2005年3月
3月30日

 この頃、ライヴドアの日本放送買収の話が話題になっています。ライヴドアに対しては、ずいぶん批判があるみたいだけど、どうもそれに対するニッポン放送およびフジテレビの反撃がはなはだ格好悪い感じがします。

 とくに違和感があったのが、タレントたちに軒並み「出演拒否」の宣言をさせたこと。きっと会社の方から要請したのだろうけど、仕事を与えてやっている側から頼まれたら、タレント側は断れないだろうな。そういう義理人情で縛るようなことをさせて、自分たちに有利なようにしようという感覚が何だかずれていると思うのです。

 そう言えば、かつてアメリカで三菱自動車がセクハラ事件で訴えられたとき、会社の従業員を動員して、会社支持のデモをして笑い者になったことがあったけど、ちょっとそんな感じがする。「ライヴドアはずるいという社長の言葉がずんと胸に響いた」なんて言っている脚本家もいるみたいだけど、極端にセンチメンタルな言葉で気持ち悪い。

 新聞に載っていたフジテレビ社員の言葉も妙なエリート意識がみっともない気がする。ソフトバンク・インベストメントに株を貸したのが報じられると、「ソフトバンクは一流企業だから良かった。そのブランド力でフジテレビももっと発展できると思う」だなんて話した人がいたらしい。この軽薄さには呆れる。要するに大きい者がよい、という判断しか頭にないんだね。こういうのんきなことを言っていると、今度はソフトバンクにのっとられる羽目になると思います。

 私はラジオ局で台本を書いていたからよく知っているけど、放送局は昔から社員と外注を極端に差別するところです。同じ仕事をしていても、社員ディレクターと外注ディレクターでは5倍近くも給料の差がある。社員たちで金を山分けしている身分構造が露骨にあるのです。ニッポン放送やフジテレビの社員の平均給料は1100万円を超えているとか。内輪受けばかりのつまらない番組を作っている割には、大金を取っていると思いませんか。周りにいる人々は、あまりのくだらなさにテレビを見ないという人も多い。もっと給料を下げて、その分社会還元でもしたらいいと思う。

 だいたいフジテレビだって、もともとは弱小放送局もいいところで、それが80年代に漫才師たちを大量に動員することで視聴率を上げただけです。それが今ではいっぱしの報道機関のつもりになっている。国民のための良質な番組放送とか、報道の自由とか、フジテレビがバラエティで成り上がったことを知っているだけに白々しい感じがします。

 彼らが自分たちの特権を守ろうとしているに過ぎない、と感じるのは私だけではないでしょう。娯楽メディアだったら娯楽メディアらしく、こんどの騒ぎも洒落のめすぐらいの器量がないものですかね。それが妙に力みかえっちゃって、偉そうに構える。しかし、特権階級の没落というのは、どこでもこんなものかもしれませんけどね。

3月27日

 この前、映画「ローレライ」の批判をかなり手厳しく書いたけど、それは昔の日本映画はすごくよかったからです。それに比べて今のていたらくは何だ! という怒りがあるのです。

 黒澤や小津のことは皆よく言うけれど、成瀬巳喜男(なるせみきお)って映画監督を知っていますか? 生誕100年というので、この間「浮雲」というのを見たんだけど、素晴らしかったなー。終戦直後の混乱を題材にとって、戦時中外地(ベトナム)で恋愛関係にあった男女が、日本に帰ってきてから腐れ縁でまたくっついたり離れたりという恋愛映画なのだけど、すごくリアリティがあるのです。

 何よりも役者がスゴイ。主演は往年のスター高峯秀子なのだけど、あんないい女優さんだとは実は知らなかった。好きな人と一緒になれず、生活のために米軍兵士やインチキ宗教家の情婦になったりする所謂「汚れ役」なのだけど、個性がくっきりと出て、圧倒的な美しさがある。ちょっと崩れた物言いをしながら、でも凛とした存在感が漂うというのはなかなか出来るものではない。存在感がすごくゴージャス。

 一方で、相手役の森雅之は二枚目俳優なのだけど、ちょっとインテリ脱力系で生活力のない、しかし女には妙にもてる「ダメ男」を見事に演じる。高峯秀子と温泉に行っても、そこで新しい女を作っちゃう。追及すると「女はどこにでもいるさ」とヘラッと言う。そういう時の妙に自信ありげな表情! こういうどうしようもない女たらしいるよなー、と納得してしまうのです。

 ストーリーは社会の混乱に巻き込まれて右往左往する庶民というささやかなものだけど、その心理と行動のディテールが丁寧に描かれている。しかも二人に降りかかる運命はどんどん変わるから、辛気くさくならず、全体が行動的なのです。その中で、役者の個性もくっきりしている。それを映すカメラも、動かす脚本も丁寧に作られていて、貧乏くさい話のはずなのに、実に贅沢な感じがする。

 最近の恋愛小説は、不治の病などの極端なストーリーがないと恋愛が成立しないようだけど、この映画は生活に密着している。しかも、主人公が生活のために身体を切り売りしながらも、ある種の「純愛」を感じさせる、という希有な映画になっている。昔の日本人は貧しかったかもしれないけど、その分存在感は豊かだった気がする。物質的に豊かになると、一人一人の身体の迫力は消えてしまうのだろうか?

 そういえば、7、8年前キューバに行ったとき、道行く人々の存在感に圧倒されたことを思い出します。若者もお年寄りも、どの人も映画に出ても良さそうなキャラクターや身体を持っている。月給5ドルという、国際基準からしたらお話にならないくらい貧しい暮らしをしても、人間はしっかりと個性的です。それに比べると、日本人の身体はほとんど透明ですよね。少し前、石原裕次郎を描いた伝記小説「弟」をテレビでドラマ化していたけど、青年期の裕次郎と慎太郎の区別がつかない。キャラクターも顔もうり二つの感じがするのです。実際にはかなり個性的な二人なのに、どうしたのでしょうね。中年期を演じる役者に替わってからやっと二人の違いが見えるようになったけれども、それでも個性がくっきりするところまではいかない。

 いったい、いつから日本人はこんなに希薄な存在になったのだろう。このごろの人々を見ていると、社会機構に必死にしがみつき順応しようとしているように見える。その姿勢はみんな同じだから個性どころではない。個性尊重というかけ声で個性の衰退をごまかしている気がする。観念的なストーリーにばかり頼ってしまうのも、自分の身体に自信が無く、社会から発せられた情報の方にリアリティを感じてしまうせいかもしれませんね。買い物で色違いの物を身に着けても、中身は同じなんですよね。

3月19日

 話題の潜水艦映画「ローレライ」を見ました。観客動員数がスゴイ、というのでわざわざ見に行ったのですが…何とも寒々しい出来でした。日本の将来を悲観しちゃうような映画だったなー。もう二度と日本のアクション大作なんか絶対見に行かないぞ、と心に誓ったりして…。

 特撮というか、アクションシーンはよく出来ているのです。今までの潜水艦物の中では、一番絵がきれいで迫力がありました。そこはほめたい! でも、人物がダメ、ストーリーがデタラメ、設定に無理がありすぎ、三拍子そろったら救いようがない。

 そもそも役者があまりよくない。ややクサイ演技と言ったらいいのか、皆肩を怒らして観念的台詞をしゃべる。軍人の設定だからって、あんなに気張らなくてもいいと思うのだけど。集中ができないから、体に力を入れるんだね。どの人も素人っぽくて見ていると恥ずかしくて仕方がない。それに比べてアメリカ側の軍人役は、ちょっと手抜き演技だけど、わざとらしくはない。

 役所光司は、青山真治の「ユリイカ」でもどうかなと思ったけど、今回も目をむきすぎですね。師匠の仲代達也を真似しているのだろうけど、あんな目をぎょろぎょろさせるだけが取り柄の役者を真似てほしくないなー。仲代の演技がどれほど固いか、黒沢明の時代劇「椿三十郎」を見ればすぐ分かる。三船の演技の闊達さに比べて、仲代は不自由きわまりない。主役がこれだから、後はおして知るべし、ですね。

 ストーリーも、いろいろ無理があります。いちばん訳分からないのが、堤真一演ずるところの浅倉大佐というキャラクターの行動。秘密兵器を敵に渡す代わりに、東京に原爆を落としてもらう、という取引をアメリカとするのだけど、何でこんな馬鹿なことをするのか、最後まで理解できない。取り引きするなら、自分に有利になるようにするものなのに、何で「自己破壊」に向かっちゃうんだろう?ドストエフスキーなんか出して正当化しているのだけど、文学趣味としても中途半端です。

 だいたい冒頭のシーンにしてからが、時間順序がおかしい。アメリカ軍の艦長が「僕らはそれを魔女と呼んだ」などと言う追憶シーンから始まっているのだけど、この時はまだ「ローレライ」は活躍していないはずだ。つなぎ方がヘンなのに、スタッフは気づかない。要するに脚本段階での矛盾がきっちり解決されていないのです。こういうのは、観客に見せるのだから、ちゃんと解決しておいて欲しいな。

 しかし、一番違和感があったのは、潜水艦という設定の使い方です。かつてドイツ映画に「Uボート」という名作があった。この映画は淡々とある潜水艦の日常を書いているのだけど、全編息詰まるような緊張感に溢れている。とくにすごかったのは、駆逐艦に追い回されて深海にじっと身を潜めるところ。動くと爆雷を落とされるから、何日も音を立てないようにして敵を欺く。しかし、敵も疑って頭上を離れようとしない。だんだん酸素が少なくなって、乗組員は皆息苦しくなってくる。そのハアハアという呼吸の閉塞感が身に応える…。新しい所では「レッドオクトーバー」もある。ショーン・コネリー主演の東西冷戦下の亡命劇ですが、やはり閉塞した潜水艦の状況を存分に使ったウェルメイドの映画でした。

 今回は潜水艦の話なのに、そういう閉塞感はまったく伝わってこない。なぜ、そうなってしまったか? それは海の中が見えるというローレライの設定の安易さにあると思います。潜水艦モノでは、見えないから、音を頼りに相手の位置を探る。この設定が閉塞感を作り上げるのです。海の中が陸の上と同じように見えたら、潜水艦という状況の意味が失せてしまう。いくら新兵器というストーリーのためとは言え、もっとも大事な設定をあっさりと崩してしまうとは、信じられない!

 後は、東京を原爆から救った、などの大言壮語やヒューマニスティックな言動が出て来たり、人間がいろいろな事故で死ぬ場面をつなぎ合わせたりして、ドラマを盛り上げようとするのだけど、どれも薄っぺらな感じがしました。潜水艦に乗る、というしんどさが伝わってこないのに、何が潜水艦映画だ、という感じですね。

 このドラマにまったく現実感がないのは、この基本的な身体感覚の欠落にあると思う。だから、ストーリーはどんどん壮大になっていくのに、兵隊達の身体はどんどん貧相に見えてくる。ドラマは身体とは結びつかず、「東京を救う」などの観念的なイメージとばかり結びつく。そういう意味では、この映画は見事なまでに非演劇的、薄手のドラマなのです。だから、人物は書き割りの上を、絵のように動くだけで、言葉も安っぽい。

 押井守の映画の時も思ったけど、要するに昨今の映画はあまりにも言葉とコンセプトの追及が足りないのです。そのくせ、絵的なところにはやたらとこだわる。細部がきれいなら、全体が崩れていても気にしないという傾向が強い。何とも不思議です。

 全体のイメージを決めるリーダーがいないものだから、一つ一つの絵の充実度ばかりを追ってしまうのかもしれない。こんなものは映画作品とは言えない。ただの特撮職人の技術の見本市だ。コンセプトよりも細部のイメージが先行する。言葉が貧しくなる。これは日本の精神状況そのものですね。こんなもので世界市場に挑戦しようというのは、ちょっと無理ですよね。娯楽作品だから堅いこと言っても始まらない、アニメが売れているんだからアニメのように作ればいいのさ、と安直に思っているうちに、作り手も受け手も慢性化して、日本映画はどんどん衰退してしまうのではないか。

3月6日

 西日本では大雪が降ったようだけど、東京では白梅が咲いています。もう春ですね。vocabowにも、やっとポカポカした日差しがさしてきました。何のことかって? 恒例の春の原稿執筆の深海からちょっと浮かび上がってきたからです。

 この時期は毎年、私たちが一年で一番忙しいときです。『論文試験頻出テーマ』の年度版を改訂しなくてはいけないのと、何かもう一冊書籍同時進行で作っていることが多い。去年は「法科大学院適性試験第2部」のための本で大忙し、今年は「第1部推理・分析力」のための参考書でバタバタ。一つの原稿が終わると次の原稿に取りかかり、と本当に息つく暇もない。

 体力負けしないようにと、今まで週1回だった運動クラブを2回に増やして、水泳も基本的に一回800〜1000m泳ぐことにしました。その体力強化プログラム?が効いたのか、今年はまだ風邪にかからないで何とかやっています。でも、プールで泳いだ翌日は、きまって一日中鼻が詰まる。花粉症みたいに見られるのだけれど、私のは花粉症ではなくて、いわば水泳の副作用。みなさんも経験あると思いますが、大量の原稿を書くのって、体力勝負なんです。論文1本仕上げると体重が減るというのは本当です。いったいどこの筋肉を使うのかわかりませんが、考えることも筋肉使用に相当するエネルギーが必要なようです。

 そんな苦労をして作った今回の本は、適性試験第一部の参考書の決定版と言ってもよいでしょう。私とvocabowスタッフの阿藤くんと書いた適性試験用のいわば「論理学入門」です。パズルみたいで見通しがつかなかった分野に、はじめて一貫した方法を示しました。これを読めば、何でこういう解法になるのか、方針がハッキリと見えてくる。図や表も豊富に入れて、見やすくなっているはずです。皆さん、本屋さんに早めに注文しておきましょうね。題名は『法科大学院適性試験〔推理・分析力〕解法の論理ブック』(実務教育出版)です。4月10日ぐらいには書店に並ぶと思います。この本が世に出るのに合わせて、vocabowでも「法科大学院 適性試験プログラム」を開講する予定です。もう少しお待ち下さい。