがよく分かる!」と滔々とまくし立てる。公式的な英語表現ではなく、個人の体験に基づいたリアリティの迫力なのだ。これは人情と言っても良い。だって、自分と同じ境遇になった人を励ましにわざわざイタリアくんだりまで行ったのですよ。イタリアでも、彼女らがイラク人に感謝したけど政府にしなかったというので、日本と同じようなアホな非難が捲き起こったけど、それを見て支援に行ったのだ。これが止むに止まれぬ人情でなくて何なのか? イタリアであろうがイラクであろうが飛んでいって力づける。あるいは助ける。ボランティアの寅さんとでも言ったらいいのか、この人情の深さ、コケの一念は感動的ですらある。これこそホントの日本人の使うべき英語だよ。

 それを日本のメディアは「なぜかイタリアに現れた高遠さん」などとボケた見出しを付けている。何を言っているんだろうね、まったく。バカじゃなかろうか? イタリア人であろうが日本人であろうが、自分と同じ目に遭った人のために一言弁じて一肌脱ぐのが当たり前じゃなかろうか? その気持ちがない人間が安易に「グローバリズム」を語るな、と私は言いたい。漫画家の小林よしのりは「あれはある種の狂気を持った女だよ」と言っていたけど、「狂気」でも何でもないのだ。「狂気」の沙汰なのは、あれを見て、狭い国籍意識にとらわれ、その個人の思いに感情移入できないマスコミの方なのだと思うのです。

11月11日

 久しぶりにキャンプに行ってきました。やっと桐原書店に「なるほど小論文頻出テーマ16」の原稿を渡したので、とりあえず一休みしたかったのです。
 
 今回は、ダッチ・オーブンを長谷さんが買ってきました。焚き火をして、そこにお腹にニンニクをたっぷり詰め込んだニワトリを入れて40分すると丸焼きが出来上がるのです。昔「壇流クッキング」で「鳥の穴焼き」というのを読んだことがある。河原に穴を掘って、そこに大きな葉っぱで包んだ鶏を埋める。上で焚き火をして一時間。穴を掘って、葉っぱを開くと中から神々しいまでの鶏の丸焼きが姿を現す、それをナイフで切って、タレを付けて口に放り込む…のだそうです。

 どうです。いかにもおいしそうでしょう? ダッチ・オーブンだと、それとほぼ近い状態になる。芯までふっくらと焼けて、回りに入れた野菜も程良く煮えて、シンプルだけどしみじみ幸せな料理です。この頃、都会にはイタリアンだとかフレンチだとかいろいろあるけれど、どれもあまり感心しない。ごてごてしすぎる感じです。

 イタリアンなんてロケーションも関係するという感じがする。一番おいしかったのは、ローマのトラットリア。目の前に古代ローマのコロッセオがあって、それを眺めながら食べる。気分いいですよ。そう言えば、ナポリで夜中腹が減って立ち寄ったレストランでピッツァを食べた時もよかった。ほとんどトマトソースしか載っていない簡単なピッツァなのだけど、盲目の歌手がやって来てちょっと哀愁を帯びたカンツォーネを歌う。隣のテーブルでは、15人以上いる大家族がピッツァをぱくついている。まるでフェリーニの映画のよう。時々夢に登場する甘美なシーンです。
 
 今回は、上は抜けるような青空。小春日和だけど、樹木からは最後の落葉が雪のように降ってくる。ダッチ・オーブンからはもうもうと湯気が上がる。味は風景によって倍加される感じです。もう何ヶ月も休みがなかったので、心が洗われる思いでした。寒い冬の前の至福の一日でした。