2005年10月
10月25日

 この間、実家に帰ったら、父親が「SONYはきっとつぶれるよ」と話していました。彼は大学教師の前身はエンジニアで、戦後日本経済のSONYとHONDAをアイドルとしてきた世代です。

 この二つは、戦後の焼け跡で何もなかった中から起業して、世界でも有数の会社に育った。父は結局産業界には行かなかったけど、その快進撃に戦後日本人の心意気を感じていたらしい。とにかく両社に対する思い入れは強かった。家では電気製品と言えばSONY、車と言えばHONDA。ブランドと言うより、むしろ戦後復興のシンボルですね。

 ところが、彼がそのSONYを見限った。「ろくな製品を出さない。もうSONYは買わない」と吐き捨てるように言うのです。でも、一世代下である私には、それほどの思い入れはなく、赤字が巨額なのは知っていましたが、今一つ言い方が理解できませんでした。

 ところが、この間TVの経済ニュースを見ていて、父が何を言おうとしていたのか、はじめて理解できた。そこでは、アニメ映画が今世界で売れて輸出商品になりつつあり、SONYがその制作に乗り出すと報道されていました。アニメ映画は日本のほぼ独占だったのですが、ここ二・三年、アメリカや韓国に追い上げられていて、シェアが減っている。巨額投資して日本のアニメを活性化させるんだ、という内容でした。

 しかし、その解説を見て、私は驚倒しました。まず、日本映画のシェアが減っていると言うが、売上高自体はそれほど減っていない。たしかに外国アニメは進出しているのですが、アニメ全体として増えているのです。これは、むしろ「市場の開拓」ということではないか? 諸外国ではバカにされていた分野を、まず日本映画が掘り起こし、「これは金になる」と分かった外国の映画界が参入してきた。 それを「日本のアニメは押されている」と解説するのは正しいのか?

 さらにSONYが投資する映画は3Dだという。3Dは日本アニメではまだあまり開拓されていないが、この技術を使ったアメリカのアニメがヒットしている。3Dは手で一枚一枚セルを描くのと違って、制作側のコントロールがききやすいし、制作費も抑えられる、とか。いかにもビジネスマンが好きそうなコピーだと思いました。新技術、制作のメリット、コストの削減。どこにも、内容の話がないのです。(ゲームソフトでは、操作するというゲームの特質上、デジタル技術を駆使するのは理解できます。その結果3Dの活躍がめざましいですね。)

 声を大にして言いたいけど、モノを作るときに一番大事なのは愛情です。新技術に対する挑戦はもちろんあるけど、それは何とか自分が現実化してやろうという意気込みだ。けっして、制作のメリットが中心ではない。それより、時間をかけて工夫して、よりよいものを追求し、完成する喜び。そのために技術者は頑張る。それが評価されれば十分。それでお金がついてくればもっと良いけど、少なくともそれがメインではない。むしろ、一つ一つの細部を仕上げていく過程がそれ自体うれしい。

 そのことは、アニメでも同じでしょう。ニュースでは、セルを一枚一枚描く作業を非効率だとバカにするように言っていたけれど、もともと日本のアニメ映画はそういう人の地味な作業でできあがっていたのではないでしょうか? その頂点に宮崎駿なんていうスターも生まれている。

 宮崎駿の制作日誌とか見たことありますか? 絵を描いて、コンセプトを決定する。それを会議で説明する。各班のチーフがそれを現実化すべく、セルを設計する。アニメーターたちが宮崎氏の意を受けて、一つ一つ丁寧に描いていく。どうも違うなと判断したらセルは即廃棄。アニメーターなんか低賃金ですよ。金を稼ぐ仕事と思っていたら、こんな割に合わないことはできない。そこを埋めるのは何か? 「良い映画を作りたい」という愛情と意気込みなのです。それが、結局自分の仕事に対する誇りにもなっている。

 そういうことが、SONYの投資話からはすっぽりと抜けている。たんにいくら金になった、というだけ。私は資本主義の原理は好きでないけど、たった一つだけ絶対支持したいことがある。それは、個人が思っちゃったことを追求するには、誰も文句は言えないこと。失敗もたくさんあるけど、その中から「ほー、これはすごい」というものが出てくる。それをイノベーションという。しかし、それは最初は共通価値としての金額では測れない。もしかしたら、まったくのカスかもしれない。確信があるのは自分だけ。

 当然の事ながら、最初は採算なんか無視です。何が、その情熱を支えるのか? それは、もうマックス・ウェーバー言うところのcalling召命、無根拠の確信しかない。別名インスピレーション。資本主義というと、つい合理性だとか、効率性だとか言うけれど、その前のイノベーションをどうやって確保するか、実はこれが一番問題なのです。

 しかし、SONYの今度の3Dコンセプトには、これが徹底的に欠けている。あるのは、安全な技術の応用と、金勘定と効率性だけ。「お前、ホントはアニメなんか好きではないんだろう!」と突っ込みを入れたくなる。これを退廃と言わずして、なんと言おうか。

 結局、選ばれたアニメ映画のスタッフは、皆アメリカ人たちでした。あの、どうしようもない、何よりもダメな、ワンパターンのアメリカン・コミックの作り手たちですよ! いったい何を考えているのかな。ソフト・パワーとは何か、がまったく分かっていない。SONYよ、どうしたのだ? グローバル化の呪文に化かされて、イノベーションの精神を根こそぎにしてしまったのか?

 「改革」を叫ぶ人々が、つねにアメリカをモデルにしているのは、この頃の傾向ですが、それが正しいと常に思ってしまうのは、一種の偏見だとしか思えません。

10月21日

K町のユーウツ

 この頃、あれこれと用事があって、K町をよくぶらつく。ここは、巨大ビルばかりが目立つ最近の東京で、珍しく心和む場所だ。商店街は、間口2−3間の小さな店が並ぶ。瀬戸物屋、佃煮屋、チーズ屋、漬け物屋など、デパ地下のにぎわいとは別種の人間サイズの店だ。道も狭いので、車がびゅんびゅん飛ばしていない。だから繁華街なのに車の音が少ない。一本路地を入るとけっこう静かだ。

 路地裏には、小料理屋や料亭が並ぶ。見た目にはやや古風な民家という感じなのだが、よく見ると小さな看板が出ている。昼間行くとたいていひっそりとしていて、奥が深そうな感じである。よく耳を澄ますと、どこからか三味線の音が聞こえてくる。

 しかし、その路地がとにかく狭いのだ。建築基準法で道路とは幅4mのものを言うらしいのだが、そんな幅を持つものは珍しい。たいていは3m以下。狭いモノになると、1.5m以下などほとんど通路としか思えないものもある。建物の横をすり抜け、そんな路地をうねうね辿っていくと、突然草ぼうぼうの空き地にたどり着く。「××不動産」などという看板が立っているけど、もう何ヶ月もそのまま。

 そのそばには、何年も人が住んでいないようなアパートが全面蔦に覆われて、朽ちつつある。戸口からのぞくと、中は真っ暗…。死体が中に何個かあっても気が付かないかもしれない。怪人二十面相の隠れ家があってもよいかもしれない。裏に回ると、そこは寺の敷地だったりする。崩れつつある町というかちょっぴり死者の香りがするというか。つまり、ここは人間の生き死にが混在している町なのだ。

 ところが、そんな江戸川乱歩風の町が広がる中に、数年前から西洋料理屋が店を出し始めた。近くに、フランス人が住んでいる地域があるからだろうか、仏蘭西料理や伊太利亜料理(どうしてもこう書きたくなる)の小洒落た店が並ぶ。もちろん、個人の出した店なのだろうから、内装も質素で気軽に入れる。外にもテーブルを出してあるが、そこから見えるのは路地を行く人々だけ。しかし、その風情が、パリやローマの下町にそっくりなのだ。

 パリに行って一番印象的だったのは、カフェの外に並べてある椅子に座ってコーヒーを飲みながら、道行く人をにらみつけている人々の目つきだった。「お前たちは私の鑑賞材料なんだ」と言わんばかりの気迫で、発止と道行く人をにらみつける。三月のまだ寒い季節なのに、断固として外に座るのである。
 
「これが都市だ!」と私は思ったものだ。人間が人間を活動対象にしながら、生き甲斐を見つけていく場所。それは、自然の推移を感じながら、ほんわかと暮らしていく感じとは対照をなしている。K町の路地の西洋料理店には、ちょっとそんな感じがある。視線はパリよりずっとやさしいけど、それでも道行く人を興味深そうに眺める点は変わらない。日本の路地はパリの路地とつながっているのだ。

 こういうあり方は、昨今流行のタワーマンションとは対極的だ。「ホテルライクな楽々生活」なんて標語がまかり通る。しかし、ハッキリ言えばそんな生活は「都市生活」ではない。単なるナルシシズムの空間なのである。「自分好みの空間」とか言うけれど、外界から閉ざされた空間にこもって、何をするのか? 窓ガラスに映った自分と向かい合うしかない。あるいは、インターネットでもするのだろうか? しかし、それで世界とつながるというが、実は自分の想像界とつながっているだけだ。欲望と感情だけがぐるぐる回っていて、それに追っかけ追っかけられて妄想だけが肥大していく空間。いやだなー。少なくとも私は「自分」と「対象」が確固としてある空間の方がよい。

 その意味でタワーマンションでインターネットをするという生活は、自我がグローバルにまで肥大した田舎者の世界だと思う。「夜郎自大」とでもいうのか、欲望がカオスとして沸騰している。そういえば、タワーマンションのデザインであるユニバーサル・スタイルも、固有の場所(トポス)を感じさせない建築様式だ。それが感じさせるのは、「外国」でもなく「自国」でもない。エキゾティシズムもナショナリズムもない場所。つまり、そもそも、そこは「住む」という概念の対極にあるのだ。

 昔の日本という香りを濃厚に残すK町がパリやローマとつながっていることに何の不思議もない。高層ビルの中のふらんす料理店など、まっぴらゴメンだ。コーヒーを飲みながら、そんなことを考えていると、ますます苦虫をかみつぶした顔つきになってくる。そうか、これが「パリの憂鬱」という奴なんだ―。私もほんの少しだけ、「都会人」になりつつあるのかも知れない。

10月12日

キンモクセイの香り2

 前回は「若いからよい」、などというふやけた精神が嫌いだと書きました。実際、若さなんて自分が若いうちは良いか悪いか分からないものです。それが貴重だったと分かるのは年を取ってからです。だから、その最中はただ浪費するしか仕様がない。だって、経験が少ないから、どうするのがいいのかとりあえずあれこれメチャクチャにやってみるしかないでしょう? 結果が吉と出るか、凶と出るか、それは運次第です。だから、若さをうまく活用する方法なんてそもそもない。いくら人生相談を読んだってダメです。

 坂口安吾がこういう意味のことを言っています。「世の中には失敗するに決まっていることがある。だからと言って、それを止めろとは言えないのだ。たとえば、恋愛は必ず失敗するから、恋愛をするなとは言えない。これは、人間はどうせ死ぬのだから、生きなくて良いとはならないのと同じことだ」。若さというのは、この必然的な無知のことを言うのですし、だからこそその時期は二度とないし、必然的に失敗ばかりする。

 それじゃ、世間基準に合わせれば適当にやりすごせばうまく行くんじゃないかって!? それが大きな間違い。よくしたもので、そういう小ずるいことをした人の末路は厳しい。他人の基準に合わせたって満足は得られないからです。世間並みの成功を手にしても、後で「他にもやりようがあったのではないか」と後悔する。よく言うじゃないですか?「七つ下りの雨」って、中年になってから突然色恋に夢中になる人。あれがそうですね。若いときに思う存分やっておけばよかったのに、やらないで我慢したから後で出てくる。自分にとっての良い状態とは、それぞれ違います。それが分かるまでには時間がかかる。さんざん失敗したあげくに、「あ、これでいいんだ」と自分と和解できるかどうか…。うまく年を取るかどうかは、そこがポイントでしょうね。

 まれに若くして自分の宿命を知っている人がいます。そういう人はわき目もふらず、自分の宿命通りに生きる。ちょっとうらやましいけど、こういう人はわりと早めに死ぬことが多い。きっと、この世にいる意味が完結してしまって生きている意味がなくなるのでしょうね。宿命に憑かれた人というのは、そっちのエネルギーの方が強すぎて、人間の自然な身体の限界を超えてしまうのかな?

 反対に若さを浪費しまくるひともいます。「何でこんなバカなことをやるのか?」とあきれてしまうほどです。そういえば、知り合いのドラマーで30歳で歯が一本もなくなった人がいました。昔、私の芝居を手伝ってもらったのだけど、クスリのやりすぎだったらしい。でも、傍目で見ていると圧倒的にかっこいい。何の役にも立たない行動は、少なくとも打算がない。「その瞬間」の満足を求めて生きるという純粋さがある。そういう人間はすごい! 上に述べた若さの本質に則っているわけ。

 …で、そういう人間も当然のことながら大抵早く死にます。私が見た内で、そういう生き方をした人は40歳くらいでこの世から消える。後に残るのは、その人の伝説だけ。きっと本人もそれを望んでいたのだと思う。早く死なないと、「バカなこと」の輝きもなくなって、「いつまでやってんだ」となって、ただのバカになってしまう。60歳で歯がないのは、ただのジジイです。瞬間の充実はあっという間に消えさるからいいのですよね。ガラス器の美しさの一部が、その壊れやすさによっているように…

 こう考えると、若さには背理が満ち満ちています。若いことはとりあえずいいことだ、などと簡単には言えない。このどうしようもない複合性が、社会のどんなものにもくっついてくるんだ、ということが分かるのが、中年以降の認識ですね。もう日本社会も成熟しているのだから、そういうことに自覚的であってほしいな、と思うわけです。キンモクセイのむせかえるようなキツイ香りを嗅ぐと、ついこんなことを思ってしまう今日この頃…。ところで、この文章が何だか説教臭いのも、この香りの影響ですかね。

10月7日

キンモクセイの香り

 あっという間にキンモクセイの香りが漂う季節となりました。私の住んでいるところの近くには、この木がたくさん植わっている。これが匂う時節になると、もう今年も残り少ないな、という感じがして、胸一杯に吸い込んでしまう。
 ところが、この頃の子供たちは、この香りをいい匂いだと感じないらしい。この香りが、芳香剤として使われるので、「トイレの香り」として連想されるかららしいのです。この花を嗅ぐと「くさーい!」と言う。これは、面白い感覚分類の逆転ですね。花の芳香が臭さを防ぐために使われるうちに、いつの間にか、その香りが芳香ではなく臭さとして分類されてしまう。
 こういうことは他にもありそうです。「綺麗な花には毒がある」などと考えると、綺麗=毒という観念連合が生まれる。綺麗な花を見たとたんに、気持ち悪くなるとか、嫌な感じがするとか…。「毒々しい」という言葉は、そうやって生まれてのかもしれませんね。そういえば、「あまりにも完全無欠なものは、かえってそれを破壊したいという欲望を喚起する」とか、フランスの文人が言っていた気がします。我々の感覚は、簡単に正反対のモノと結びつきやすい。
 ちょっと朝日新聞の「天声人語」風の展開になっちゃうけど、こういうことは政治イメージの世界でも見られます。選挙での白い手袋が何となくいかがわしいように、クリーンや清潔を売り物にする候補者はすでにして汚れている感じがする。イメージを作ろうとして、かえって足を取られている例も多い。
 この間の選挙でポロ負けした民主党が、前原とかいう「若い党首」を選びました。これで「組織刷新」をするのだとか。でも、刷新するたびに飽きもせず「若さ」を選ぶという発想自体がもう古いのではないだろうか? 高齢社会で、若い人が世の中をよくしてくれるなんて、どうして思えるのか、私は分かりません。若い人は高齢者と利害が対立しているんだから、福祉を切り下げろとか言い出すに決まっている。

 いつまでも、若い若いと同じ言葉で騒ぐ奴らに大きな顔をさせないことが、むしろ現在では新しさだと思う。それに、「若い」ということにどれほどのメリットがあるのか? ポール・ニザンの言葉をご存じですか?「僕は20歳だった。だが、それが人生で一番美しい時だなどと誰にも言わせない!」。これが若さの栄光と悲惨なのです。若いからいい、などというふやけた精神は十分に古くさい。私は嫌いですね。

10月3日

 この間、VOCABOWの長谷眞砂子さんに誘われて、池袋の新文芸座でヴィスコンティの「山猫」を見て来ました。映画通の彼女のいうことによれば、昔見た映画でも大人になってから見ると、まったく味わいの違うものだとか…。本当にその通りでしたね。
 「山猫」を見たのは、三十年ぶりだったかもしれません。昔は、見てもよく分からなかった。イタリアの貧しい地域の貴族階級を描いた歴史映画、というぐらいの印象しか持っていなかった。しかし、今度見ると全然違う感じで、胸に迫ってくるものがあります。
 ストーリーは簡単です。シチリア島の貴族が、イタリア近代の政情不安の中で古い世代から新しい世代に交代していくという、あきれるほどシンプルな物語。しかし、まず最初のシチリア島の荒涼とした景色がすごい。バート・ランカスターの公爵が「見ろ、美しい景色だ」と窓を開け放すシーンがある。たしかに、目の前にはブドウ畑らしい緑が延々と拡がる。ところが、その向こうにある山はほとんど植物が生えていない禿げ山なのです。言葉と映像の対比の、この強烈さ! 
 私もいろいろと世界を歩き回ってきましたが、日本ほど緑が濃いところは珍しい。海がすぐ近くにあっても、乾燥した気候は多い。山に木が生えているなど珍しい。昔、モロッコのアトラス山脈を越えたときもそうでした。走るにつれて、目に見えて植物が少なくなる。山脈を越えると、そこはもう砂漠です。と言っても、砂の海というおなじみの風景になるまでには、ずいぶん内陸に行かなければなりません。そこまでは砂漠と言うより、乾いた荒れ地(土漠というらしい)が延々と連なっている。ひび割れた土にごろごろと石が転がり、けちな植物が所々生える。
 こういう風景は砂漠よりも貧しい感じがする。サハラ砂漠は赤い砂が拡がった幻想的な風景で、観光客もそれを目当てに押しかける。しかし、土漠はただ不毛な土地というだけなのです。緑が時々見えるだけに、その貧しさがかえって際だつ。オアシスに入ると、そこだけは緑がやや多くなる。それでも、風が吹くと砂が飛び散る。そんな中を男たちがあてどなく歩く。頭からすっぽりジュラバというマントを被って、目だけはギラギラさせて…。「山猫」を見ていたら、その時の感覚を思い出しました。
 そういう乾いて荒れ果てた世界の中で、アラン・ドロンは奇跡のように美しい。私が年を取ってしまったせいかもしれないが、彼の美貌は男から見てもはっとするほどの生命力に溢れている。もっとも貴族にしてはちょっと高貴さが足りない感じで、下卑ているのですが、そこがまたいいのです。それは相手役のクラウディア・カルディナーレ(C.C)も同じこと。少しだけ下品で、でもそこに圧倒的な美とパワーがあるのです。それをヴィスコンティは見逃しません。ドロンにはパーティで猥談をさせ、C.Cに大口を開けて爆笑させる。同席した人は、皆眉をひそめる。しかし、そこに公爵は希望とエネルギーを見出し、二人を結婚させようと画策する。これは、もう中年のペーソスですね。完全には是認できないながらも、荒々しい若さの中に美と力を見出し、しかし、自分はもうそういう渦中にはいないことを自覚する。
 だから、最後のC.Cを社交界にデビューさせる舞踏会のシーンが感動的なのです。この場面は、30年前に見たときはただ長くて退屈なだけだった。意味は分かるのだけど、さっさと先に行ってほしいと思っていました。今は少し長いなとは思いつつも、しかし、この長さがどうしても必要なことは理解できる。ここのカメラは、まさに若さを失った側の公爵の心象風景だからです。公爵は、舞踏会を甥のドロンとその妻C.Cのために準備する。しかし、自分はどうしても楽しめない。パーティ会場をウロウロと歩き回るだけです。ときどき、部屋の向こう側でドロンとC.Cの姿がかいま見える。その美しさとどうしようもない距離の感じ! 自分がもう過ぎてしまった時間を遠くからなぞっているかのようです。なぞるほどに自分はその現場から遠ざかる。だから、その騒がしい風景がむなしく見えてくる。そこの描き方が見事です。これは、自分が中年になっていることで、はじめて見えてくる感覚なのでしょうね。
 おしゃべり、踊り、自慢話、挨拶、食事…似たような行為が繰り返され、少しずつパーティの時間は進んでいる。そして一度だけ、公爵はC.Cとダンスする。映画の実質はここで終わります。きっと、この光景はもう少し長すぎても短すぎてもいけなかったに違いない。公爵自身が感じているやりきれなさと退屈と悲しさを観客も実感できる長さなのです。その意味で、本当に驚嘆すべき演出力です。単純な感慨を、二度と忘れられないように観客の胸にたたき込む、それだけのための時間と持続。
 ある意味で、映画においておもしろおかしくどきどきする場面を作ることなど誰にでも出来る。観客を刺激する様々なアイディアを場面にありったけ放り込み、彼らの注意力をあちこちに散らして、豊富さと意外性で圧倒すればいいのです。「レイダース」や「スター・ウォーズ」などがその好例でしょうね。いわば、退屈を出来る限り忌避しようとする。映画は、そのための効率的な装置になっている。時間に対してけちな態度をとるわけです。ところが、ヴィスコンティはそういうやり方を拒否し、たった一つの感慨・感情を伝えるためだけにたっぷりと時間を使う。何という贅沢と自信、それから構想力でしょうね。
 もし、ヨーロッパの豊さがあるとしたら、こういうものを作り出せると確信できる強い人格を輩出したことでしょう。観客に受けないのではないかと、他人の視線、大衆の好みにびくびくしてばかりいる今の日本映画にはとても望めないことです。社会の成熟というのは、こういうことを言うのでしょうね。