2005年8月
8月27日

 この間、新聞を見ていたら、ある記事にビックリ仰天しました。こんな記事です。

■少年の凶悪事件多発 上半期747人を検挙
 警察庁によると、今年上半期(1〜6月)に刑法犯で逮捕されるなどした少年は5万8795人(前年同期比約6%減)で、そのうち中学生は1万7912人だった。成人を含めた刑法犯検挙者に占める少年の割合は約31・4%で、統計が残っている79年以降では最低となっている。しかし、少子化の影響で、全体に占める刑法犯少年の割合は戦後最悪だった75年ごろと同程度の水準という。
 少年事件は減少しているものの、凶悪事件を起こす少年は少なくない。過去10年間は1千人程度で推移している。今年上半期は747人にのぼり、罪名別では殺人32人、強盗601人、放火48人、強姦(ごうかん)66人だった。


 少年が交番を襲って、ピストルを奪おうとした宮城県の事件の記事の横に出ていた記事です。これのどこにビックリしたのか?

 まず、見出しが「凶悪事件多発」とあるので、少年の事件が増えたのかと思って本文を見ると、「成人を含めた刑法犯検挙者に占める少年の割合は…79年以降では最低」となっていて、なんと減少しているのです。それなのに第二段落では、「凶悪事件を起こす少年は少なくない」とあり、数字が羅列してある。

 この数字は、凶悪事件は多いことを表しているのか、と警察庁の統計を当たってみると、これが全然多くなっていないのです。むしろ、数年前より少なくなっている。殺人などは、この10年間で下から3番目。どこが「少なくない」のでしょうね!?

 もちろん、少年が殺人をするのは、けっしてほめられたことではない。でも、どんな社会だって、殺人はある程度の件数起こっている。いろいろな人がいる以上、それを全部なくすなんてことは無理です。だったら、この32人という人数は多いのか、少ないのか? 比較する対照なしで「多発」「凶悪事件は…少なくない」と書くのは、ミスリーディングあるいは世論操作ではないのか、と思います。

 よく小論文を書くための材料として「新聞を読め」と言われるけど、その新聞の記事がどうもこの頃おかしい。これなんか、何とか少年犯罪が多いような印象を与えようと必死になって書いている、としか思えない。

 その証拠が第一段落の終わりの「少子化の影響で、全体に占める刑法犯少年の割合は戦後最悪だった75年ごろと同程度の水準という」のところです。この「全体」って何のことだろう? 少子化と関係づけているのだから、少年全体という意味でしょうか? しかし、刑法犯が「5万8795人(前年同期比約6%減)」だというのだから、この計算が正しいなら、少年全体も前年同期比で6%以上減っていなければならない。いくら少子化が急激でも、そんなことがあり得るのだろうか?(ちなみに少年による殺人が一番多かったのは昭和35年で400件あまり)

 でも、この新聞記事は、それでも小論文のネタにははなります。なぜなら、小論文の解決すべき問題から始まるからです。その問題とは、疑問・対立・矛盾であるというのは、吉岡理論で説明しているとおり。だとしたら、このおかしな記事を見ると、必然的に一つの疑問がわいてくる。なぜ、新聞は少年犯罪が減っているのに、いかにも増加しているような書き方をするのだろうか?

 考えてみると、いろいろ面白いことがありそうです。新聞はやっぱりためになりますね。みなさんの答えは何でしょうか?

8月21日

 池袋の新文芸座で「東京裁判」を見ました。戦争映画特集の後半を飾る大作で、なんと4時間もかかる。日本の戦争についての総括があるかと思って勇んで見に行ったのだけど、その面ではちょっと期待はずれでした。とく後半が疑問でしたね。ニュース映像なんかを挿入して、その後の日本の歴史の流れなどをまとめているのだけど、テーマが拡散してしまったような気がしました。もう少し、証言の内容などを細かく追ってもいいと思うのだけど、時間の関係か、ざっと触れるだけで終わったのは残念。

 でも、面白くないのか、と言うとそうでもない。部分的には、かなり面白いところがありました。とくに笑ってしまったのが、フィリピンの検事の発言です。途中で、戦犯の追及に熱心な余り興奮して途中でしゃべれなくなったり、皆の刑罰を「軽すぎて見せしめにならない」と発言したり、およそ法律というものの何たるか、を理解していないという感じなのです。

 検事のリーダーであるキーナン検事の発言も何だか一貫しない。初めは「トージョー、私はお前をジェネラルとは呼ばない」と呼び捨てで侮辱していたのに、次第にMr. トージョーになってしまうところなど、東条英機の迫力に圧倒されたようです。天皇の戦争責任を問わない、という政治目的があったせいか、途中から言うことの歯切れの悪いこと悪いこと。

 対する日本の指導者たちの印象は、これまた結構立派なのです。背が小さい老人が多いのだけど、背筋はしゃんとしている。その中には、いかにも浅薄そうな人間もいるのだけど、大多数はエリートとしての風格十分です。映画の中にもあったのだけど、ドイツのニュルンベルグ裁判でナチスの戦犯たちが「ならず者」と呼ばれたのに比べて、大きな違いがある。正しく、この裁判は「国家的エリート」を裁いた裁判なのです。

 マスコミでは、終戦記念日の近くにいろいろ論争がありましたが、私の意見ははっきりしています。日本を敗戦に導いた指導者たちには、明らかに政治責任がある。政治責任は結果責任であることはご存じですね。どんなに意図が良かろうと、正義の観念に燃えていようと、国民を310万人も死なせるような結果に導いた間違った決断をしたことに対して責任がないわけがないのです。

 よく間違えるのだけど、それと彼らがエリートとしてすぐれていたということとは何の矛盾もない。リスク・マネジメントではGroup Thinkingという現象が知られています。能力がすぐれたエリートたちの集団が時に全くばかげた決定を下してしまう現象です。この現象は、集団のまとまりが良くて、外部からの異論が入りにくいところで起こりやすいと言います。

 スペースシャトルの事故のとき、これが起こったというのは、東大のロースクールの問題にもありましたが、有名な事実です。技術者たちが打ち上げの危険に気づいていたのに、会社の経営者たちはNASAとの関係や経済効率性を重視して、その危険性を無視してしまう。技術担当重役も技術者たちの意見を代表することを止め、経営側に就いてしまう。技術者たちの異議を会議で封殺して、とにかく予定通り打ち上げを進める。結果として、スペースシャトルは技術者たちが警告したとおりに爆発する。

 日本とアメリカの開戦についても、このような力学が働いていたということは十分あり得ることです。海軍の専門家は、誰もアメリカと戦って勝つとは思っていなかった。しばらく持ちこたえられるが、その後はどうなるか分からない、というのがいわば「技術者たちの判断」だったわけです。それを、面子(つまりブランド)が立たないからだとか、今までの努力を無にするつもりか(つまり今までの投資を無駄にする)、などという「経営的な判断」ばかりを優先させて、戦争につっこんでいった、とは考えられないでしょうか?

 その結果、多大の人命の損失を被った。当然、このような方向に日本を引っ張っていった指導者に責任をとらせるのは正しいことです。しかも、本来ならば、それを日本人が進んで執行すべきものだったかもしれません。国民に損害を与えたことに対してムッソリーニが処罰されたように、日本国民が戦争指導者を断罪をする。イタリアは、それが出来たから、戦争末期には連合国側になったわけです。日本人はそれをしなかった、あるいは出来なかった。東京裁判は、それを戦争犯罪として裁いたけど、そのおかげで彼らの政治責任が曖昧になり、「被害者」のようにとらえられる風潮がある。これは明らかにおかしい。

 第二次世界大戦がアジアの人々に損害を与えた、という面ばかりが強調されているけど、その面の責任とは別に、日本人が結果としてこれだけ亡くなるとともに、その後の大きな社会的混乱を招いたという点だけでも、指導者としては「万死に値する」と言うべきでしょう。考えてみれば、この戦争は日本の社会をめちゃくちゃにしたのです。東北の片田舎にいたにすぎない私の祖父だって、この敗戦によって、それまで獲得した職業と財産のほとんど失っている。このような状況は、他の日本人もほぼ同じでしょう。今、その祖父の年齢になって考えると、この衝撃がいかに大きかったか分かる。失業率が上がった、とかいう問題ではないのです。トータルに社会が破壊された。迷惑をかけられたと言えば、これほど大きな迷惑はない。

 今の政治家たちは、そのときのエリート層の末裔たちです。戦争を起こしたのは、少なくとも彼らの祖父や曾祖父なのです。いったい、彼らはその責任を理解しているのか、怪しいものだと思う。「国を愛する心」などと居丈高に言うけれど、その前に国家が国民を守れなかった責任をどうとっているのか。「日本国民はアジアの前で恥じ入り続けなければならない」と言う人もいるけど、その前に戦前からのエリート層たちが、国民の前で「役目を果たせなかった」と恥じ入り続ける姿勢がもっと必要かもしれませんね。

8月9日

本屋の個性

 商売柄、本屋と図書館にはよく行きます。すると、本屋にもいろいろと「店柄」とでも言うべきものがあることが分かります。

 例えば、東京の大きな本屋でよく行くのは、紀伊国屋とジュンク堂ですが、ずいぶん感じが違いますね。紀伊国屋の方は雑然としていて、ジュンク堂の方が機能的です。欲しい本が決まっていて、それを探しに行くときは絶対にジュンク堂ですね。本棚が整然として、どこに何があるかすぐ分かるからです。紀伊国屋では、どこに何があるか、店員に聞いてもまず分からない。本を探しに行って、見つかることが少ないのです。この頃は、行く前にHPを見て、棚の見当をたててから行くのだけど、それでも見つけにくい。いったいどうしてでしょうね? 不思議です。

 逆に品揃えが偏っていて、それを見に出かける本屋もあります。六本木にある青山ブックセンターなどがそうでした。元々品数は少ないから、欲しい本を決めていくとまず見つからない。この間もカントロヴィチの「王の二つの身体」を探したら文庫なのに置いてなかった。その代わり、デザイナーなんかが多い土地柄もあるのでしょうが、意外な本があったりする。面白い外国の画集なんかにふっと出会ったりする。英語が分からなくても絵を見て雰囲気を楽しむ、そんな人が買っているのでしょうね。六本木に行くと、この本屋に行くのが楽しみでした。

 「…でした」と書いたのは、今はそうでもないからです。相変わらず、偏った品揃えなのだけど、妙な感じになっている。たとえば、この間覗いたら、中沢新一の「アースダイバー」が平積みで何段も並べてある。それも、ほとんど棚一つ分! おまけに過去に出した本も周りに積んで巨大な中沢コーナーができている。中沢は昔「オウム真理教」の理論的支柱となった「虹の階梯」を書いていて、その本を読んでオウムに入った人もいる。そのとき、一緒にオウムを持ち上げた宗教学者は大学を辞めて、ちゃんとその総括をした本を出しているのに、彼は無視を決め込み、今は東京に「縄文」を探るなんてオカルトまがいの本を出して大衆受けをねらっている。オーム問題もそろそろ人々の記憶から消えかけているから時効にしたいのだろうけど、こういう本を知的な本としてキャンペーンするのは、ちょっと書店としての良識を疑いますね。

 これに限らず、棚の感じがめちゃくちゃに「荒れて」いるのです。とりあえず話題になった本、書評で取り上げられた本が中心になっていて、雑誌の選択・並べ方もごちゃついている。これじゃ「雑誌しかおいていない街の本屋さん」とそう違いはない。いったい、どうしたんだ、青山ブックセンター! 一度、倒産しそうになって、経営的にてこ入れしたらしいけど、そのおかげでこんなことになってしまったとしたら、とても残念です。案外、日本で今起こっている「競争」や「自由化」の結末も、こんな情けないことになってしまうのですかね。


8月6日

 やっと早稲田法科大学院の提出が終わりました! もう一つ8/1締め切りの原稿も抱えていたので、当日はてんやわんやでした。「最後に一度見てアドバイスをください」というようなメールがひっきりなしにありました。

 この段になっても、改善点がいくつも出てくる場合があるんです。しかし、もう最後の仕上げの段階だから、あまり込み入ったことを書くとかえって混乱する。だから改善ポイントを一つだけ伝える。実は、それまでにたいていの問題点は潰しておくのですけどね。

 どんなに厳密に進めても、最後の最後まで必ず改善点は残る。提出日の遙か前にできあがっている、なんてことはまれです。改善点が多すぎるのはダメですが、ギリギリになって出てくるアイディアもけっこう勢いがあることが多いので、私は嫌いではない。

 土台をきちんと作って置いて、finishing touchの余地を残しておくわけですね。最後の一筆を、インスピレーションに賭ける。スポーツ競技でも世界大会などでは、テンションが上がって自己新記録を出すことがよくあります。インスピレーションも突然に出てくるのではない。準備をたくさんして、その上に出てくるものなのですね。日頃の地道な努力が最後の飛躍を生むのです。

 今回も、最後のインスピレーションでアッという新展開を書いてきた人が多かったと思います。読んでいてとても面白かった。忙しかったけど、発見がたくさんあって、それなりに充実した日でした。