2005年9月
9月25日

経営学のイイトコ取り

 この間、選挙の結果を報告したTV番組を見ていたら、出演していたゲストが「これからは国家も経営学的な発想で運営して行かねば…」と発言していました。こういう言い方はこの頃よく聞くのだけど、どうしても違和感があります。そのときも、イヤーな感じがしました。
 経営学は企業の利益を出していくための学問です。よく言われることだけど、人類学や経済学のように特有の研究方法があるわけではない。単に「経営」という分野を扱う学問と言うだけです。だから、そこで使われる方法は、ある時は社会学を使い、ある時は経済学を使い、ある時はメディア論を用い、ある時は単なる常識と偏見を用いる、という具合で一定していません。何でもアリなの? と思わせる。そもそも学問の名に値するものか、はなはだ疑問です。
 一番最近私が聞いた経営学の講義はリーダーシップ論でした。題材として出てきたのは、マザー・テレサとマハトマ・ガンジーとマルチン・ルーサー・キング。おいおい、誰も経営と関係ないじゃないか? たしかにこの三人はすぐれたリーダーであったかもしれないけど、それはいったい経営とどういう関係があるんですかね? お金儲けと社会への献身の両方を満たそうなんて、ちょっと虫が良すぎる感じがします。講義してくれたのはアメリカの一流の大学で経営学のPh.Dを取った方なので本当に申し訳ないのだけど、こういう「イイトコ取り」の姿勢って、私はどうしても好きになれないのです。

非効率な人間は日本から去るのか?

 「国家も経営学的な発想で運営」するという主張も同じ誤魔化しがある。だってそうでしょう。経営で利益を出す最大の方法は、労働者の解雇をすることですよ。不況になったら、「君は明日からもう来なくていいよ」と言える。それが出来るから業績も維持できるのです。それが出来るから、賃金抑制も出来る。だから利益も出る。もちろん、組合は反対するだろうから、首切りはそんなに簡単ではない。しかし、断固たる意志を持って、不要なものはばっさり切るのが経営判断としては正しい。だとしたら、「国家も経営学的な発想で運営」するなら、「明日から君はもう日本国民でなくていいよ」と国民を止めてもらうことを考えなければならない。
 私には、「競争社会」というお題目は、実際はそういう考え方のような気がしてならない。「非効率な企業は市場から去れ!」という言葉は、「働かない人間は企業から去れ!」と同じパターンです。でも、これが有効なのは、去った人間にまだ行くところがあるからなのです。市場や企業の外側に、そういうダメな人間を受け入れてくれる環境がある。しかし、同じ論法で「働かない国民は日本から去れ!」と言ったら、その人たちはもう行くところがない。日本から去った人間はどこに行くのか? 中国の奥地か、アラスカの氷の中か、南米のパンパか? もちろん、外国がそういう人間を受け入れてくれるわけはないから、彼らはバンザイクリフみたいに日本という国の縁から身投げをするしかありません。
 国家というのは、自分で自由に選ぶのが難しい。そこで生まれてしまったからには、一部の選ばれた人間を除いては、そこに所属するしか仕方ない。その中には非効率な人間もいるでしょう。それを排除することなど出来ない。だから「運命共同体」なのです。国家のために犠牲を要求するなら、それが出来なければウソです。ところが、非効率的な人たちを追い出して効率的な人を選別して効率的な国家を作ろうとする人たちが、他方で、国家を守るためだとか言って個人の犠牲を要求する。これって、やっぱりイイトコ取りだと思いませんか? そういう「非効率的な」人間を支えることができて、はじめて犠牲も要求できるはずなのに。

「負け組」は「負け組」を嫌う

 でも、この選挙では、「効率的な国家を作る」「敗者には何もやるな!」という主張に、都会の若年層が大挙して投票したらしい。冷静に見れば、この人たちは賃金が抑えられていてどちらかというと弱者なのに、妙な行動だという人もいます。しかし、これは何の不思議もない。庶民ほど、自分より下層の人間に情け容赦なく当たり、上層の人間ほど下の人間に寛容だという傾向があるからです。刑罰でも、犯罪者に対して苛烈な刑を望むのは不満を持つ大衆たちで、為政者はなるべくそれを抑えようとした、と犯罪学の本にあります。
 だとすると、これから先の政治状況は簡単に予測できます。競争は厳しくなればなるほど、「負け組」はますます多くなる。しかし、「負け組」はけっして「弱者救済」を叫ばないのです。だって、それを認めるのは「自分の能力がない」を認めることになり、プライドを傷つけるからです。だから、自分より下の者を見つけて、それに苛烈な処遇を求めて、自分はあいつらとは違うことを確認しようとする。そうやって、一番下は犠牲になる。そうしているうちに、今度は今までちょっと上だった人間が一番下になるけど、その上に競争に負けて「ちょっと負け組」がまた新しく増えるから、その人たちは一番下を冷酷に扱う。こうやって順繰りに一番下をちょっと上がこづき回すという社会秩序ができあがるわけです。
 これが、今進行している「実力社会」「競争社会」の結末です。でも、これって、しばらく前に流行った学校での「いじめ」そっくりですね。つまり、かつての「いじめの構造」の中で育った子供たちが、今や大人となってその心性を十分に開花・発達させて、日本全体をこの「いじめの構造」の中に引き込もうとしているとは考えられないだろうか? 恐ろしい話です。きっと後世の歴史家は「日本いぢめ革命」とか名付けたりするのかもしれない。
 選挙が終わってみんなの熱狂が冷め、また日常のかったるいルーティンワークに戻っています。小泉首相の「改革を止めるな!」に心が躍ったのも今は昔。あれはいったい何だったのか、みんなの呆けたような脱力したような表情が気になります。

9月22日

 秋風が吹くとともに「白神山地」だとか「裏磐梯」だとか、駅に色鮮やかな紅葉のポスターが貼られるようになりました。季節が変わったことを実感させられます。きっと、この写真は去年撮影したものだろうけど、いかにも「今年の紅葉ですよ!」という感じで出てくる。都会っていうのは、本当に情報だけの世界ですね。そういえば、今年は、春も夏も向こう側であわただしく過ぎていった気がします。それを自分はガラス窓の中から見ているだけで、触れられない。列車の窓から風景を見るみたいなもので、楽ちんなところもあるのだけど、時間がこれだけ速いと不安になる。
 ところで、ようやく春から夏にかけてのロースクール・パニックも落ち着いてきました。まったく今年の夏はすごかったですね。暑いのを感じている暇もなかった。受講生のみなさんには申し訳ないけど、今日はメールボックスを開けたくないな、という日も何日か…。今は添削も時間に追いまくられずに出来ています。来年、あるいはこれから受験を考えている人、今がチャンスですよ! そんなわけで、近くの森ではそろそろ蝉も終わってコオロギや鈴虫が鳴き、私もあまりあわてずに心静かに原稿に取りかかっています。

 先週は、いつも秋に出している「法科大学院適性試験完全攻略ブック」第2部の原稿を書きました。後で「攻略ブック」にも書くけど、今年の問題は、ずいぶんシンプルになっていますね。見出し・定義・文章構成・中心的主張など、ロースクールっぽいな、と感じられた問題がばっさり削られている。空欄補充・接続詞・内容判別・段落の機能・段落整序・論と例の一致、問題のバラエティはせいぜいこんなものですかね。去年、大幅に平均点が下がったから、易しくしたのだろうけど、何となく大学入試センター試験や私立大学の問題と雰囲気が似ています。人事異動があって、大学担当の人が法科大学院に回ってきたのだろうか? などと余計なことを考えてしまいました。
 それとも、これは昨今言われる国語力の低下に対する対応なのでしょうか? だいたい去年の適性試験も、けっして一昨年より程度が高くなったわけではない。それなのに6点も下がった。今度の試験は明らかに去年・一昨年より易しくなっているのに、去年より約2.5点上昇しただけです。このレベル低下は何なのだろう? でも平均点が25〜26点程度というのは、テストを作った側からすると、悪くない結果でしょう。だから、たぶんこの傾向が続くような気がしますね。来年の問題が楽しみですね。
 さて、大学入試の方はこれからがスパート! ロースクールやMBAもこれから受験の方も多いですよね。暑い夏を乗りきって、体を壊さないようにしましょうね。


9月12日

競争社会とプライド

 日本は、これからコネ社会ではなくて、競争社会になるのだ、と言われているようです。競争社会になると、皆一人一人がやる気を出すから、効率が上がるらしい。これは一応良いことのように思えます
 しかし、その結果が実際にはどうなるのか、予測できそうな出来事がありました。私のいるところの近くにデパートがあって、書店も入っているのだけど、この間行ってみてびっくり。売り場が大きく変わっていたのです。
 まず倉庫になっていた空きスペースのところを拡げて、売り場にし、店の前面が全部雑誌売り場になったこと。しかも、芸能誌が一番前に並んでいて、ぺ・ヨンジュンとかイ・ビョンホン(韓流スターと言うらしい)が微笑んでいる。そこに人々が群がり、誰も奥にある単行本のところまで行かない。これじゃ本屋でなくて、雑誌屋ですね。
 もう一つは隣にあるCD屋です。ここは売り場面積も小さく、私がほしいものは何も置いてないので利用することはないのですが、ここが4−5台のモニターにコンサートだのアニメだのを流して、ボリュームいっぱいに音を出す。ほら、YカメラだのSヤだのが繁華街で競って音を出すでしょう? あれです。本屋に立ち寄っていると、うるさくて仕方がない。
 きっとCD屋の店員も一生懸命なのでしょう。気持ちは分からなくはない、売り上げを伸ばさないとクビだ、とか言われたのでしょう。Yカメラは大音量を出して、たくさん客を集めている、よし、うちもやろう! ということでしょう。客を集めるのなら、品揃えを変えるとか、飾り付けを工夫するとか、やることはあるのでしょうが、一番発想の貧しいところで頑張る。CD屋と本屋の両方の店員に「ちょっと音がうるさ過ぎる」と苦情を言いましたが、「ごもっともです。私もそう思います」と言うばかりで問題を改善できない。
 こんなこと言いたくないけど、競争の仕方を間違えると社会は摩擦が大きくなるばかりです。平凡で工夫がないのに目立とうとすると、たいてい大声を出したり騒音を出したりする。車のウインドウを開けて、大音量で音楽をかけている人がいるでしょう。あれです。うちの近くには、日曜日になると、自転車の前カゴにラジカセを入れて音を出して走る人がいる。
 きっと、そういう人は「おれはここにいるぞ!」と必死に存在証明しているのでしょう。あるいは、音量で圧することで自分が強くなった気がする。でも残念ながら、はた迷惑なことには変わりない。静かな環境を守ろうと思ったら、こういう人が入って来られないように閉ざすしかない。アメリカ社会は、そうやって貧困街と中流街がくっきりと分かれる。階層社会はますます目に見える形で進むというわけです。
 考えてみれば、競争社会・能力社会は過酷です。それは競争が激しいからではない。自分の誇りを保つのが難しいからです。能力によって待遇が異なるというのなら、収入が低い人は即能力がないと烙印を押される。たいていの人は自分の収入に不満を持っている。しかし、それが「不平等」の時はまだ怒っていられた。「自分の能力はこんなものではないぞ、今に見ていろ!」と。でも、今は収入が低いのは、単に自分の無能を示すだけになってしまっている。しかも能力に対応しているのだから文句も言えない。これは心理的にキツイ!

 9.11選挙の結果は、こういう人々の不安が働いているように思います。「改革」という何となく希望を持たせる言葉に自分も荷担したいという心理です。自分が「勝ち馬」であり、無能という烙印を押されたくない。だから、ただ強そうな人、リーダーシップのありそうな人に乗った、というわけです。そういう陣営に自分もいて、「勝者」のお祭り気分に浸りたいのでしょう。これは、有権者が何に敏感なのかを計算したイメージ戦略の勝利ですね。小泉への熱狂を横目に、何だか、後味の悪いものを私は感じていました。
 北海道で鈴木宗男が復活当選したけど、彼は「私のやり方は地方利益誘導政治ではない。私のは公平分配でケインズ先生のやり方だ。今の政府は傾斜分配でハイエク流のやり方だ」と言っていました。つまり、彼は弱者にも分け前をやるのが公平な政治だと言っているわけです。そしたら、北海道では彼が比例区で勝ってしまった。これは「弱者でも大丈夫だ、俺が面倒見る!」というメッセージです。北海道の人は強者であるという幻想に浸るより、安心して弱者でいられる方を選んだのかもしれませんね。

9月4日

洪水の後で

 アメリカのニューオーリンズの洪水被害は日に日に大きく報道されています。私は、このニュースは世界に大きな影響を与えていると思う。それは、アメリカ・システムの欠陥を明確に示しているからです。それにしては、日本の報道は少なすぎると思う。
 ヘラルドトリビューンでは数ページかけてくわしく報道している。それによると、結局、貧困問題が今度のように大きな犠牲が出た主原因のようです。この地域の人々は貧しく、避難しようにも交通手段もお金もないといった状態で、かなりの数の人が取り残された。そこで堤防が決壊したから、犠牲者が多かったというわけです。
 印象的だったのは、略奪が横行したことと、「まるで発展途上国だ」というアメリカのマスコミ自身によるコメント、避難所に逃げてきた人が「これではまるで動物扱いだ」と叫んでいたことの三つでした。

国内の南北問題

 略奪ということでいえば、現在の日本ではちょっと考えられない。神戸大地震のときも、略奪は起こらず、人々はスーパーマーケットの前に静かに列を作って、食料を購入していたという有名な話があります。もちろん、壊れた家に入って、モノを盗るなどの事件は散発的にあったらしいけど、すぐ自警団などが結成され、そういう動きは封じられた。
 ところがアメリカでは、援助物資を輸送すると途中でギャング団に横取りされたり、輸送するヘリコプターが銃撃されるなど、もう滅茶苦茶です。よほど不満がたまっているとしか思えない。昨年末のアジアの津波被害だって、子供の誘拐は話題になったけど、暴動や略奪が横行したという話は聞かない。社会の統合という点からいうと、アメリカは「発展途上国」以下なのです。
 実際、この地域はアメリカの内部の「発展途上国」というか、「低開発地域」underdeveloped areaなのだと思います。職もなく、政府からのお金を当てにしている人々が多いところも、そっくりです。かつ、そういう存在が社会のお荷物扱いされているのも似ています。そこにいる限り、希望や未来がないのも同じです。いわば、国内に「南北問題」があるわけです。

資本主義のメカニズム

 この頃思うのですが、資本主義経済とは結局貧困を拡大していくシステムではないか。アメリカでは、不況だった80年代から経済回復をしてきたといいますが、結局中間層以下の収入は増えていない。それどころか、アメリカの貧困層(年間2万ドル以下の収入)は3700万人に増えた。アメリカの人口が2億人だから、20%近い。5人に一人が貧困層なのです。ちょっと異常な事態だと思いませんか? 
 企業の業績が回復してくれば、家計の収入も上がってくるはずだと経済学者は言っていましたが、いっこうにそういう兆しは見えない。1年に20億円稼ぐ人がいる一方で、お金を稼げない人が増えている。つまり国内に、先進国と後進国が出来ているわけです。これをあるアメリカの経済学者は「アメリカ保守革命」と言っていました。20世紀の革命では労働者による社会変革だったのが、富裕層による富裕層のための社会革命が進行しているんだそうです。ソビエト連邦がなくなったものだから、富裕層は恐れるものがなくなり、自分たちの利益を上げるためにやりたい放題やっているのです。

日本の保守「改革」

 実は、日本もそうなりつつあります。「改革」などと耳ざわりの良いことを言っているけど、この「改革」は基本的に富裕層のためのものであることは明らかです。まず、所得税の累進課税率が低くなった。次に企業の国際競争力がなくなる、というので企業への税金が安くなった。このまま今の同じ福祉水準を維持するには、金が足りない。そこで、健康保険料は高くなる。この次は消費税率のアップだそうです。つまり、富裕層の税金を安くする一方で、低所得者層への負担を強めている。
 その割を食っているもう一つの階層が「地方」です。私は、この頃地方の高校に講演に行くことが多いのですが、聞かされる話は地方経済の急激な冷え込みです。今まで、公共事業を中心に仕事があったのに、それが減らされたことが一つの原因。もう一つは、情報公開その他で地方企業が仕事を回しあえなくなった。そのために、地方にはまったくお金が流れなくなっている。駅前の通りなのに、ほとんどシャッター通りと化している。日本の中では中央と地方の間で「南北問題」が進行しているわけです。
 この傾向は、実は東京の中にさえある。最近、用事があって、東京大学のある本郷に言ってきました。びっくりしたのは、大学前の小さな商店が軒並み閉店していること。古本屋も減っているし、喫茶店もなくなっている。「何だ、これは!」とさすがにあきれてしまいました。高齢化が進んで若者がいなくなり(大学があるのに!)、店がやっていけなくなったのだとか…。東大前の通りなんて、ほとんど地方都市の駅前とかわりがない荒涼とした風景です。

「改革」の結末と豊かさの消滅

 今起こっている「改革」の結末は、こういうことになるのでしょうね。利益の出るところにお金を湯水のように注ぎ込む一方、さびれるところは徹底してさびれるにまかせる。人間も同じです。能力や運が少ない弱者たちは、徹底して下層に落とされ、強者に資源と権力が集中する。中間層がいなくなり、トップの一握りの人間が、後のほとんどの人間を支配する。そのうちに、下層の人たちは東京を所払いされて、もっと田舎に行ってください、なんて言われるかも知れない。これでは、自分は強者になれると思っているうちはいいけれど、それがなくなったとき、果たして秩序を守って行動するだろうか?
 私は、現在は「第二の産業革命」だと思っている。産業革命といえば、経済が発展した時代と思われているようだけど、実はその裏側で膨大な数の貧民を生み出している。男性熟練工が馘首され、女性や子供の未熟練工に変わる。そのプロセスで、賃金が劇的に低下する。16時間、18時間などと長時間労働も普通になる。
 現象面を見ると、日本はまさにそうなっている。貧しい階層が増え、賃金は切り下げられ、労働時間は長くなっている。つい15年ほど前まで「ゆとり社会」なんて言っていたのが嘘みたいです。私の著書「頻出テーマのまとめ方」でも2001年までは「豊かさと余暇」という章があった。それがまもなく消えてなくなっている。そんなこと言っている場合ではなくなったのです。つまり、「働いて経済全体は豊かになっても自分は豊かにならない」という傾向がハッキリしたのです。
 日本でも、この間堤防のテストをしてみたら、至る所で危ないところが見つかったそうです。その意味で、日本でもニューオーリンズと同じような災害が起こっても不思議ではないのです。安全は利益を生まず、必然的に手抜きになるからです。その大洪水が起こった時、取り残された人々が略奪を起こさないような社会になっていればいいのですが、きっとそううまくはいかないでしょうね。

バグダッド・パニックとの関連
 
ニューオーリンズの洪水と奇しくも同じ日、バグダッドでは巡礼者たちの間に「自爆テロリストが紛れ込んでいる」という噂が広がってパニックになり、大勢の人が将棋倒しになり、川に飛び込んだ人の大部分が溺死したという痛ましい事件がありました。同じように水が関係しているのだけど、この二つがほぼ同時に起こったということは象徴的です。アメリカがもたらした「平和と民主主義」は、国内と国外で同じように簡単に崩れ、底辺の人々を犠牲にするシステムなのだ、ということを明確に示しているように思われます。