2004年5月

5月31日

 前からどうしても理解できないことがあります。それはどうして世の男達のは女性のお酌する酒場に行きたがるのか、ということです。私は、これが全然だめ。何回か先輩に連れられてそういう場所に足を踏み入れたことがあるのですが、いたたまれなくて先に失礼させてもらう。とにかくイヤでイヤで仕方がないのです。
 その理由は、場所全体がうそっぱちでできあがっているからです。一言一言が上滑りでその場限り。別にお酒を飲むだけだから、楽しくさせてくれればいいじゃないか、とも言えるのだけど、全く楽しくない。酒席に侍ってくる女性はたいてい退屈なことしか言わないし、変なご機嫌取りばかりするので、うざったくて仕方がない。

 前に新宿で元アイドルタレントたちがお酌するバーに連れられていったことがある。女性タレントではなく、男性の元タレントたちです。でも、私は途中で怒り出してしまった。とにかく元タレント達のバカなこと。やることなすこと勘違いなのです。
 「もっと飲みましょうよ」とどんどんお酒をつぐ。こちらは適当なリズムで飲みたいのに、氷や炭酸を注文しろとしつこく迫る。「カラオケを唱いましょう」とマイクを持ってくる。私は嫌いだからいいと言うと、「わー、クラーイ」と口を極めて非難し、「じゃ、僕たちが唱います」と下手な歌を聴かせられる。終わると拍手をしろという。「盛り上がった、盛り上がった、さあ今度はデュエット」。よく見ると、お客は彼らに悪口を言いながら飲んでいる。「お前みたいなブスとはいやだよ」とか「酒もまともに注げないバカ」とか、要するに彼らを肴にして、軽蔑することで楽しんでいるわけ。いやな世界だな、と思いました。…それでも、そういうのが好きで、ここに通い詰めている人もいるというのだから、世の中様々だと思いました。

 思い出してみれば、私はプロレスがずっと前から嫌いでした。テレビで何度か見たことがあるのだが、ストーリーがあまりに透けて見えるので、イヤになってしまうのです。キックもパンチもみな手加減しているので、すべてがいい加減。何が格闘技だ!と腹が立ってくるのです。プロレス・ファンはもちろんそんなことは承知の上、架空のストーリーの妙を楽しむのだとか。作家村松友覗に「私、プロレスの味方です」という名著があるから、そういう理屈は分からないでもないけど、でもそういう言い方は嘘だと思う。見ている方は、「勧善懲悪」とか「悪の権化」とかステレオタイプなストーリーを投影して、見ているだけだと思う。そういう陳腐な物語に酔える人はプロレスが好きになり、酔えないでクールに現実を見る人は嫌いになる。
 上述の酒場のことも、同じ理屈だろうね。「自分は女性にもてている」というストーリーに酔える人は、酒場通いが好きになる。前に見たことがあるのですが、酒場に紺色の制服らしいものを着た人が来ていて、「俺は国際線のパイロットだ」と吹聴していました。指先が真っ黒だし、顔が日焼けしているから、たぶん肉体労働をしているのでしょう。ホステス達もそれを分かって、「バカねえ」と言っている。それでいて「今度飛行機に乗せてー」などと嬌声を挙げる。「共依存」という言葉が頭に浮かびました。彼はその嬌声を利用して、一瞬パイロットという物語に酔う。ホステス達はその幻想を利用して、サバイバルの金にする。でも、儲かっているのは酒場の経営者であって彼女たちではない。こういう関係は、あまりに貧しくて悲しい。

 たしかに、こういう見方は同情がないかもしれない。「お前はそういう恵まれない人々の気持ちが分からないんだ」と言われたこともありました。でも、そんな辛い悲しい物語に何でOFFの時に付き合わねばならないのか。この世にはもっと楽しいことがいっぱいあります。メカニズムが透けて見える陳腐なストーリーを楽しめる人は、自分も半分その世界に浸かっている人だけでしょうね。江藤淳が、吉行淳之介を評して「俗物の心理をうまく描ける人間はそれだけで俗物である」という意味のことを書いていた。私はこの意見に賛成です。
 しかも、「俗物」であると、その代償もまた払わねばならない。ストーリーに溺れ込みすぎると、お金が続かず借金で破産するのです。近松門左衛門の世界は過去ではない。今でも生きているわけ。私はそんな例を山ほど見ています。それをつかず離れず楽しんでいく人を「通人」「粋人」と言うのだろうけど、そんな時間があったら、私は本を読むか、キャンプに行ったりする方がずっと楽しい。

 でも、この頃の政治と世論の反応を見ていると、この陳腐なストーリーがまかり通っているような気がして、イヤな感じです。今の首相なんて、その典型でしょうね。北朝鮮から家族を取り戻したから人気が上がる、なんてあまりにも見え透いている。あのくらいなら、経済に困っている国となら、誰だって交渉で獲得できる。しかも、あんな屈辱的な結果でさえ「家族の再会」という陳腐な物語で国民は酔いしれる。ばっかじゃなかろうか? 行方不明になった人はもっとたくさんいるのに、目先のことしか考えない。「今度の訪朝で拉致問題は幕引きにされる」と家族会が危機感を持ったのは当たり前だろうと思う。政府は適当な言葉で世論に陳腐なストーリーを提供しているにすぎない。政治が風俗営業化しているわけですね。でも、それに群がる客がいるから成り立つのだけど…。ああ、いやな渡世だなー、と心底思います。

5月11日

 押井守監督の「イノセンス」を見ました。実はちょっとビビッていました。インターネットの映画サイトを見ると、「難解だ」とか「前作を見ていない人にはキツイかも」などという批評が飛び交っていたので、アニメ・ファンでない私としては、ちょっと心配していたのだけど、まったくそんなことなし。素直に楽しめてしまいました。この映画のどこが難解なのか、不思議に思いました。
 この頃自分が悪いのに、他人のせいにする人が多くなっている気がするのだけど、この映画を「難解」と決めつける人も、自分の問題意識のなさを映画のせいにしているような気がします。自分が理解できないだけなのに、難しいとか上手くできていないとか、文句を付ける。観客の方がもっと「見巧者」にならなくちゃいけないなという気がします。
 だって、この映画に出てくるアイテムは、もう周知のものばかりなんですよ。最初のシーンの摩天楼なんか、「ブレードランナー」そのまま。中に出てくるロボットはかつて流行ったベルメールの人形。外部情報の記憶への混入とアイデンティティの不安も近未来SFの定番だし、1980年代の日本の小劇場シーンでもさんざん取り上げられたテーマだ。川村毅の「ニッポン・ウォーズ」なんてその典型例だ。そういう陳腐な近未来アイテムを散りばめながら、ストーリーは伝統的なハードボイルド・ストーリーで引っ張る。最後の種明かしのシーンなど、まるでエイリアン3。
 ある意味で、これらのテーマは実は60−70年代のヒッピー・ムーヴメントの中で出尽くした問題でもある。薬物を摂取すると、現実感覚が変わると言うけど、それは現実がちゃんとあって、薬にやられて脳がおかしくなるという意味ではない。そういう捉え方は、安全な市民社会の側にいて評論するだけで、あの時代の深刻な変化を無視している。薬物で変わるのは、経験を秩序づける時間や空間という感覚の枠であって、単に興奮するとか陶酔する、とかいう経験ではない。むしろ、何が現実で何が夢なのか、その現実の基準自体が揺らぎ、さらには自分自体が何者なのか、というアイデンテイティが不分明になるという経験だ。
 それと同じ経験が、ケミカルな条件ではなく、メカニカルな条件の下で出現したのが、今の電脳社会の現象なのだ。映画「イノセンス」で言うと、情報を得ようと昔の知り合いに会うシーンで、置物を見つめているうちに、時間が循環構造になるのが、そのよい例だね。あれは、時間感覚の混乱の典型的現象。押井監督が51年生まれだと知って、なるほどと思いました。まったく、その時代のセンスなんだ。
「イノセンス」は、その問題意識を忠実になぞっているだけで、ある意味で何も新しくない。30年間進歩していないと言ってもいいだろう。ただ、そのテクニックが尋常じゃないことは認めなくてはならない。3Dの映像、劇画風の細かい陰影なんか、執念を感じますね。乗り物や建物の描写などすごく凝っている。映像の力は圧倒的だ。でも、その凝った映像で伝えるメッセージがあまり進歩していないのでは、アニメーターたちが何だか可哀想な気がする。
 もちろん、ああいうアニメ映画の末端で働く人は、「ブレード・ランナー」は知っていても、ヒッピーのことなんか知っちゃいない。だから、監督に言われたことを一生懸命やっているだけなのだろう。そこに全エネルギーをかけると、ああいう映像になる。朝日新聞で亀和田武が「知識人的にストーリーの解釈をするのじゃなくて、あの映像を楽しめばいいんだ」と発言していたが、冗談じゃないと思う。
 あのような陳腐なコンセプトを実現するために、膨大な労働が浪費されている、という現実を見なければならないと思う。それは、まるで先が見えないで、しかし努力だけはとにかく続ける日本社会そのままの構造をしている。なぜ、そうなったか? 過去の経験を十分に言語化していないせいなんだと思うのです。何が過去に達成されていて、何が問題として残っているのか、それが分からないから、陳腐な筋立てに新奇で圧倒的な映像というアンバランスに陥ってしまう。消費者としてそれを楽しめばいいのだ、というような態度は無責任きわまりないと思います。問題は先送りされて、また同じように繰り返される。陳腐さはさらに増す、という構造になるだけですね。

5月6日

 昨日、大丸美術館で「田中一村展」を見ました。vocabowの長谷さんが見に行って、「素晴らしいから、ぜひ見ろ」と言うのです。土曜日の午後に行ってきました。
 圧倒的でした。とくに奄美大島に住み着いて、奄美の植物と鳥を描いた絵は、何とも言いようのない力がある。ある意味で、伝統的な花鳥風月の絵です。アダンの木やクワズイモの葉など熱帯の植物がおおぶりに描かれ、そこに小鳥がとまっている。葉の間から、海と島が見える。植物や鳥は写実的に描かれているけど、その取り合わせは意図的・人工的です。「日本画特有の装飾性」などいう言い方も出来るかも知れない。だけど、そこにむせかえるような生のエネルギーが感じられる。動植物の曼陀羅と言ったらよいのか…。「ああ、日本人はこういうところに救いを感じるのだなー」と思うのです。

 田中一村は「日本のゴーギャン」とも言われているらしい。確かに似ているところがある。ゴーギャンはタヒチに移り住んで、現地の女たちを描いている。一村も南国の風物に見せられて、極貧の中で描き続けた。しかし、ゴーギャンが女たちの伸びやかな肢体の中に、ヨーロッパ近代が抑圧していった「自然」を見いだしていったのに対して、一村はひたすら鳥と植物を描くのです。人間などに見向きもしない。この世間を解脱して、美の世界に到達するという方法がまるで違うのです。
 その代わり、その鳥や植物は圧倒的に生きている。熱帯の植物は葉を茂らせ、太陽の光を遮り、光を浴び、花を咲かせる。それが植物の本質だとでも言うように。その枝にとまった鳥は高らかに叫ぶ。そこが自分たちの住む場所であることを確認し、その喜びを全身で表す。それが鳥が生きているということの本質なのです。日本にはプラトニズムの伝統はないけれど、ここでは花鳥風月という形で「存在のイデア」が示されているような気がしました。

「存在自体が喜びである」という言い方があるけど、一村の絵はまさにそういうものだと思う。よく末期ガンにかかった人は、自分の死の運命を悟ったときに「外界の事物が輝いて見える」と言います。まさに発光したように輝くのだそうです。一村の中の鳥も植物も、そういう意味で存在の内側から「発光」している。それは「存在の奇跡」とよぶべきものです。
 哲学者のヴィトゲンシュタインは「私が私であることが、最大の奇跡である」と言っています。生命があるものは、その生命の中に閉じこめられている。その場所から世界に関わり、その視点から世界を見て、その時間を精一杯に過ごす。それしか世界に関わりようがないのです。でも、それが世界というものの体験のいっさいの源泉である、ということでもある。苦しみも悲しみも、それも存在しているから感じられるのであり、存在しなければ感じることさえ出来ない。その意味で、苦しさも悲しみも喜びやうれしさと同じく「存在の賜物」なのです。

 一村は、生前、中央画壇にはついに認められることなしに終わりました。それを「不遇の生涯」と同情する人もいます。しかし、私はそういう感じ方は間違っていると思う。たしかに世間に受け入れられたいという気持ちは残っていたと思うけど、それが制作の主なる動機ではない。
 モノを作る人間なら誰だって知っていると思うけど、作っているときの気持ちは「世間」とは関係がない。作り終わったら、それは評価も気になるけど、作っている時点では自分の対象に没頭しているものです。「存在の賜物」に触れた彼の生き方は、むしろ幸福だったのではないか。彼が「画を描いているときには、何も恐くはない」というのはそう言う意味だろうと思う。しかも、その対象への集中が誰の目にも分かるような形で表れている。その力強さがすごい。

 私が、今回の展覧会で特に面白かったのは、観客の様子です。特に中高年の人々が実に饒舌なのです。普通、絵の展覧会というと、みんな黙りこくって眺めている。ところが今回は違った。みんな口々に一緒に見に来た仲間と喋っているのです。「お父さん、この花はね、ハマユウっていうのよね。ほら、この前海岸に行ったときに見たでしょ」「すごいね。写真みたいだね」「構図がいいね」などなど…。こんな賑やかな展覧会は初めてでした。
 どれも素朴な言葉です。でも、何か喋りたくてたまらない、という感じなのです。一村の絵は「写真」のようではないし、「構図がいい」とかいうセンスや技術の問題でも片づけられない。でも、何かを深く感じている。だから、見たときの感動を言葉にしたくてたまらない。その喜びというか心の弾みが感じられるのです。まるで、一村が動植物に触れた時の気持ちが乗り移っているかのように。

 展覧会の企画も良かったと思います。9才の頃からの絵が年代順にずっと並べられている。彼の成長が手に取るように分かる。才能がある人の「受難」ですね。一村は超絶技巧の持ち主で、南画でも日本画でも難なくこなす。10代の頃から、もう大家の面影がある。普通だったら、この程度で十分通用する。きっと業界のシステムに乗っかったら、あっという間に名を成していただろうと思う。後はおきまりの現象が起こる。絵の価値とは無関係に、「有名」というだけで評価される。たとえば、池田満寿夫という版画家は若くして有名になったけど、晩年の絵は悲惨なものです。画家が名を成す半分は、政治力だと私は思っている。
 しかし、一村の場合は出発点が違う。そんな中途半端な成功を拒否する。そのために、ひどく苦労する。どんなスタイルでも楽々描けるのだから、逆に自分のスタイルが決まらない。いろいろ試しても、ある様式の中にすっぽりと入ってしまう。伝統の中でいかにあがいても、結局は従来の美意識の枠の中に入ってしまい、自分の世界にはたどり着けない。奄美に行って、従来の日本画の世界にない対象と出会って、どう描こうかと苦闘するうちに、自分なりの美意識にはじめて直面したのでしょう。その意味で、素材や環境が、自己形成のために大きな契機となっている事実を再認識しました。

 一村は、近代人です。強烈な自我意識を持ち、妥協しない。彼は「自分の良心のために描く」と言っています。いい言葉ですね。「感覚」や「感性」などという主観的なものが問題なのではないのです。「良心」という確固とした普遍的な基準・原理のために、自分の身を捧げる。その姿勢が、絵の中に表れている。その意味でも、ゴーギャンやゴッホに似ています。見ている者の姿勢を問いただしてくるところがある。

 本当に希有な展覧会でした。皆さんも機会があったら、ぜひごらんになると良いと思います。東京では5/9までやっているそうです。


5月4日

 しばらくぶりの三日坊主です。早く更新をしたかったのですが、ボカボのページとコースプログラムの大幅なリニューアル作業を行っていたのでできませんでした。その間に、 イラクの人質の「自己責任」論など日本社会の変化を予見させるような事件が相次ぎました。今まではっきりしなかったことが、次々と明らかになってきてけっこう深刻な事態だなと思います。私は今回の話題には興味を引かれて、新聞とテレビをかなりチェックしていました。その結果いくつか分かったこと。

実質的な倫理がない
 どうも、日本人は結局「世間に迷惑をかけるな」という以外何の社会的倫理も持っていない、ということです。親は子供たちに、「人様に迷惑をかけるな!」と教えるようですね。私は、これには前から疑問がある。「迷惑」の中身がまったく規定されていないからです。たとえば、公共の場で子供が大声を出すのは迷惑か?  この問いかけに「世間に迷惑をかけるな」は何も答えない。他人が文句を言ってきて、ダメだと判断するのです。
 文句を言わない限り、親は迷惑とは考えない。だから周りが嫌な顔をしても、「…ちゃん、だめよ」などと言いながら、子供には笑顔を見せる。要するに、誤魔化しなのですね。子供は、言葉が十分わからないのだから、親がニッコリしたのを見て、自分の行動は是認されていると感じて、ますます騒ぐ。

 私は、この間レストランで騒いだ隣の席の子供を「うるさい!」と一喝してしまいました。それまで大騒ぎしていた子供は、怒鳴られた途端、ピタリと黙りました。でも、怒ったのは子供に対してばかりではないのです。むしろ、いい加減な制止を繰り返す親のいい加減さです。こちらが嫌な顔をしているのを承知で、有効な手を打たない。「ダメよ、ダメよ」と言いながら、子供と一緒になって遊んでいるだけなのです。
 帰り際には、子供が半泣きしながらも、私に向かってバイバイをしました。これを見て、私は子供に感謝されたと確信しましたね。子供は道徳が分からないから、どこまでやったら怒られるか、他人の行動で測っているのです。そこで大人がはっきりしたサインを出してやらなかったら、行動の基準がなくなって困る。とりあえずこれがルールだという実質的なサインを大人が出すべきだ。それを子供も望んでいる。これは考えすぎでしょうか?

 実質的なサインを出すには、状況をきちんと考えねばならない。レストランのような場に小さい子供を連れてくることは是か非か。連れてきたら、どういう行動をさせるべきか。なぜ、そうでなければならないのか。子供は原理を明確にしないと、すぐ反撃してくる。でも、大人の方が、それを追求するのが面倒だから、「人様の迷惑になることは止めましょう」というような貴方任せの倫理になる。何が迷惑なのかは明示しない。とりあえず、文句があったら何か対処しよう。そういう態度です。悪質な親は、文句を言われたら「ハイハイ」と言っておいて無視する。
 要するに、起こっていることは、単なる相対主義なのです。子供が騒ぐのもその家族の価値観、それを注意するのもその人の価値観、どちらにも価値の優越はない、ということになる。そうすると、どうなるか? 強い者、状況を制した者がとりあえず勝つ、ということになる。こういう状況を抜け出すには、大げさだけど、何が「正義」か、をはっきりさせねばならない。
 小声で「すみません、静かにしてくれますか?」と頼むだけでは、状況は改善しません。ルール違反をしているのは向こうなのに、なぜこちらがお願いするような態度をとらなければならないか? たちの悪い親は「そうか、お前のために静かにしてやろうか」と恩に着せる。これでは、関係があべこべです。直接子供を怒鳴るべきなのです。「公共」とは、それをすべての人が守ろうとするものでしょう。

 今回の人質問題でも、「皆に迷惑をかけてはいけない」と言う。しかし、誰がどう迷惑を被ったのか、私には理解できません。エコノミック・アニマルと遊び人という日本人若者の国際的イメージを代えてくれて、イラクの情勢をくわしく報じてくれて、自衛隊の派遣がいかに欺瞞に満ちたものであるか、一部政党がいかにいかに国民の自由を拘束したがっているかを暴いてくれた。しかも何日間かの白熱した議論で、日々の退屈を忘れさせてくれた。
 それに、救出に何十億と税金を使ったと言うけれど、その効果がどれほどあったのか、きちんと評価されていない。無駄に金を使ったとしたら、それを負担しろ、というのはおかしい。たとえば、副大臣が特別チャーター機でヨルダンに飛んだことが、どれほど解放に役立ったのか。
 むしろ、目立ったのはNGOの活動だった。中東のTV局にアピールし、ビラをまいて人質たちがイラクに貢献していたことを知らせ、イラクの宗教指導者たちに働きかけた。その間、政府は何をしたか? せいぜいアメリカ軍に情報提供を頼んだくらいでしょう。その辺を不問に付して、「政府が金を使った」と騒ぐのは、どうかしている。

 それより、毎日テロに怯えなければならないような状態は非常に迷惑です。明日は新宿、それとも渋谷で起こるか、と思う。スペインの例を挙げるなら、総選挙の前あたりが危ないでしょうね。参院選挙の前には仕事を休もうか、と思うくらいです。ゴミ箱が撤去されて、ゴミが捨てられないのも迷惑です。こんな不安に耐えなければならない状態を皆に強いているのは誰か? それを問わなければならないと思います。
 迷惑とは何か?  誰にとってのどんな迷惑だったか? しかも、その「迷惑」は正当かどうか? そういう中身の検証がないものだから、「迷惑だ、迷惑だ」とわめき出す人間の意見に引きずられてしまう。いい加減に他人任せの相対主義はやめなければならないと思います。

たとえ話と隠蔽
 政治評論家岩見隆夫は今回の人質批判の問題では「たとえ話がやたら多かった」(サンデー毎日、04.5.2)と指摘しています。たとえば、今回の人質事件では、次のような批判があったという。「遊泳禁止区域と知りながら、悪がきが泳いでおぼれかけたのを、親が『けしからん』といって市役所に怒鳴り込むような話じゃないの」。
 面白いですね、こういう例え話で政治を理解しているのですね。しかし、これは、論点がすり替えられています。なぜなら、「遊泳禁止区域」の場合は風や浪などの影響で、天然自然に危険になったわけだから、誰にも責任を問うことが出来ないのですが、イラクに自衛隊を送って日本人にとって危険な場所になった原因を作ったのは、日本政府の自衛隊派遣だからです。
 このたとえでは原因を自然現象にたとえてしまったために、そもそもイラクを危険にした政府の責任を不問に付してしまっている。これが無意識ならば、戦争の原因に対する認識不足だし、意識的ならば真実の隠蔽になる。もし、たとえを言うなら、こういう例えはどうでしょう。
 いつも泳いでいたきれいな砂浜に行くと、業者がテトラ・ポットで覆う工事を始めていた。工事をすると、市役所から多額の現金が得られるからだそうだ。抗議をしても業者は取り合わない。仕方がないので、そのまま沖で泳いだら、海流が変わって溺れそうになった。その私に対して、建設業者は言った。「泳いだのはお前の責任だから、お前が悪い」。これは、責任逃れとは言わないでしょうか?
 たとえ話で政治や国際関係が語られるときは注意した方がいいですね。その中に巧妙に論点のすり替えが行われる場合が多いからです。たとえ話は、現実の一部をピック・アップして強調することで、複雑な事件を単純化する。それだけに、どんな要素を元にして話を組み立てるかで、結果が全然変わってしまう。要素の選択や比喩の仕方によっては、元々の状況を大きくねじ曲げてしまうことができますからね。
 さて、ここで問題です。次の例え話はどこが間違っているのでしょうか?  やはり人質問題についての発言です。「車に乗っていて死傷事故を起こした。車さえなければこんなことにならないんだから、車の製造を止めさせろ、と騒いでいるのと同じことだよ」