2005年11月
11月30日

七色のスーツ
 
 この頃、また人間の印象の9割は外見で決まる、というような本が売れているらしい。これは、何十年も前にアメリカで行われた心理学の実験に基づいていて、もうさんざん使い古されたネタです。しかも追加実験では否定されているデータなのに、しようがないですね。

 「トンデモ本は忘れた頃にやってくる」といって、世代が変わると同じようなトンデモ・テーマが流行るのです。ファッションと同じで、20年、30年たつと昔のことはチャラになって、また復活する。長く生きているおじさんだから「これって30年前流行ったベルボトムじゃん!」「このCMソング、ほとんどストーンズのパクリだ!」という具合に分かるのです。

 そんなわけで、内容にも全く新味はありません。たとえば、討論番組で有名な東大の某先生が説得力があるのは、話の内容ではない。発言をつなげていくと一貫性はない。それより、低い声で丁寧にしゃべっているのが学者っぽいからだ、などと書いてある。だから外見は大事なのだ、と言うのです。学者っぽい外見だから説得力を感じるというのはけっこう皮肉ですよね。話には一貫性がないのに、ヴィジュアルが学者としての信用を支えている、と言ってるわけですから。

 「芸術家っぽい」という言い方がありますよね。「芸術家っぽい」人はたいてい芸術家ではない、というのが私の見方です。髪が長くて細い体をくねらす(30年前の私もそうだったらしいが、ああ恥ずかしいな)。でも、ほっそりした「芸術青年」風の人は体力がないだろうから、山の中にこもって、一人孤独に制作するには不向きでしょうね。実際には神経がタフで熊みたいにがっちりしてなきゃだめです。その意味で、「××っぽい」なんて単なる思いこみです。

 だから、そういう「××っぽい」を戦略的に使いこなしている人は、かなりヤバイ場合が多い。詐欺師は、そういう世間並みのステレオタイプを悪用して善男善女をだますと言います。昔、「大久保清」という人がいて、スケッチブックにベレー帽という絵に描いたような「芸術家っぽい」スタイルをして、白い車で女の子たちを誘っては山の中で殺していたという事件がありました。

 それを応用するなら、某先生のタートルネックに背広というスタイルも、やけに古風で、「いかにもインテリだ!」というステレオタイプですね。うーむ、これは大久保清と共通のセンス。もしかしたら某先生も…。などと、いじわるな視聴者である私はTVの前で勝手な妄想を膨らませるわけです。某先生、ごめんなさいね…。

 ヴィジュアルイメージなんて、文脈とそこに関わる人、あるいはちょっと見方を変えるだけで、どうにでも意味合いが変わる。だから、それを状況に応じて読み解くのが面白い。でも、この本の欠点は、そういうヴィジュアルの多義性に触れていない。筆者は演劇関係者らしいから、「どんでん返し」などという演劇でおなじみの技法は当然ご存じだと思うのですけど。

 見た目では決まらないという例をもう一つ。昔、予備校華やかなりし頃、「人気があるから」と他の予備校から私のいる学校にスカウトされてきた英語のA講師がいました。支度金500万円、年収2000万円が保証された。その支度金で、彼は勇躍スーツを24着そろえた。春夏秋冬1日1着で一週間分、一週間で一度も同じ服にならないように気を使ったらしい。七色のスーツという評判を立てたかったという。そのころは、こういう派手なのが受けていたのです。

 さて授業を始めてみると、1学期で生徒は半減。2学期でまた半減。3学期には、もう担当授業はなくなった。授業では張り切って、仮説実験授業というその当時「理想的方法」と言われた参加型教育法をやったのですが、生徒は要求が多すぎて付いてこれない。最高だと思っているから、ますます生徒は離れる。結局、最後はネズミ講まがいのビジネスにはまって、学校から姿を消しました。七色スーツの効果は残念ながらなかった。ビジネスでも同じじゃないでしょうか? いかにも「できる風」だけでは会社に利益をもたらさない。 

 学生たちにとっては非常に厳しい就職戦線だし、実際のサラリーマンも実力主義が過大なプレッシャーとなっている現状を考えれば、「人は見かけが勝負」と言ってくれる本は一時の救いなんだろうね。解決が簡単だから。でも、他人をそんなことで騙せると思っていることが、すでに騙されているとは言えないでしょうか?

11月23日

著作権狂騒曲

 この頃、著作権の問題がかなりいろいろなところで言われ始めてきました。これは、教育現場では、かなり深刻な問題です。なぜなら、英語にしろ国語にしろ、「原文」なしでは問題が作れないからです。時々、掲載料を何十万という額で要求される場合もある。著作権料を高額にとってやるという団体も出てきた。××××作家協会というところです。(私はひそかにイジワル作家協会と呼んでいるのですが…)そうすると、掲載をあきらめなければならない。

 問題なのは、取り立てたお金が本当に作家に行っているか、ということです。むしろ、著作権料管理団体の運営資金に廻っている可能性も大きいと思うのですよね。著作権を管理する団体のスタッフになった私の知り合いは、「これで俺の老後は安泰だよ」などと言っていました。実際、音楽の著作権などはたいてい放送局が握っていて、作曲家や演奏家にはごく一部しか渡らないという説もある。

 それに原著者が死んでいる場合は、そのお金はどこに行くのか? 死後50年もたてば、家族と言っても著者と直接関係があった人はほとんどいなくなってしまう。たとえば、ミッキーマウスを創造したウォルト・ディズニーはとっくに死んでいるけど、その著作権は会社が持っていて、使用については法外なお金を要求している。そのお金を確保するために、著作権を死後50年から70年に伸ばしたと言う。100年にしろなんて言う意見もあるらしい。でも、元々の著作権の趣旨から言うと、他人が著作権を利用して金儲けをするのは何だかおかしいですね。

 私がこういう商売を嫌いなのは、それが「関所商売」だからです。勝手に道路を塞いで、「ここを通るなら通行料をよこせ」とすごむ。道路はもともと公共財です。それに所有権を設定するという根性が気に入らない。昔だったら、「ヤクザ」か「山賊」がやったことですよ。それをビジネスマンがやっているんだから情けない。言葉や音楽は、それを使って人々と交流することが目的ではなかったか? それを「所有権」などと言って、自分のもののように主張するのは、根性が悪いと思う。

 その意味で、著作権料の問題は、もはや文化創造を害するようになってきている。たとえば、私の尊敬する英語のN先生は、大学入試で例文を充実させた画期的な単語集を出して、某出版社から一般書籍で出さないかと言われたそうです。ところが、打ち合わせをしてみると、その例文の一つ一つについて原著者に了解を得なければならないということになり、結局編集者がその手間を面倒くさがって、出版不可能ということになったそうです。日本人は、英単語のよい参考書に触れる機会を失ったことになる。

 頭に来るのは、こういう制限を加える人が創造とは何の関係もない人々だということです。作るのには、時間がかかる。だから、ビジネスの効率性には乗りにくい。だから、ビジネスマン達は出来上がった物に群がって、金を得ようとする。中国や韓国では、日本のマンガや本の海賊版がたくさん売られているという。これはもちろん人の創造した物を勝手に使って金儲けしようということで、論外だけど、著作権の権利を主張する側も、人の創造した物を使って金儲けしようとしている点では同根ではないだろうか。

 著作権団体は、どこでどんな作品が使われているか、調べたり請求したりすることに経費が掛かる。その経費を出すために、つまり自己保存のために、活動範囲を拡大して、さらにクレームを拡大する、という構造になっている。結局、彼らが創造した物は他人にペナルティを課して、監視を強化する体制というわけです。作家をネタにビジネスしている点では、同じことなのです。しかも、もう出来上がっている物を売る方が得だよ、と考えるビジネスマンの効率の論理が大勢を占めている以上、この仕組みはさらに拡大していかざるを得ない。いやな渡世だと思いませんか? 

 「創造する」人なら誰だって知ってるけど、無から有は生まれてこない。どんなオリジナルなものだって、誰かの影響を受けている。それを知っているから、クリエイターは「オリジナリティ」に対して謙虚になるのです。だから、現在のような「著作権騒動」は腹立たしい。騒動にしている人間が、誰も創造の現場に無関係だから、過剰に騒ぎ立てる。それによってみんなが過剰反応し、世間がどんどん息苦しくなっていく。他人の文章を引用すること自体が忌避されるから批評も成り立たない(これ、かなり深刻な問題)。

 実際のクリエーターは故意の盗用とかよっぽどじゃなければ、たいして騒ぎ立てない。詩人の谷川俊太郎さんだって、著作権訴訟を起こしていて、「うるさい人だ」などと出版界では敬遠する動きもでているらしいけど、私の本の中で詩を使わせて頂いたときは、事務所に直接電話を掛けて掲載許可を求めたら、あっさりとOKしてくれた。黙って使うなどと、卑怯なことをしなければいいのです。

 もちろん、工夫して作ったことに対しては、相応の対価は必要だと思う。今までは、それをきちんとやってこなかった。だから、原著者およびそれに直接に協力した家族には、著作権料を払っても良い。でも、せいぜい配偶者まででしょうね。その子どもに金をやる必要はないだろう。そんな特別な親を持ったことさえ幸運なのに、さらに金まで与えるなんて、特権を与える必要はないと思います。アメリカの政治哲学者ロールズが言うUndeserved Privilegeの典型で、正義に反すると思いますよ。


11月19日

図書館の人々

 今年は、私は図書館をさすらうノマドになっています。家にいると、なかなか原稿が進まないので図書館にこもるわけですね。しかし、なかなかよい図書館がない。一番近いのは光が丘の図書館だけど、明るすぎて落ち着かない。子どもや高齢者が時間つぶしに来る場合が多いせいでしょうか? 仕事をしようという雰囲気にならない。
 新宿区立中央図書館も、よく行くのだけど、ここはコンピュータ原則禁止なので、資料探しが主になります。それに、同じく区立図書館でも、客層がずいぶん違う。明らかにホームレスないし失業中という感じの人が多い。トイレにも、あれこれ禁止事項の紙が貼ってあって、息苦しい感じがします。

 そんなわけで、まず大学の図書館に行くことにしました。前は早稲田の図書館に入れたので、そこに行っていましたね。とくに戸山の文学部図書館はいつも森閑としていてお気に入りでした。時々、自分が予備校で教えた人に会ったりして「あら、センセー何してるの?」なんて学生に呼び止められる。会うと何かおごらされることが多いので、さっさと最上階に登って、薄暗い片隅で原稿に集中する。目の前に見えるのは、甍の波のみ。
 時々、本棚から本を取りだして拾い読みする。昔の知り合いの本があったりして、思い出に耽ったり、なかなか楽しい。ここにあった本を手がかりにして、もう20年も所在不明だった友達が、アメリカの大学で先生をやっていることが分かった。でも、ここも程なくコンピュータ禁止になり、追い出されてしまいました。総合図書館にも行ってみたけど、だだっ広いだけで、何となく落ち着かない。

 それから、駿台予備学校の講師研究室に流れて行きました。ここは、仕事をする人と寝ている人にハッキリ分かれる。寝ているのは有名講師。でも、皆、すごく疲れて不幸そうな顔をしています。原稿を書いている人の方が元気がいい。でも、大抵は予備校のテキストにはまっている。私みたいに、他の出版社の原稿を書いている人は少ない。時々、隣の会議室で学科ごとの会議をやっている。それがいつも議論沸騰、すごく楽しそーなのだ。日本人は、本当に集まって会議が好きだな、と実感する。
 講師研究室は「大部屋」と呼ばれていて、嫌がる人も多いのだけど、大好きな人もいる。その中でも、英語のK先生は授業のない日は9時から9時までいつ見てもいる。コンピュータとプリンタとCDプレーヤーも置きっ放しだ。「もう、僕の部屋はいっぱいなので人が住めないんですよ」と妙なことを言う。何が「いっぱい」なのか、誰も知らない。とりあえず、1年以上家には帰っていないらしい。夜は、近くのカプセルホテルを定宿にしているらしい。ホテルの回数券を見せてくれる。ほとんど、ホームレスのノリなのだ。ここも2年近く利用しましたが、駿台予備学校は辞めたので、もう行きません。

 代ゼミには研究室なんてないし、困ったな、と思ったら、「うちの大学の図書館に来ませんか?」と親切に言ってくれる人がいる。東京医科歯科大学の司書で、元代ゼミの職員の方である。さっそく行ってみたら、やや狭いが居心地は良い。ちょうど医療関係の論文を書かなければならなかったので、3週間ほどこもって書き上げました。やはり、雰囲気って大事ですね。医療なら医学図書館がベスト。
 上には立派な食堂がある。そこに白衣の人がぞろぞろと集まる。初めて見ると、ちょっと驚く。しかも値段が普通の店より高い。学生食堂の値段じゃないのです。壁には、モルフォ蝶の飾りが並び、ちょっと成金趣味。ワシントン条約でもう輸入は出来ないはずなのになー。医者はやっぱり金持ちと見えます。しかし、ここも医師国家試験が近づくとうるさくなってきた。小声で試験のポイントを教えあう学生が増えるし、看護の学生なのか、女の子たちが集団で入ってきて、ペチャクチャしゃべる。

 そこで、結局、東大本郷の図書館にしました。ここは学生の時さんざんいたし、外見が戦艦大和みたいで権威的なので、あまり良い感じはしない。なるべく避けていたのだけど、こうなったら仕方ない。卒業生の特権で、利用させて貰おう。入ってみると、静けさでは今までで一番でした。コンピュータも使い放題。しかも夜遅くまでやっている。万事に鷹揚というか、自由というか。時々、vocabowのスタッフ(東大の院生が多い)も勉強にやってくる。近くの学生食堂で打ち合わせも出来る。コーヒーはまずいけど、結構便利なのです。
 しかも、ここの年齢層は、意外に広い。普通の学生風の人の他に、頭がはげ上がったおじさんや、明らかに退職した人がいる。彼らも卒業生なのでしょうね。読んでいる本はさすがに六法全書が多い。退職してから、司法試験に挑戦するのかな? ときどき「浄土教」の研究書とか。アカデミックというか何というか…。ただし、年輩の女の人がいないのが不思議です。女子学生はたくさんいるのだけどね。
 飽きたら、また別の場所に移るつもりです。上智大学の図書館がよいと元シカゴ大同級生のTaro-chanが教えてくれました。同好の士はいるものですね。「ラテン語の中世哲学の本もそろっているよ」。修道士たちもたくさんいるから、ショーン・コネリー主演の映画「薔薇の名前」の僧院みたいな雰囲気なのでしょうか? 楽しみだなー。残念ながら、私のラテン語の力はひどくて、文献を拾い読みするなんて芸当は出来ない。Taro-chan、書庫の裏かなんかでラテン語の個人補習してくれなきゃね。

 本を書いている限りは、しばらくは、こんな生活が続くのでしょうね。暫く書いて周りを見回す。皆、やや下を向いて、自分の世界に没頭している。人生の中で、一番長くいた場所は「図書館」かー。幸福なのか不幸なのか分からないけど、とりあえず平穏と集中が確保されているのは確かです。アジールという言葉を思い出します。本を読む人には悪人もそんなにいないみたいだし、今度の神田のReal Officeもそういう場所になると良いのですけどね。さあ、また原稿に戻ろうっと…。


11月6日

 今までずっとSOHO(これは日本の最先端の仕事形態です!)でやってきましたが、VOCABOWもついに外に事業拠点を構えることにしました。場所は、世界最大の本屋街神田神保町。出版に深く関わる我々としては、ふさわしい場所かもしれません。ところで、神保町と言えば、いつも思い出す詩がある。岩田宏という詩人の作品です。

 神田神保町の北500m
 52段の階段を
 25歳の失業者が
 思い出の重みにひかれてゆらゆらと歩いている

 最後の行は「歩いている」だか「昇っている」だか自信ないけど。高校生の頃、この詩を思潮社の「現代詩文庫」で読んでいて、「なんてやさぐれていて、カッコいい詩だ」と思っていました。だからというわけじゃないけど、神保町と言えばいつも曇っているイメージがある。そこの石畳の階段をだるそうに上っていく青年…。
 でも「52段の階段」ってどこにあるのですかね? 神保町に行ってみると、ただ真っ平ら。どこにも坂がないから、石畳の階段があるとは思えないのだけど。ただ我々のofficeはビルの4Fです。階段を上っていくので、今度数えてみよう。もしかして、52段あるのかもしれない。岩田宏の「階段」はここだったりして。

 VOCABOWはそこで何をするのかって? いろいろプロジェクトが目白押しです。
 まず、教室をやります。名付けてWriting House。私の尊敬する先輩である教育評論家・コンサルタントの加藤まさをさんも引っ張り込んで、論理的文章のサポートとコンサルティングをします。言葉というと、英語ばかりに血道を上げ、「問題な表現」とか「若者の珍奇な言葉」とかに矮小化されている日本語の状況を何とか正したい! 教育スキルを向上させたい人、文章がうまくなりたい人、論理的な表現力を身につけたい人…皆まとめて面倒みます。
 もちろん、一方で「論理的な英語」の講座もやります。私の後輩にして先生の一人でもある(妙な関係ですね)アンドリューが英語のWritingの方法も教えてくれます。この方法は意外に日本では知られていないはず。日英両方で、「文章」とは何か、「論理」とは何かを追求するわけです。面白そうだと思いませんか? しかも、下が出版社だから、本も更にスピード・アップして出せると思います。もっとも、これは私の原稿の上がり次第だけど…。
 今まではインターネットのe-schoolが主だったけど、これからは生身の教室もあるわけですね。対面授業では、インターネットの何倍もの情報を一時に与えることが出来ます。その意味でも、今回の講座は効果的だと思います。今までのがVirtual Schoolだとしたら、今度のはReal Schoolです。でも、Virtualが先でRealが後なのだから、普通の学校とは逆の順序でできていくのが面白い。

 ところで、その第一弾は12/26-30までの「法科大学院 集中講座」です。今の時期、適性試験に集中している人が多いけど、そればかりやるのは感心しません。VOCABOWの卒業生を見れば分かるけど、適性の点数が低くても志望理由書/小論文の出来が良ければちゃんと受かっている。これははっきりした傾向です。
 なぜ、そういうことになるのか? まず志望理由書をきちんと仕上げると、面接の時にも落ち着いて対応できるからです。自分がなぜ法律家になろうとするのか、その根拠を文章を書きながら自問する。それが繰り返される中で、法律・社会・自分という関係を的確に掴んでいく。当然のことながら、明晰な受け答えが出来て、印象がぐっと良くなる。この効果については、VOCABOWの過去の受講生が実証済みです。
 一方、小論文は社会についての視点を磨く練習です。私がシカゴ大学で繰り返し言われたのは、日本人は社会科学的思考が苦手だということ。個人の努力で何でもできると思いこんだり、逆に法律さえ作れば社会問題が解決すると思ったり、とにかく問題意識がナイーヴすぎるというのです。悔しかったけど、それは本当だと思います。とくに日本の若者は、社会への意識が低い。小論文を書くことは、社会の複雑さを理解することです。それができるようになると、志望理由書のレベルも上がる、という相関関係になっているのです。
 その意味で、適性試験の勉強も大切だけど、志望理由書/小論文の勉強はもっと大切です。しかも、「書く力」を身につけるには時間がかかるからです。あえて、この時期にスクールを開いて志望理由書と小論文の講座をやるわけは、そこにあります。

 書く力は基本的に身体技術です。だって、考えるだけでは文章はできあがらない。キーボードでも鉛筆でも、必ず手を動かして「文字」というモノにしなければならない。こういう技術はだいたいそうなのだけど、練習とその後のクールダウンが必要です。休んでいる間にこそ、習った知識が自分の頭脳と身体に無意識のネットワークを張ってくる。そうすると、前にはできなかったことが自然にできるようになるのです。
 私は俳優の勉強をしていたときに、体育大学の先生からマット運動を習っていたことがありました。一週間に一回、前方転回や宙返りなどのアクロバットを練習していたのです。私は、この運動が小学校から大の苦手で、練習しても全然できない。他の連中がすいすいやれるのにまったくダメです。久しぶりに劣等生の気持ちを味わいました。ところが、何かのことで二ヶ月近く練習を休まなきゃいけなくなって、久しぶりに練習に復帰したら、できなかった前方転回がスルッとできてしまった。「練習しない方がうまくなっているよ」と皮肉混じりにからかわれた。
 不思議な現象だと思いましたが、後で市川浩の本を読むと、こういうことはよくあるということが分かりました。練習するばかりが能ではないのです。練習を休むことの中に、運動の感覚が育ち、上達のきっかけになる。でも、一時期休めるためには、もちろんその前に始めていなければならない。しかも壁にぶつかっていなければならないのです。
 この原理は「書く力」でも同じことです。早く始めること。壁にぶち当たること。そして、自分の中に力が無意識に育つのを待つ時間を確保すること、これだけの余裕を取らなければならない。適性の後の一ヶ月では、こんなことはできないのです。来年のために、とにかく始めること。それが最良の方法なのです。そんなわけで、皆さん、神保町でお会いしましょうね! それはきっとあなたのためになります!