2004年6月

6月28日

適性試験、ご苦労様でした!

 法科大学院志望の皆さん、適性試験ご苦労さまでした。出来はいかがでしたか?
 私どもvocabowの数理系スタッフもどんなもんかと昨日受験してきました。「ま、普通ですよ、普通!」というのが彼の感想。去年とそうレベルに変わりはなかったみたいですね。近日中に彼の体験談をHPに載せるつもりですので、お楽しみに! 解説も、そのうち書きます。すぐさま載せられないのは、彼がオクスフォード大学留学準備中のため、私も書き下ろしの本二冊の締め切り間近なため。しばしお待ち下さい。

 さて適性試験が終わったら、今度は志望理由書・自己評価書さらには小論文、と矢継ぎ早に課題が皆さんに積み重なってくる。くじけないで一つ一つクリアしましょうね。vocabowでも全力を傾けて応援します。

 そういえば、志望理由書・自己評価書の添削に強力な助っ人が現れました。ムッシュ・カワモトです。東大法学部出身国連スタッフOBパリ在住5年ヨット歴15年という国際派知識人かつ船乗り。すごい経歴でしょう。世の中にはこういう人もいるんですね。文章のセンスもぴかいちです。

 私と一緒に添削を担当しますので、これまでよりも処理速度が飛躍的にアップします。早稲田大法科大学院など締め切りが早いものにも、ご要望に応じて短期間で十分添削回数を確保できると思います。志望理由書の書き方などに不安がある人は、ぜひvocabowまでお問い合わせ下さい。
志望理由書・自己評価書コース


リスニングについて

 英語の聞き取りには苦労させられます。もう、30年以上も英語をやっているのだから、いい加減さらさら聞き取れてもいいのだが、いっこうに上手くならない。

 私の英語歴は親が小学校時代に英語の発音レコードを買ってきた時に始まる。このレコードがすごく厳密に出来ていて、いちいち舌の形と唇の形が載っていて、それを何十回も発音させる仕組みになっている。RとLの発音の違い、THの妙ちきりんな舌の位置、Aにもあいまい母音、つまり「あ」と「え」の中間音があるのだとか、変なことを沢山覚えました。それで、一応RとLは聞き取れるし、母音の違いにも敏感になったと思う。後でフランス語をやったときに、母音の発音は楽だったよなー。親に感謝です。

 で、聞き取りが正確になったか、というと、そうでもないのだ。やっぱり聞き取れないものは聞き取れない。ただ、聞き取れない中にもいくつか知っている単語が出てくるので、あわてなくなった。聞いてりゃ、そのうち内容が分かってくると達観するようになっただけです。シカゴ大に行ったときなんかも、それで何とか通してた。授業中あまりにも黙っているので教授は初めはバカかと思ったらしいけど、レポート書かせたら上手いので、「なんだ。見かけによらず出来るじゃないか」となったみたい。教授と親しくなったら、だんだん聞き取れるようになる。不思議なもんですね。

 その代わり、妙な現象が起こってきた。英語の聞き取りに慣れてくると、日本語の聞き取りもおかしくなってくるのです。この間電車の中で英語の本を読み耽っていたら、突然「ミイラ橋〜、ミイラ橋〜」というアナウンスが聞こえてきて、仰天しました。漫画『墓場の鬼太郎』のように、地獄行きの電車に乗っちゃったのかと思って、つい周囲の人を見回しちゃいました。もちろん、ミイラなんて一人もいやしない。ただの飯田橋なのですけどね。車掌がちょっと鼻にかかった声だったので、突然場面がホラーがかってしまったのです。こちらの聞き取りが悪いのか、それとも相手の発音が悪いのか…。

 だいたい、よく聞くと日本人もまともな日本語発音をしていないことが多い。良くあるのが、母音が抜けてしまうこと、とくに「あ」の音が綺麗に出ない。昔、演劇の先生に「あ」の音は常に「あ」になろう、「あ」になろうと心がけないと、「え」や「お」になってしまうと教わったことがあります。「たかやま」がよく聞くと「たくやむ」になったりする。それでも文脈があるから、ちゃんと「たかやま」と聞いたように錯覚する。実は、そうではなくて、実際に聞こえているのは「とこやむ」だったりする。時々子音もいい加減だったりするから「もこやむ」とか、もうめちゃくちゃ。正確に聞こえてしまうと、ますます訳が分からなくなる。英語に慣れている身体で日本語を聞くと、無意識に埋め込まれた音韻のシステムが違って来ちゃうから、聞き取り方も変わってくるのです。

 日本語の発音で今一番正統的なのは、実はロック・シンガーの忌野清志郎です。彼の『トランジスタ・ラジオ』を始めて聞いたときは感動しましたね。「トォラァンジィスゥタァ・ラァァジィィオォォ」となるわけ。見事に母音が響いていて、一つ一つの歌詞が立ち上がってくる。これは歌舞伎の発声法と実は同じです。「さぁてぇ、おつぎにひぃけえしぃは…」なんて『白波五人男』の科白と全く同じ。どんなに西洋化しようが、こういうところは絶対に変わらないんですね。

 そんなことを考えていたら、疲れていたのか、私はいつの間にか眠ってしまった。すると、「次は粘土〜、粘土〜」と突然のアナウンス。おいおい、私はどこに行っちゃったのか? 「根室」か「目黒」か、それとも本当に「粘土」に首まで埋まっちゃったのだろうか? おそるおそる目を開くと…ウワーッ! ……夏の夜の怪談『英語リスニング』、お粗末様でした


6月15日

 朝日新聞でノンフィクション・ライターの沢木耕太郎が映画評論を時々書いている。彼の趣味と私の趣味が合わないせいか、いつも書いているものに違和感を感じてしまうのだが、今回ソフィア・コッポラの「Lost In Translation」の批評を読んで、「ああ、やはり私は、この人とは一生縁がないな」と思ったのである。

 「Lost In Translation」はシンプルでいい映画だった。カメラマンの夫の取材についてきた女の子が、東京の豪華ホテルで中年の映画俳優と出会う、というだけの話だ。双方とも周囲に疎外感を感じて、夜眠れない。バーで出会った二人で酒を飲み、夜遊びをする。周囲の人々はビジネス中心で妙に浮ついた関係を結んでいる。俳優の出演するCM収録の不条理な場面、映画俳優の妻との遠距離電話の会話など、ゾッとするほど表層的で、しかもけたたましい。
 そんな周囲としっくり行かない二人が、何となく出会い、ほんの少し自分の内面を打ち明ける。二人で酒を飲んだり、ベッドでヴィデオを身ながら、少しだけ人生についての不安を共有する。その「ほんの少し」の節度がいい。情熱に駆られたり、ラヴ・ストーリーというステレオタイプに陥ったりする、ほんの少し前で踏みとどまる。したがって、ラヴ・シーンは全くない。「史上最大の愛の物語―トロイ」なんて陳腐な文句と正反対の静かで微妙な世界だ。

 この「踏みとどまり方」が、この映画のポイントだろうと思う。「恋愛」という流通可能な「明白」な形を取る前の微妙な感情。「ああ、この人なら何かを分かってくれる」という微かな直感。日本というエキゾチックな土地、いつもの社会関係から離れたエア・ポケットのような空間で、そのほのかな感覚だけが二人を結びつける。
 女主人公が京都に旅行に行った夜、映画俳優はバーの歌手と痛飲し、Love Affairになってしまう。朝目覚めると、シャンパンの瓶が枕元に転がり、女はバスルームで歌を歌っている。絵に描いたようなシーン。その時の男の「また、やってしまった」という表情が印象的だ。どうあがいても、また同じように陳腐で空虚なLove Affairに陥る敗北感。それと対照的に、何の肉体的関係もないのだけど、女主人公とは心が何となく通じ合う。はっきりした形がつかないのだけど、その形がつかないあり方に真実の感情が見える。

 私の好きだったシーンはいくつもあるが、とくに映画俳優がアメリカに帰るというので車で空港に向かう途中、彼女の後ろ姿を雑踏の中に入っていく所を見つけるところ。その姿が異様にさびしい。まるで修行僧のように、たった一人で東京の雑踏に吸い込まれていく。その後ろ姿の完璧な孤独感。男はそんな彼女を呼び止め、抱き寄せ、その耳に聞き取れない言葉をささやく。女はそれを聞いて涙を流す。何で泣いたのか、観客には分からない。でも、ここでは「聞き取れない」ということが大切なのだと思う。二人の間で完結したプライヴェートな瞬間。それは、社会で簡単に流通する言葉では言い表せない。
 哲学者のウィトゲンシュタインは「私的言語Private Languageは存在しない」と言っている。我々の内面は、実は社会によつて根底から浸食されているのだ。もう声高に主張できる「私」なんてどこにもない。もし、「自分」があるとしたら、それは「現実」に上手く適合できない違和感にしかない。
 その言い方を借りるなら、ここは二人の間でかろうじて「私的言語」が成立したシーンかもしれない。内容は二人以外には分からない。でも、二人の間では理解でき、それでOK。どこでもない場所で出会った何とも言えない感じ。それを外側からどんなに想像しようとしても、言葉には出来ない。想像しようとしても、観客の使う言語はステレオタイプを運命づけられた「社会言語」にすぎないからだ。
 そのシーンの後、始めて東京の風景は灰色の塊やネオンのギラギラする闇の空間ではなくなり、ビルの谷間から広い空間が姿を現す。太陽の光が差し、雲も夕焼けに染まり、遠近感が出てくる。場所がはじめて親近感を持って出現する。ホッとした感覚。救われた感覚がわき起こる。見事なエンディングだと思う。

 ところが沢木は、この映画の主人公たちに「自分たちだけが正しいと感じて、他人を理解しようとしない傲慢さ」を感じてしまうから、嫌だという。何を言っているのだろうか、私には全く理解できない。主人公たちは誰も非難していない、ただホテルの部屋に籠もっているだけだ。どこにも出口のない状態、自分を捜しあぐねている状態、それを彼は「傲慢」だと罵る。それは、まるで「引きこもり」は外界を知らないから悪だと決めつける人々の口調にそっくりだ。
 おそらく彼は「日本人」たちの様子が戯画化されていることに腹を立てたのだろうと思う。「Tension! Tension!」という珍妙な要求をするCM演出家、名刺と作り笑いばかりが飛び交うビジネスの現場、カメラマンのおかしな思いこみのイメージ。それらを見て、英語が出来ない自分が侮辱されたように感じたのだろう。しかし、私に言わせれば、こんな連中はビジネスの現場では日常茶飯事だし、私が日本社会に感じている違和感とそっくりだ。
 私には日本のビジネスマンたちと自分が同じ種類の人間だという感覚がない。名刺もやむなく作ってはいるが、しょっちゅう忘れてしまう。日本人だから一体感を無条件で感じてしまう、なんてことはないのだ。むしろ、外国人でも興味が同じならば話もできるし、会ってても楽しい。もちろん外国語だから、凝ったしゃべり方は出来ない。しかし、喋る内容があるなら、また向こうが興味を持ってくれるなら、英語が下手でも何とかなるものだ。それに、向こうが英米人で無い場合は、あっちだってそんなしゃべり方は出来ないから平等だ。
 周りの社会のおかしなやり方には違和感を持つ日本人だっている筈なのに、沢木はそれをアメリカ人の日本社会を知らないせいだと訳知り顔で批判する。しかし、私はこんな社会などに積極的に属したくはないし、おめおめとその一員になりたくはない。たしかに「日本人」は一つの人間のくくり方であるが、それが唯一ではない。「旅人」と「定住者」、というくくりもあるのだ。もし「旅人」の立場になれば、「Lost In Translation」の主人公たちの心情に感情移入できるはずだ。
 それが出来ないところを見ると、旅についてのノンフィクションで知られるわりには、沢木は「旅人」が分からない人間なのだろう。国籍というくくり方以外は認めない心情的ファシスト。アメリカ人に対して「傲慢だ」と怒るところにプライドを見いだす。しかし、こんな不毛なプライドは止めた方がよい。妙なところに「熱く」なることで見えなくなるものは多いように思う。