2005年12月
12月20日

クリスマスはなぜブルーか?

 クリスマスが近づいてきました。昨日、久しぶりに東大の図書館に行ったら、図書館の向かいの医学部教室に派手なイルミネーションがあって、ビックリしました。アーチ型の門のところが付いたり消えたりしている。今までこんなことはなかったんです。最近出来た東大ショップの中にもクリスマスツリーが飾ってあり、やはりギラギラと輝いている。

 驚いたのは、そのイルミネーションが青系だということです。そう言えば、去年ぐらいからの傾向だと思うのだけど、イルミネーションにブルーが目立って多くなったような気がする。ホワイト・クリスマスではなく、ブルー・クリスマスとでも言うのか? ふっと気が付くと、やっぱりクリスマスはブルーの電気だよな、と思っている自分がいる。

 昔は、クリスマスは赤のイメージだったような気がする。とくにサンタクロースが赤い服を着ていることもあって、赤と緑に金色がメインだった。そういえば村上春樹の小説「ノルウェイの森」の装丁は、赤と緑の地に金色の帯が付いていて、特別な包装をしなくても、クリスマス・プレゼントにピッタリだなーと感じたことを覚えています。実際、その装丁が当たってベスト・セラーになったとか。

 それに比べると、ブルー・クリスマスは渋い。渋すぎる。そして淋しい。東大ショップのツリーもブルーの照明に雪が置いてあるばかり。他には何もない。閉店した後は、人気もなく真っ暗な中にツリーだけが点滅している。ちょっと都会の怪談という感じです。

 私の家の近くにあるホテルには、天井がガラス張りの部屋があって、そこが結婚式場になっているのだけど、最近様変わりしました。前は熱帯植物の植木があったのだけど、最近は大きなイトスギの造花が四本、後は曇りガラスの箱の中に入った白い薔薇(?)が周囲を囲む。そのイトスギに青い照明がほんのりともる。皆「きれいだねー」と感嘆するけど、私に言わせると、まるで教会の裏にある墓地という風情なのです。

 このブルーの感じには鎮魂の雰囲気があるようで仕方がない。何かが衰えていくというのか、消えていくのを悲しんでいるというのか、とにかく派手に騒ぐのではなく、シンミリとした雰囲気に浸りたいという感じがします。経済の回復ばかりがマスコミでは喧伝されているけど、意外にここ何年かで日本人が受けた心の傷は深いということなのでしょうか? 

 私は、個人的には「消費文明の行き詰まり」を感じます。商品を買うことで満足を得る、という行動様式に、どこかで皆疲労感を感じ始めた。「いろいろ買ってもどうせ同じだ」という倦怠感が満ち満ちているのです。消費文明のお祭り騒ぎはもうないのです。ある者は死に、ある者は権力の座に登り、メンバー配置は大きく変化したかもしれない。しかし、期待していたようにはならず(何を期待していたんだろうね)、結局何も変わらない。

 鉄筋偽装事件も幼女殺害事件なども実は社会構造の問題であって、それが一番弱い環の部分から千切れて表面化しているだけです。それを監視して防ぐと言うけれど、膨大なコストがかかり、しかも抑止効果はかなり不確実です。何かやらければいけないと思いながら、やる前から徒労感がつきまとっている。

 ブルーの照明は、そんなことを思い起こさせる。新しいサイクル、新しい可能性が始まっているとは言うけれど、失望感の方が大きく、元気になりにくい。だから赤や黄色の照明が何となくうるさく、都会の空虚感をセンチメンタルに表すブルー・クリスマスがぴったりなのかもしれませんね。

 しかし、VOCABOWではそんなセンチメンタリズムに浸ることなく、クリスマスが終わった日から、REALな日常を始めます。そのために、家具もそろえて綺麗な事務所・教室に仕上げました。白を基調とした清潔な空間です。ブルーの風潮になんか、負けるわけには行きません。タブラ・ラサという言葉を知っていますか? 人間の心をたとえた言葉です。まだ何も書かれていない空間に新しい言葉が書かれる。我々は、その第一歩を踏み出したわけです。乞うご期待!

 なお26日から始まるReal School「法科大学院 集中講座」の締切が近づいています。お申込みはお早めにどうぞ!

12月14日

文章を書く準備とは何か?

 この頃、神田神保町のReal Schoolの準備のため、大わらわの活動を送っています。 Officeのあるビルは感じはいいのですが、ちょっと古いところもあるので、いろいろリニューアルが必要なのです。壁紙を張り替えたりするのは、専門業者に頼むのだけど、自分たちでやらなければならないことも多い。

 昨日は、先住者が残したスチール家具を処分しました。ご存じだろうと思いますが、都会ではモノを買うより、モノを捨てる方が大変です。下手にその辺に捨てると罰せられるのはもちろん、自分の住んでいる地区のゴミ捨て場に捨てるのにも色々制限があります。

 これは日本だけではない。実はゴミ問題は都市ならどこでも問題だったのです。私が今まで読んだゴミ問題の本の中で一番興味深かったのが、ヨーロッパとくにパリのゴミ問題を扱った本です。「花の都パリ」なんて言うけれど、実はゴミだらけの都市だったって知っていますか?

 ヨーロッパの人は、昔はゴミは外に捨てた。だから、道路はゴミの山。生ゴミが腐ってすごい臭いだったらしい。それを消すために、消臭剤として香水が開発された。もちろんネズミも大発生し、中世のペストの流行もゴミが原因だ。ブルボン王朝の王様には、夜遊びが好きでパリの街路の生ゴミで滑って、頭を打って亡くなった方もいるらしい。フランス語でゴミ箱は「プーベル」と言いますが、これはゴミ収集のシステムを造ったパリ市長の名前を称えたのだとか…。相当大変な問題だったことが分かりますね。

 さて、我々はどうしたか? スチール家具を捨てたいとリサイクル業者に頼んだら、まず何年使ったかと聞いてくる。10年ぐらいだろうと答えると、それではリサイクルできない。粗大ゴミ扱いになるという。料金は1個3000円以上。それにトラック代と運びの「職人」(運ぶのに職人が必要なのか!)とドライバーの日当、さらにofficeは3Fと4Fだから、下ろすのに手間で高所手当が必要になる。全体で12〜15万円。あきれはてました。でも、これが普通らしい。下の出版社の社長なんか、1階の2tトラック一杯分の紙ゴミを出したら10万円と言われたという。

 しようがないから、近くのレンタカー屋からトラックを借りて、自分たちで家具をおろして積み込んで、都内のクズ鉄屋さんに持っていった。そこでは、トラックの荷台にあるモノを大きなクレーンの電磁石で吸い上げるのです。磁石がトラックの荷台に近づくと、苦労して積んだロッカーやデスクがヒョイヒョイと空中に浮き上がってくっつく。それをくっつけたまま、磁石が空中を移動して、置き場に運ぶ。その様子がUFOの離着陸みたいで、すごく面白い。

 琴欧州そっくりの目が澄んだ外国人が、ニコニコしながら、誘導してくれました。終わるとまた出口まで先導。帰るときには、最敬礼。何だか、すごく一生懸命働いている感じがして、幸せな気持ちになりました。こんな場所が東京のど真ん中にあるんですね。結局かかったのはレンタカー代と保険料で1万円。10分の1以下で済んでしまった。これが経済のからくりですね。

 正直言うと、私は会社の事務オフィスよりも、こういう場所の方が居心地がいい。妙な官僚機構ではなく、具体的なモノを扱うという直接性が満ちているからです。養老孟司が現代は「脳化社会」だと言っていたけど、ほとんどの人々はああだ、こうだと言葉は言うけれど、こういう肉体的な現場に手を出そうとしない。

 具体的なモノを扱う現場は、キレイゴトではうまく行きません。計画する。思い通りに行かない。試行錯誤する。新しい方法を考える。そういうことの繰り返しです。初めは、段取りがうまく考えられないけど、経験を積んでくると、うまく計画できる。いろいろなトラブルをあらかじめ計算して、起こってもある方向性が出せるようになる。

 大切なのは、プロセスに一定の自由度を持たせながら、しかし全体としてはきっちりとコントロールされているという状態に持っていく案配です。細部まで完全に規定するのではなく、いくつかのオプションを考え、現場で選んでいく。この現場での工夫というか、自由がないとやっていて発見がなく面白くない。しかし、計画を立てないとメチャクチャになる。

 これは、文章(他の表現手段も実は皆そうなのですが…)でも同じことだと思うのです。文章を「脳作業」と思ったら、大間違いです。「書く」というのは手作業でもあります。さらに、「文章を書ける」という身体全体の状態に持っていく調整作業でもあります。そういう状態にするのに、2−3時間かかったりする。資料を調べたり、構成を考えたり、キメの言葉をイメージしたり、あるいは考えるのをあきらめて、その辺を歩き回る方が名案が思い浮かんだりする。だから、「書ける状態」になったときが、とても貴重なのです。

 こういうことを何度も繰り返すと、どういうときに自分が書けるようになっているか、今創造性が高まっているかどうか、体感で分かる。あるいは、それほど創造性が高まっていなくても、「このレベルなら書ける」というレベルが分かってくる。これって、陸上の選手が「今、このタイムなら走れる」と感じる状態に近いのではないでしょうか?

 つまり「書く」ことも、そういう具体的な肉体作業なのです。情報を仕入れ、マニュアルを分かればいいのではない。その情報とマニュアルが、自分の身体と結びつかなくてはならない。そこが分からないから、「何回書けば、合格できますか?」なんて質問も出てくる。でも、「何回走ればマラソンで3時間を切れますか?」なんて質問に答えられると思いますか?

 それぞれの身体や顔つきが色々であるように、「書く」ための身体状態も色々なのです。それを調整して書ける状態に持っていかなくてはならない。マラソンで3時間を切ることにしたって、それなりの準備とトレーニングが必要です。足の長い人と短い人では、方法だって努力の量だって違う。でも、それを「不平等」とは言えないですよね。「足の長さ別マラソン」なんて競技が面白いと思いますか? だいたいの目安はあるけど、目標を達成するのに訓練の細部は違うのが当たり前です。
 
 だから、文章が苦手だという意識があるのなら、なるべく早く始めるべきなのです。「いつから」などと言わず、思い立った日からとにかく始める。今年は忙しいから来年から、なんて悠長にやっていると、時間はいくらあっても足りない。自分でスケジュールを立てられないのなら、強制的にスケジュールを立ててくれるところに頼る。これも鉄則です。苦手なことは誰でも後回しにする。だから、誰かの立てたスケジュールに従う。精神的には、こちらの方がまだ「楽」なのです。

 Real School「法科大学院 集中講座」も、今年中に助走を付けておこうという試みです。私は、インドを旅行したとき、ダライラマの弟子であるアレックスというリトアニア人から、チベット仏教の修行の仕方を聞いたことがあります。

 さあ、修行しようと言って、すぐ始めてもダメだ。心をガラスのコップだと考えると、今まで生きてきたことでそのコップにはたくさんの汚れが付いている。そこに水を入れても、汚れた水になるだけだ。まず、コップを磨いてピカピカにすること。それから、水を注がねばならない、と言うのです。つまり、何事も始めるにはマイナスからのスタートになるわけ。まずゼロあるいはニュートラルの状態に戻す。それをやっておかないと、いくらやっても成果は出てこない。含蓄深い言葉ですね。

 Real Schoolを、この忙しい年末に行うというのは、そういう意味なのです。今までに蓄積された文章の癖、身体の癖をまず取って、「文章が苦手」という状態をなくす。それが、新年からのフレッシュ・スタートになるのです。それは一定のプロセスを経なければできない。Real Schoolを開講するのに教室・officeの片づけと準備が必要だったように、「文章を書く」ことも片づけと準備が必要。そのプロセスを一気にやってしまいたい人は、迷っていないでReal Schoolに早くおいでなさい!

 注)「法科大学院 集中講座」の申込み受付は12月25日までですが、定員に達した時点で締切にいたします。お申込みはお早めに。 


12月10日

 師走も半ばですね。忘年会をあちこちでやっているらしい。社会人には忙しい季節ですね。

 忙しいと言えば、このごろ、法科の適性試験の勉強について、なかなかできないという声を聞きます。適性試験は、ある程度集中してガーッとやらなければならないのですが、その時間がとれないのだとか。しかも、勉強する内容が「知能テスト」みたいで、現実の法や社会と関係がない。どうも意欲がわかないのだというのです。

 とくに社会人は、他にもいろいろ周囲のことを考えねばならない場合が多い。家族のこと、仕事のことなど、具体的な問題に忙殺されてしまう。そういうときに、適性試験などの問題に、とても集中しにくい。

 気持ちは分からないではありません。適性試験の本は、私も出していますが、どうしてもテクニカルな解説が多くなる。テクニックをまず覚えて、それから応用できるように何回も練習しなければならない。これが自分の目指す仕事とどう関係するのか分からない。しかし、必要だからやらなければならない。

 その苦痛たるや、「外国語単語の記憶」に匹敵すると思います。単語記憶もつらい作業ですね。覚えてもすぐ忘れるの繰り返し。学力が上がったのか、どうなのか、さっぱり分からない。それでも、他の方法はないからやるしかない。でも能率が上がらない。自分の「頭の悪さ」を実感して絶望的になる。12月のこの時期に、そんな気分になるのでは最低です。

 こういう場合には、気分を変えて別なことをやった方がよい。外国語なら、単語ばかりやっていないで、本を読んでみるとか、その外国に行ってみる、とかです。そうすると、自分が何のために外国語を学んでいるか、最初の所に戻る。外国語に一生懸命になる気持ちが出てくるのはどういうときか? それはもっとしゃべりたかったー、悔しい、という気持ちです。

 法科大学院やMBAの場合はどうか? 自分が一番やりたかったことを確認するのですね。一番良いのは、ステートメントや研究計画書に取り組むことです。なぜこの職業に就きたいのか、何をしたいのか、とにかく書いてみる。ぼんやりしているところは、関連した本を読んでみる。そうすると、イメージもわいてくるのです。しかも、この作業をしっかりやっておくと、最終的に面接の所でも躓かない。だって、志望動機が明確になっているわけですから、気持ちに揺るぎがないのですからね。確信を持って答えられるというわけです。

 私が、ステートメントや研究計画書を早く準備せよ、と言っているのは、その意味があるのです。自分の勉強を支え、自分の仕事のイメージを明確化する。それがハッキリしたとき、自分の未来の姿もいきいきと見えてくるのです。そうすれば、単調な勉強のときだって、十分自分を支えられる。

 もう一つは小論文ですね。これも早く始めるべきです。文章はなかなかうまくならないだけでなく、文章を書くときはとりあえず我々は熱中するからです。一つ3時間かかった、5時間かかった、などという例はざらです。同じ時間を適性試験の勉強に割くのは大変な努力を必要とします。集中できないなら、いっそのこと、その分、別な技術を向上させた方がよいのです。

 今までのVOCABOWの受講生の中では、適性試験の点数が比較的低くても、有名校に受かった人は多い。とくに適性・適性と呪文のように唱えて何も出来ないでいるより、ずっと効果が上がると思いますよ。皆さん、この時期、積極的に文章を書くようにしましょうね。

 手前みそかもしれませんが、VOCABOWで年末に行う「法科大学院 集中講座」は、その意味でも有効だろうと思います。MBAの方も今回の「法科大学院集中講座」の小論文プログラムは社会科学一般のテーマが多いので十分に有効だと思います。社会人の方は特に、新年からのリズムを作るためにもお勧めしておきます。


12月8日

 久しぶりに実家に電話をかけてみたら、驚きました。妹の結婚相手のH君が仕事を辞めたというのです。クラシック音楽を聴くのが趣味の物静かなジェントルマン、土日も返上して黙々と仕事をこなすという仕事人間。仕事を辞めるなどと思い切ったことをするとは、思いもよりませんでした。

 妹夫婦は病院勤務の医者です。とくに彼の方は某有名国立大学の××科部長でしたので、そのままいけば病院の要職につけたはず。世間的には、人もうらやむエリート職でしょうね。それがあっさりと辞めてしまうのですから、病院の実情は深刻なようです。

 この頃、病院勤務の医師が次々に職場を辞め、開業ラッシュになっていることはご存じでしょうか? 官から民への移行? 開業医の方が収入が高い? たしかに、それもないわけではありません。この頃は、資金を出して医師に開業させるというビジネスが出てきていますし、勤務医の年収が低いのも確かです。私が直接聞いた話だと外科医で年収600万円という例もありました。

 しかし、一番大きい理由は医療過誤への恐怖です。大きな病院で扱う患者は重症の人が多い。そのため、ちょっとしたことで容態が急変して死亡する。ところが、そういう場合、この頃はまず医療過誤が疑われるのだそうです。弁護士だけでなく、警察も次第に熱心になってきたので、何か疑われる事件が起こると、積極的に介入してくる。

 私の敬愛する(この頃このフレーズが多い。でも尊敬すべき人は周囲を見渡すと意外に多いのです。その意味で私は幸せですね)虎ノ門病院の小松秀樹先生に拠れば、このときの警察の対応が病院の実情と全くなじまないのだと言う。医療は複雑なシステムであり、過誤の大半はシステムエラーだというのです。つまり連絡ミスだとか人員配置の不備だとか、全体の事情を考えると個人の責任を問うのは酷なものが多い。

 しかし、警察は、犯人はこいつだという形で事件を決着させようとして、誰かに責任を集中して負わせる。マスコミもそういう「明確」な決着が視聴者に受けるから、その線でストーリー化するし、キャンペーンでガンガン煽る。そうすると、軽微なミスに関わっただけで「免許剥奪」「禁固×年」などという大変な事態になるというのです。組織も個人も大きな傷を受ける。

 当然、病院側でも過誤が起きないようにシステム構築を見直さねばならないし、対策も立てねばならない。H君のいた大学病院でも、診療行為そっちのけで、会議が連日連夜続いたのだとか。H君はそれですっかりイヤになったらしい。たとえ病院の幹部になっても、こんな対策ばかりやらされ、何か事件が起こると過大な責任をとらされるのでは、医師になった意味がない。病院の幹部になんてなりたくない。それで独立を真剣に考えだしたというわけです。

 実は、こういう事態は予想されていた。たとえば、イギリスでは医療改革が進行したおかげで、医療機構がガタガタになり、医療システムが機能不全を起こしているらしい。病院の人員が不足しているので、医療行為も進まず、ガン患者の治療が一ヶ月待ちなど当たり前。ブレア首相が乗り出して、いろいろやっているのだけど、ちっとも状況は改善しない。

 中でも、医師の意欲の低下は深刻だそうです。医師や法律家という職業の基礎は使命感です。だから、長い訓練にも耐えるし、長時間労働もものともしない。社会を良くするために献身する。ところが、その使命感が破壊されてしまう。そのため、労働意欲をなくすわけです。英語のundermineという言葉をご存じでしょうか? ダメにする、基礎を堀崩すという意味なのですが、この事態にぴったりの言葉ですね。

 一頃、「自己責任」という言葉が流行しました。個人でやったことの結果に対しては社会は救済しない、ということです。しかし、これはすべての事象を個人の責任に分解できることを前提にします。でも損なことが本当に可能なのか? これが行き過ぎると、社会全体が関わっていることなのに、無理にでも「責任ある個人」をでっち上げ、それに罰を与えることで社会的に決着させるということにもなりかねない。

それが徹底するとどういうことになるか? 個人が社会に対して完全に信頼感をなくす。社会から害を受けることを前提に行動する。それは結果として、社会的に大きな損害を生みます。

 私が前にダイビングに凝っていたときに、レスキュー・ダイバーという資格を取ろうかな、と思ったことがあります。人工呼吸のやり方だとか、怪我の手当だとか、事故へのとっさの対応の技術を学ぶわけですね。ダイビングは意外に危険だから、役に立つと思ったのです。

 そしたら、先輩のダイバーから「やめておいた方がいいよ」と言われた。なぜなら、溺れた人に人工呼吸などをしてあげて、奮闘むなしく死んでしまったなら、死者の家族から「人工呼吸がまずかったんだ」と告訴されかねないと言うのです。彼も資格を持っているけど、事故が起こったときには黙っているつもりだとか。たしかに理屈としてはそうだけど、その冷酷さに慄然としました。

 こういうときに、告訴の危険を冒しても、敢然と助けようとするのが医師のメンタリティだと思います。また医師の資格という特権を持っているのだから、その結果が悪くても仕方ない、と周りも納得する。しかし、その「特権」を完全に剥奪して「自由化」してしまったらどうなるか? 責任を追及したらどうなるか? 医師も一般人と同じような行動をとりかねない。損をするのは、患者の方ではないのか? 前述した小松さんは、これを「立ち去り型サボタージュ」と名付けています。言い得て妙ですね。

 もちろん、私には医療過誤を全面肯定する意図はありません。実際、医師の中には技術や倫理が劣る人間がいることも確かです。近頃判決が出た「富士見産婦人科事件」なんて、医師の特権を利用して健康な人の臓器を取るなどという本当にひどい事件だった。この事件を「犯罪」として処理できなかったことが、医療全体への不信のイメージをまき散らしてしまったと思う。

 しかし、医者の大部分は「富士見産婦人科事件」に関わったような人ではない。それを「犯罪者予備軍」として見るような風潮を社会に広めてしまったら、せっかくの技術が応用できなくなる。実際、医療現場ではなるべく保守的な治療を選ぶように、病院経営側からの締め付けがキビシイといいます。何もしないで死んだ方が、何かして死ぬのより良い、という選択ですね。その意味で、典型的な「立ち去り型サボタージュ」が組織的に行われています。昨今の医療の状況は危険な状況に突入しつつあるようですね。

 H君は病院を辞めて、自分で開業するつもりだとか。真面目な彼のことだから、きっと評判がいい地域のお医者さんになると思います。でも、そういう小規模医院の競争もキビシイみたいです。ある地方の中都市などでは、100mおきに医者が開業しているとか。日本人は病院に頼りすぎだ、もっとホームドクターが必要だといわれていましたが、皮肉な形でそれが実現しているようです。けっして良い進行とは言えないけど、社会は、こういう矛盾した形でしか変化しないという証拠かも知れません。

12月5日

アネハの思い出

 近頃、「アネハ」という名前がやたらニュースで出てきた。何だか、気になって仕方がない。というのは、私もアネハという名には強烈な思い出があるからです。

 あれは、私が中学校1年生のときだったから、ウン十年も前のことですよね。当時私はテニス部にいたのですが、そのときのコーチがアネハという。当時20歳ぐらい。180cmを超える長身。蜘蛛みたいにひょろ長い手足。テニス部の先輩だったのですが、高校を中退して、職業は牛乳配達をしていました(当時は新聞と同じく、牛乳も毎朝配達してくれたのです)。それが、中学のテニス部のコーチをしてやると申し出てきた。テニス部顧問は、奇特な人間が出てきたと大喜び。全面的に練習を任せた。

 そうしたら、彼は張り切って猛練習を開始したのです。隣にあった神社の150段もある階段を毎日10回上り下り、100mのダッシュ10本。さらに腹筋100回。腕立て100回。ウサギ跳び200mなどなど無茶苦茶きついメニューが課される。私は腹筋のやりすぎで腹筋の痙攣を起こし、3日間腰が曲がったまま学校を休んだくらい。

 職員会議でもあまりの過酷さが問題になったのだけど、「テニス部のためを思って」という彼の「至誠」は疑えないということで、コーチ続行。毎日暗くなるまで、練習は続きました。夕闇の中、顔を真っ赤にして次々にボールを打つ「アネハ」は取り憑かれたようで、赤鬼のように見えたものです。

 部員の方は、「アネハ」が打つ球を走って追いついて打ち返す。打ち返すとまたコートの反対側のギリギリのところにアネハはボールを打ちこむ。それをやっとのことで返すと、また反対側。周囲は「がんばれ!」「がんばれ!」と声を張り上げる。野球で言う千本ノックという奴。終わると「ノック」を受けた部員は倒れて吐いた。運動部だから、皆こんなものだと思っていたけど、ちょっと常軌を逸していましたね。

 今考えると、アネハも微妙な時期だったのだと思う。高校中退して、先の見込みも立たない。そんな中で中学のテニス部のコーチに入れ込む。注ぎ込む努力に比例して、後輩たちは強くなる。彼にとっても自分の力を実感し、自信を取り戻すきっかけになったのでしょうね。私はその辺の事情はよく分からなかったけど、あのときの鬼気迫る表情は、彼のどうにもならない鬱憤とも対応していたという気がする。

 結局、私はあまりの辛さについていけずに2年生の夏休みであえなく退部。一方、テニス部は快進撃を続けて、県大会で優勝するまでになった。しかし、「アネハ」はその功績をほめられることもなかった。部員に暴力を振るったとかで、職員会議で問題になってコーチをクビになったのです。ふと気が付くと、彼が牛乳配達の途中で、グラウンドの外から、じっと練習を見つめていた姿が印象的でした。

 ところがTVを見ていたら、同じ名字の人が出ている。しかも、私の中学があった宮城県の出身だとか。まじまじと顔を見てしまいました。しかし、その顔はつるんと白く、あの「赤鬼」のような危機的な表情がどこにもありません。自分のやったことを自覚しているのかいないのか、ほとんどにこやかですらある。

 その表情を見ているうちに、この顔はどこで見たという気がしてきました。1987年に起こった「幼女連続殺人事件」の犯人Mくんです。子どもばかり、5人ほど殺した人です。三日坊主で前にも書いたと思うけど、彼もとても柔和な顔をしていました。現場検証の時の映像がTVで流れたのだけど、愛想がいい感じ。裁判では、「自分のビデオを返して欲しい」と言い続けるなど、自分のやったことの社会的意味に対する感覚がない。結局精神異常と言うことになって、裁判は中止になった。

 今度の「アネハ」の表情も、それに似ている。赤鬼の「アネハ」が葛藤とドラマを体現し、周囲と関わることでそれを何とかしようともがいていた姿がありありと見えたのに対して、今度の「アネハ」は葛藤がない。「圧力を受けたからやった」などと非主体的で、弱々しくさえあります。

 これだけで一般化するのはちょっと気が引けるけど、いったいどちらが害かは明らかですね。建築士の「アネハ」の害は、赤鬼「アネハ」の比ではない。彼が偽装したマンションに住むしかない人々(相対的に社会的弱者と言えますね)に大きな損害を与えるばかり。赤鬼の「アネハ」のように、自分と社会との葛藤から来る鬱屈をそのままに直情的に表すのと違って、建築士の「アネハ」は葛藤がないだけ、気の毒であると同時に危険な感じがします。社会と自分という緊張した関係が成立せず、自分の中に社会の非情な原理がずるずると限界なく入り込んでいる。

 そう言えば、建築主のH社とかK社、あるいはC経済研究所などの面々は、皆すごい面構えの人たちです。「悪辣」と言ったらいいか、「やり手」と言ったらいいか、とにかく修羅場の中で人を出し抜いてきたという顔をしている。両方を見比べると、建築士の「アネハ」さんはあの人々の顔の迫力に操られて、ついつい誤魔化しをやってしまったような気がする。その意味で言うなら、性格が弱い、あるいは自分がボンヤリしているということにも、「悪」は成立するわけですね。

 それに比べれば、赤鬼「アネハ」さんは、個人が確立していた古典的な近代人といえるかも知れない。それを思うと、なつかしいな。よく考えれば、私の鉄筋ならぬ基礎筋力を作ってくれたのはアネハさんなのです。あの成長期の中学時代に、ひ弱だった私はみるみる頑強な身体に成長できたのです。今はどうしているのでしょう? きっといいおじさんになっていると思うのだけど、誰か消息を知りませんか?