2004年4月
2004年4月10日

 本格的に春になってきました。VOCABOW事務所前の桜はすっかり葉桜になり、銀杏も緑になってきました。学校も新学期が始まりました。昨日、大学の始めての講義に行って来ましたが、疲れたのなんのって、若い人々のエネルギーに当てられて熱を出してしまいました。

 VOCABOWの受講生も皆さん頑張ってくださり、ロースクール・MBA・大学社会人入試・大学入試・AO入試・公務員など希望する場所に落ち着いた人が多かったのは何よりでした。スタッフ一同、皆さんのがんばりに敬意を表すると同時に、添削の苦労も報われた思いで、いささかホッとしております。今年から始める皆さんも、先輩達の活躍に負けないように、頑張ってほしいと思います。

 とくに、去年・今年は始めてのロースクール受験の年でもあり、VOCABOWでも対応に汗を流しました。報道もすごかったですよね。朝日新聞では、2面に特集がありました。法学履修者だけでなく、医療関係・金融関係のキャリアを持つ人がかなり目立ったようですね。一年ロースクール用の講座をやってみて、いろいろなことがわかりました。

 まず、インターネット学習の特性です。当初は、顔を合わせての講座でないので、コミュニケーション不足を心配したのだけど、まったくそんなことはなかったですね。インターネットは非常に個人的なメディアなので、かえって密な意思のやりとりが可能になりました。実際に会ってないだけに、こちらも相手の状況に想像力を働かせる。それに対して、受講生からも感謝と敏感な反応が返ってくる。よい循環だったと思います。その結果がロースクールへの大量合格という結果につながったのでしょうね。

 受験生は社会人が比較的多く、積極的にいろいろ疑問を出してきたり、毎週きちんと課題を提出するなど、大学受験生とは違った積極性が目立っていました。モチベーションが高いのです。これからは大人も再教育の機会を積極的に活用しなければ、社会的地位のステップ・アップどころか、今の地位の保全さえもできない、という時代になりつつあります。その危機感がひしひしと感じられましたね。

 ところが、世間ではまだそのような社会人向けの講座は少ない。司法試験予備校でも、法律の専門科目は充実していても、小論文・志望理由書などの科目は不十分です。VOCABOWの前回の受講者でも、有名な司法試験予備校の講座のレベルがあまりに低いので、こちらに移ってきたという受講生がかなりいました。とくに小論文は書き方が一定しないと思われているのでしょうか、かなりいい加減な教え方が横行しているようで、大人の受講には耐え得ないものが多いようです。

 その意味で、VOCABOWで、小論文のみならず志望理由書の書き方でも、正統的かつシステマティックな方法を提示でき、社会に少し貢献できたかな、と思います。今度、私どもは「志望理由書の書き方」でも、夏には書籍を出版します。その中で、志望理由書・自己評価書という従来なら無手勝流で教えられていた分野にも、それなりの方法が存在することを示したいと思っています。これも、VOCABOWで一年やって来た成果ですね。

 一方、こちらの事情としては、添削者のシステムが確立してきたのもうれしかったですね。東大の院生達を中心とした添削者達が育ってきました。4月からの受講生のメールには、「これほど丁寧に添削してくれるとは驚きだ」という反応もありました。実際、添削はかなり時間をかけています。その人のレベルに応じて、びっしりと注意事項やコメントを書いています。おかげで、添削数が多かったときは、添削者の間から悲鳴が上がっていたけど。ここまで添削のレベルを上げることができたのも、収穫の一つですね。

 今度、この添削者達を統合して、VOCABOW Think Tankという企画集団を立ち上げました。これから彼らとさまざまなプロジェクトを進めていきたいと思います。まず、去年の法科大学院適性試験追試問題の徹底解説。本試験は「適性試験攻略ブック」に載っていますが、要望の多かった追試験の解説は掲載されていない。そこで、VOCABOWで第一部・第二部を合わせて、解説しようと思います。さらに、法学の基礎概念用語集。法学未習者の人は、ロースクールの試験では基礎知識はいらないことになっています。しかし、社会問題を考える際には、正義や分配、秩序などという概念の正確な理解がないと、レベルの高い答案が書けません。VOCABOW Think Tankの法律担当が書き下ろした力作です。順次掲載していきますので、期待してくださいね。もちろん、大学受験、公務員など書籍の出版でも、また新しい企画が入っています。彼らの力をふるうところは、たくさんあるわけです。

 今年は、ロースクールの軒並み出願期間が早くなっています。早稲田は7月末から8月上旬が締め切りだとか。適性試験が終わったら、すぐ志望理由書(ステートメント)にかからないと間に合いません。今までの経験で言うと、志望理由書が何とか格好が付くのには、5〜7回程度の添削・直しのやりとりが必要です。その時間を見ておかなくては行けませんね。また小論文は10回程度の経験が必要です。毎週一本書くのはかなり大変ですので、その時間も必要です。しかしこれだけのことをやれば、志望理由書・小論文のレベルは必ず飛躍的に上がります。がんばりましょうね。


2004年4月3日

大学の塀の中

 文章を書くのは、結構難しいものです。私は時々東大生たちのレポートやエッセイの添削をしたり、相談を受けたりする機会もあるのですが、優秀な彼らも自分で文章を書くとなると、いろいろと問題が出てくるみたい。大学用の論文としてはいいのだけど、一般向けの文章を書けなくなってしまうらしいんですね。自然に書くと何だか難しすぎちゃって、専門家にしかわからない文章になる。この頃の東大生は、昔みたいにガリ勉タイプの人は少なくて、鼻にピアスを付けたりして、結構「若者」しています。それだけに、彼らも結構気にしていて、これじゃダメだ、何とか難しくないように書こうと努力したり悩んだりしているのだけど、なかなか上手くいかないらしい。どうして、そうなるか?
 簡単にいって、共同体間の情報ギャップなんですね。誰を自分の文章の読者として設定するか、ということです。まじめな学生は、大学のゼミなどに大きなエネルギーを注ぐ。そこで発表したり、質問したり、知識を得たりするのが日常です。そういう中で暮らしているから、読者もそんなレベルなのかな、とつい思ってしまうわけです。だから、自分たちが日頃考えている問題に読者も関心があるはずだ、という前提のもとに書いてしまう。
でも、これがそうじゃないんだなー。たいていの人は、東大生の考えている問題になど興味がない。知識も持っていない。だから、一体何が書いてあるのかさえわからない、ということになる。たとえば、私は囲碁のことは何も知らない。この間、知り合いから『新・呉清源道場』なんて本をもらいました。ところが、ここに書いてある日本語が全く理解できない。「黒4とコスムのが形です。白5のハネには、黒6で受けておきます。白7とヒラくくらいですね。黒はAのツメが好点になります」なんて、何を言っているのか…。囲碁好きなら面白いのでしょうが、こちらにはちんぷんかんぷん。3分で投げ出してしまった。
 同じことが、学問と一般人の間にも成り立つ。学者の人生は、学者仲間の共同体で過ごす時間が一番多い。当たり前ですね。そうすると、学者でない人が何に関心を持っているのか、その感覚がなくなってしまうのです。「機会の平等と結果の平等」なんて書いても、ほとんどの人が分からない。だから、その説明から始めなきゃいけない。でも、そんな初歩的なことを知らない、ということがもう「あり得ない!」こと、「思考の外!」なんです。先生がこうだから、学者になろうと一生懸命な学生達も、弟子としてその流儀を学ぼうと必死になる。当然、言葉遣いは専門家向けになる。一般向けに文章をチェックしてくれる人もいない。だから文章を書くと、小難しくなってしまうわけです。
昔、シカゴ大学で論文の書き方を習ったときに、イントロの重要性をずいぶん言われました。まず、問題を矛盾か対立の形で指摘する。さらに、その問題を解決するといかに社会にとって利益があるか、を強調する。加えて、その問題が解けなかったら、どんなに社会に不利益かを説明する。十分読者に納得がいったところで、だから私はこの問題を取り上げたんだ、偉いだろうと締めくくる。そこから、始めて論文というものが成立するんだ、と言うのです。「そこまでしつこくしなきゃいけないのか?」と正直言ってうんざりしたのだけど、よく考えてみたら、わけのわからん人たちに対しては、ここまでしつこくやらなきゃ理解してもらえないですよね。
 でも、こんなことをやっていると、時間ばかりかかって仕方がない。分からない人相手に時間をつぶすのはもったいないから、優秀な学者や学生ほど、そんなことに時間をつぶすのをいやがる。分かる人たちだけと話す。書く。その結果はどうなるか? せっかく論文を書いても、それを理解して評価ができるのが世界で5人だけというような結果で終わるのです。社会からは理解されず、「…大学教授」という権威だけで自分を支えるしかなくなる。これもかなり辛い。
 たぶん、今一番重要なのは、科学や学問の成果を一般人に分かりやすく説明できる人材ですよね。でも、そういう技術は、どんな人間が自分の読者になるのか、町に出なければ分からない。寺山修司じゃないけれど「書を捨てよ、町に出よう!」です。でも、今は「書を持ちつつ、町を見よう!」かな。私は大学を出た後、ずいぶん色々なところに出入りしたけど、そこで見た人間の姿が今の文章スタイルに役立っていると思う。あの経験は「誰に向かって語るか?」という想像力を深めてくれたなー、と実感する今日この頃です。昔、中国の文化大革命では「知識人の下放」が行われました。大学生達が、工場や農村に強制的に働きに行かされるのですね。これは人権侵害として今では評判が悪いみたいだけど、文章の幅を広げるという意味では意外に悪くないのかもしれないな、と思っちゃったりするのです。