2005年7月
7月27日

 法科大学院では、もう早稲田の出願が始まっているようで、vocabowの受講生でもそろそろ添削を終わっている人が出始めています。間に合って良かったですねー。

 何回も苦しい添削に耐え、書き直した人はたいてい「文章を書くのが苦にならなくなった」と書いてきます。これは私たちにとってはとてもうれしい! そうなんです。書いたことがない人は、文章を書くのは大変なことだと思っている。たしかに訓練は必要です。でも、それを超えると自己表現の道が目の前に広々と拡がっているわけ。しかも、そのメリットは一生続く。

 今、私は予備校で、高校でサッカーばかりやってきた生徒の指導を週一回しています。初めは500字書くのさえ苦痛そうだった。それが今では、原稿用紙6枚書いたけど見てほしいと持ってくる。たった3ヶ月の間ですよ。人間が努力すると、進歩はめざましいですね。必要は能力を作るのです。

 さて、早稲田の課題2には今だに苦しんでいる人もいるみたい。「道徳」なんて言ったって、バスや電車で高齢者に席を譲ったことぐらいしかなくって…なんて言ってくる。皆「道徳」というと小学校で習った「公衆道徳」を思い出すらしい。

 違うんです! 道徳とは英語でmoralと言います。モラルとは、自分がいかに行動したらいいか、という原理のことです。その原理はもちろん「善」以外にはない。真善美というでしょう、あの「善」のことですよ。人間が行動するときは、必ずこの「善」を基準にする。とりあえず、自分にとって善いことをしようと頑張るものなのです。

 もちろん、その「善」の種類にはいろいろある。「利益」だって「快楽」だって「善」の一つですよ。功利主義という哲学では、自己の快楽こそ善なのです。もちろん、各自が勝手に「快楽」を追求していたら、ある人にとっての「快楽」が別な人にとっての「害悪」になる場合があるから、それは禁止されねばならない。これが、実は我々の自由主義社会の原理です。

 こうやって共通の善が生まれた場合に、それが「道徳」と呼ばれるのです。しかし、今言ったように、「道徳」とは簡単ではない。その成立の初めから、対立があるからです。ある人にとっての「快楽」が別な人にとっての「害悪」という対立です。そこを調整して、皆が納得の出来るものを作らねばならない。いわば、「道徳」とはそういう対立と調整の現場から出てきたものなのです。「高齢者に席を譲る」という道徳だって、考えてみれば自分がいつか高齢者になるのは当たり前だし、身体が動きにくくなったときに周囲から邪険な扱いをされるのはいやでしょう。だから、「高齢者に席を譲る」のは善なのです。

 早稲田の問題は、そこを突いている。善とは対立の調整であるという元々の場所に戻って、人間は、あるいは私は何をしたらいいのか、という状況を思い出させようとしている。法曹の仕事が悪を裁くことだ、と簡単に思っている人がいるかもしれないが、大きな間違いです。現実に最もよく起こるのは、双方とも正しい(と少なくとも思っている)という状況です。それを調整するのが、法曹の役目だったりする。だったら、そういう経験をしているのが当然だし、そういう状況に敏感であるのが当然なのです。

 前にも書いたけど、この対立とはディレンマとして表れる。あちら立てればこちら立たず、という板挟み状況ですね。二つの行動原理の間で、どっちを取ったら善いか、悩みまくる。ここがポイントなんです。皆が何を書いてきたか、今は書けないけど、そのうち合否が決まったら匿名でいくつか例をだしてもいいですね。仕事でも人間関係でも、ちょっと探せばいろいろ出てくるのですよ。

 題材がない、などという人は、「道徳」に妙な思いこみがあることが多い。原理に戻って考える、これが一番の近道なんです。


7月17日

 作日は山形西高校に講演に行ってきました。この前の川越女子高校と同じく、女子高校です。何だか、この頃は女子高校に縁があるみたいです。というより、今だから言うけど、私はほとんど女子高校を遊び場にして育ってきたようなものです。母親が某女子校で30年余りも教師をしていたおかげで、女子校のインフラは目一杯利用させてもらいました。
 夏には、そのころ小学校ではまだ珍しかったプールに入って泳いでいたし、母親が日直の時は、音楽の先生の娘と学校の廊下を走り回っていたし、なんと修学旅行に一緒について行ったこともありました。高校生の「お姉さん」たちには、可愛がられたものです。それが今は、彼女らの何倍かの年齢となって、教壇から「小論文の書き方」なんか教えている。あのころの「お姉さん」だと思っていた高校生は、何とも子供っほくて可愛らしい。あーあ、時代は変わるもんですね。
 
 さて、早稲田大学ロースクールから第二番目の課題が発表になりました。

「これまでの人生において,自らの道徳観に照らし,どう行動すべきか悩んだことがあると思います。その状況を説明し,その時に下した判断が妥当であったかどうかについて,1500字以内で述べてください」

 面白い問題ですね。少なくとも去年の新聞の問題よりは、ディレンマ状況であるだけ、法科っぽい。何を書いたらいいか悩んでいる、という人が多いけど、いろいろあると思いますよ。 ポイントはもちろん「自らの道徳観に照らし,どう行動すべきか悩んだこと」ですよね。まず「自らの道徳観」をどう規定するか、が重要です。公平とか正義とか寛容とか平等とか、いろいろ考えられる。
 もう一つは「どう行動すべきか悩んだ」です。つまり、そういう道徳観に反するような出来事があったのに、自分の信条通りに行動できない、あるいはある出来事を、善悪どちらに判断していいか分からなかったというような事情があるわけですね。それが何か、ということです。
 すぐ思いつく例が、「いじめ」とか「リストラ」などでしょう。前者は集団の気分と正義の矛盾、後者は会社の利益と個人の生活の矛盾、あるいは友人から「悪事」を勧められた、などという状況も友情と道徳観の矛盾があるかもしれない。社会科学的な発想でよくあるのは、「救命艇」問題。時間やお金など限界があるために、恣意的な基準で誰かを切り捨てねばならない状況です。職場ではしょっちゅうあると思います。あるいは、去年、関西学院で出題された「内部告発」の問題なんかも入るかも知れませんね。ちょっと抜粋してみましょう。…の箇所は中略してあります。


2004 関西学院大[未修]90分

 Kさんがある洋菓子製造販売会社のあるチェーン店に勤め始めてから,3ヶ月がたった。よく知られたチェーン店でその店のことは子供のころから知っており,その店に就職できたことをKさんは誇りに思っていた。…
 しかし,ある日Kさんは,とても困ったことに気がついた。…たくさんの種類のケーキは毎日どれか必ず売れ残った。…そのケーキを工場に持って帰って,生クリームのところを塗り替えたりして,翌日には,新品のものと区別された印がついて戻ってきていたのだ。…
 お客様には「生ものですから本日中にお召し上がりください」というシールを貼って売っているのに,実際には2日間,あるいはひどい場合には4日間手直ししつつではあるけれど売り続けることがあったのだ。…Kさんはこういうことを承知でお客様が買っていればいいのであろうけれど,全然知らずに買って行くのだし,味が落ちたケーキを売るのには良心がとがめた。…(後略)

という問題ですが、ここからKさんは内部告発の手紙を書くとすると、誰にどういう手紙を書くべきか、というのです。なかなかスリリングな展開ですね。
 社会的な問題ではなく、実際に自分自身が関わった問題でなければならない、というところが重要です。自分の体験にも、上に書いたような分類に引っかかることが、何か必ずあると思いますよ。


7月11日

 「スターウォーズ、エピソード3」の初日を見てきました。いやあ、面白かったですね。私は、エンタテイメント系はあまり誉めないのだけど、実は結構好き。昔はやった「ダイ・ハード」なんてmy favoriteなのです。

 第一作から数えて、30年あまり。観客は大部分が若いカップル。30年前の私とほぼ同じ年頃です。きっと第一作なんて見ていないのだろうなー。同じ画面を見ながら、私とはきっと感じていることはずいぶん違うのだろう、と感慨に耽ってしまいました。

 今回は、まったくダース・ベイダーの物語です。主人公のアナキンが「悪」に落ちていく様子がうまく描かれている。コンセプトは仏教的世界観です。何者にも執着することなく、真理を求めていく。昔、カリフォルニアのヒッピーたちの間で、こういう禅的な思考が流行ったみたいだ。ルーカスもそういう思想の影響を受けているんだよね。30年前はこの仏教的な原理がそのまま信じられたけれど、現在の世界ではちょっと雰囲気が違う。今回の映画では、そういうジェダイの騎士の行動原理に反して、アナキンが愛する女性を守ろうとする人間的な行為によって、かえって暗黒に落ちていく。なかなか複雑なストーリーです。

 仏教では、「愛」を罪としていることはご存じでしょうか? 愛するとそれを失うのを恐れて、どうしても執着する。その執着が真理を見誤らせるわけです。愛を神聖化することはキリスト教的な世界観としては正しいのに、仏教はそこに苦しみと圧制を見る。アナキンは女性を愛したばかりに、その罠にはまっていくわけです。これは典型的な悲劇と言ってよい。監督のルーカスも年を取って、人間理解が深くなったのでしょうね。悪役の魅力ということで言えば、宮崎駿と共通するところがある。

 とくにアナキン役の役者が好演です。ちょっと神経質そうで、線が細くて敏感な感じ。それが善と悪の間で心揺れ動く様子が、表情と姿勢に如実に表れる。今までにないキャラクターですね。息子のルーク役のぼさっとした単純な感じと好対照をなします。善の中に食い込む悪、という主題は、矛盾に矛盾を重ねる現在の世界情勢と何だかシンクロしているようですね。一見の価値あり、です。

7月4日

 東京では、数日すさまじい暑さだったのが、また梅雨が戻ってきたみたいで毎日毎日雨が降り続いています。みなさまの地方はいかがですか?

 昨日、ようやく「法科大学院小論文 発想と展開の技術」を書き終わりました。たぶん7月末には店頭に並ぶと思います。アマゾンでは、もう予約受付中ということです。

 全体は、書き方の原則・法と倫理の問題・社会科学の発想と時事問題への応用というように分かれていて、ロースクールの小論文試験でよく出てくる内容がほとんど含まれています。読んでいくうちに、小論文の書き方とそこに必要な知識が自然に身に付いていくように工夫しました。小論文は苦手な人はPART1から、一応基礎が身に付いている人はPART2、PART3を中心に読んでください。きっと目からウロコの情報が含まれているはずです。

 小論文の書き方については、法律系の予備校で論争があるらしくて、T予備校の先生は「予備知識なんかいらない。情報はすべて課題文に書いてある。小論文は論理だ」と言っているらしい。L予備校の先生は「小論文を書くには、論理より予備知識が大事だ」と言う。

 でも、私に言わせれば、小論文を書くには両方いるのです。論理もいるし、予備知識もいる。なぜなら、議論を正確に進めるには論理が必要だし、他人と違った面白い内容を書くには、代表的な論点を知っていなければならないからです。片一方だけで書けるなんて、無謀な言い方ですよね。

 論理と言っても、記号論理学のようなものはいりません。伝統的な論理で十分です。適性試験の勉強をしている諸君なら、十分その力は持っているはず。一方の予備知識は法律解釈学はまったく不要。私の経験では、なまじ法律解釈の知識があると瑣末な解釈に入り込み過ぎ、よい文章にならない傾向があります。既習者のみなさん、気を付けましょうね。

 でも基礎的なもの、たとえば法哲学は知っておいた方がよい。法哲学というと面倒そうけど、簡単に言えば「価値についての哲学」あるいは「公共哲学」moral philosophyです。「正義とは何か?」「公平とは何か?」「平等とは何か?」「善とは何か?」というような問題を追求するわけですね。ロースクールが出来たおかげで、今までの法学部で教えられていた基礎法と法律解釈のうち、後者はロースクールへ、前者は法学部へと棲み分けがなされているようです。とくに東大では、今までロースクールが出来て、法学部の危機だと言っていたのが、今や法学部は基礎法の天下だと言うことで、基礎法の先生はむしろ喜んでいるそうです。この基礎法の先生が、どうもロースクールの入試問題を出しているらしい。

 だから、出題される問題もそういう系統が多くなっているし、そういう知識なしでは深い議論が出来にくいわけ。その辺を講義したのが本になっています。浅羽道明『教養としてのロースクール小論文』(早稲田経営出版)です。これはなかなか面白い本なのだけど、400ページ以上もあって読み通すのが大変です。それに、背景知識はくわしいのだけど、それをどうやって解答に応用するか、のところが不明瞭です。

 私の本では、背景知識を簡潔にまとめつつ、それをどう解答に応用するかをくわしく書きました。結局、知識を知っていても、それを自分の議論に生かせないと仕方がありませんからね。

 さて、vocabowで連載してる仁賀さんの「シニアのロースクール日記」が、いよいよ佳境に入っています。60歳を過ぎて、勉強に一生懸命になっている姿が実に生き生きと描かれています。女子学生に「勉強を教えてほしい」と昼食に誘われた話など、まるで青春の一こま…充実していて幸せそうです。現代は、ともするとお金・お金の世の中ですが、やはり一番楽しいのは自分が集中して何かを追求しているときですよね。

 定年後に残された時間はかなり多い。その時間をどのように充実して過ごすかは、長い人生の中で重要な課題です。働き盛りの世代の人たちが経済原理で縛られてしまうとき、シニアの意志ある人たちは別の原理で生きられるのかもしれません。シニアは、今までの仕事を中心として蓄えてきた経済的、人的資源をもとに、新たな社会との関係を作り出す可能性を秘めているわけですね。