2006年1月
1月28日

Renewal とホリエモン(その2)

 ライヴドアの事件は連日報道されるうちに、その本質が明らかになったようです。キーワードは「時価総額」らしい。

 典型的なのは「株式分割」という手法。株式を100分割して、一般個人にも買いやすくした、と宣伝する。期待した人々がワーッと集まってくるが、株券の印刷が間に合わない。当然株価は上がる。そこで儲けるという手法らしい。もちろん、この値上がりは一時的だから、また儲けた金を使って、M&Aなど話題作りをする。期待が盛り上がったところで、また関連会社の株式分割…と、こういう風にグルグル回るメカニズムのようですね。

 この運動は期待が盛り上がっている限りは、いくらでも続けられます。でも、それが萎んだら一巻の終わり。経済学ではこれをバブルという。オランダのチューリップ恐慌が良い例ですね。珍しいチューリップの球根がブームになり、どんどん値が上がってくる。値が上がるのを期待して、ますます高い値が付く。ついには家一軒より高価になる。

 つまり、ライヴドアはこういうバブルのシステム化で儲けていたわけです。ただ、これは期待が萎んだところで一巻の終わり。球根はただの球根の値段に戻る。VirtualはRealから乖離して、舞い上がることも一時的にはあるのですが、最終的にはRealによって限界づけられ、勝手に盛り上がっていた人々は大損害を被る。

 実際、ホリエモンの会社はRealでは何をやっていたのだか、よく分からない。はじめはHP制作だったらしいけど、その後はソフト制作、ポータルサイトに移ったという。でも、ライヴドアのポータルサイトなんて私は見たことない。Realの裏付けが薄いわけです。

 最初のHP制作の商売もかなり危うい。資本主義的な経済発展の前には必ず「本源的蓄積」があるとマルクスは言いました。つまり、泥棒でも不正でもなんでもやって、ある量のお金を手に入れてしまえば、後はそれを元手に少しずつ増やしていくことができる。その「本源的蓄積」がIT化の最初で起こったと私は見ている。

 HP制作というと最初は「すごい」みたいなイメージがあって、破格の値がついた。私がかつて手伝っていた小さな塾も、「専門家」を雇ってIT化に1,500万円もかけた。出来たものはと言えば、数台のコンピュータのイントラネットと4−5ページしかないHPのみ。苦情を言うと、「俺のやったことに文句があるのか!」とすごむ。彼は途中から講師もやり出して、さらに会計担当者と共謀して、経営の乗っ取りを謀った。これが露見してクビ。うまく行っていれば、彼も小ホリエモンになったかもしれない。

 問題なのは、先の「専門家」がコンピュータの技能はあっても、「教える」技能は全くなかったことです。彼の授業に出席する生徒はだんだん少なくなり、すると彼はまた新しい講座を作って、そのテキストを麗々しく写真入りで作る。それを見て感心した経営者は講座を新設する。しばらくは生徒が来るが、あえなく潰れる。こういうことの繰り返し。たとえ彼が乗っ取りを果たしたとしても、塾は早晩消滅していたでしょう。何だかライヴドアの末路を見る気がしませんか?

 情報社会では、人々の期待が交錯して根拠のない期待が繁茂します。事情を知らない一般人たちは、その真偽の区別が付かない。これが真実だと判断する人もいない。いたとしても、皆違うことを言う。だから、皆の期待に沿うように盛り上げるとあっという間に話は膨らむが、はじけてしまうのも早い。偽装がばれたときの大騒ぎはニュースでご承知の通りです。先週、私は「実績を見てくれ」と書いたけど、会社の「実績」だって情報として一般人は知るわけですからね。だから、ちょっとした情報の揺れで右往左往する。この傾向は、これからますます強まるしかない。世の中にコミットすればするほど、翻弄されることになる。

 こういう社会の中では、自分が信じられる根拠をたてるしかない。その根拠に照らして、良し悪しを判断する。でも、そのサイズも問題です。大きすぎると情報社会に巻き込まれて、現実のチェックが利かない、小さすぎると外界から遮断されて、やはり現実のチェックが利かない。そのバランスも大切です。外界と繋がりながら、巻き込まれない場所を確保すること。それが公共につながってくる。

 こういう根拠をどこに見つけるか? それが、情報社会で生きる上ではポイントとなっていくでしょうね。神田神保町にReal Schoolを作って、VirtualからRealへと世間の反対の動きをしたのは間違っていなかったと、ホリエモンの事件を見て強く思う今日この頃です。


1月19日

Renewalとホリエモン その1

 ここ何日か取りかかっていたReal School関係のHP renewalがやっと一段落付き、今日の深夜2:00頃アップしました。全体をWebとRealに二分して、Realの方は新クラスを三つ作り、Webの方は再編成ということです。最初にVOCABOWを作ったときほど大変ではなかったけど、それでも十分に大変。VOCABOWのWeb Master長谷さんと討論しながら、何とかアップすることができました。

 大きく変わったのは、まずReal Schoolが常設されたことです。「個別コーチング」を毎週土日の午後にお受けいたします。文章を書く上で、不安や悩みがある人は気軽にご相談下さい。きっと良いきっかけになると思います。もう一つは月に二回ほど「小論文ワークショップ」をするつもりです。ただ、こちらの方は複数の人が参加した方が丁々発止の効果が上がるので、3人からのクラス成立。最後は3月の「法科大学院 適性試験セミナー」! 対策が遅れている方、VOCABOWの精鋭講師陣の分かりやすい講義を受けてみませんか?

 Webの方は、「東大・慶応コース」と「なるほど小論文コース」をはずして、「大学入試個別対応コース」に一本化したことです。後者は「なるほど小論文」の読者のサポート、ということで作ったのですが、もうこの本は十分浸透したということで、コースはリタイア。前者は、医学系を教えてくれ、などという要望が多くなったので、個別対応ということで一般化しました。

 それを掲示するTOPページも当然全面的に取り替えなので、二三日前から仁賀さんの「シニアのロースクール日記」も「その14」をアップしていたのに、NEW!の表示が付けられませんでした。皆さん、気づいていましたか? 仁賀さんのファンの方は「その14」をチェックしてくださいね。

 しかし、取り替えの作業は大変でした。ページは一つ一つリンクされているから、一つを直すと別の所も変更せねばならず、その別なところはまた別の所とつながって…とまるでねずみ算もどきで、それをいちいちチェックして手で直していくから、やり始めると結構時間を食う。長谷さん、ご苦労様でした。

 これが自動的に直るとか、分業で誰かに仕事を任せられれば簡単なのだけどけどなー、と思いつつも、しかし、この面倒なチェック作業があるから一応の統一が保てているのかも知れないと思いました。一つ直すと自動的に直っちゃうようだったら、どこでどう変わってしまうのか、ちょっと空恐ろしい感じもします。

 分業とは面倒なことを他人に押しつけることです。機械化は機械にやらせることです。それで規模を大きくして、利益を最大化する。でも、それをやることで必然的に自分のコントロールが効かないコストをも抱え込むことになる。他人は自分の思うようにはやれないし、機械は一つでも指示を間違えると変な方に動く。

 それを避けるためには、いつも見張っていなければならない。いつの間にか、それが仕事の中心となっていく。監視が仕事のメインになるのはいやですね。自分がいじましくなる感じがする。人間相手なら、期待を煽るという方法もある。「これさえやれば未来が開けるんだ!」などと幻想を煽って、やる気にさせる。その手法がすべて悪いわけはないのだけど、ものには限度があります。

 VOCABOWがこんな改訂をシコシコやっているうちに、世間では大変なことが起こってきました。ライヴドアの違法行為で株価が大幅下落しているみたい。「ホリエモンがムイチモンになる」とか言われているらしいけど、情報操作して注目を集めて、株価を上げるという手法は、あの会社の特徴的なやり方でした。実質なんて当然伴わないのだから、今回はそれが裏目に出ただけでしょう。

 情報化時代で、人がそう思えばいつの間にかそうなってしまう、という原理を我々は信じるようになっています。リアリティとは、むしろ「人がどう信じるか」に依存している。そういえば、世間で流行っている言語のほとんどは、そういうものですね。たとえば、「ニート」なんて言葉も実体がなくて、他人の言説の中だけで何だか「けしからんもの」というイメージが出来上がっている。

 私は、玄田有史の「ニート論」はかなりアヤシイ議論だと思っていたのだけど、どこが危ないのか、うまく言えずにいました。しかし、「ニートって言うな」(光文社新書)を読んでみて、その仕組みがうまく説明されていると思った。それによると、NEETという英語は、イギリスでは10代の学校に行かず、職業にも就けない人々を指していた。それも経済・社会情勢で仕事が出来ないという「社会の問題」の文脈だったのに、日本では18〜34歳の「自発的に働かない人々」を指すようになり、しかも、それが「働く意欲がない人間」と翻訳されることで、「若者心理の問題」にねじ曲げられ、そのために経済・社会の問題という面が覆い隠されたという主張です。

 第二部を書いた内藤朝雄は、現代の世相を表すヴァーチャルとか反自然とか、家族の崩壊、都市化などという「いいがかり(のアイディア)資源」が、「若者は凶悪だ系」と「若者は情けない系」の二つの言説にまとめられ、バッシングになると言う。こういうバッシングは「太陽族」「フーテン」「ゲバ学生」「新人類」「パラサイト・シングル」などと枚挙にいとまがない。これは、若者の問題ではなく、むしろ若者に文句を言いたいという「大人の悪意の問題」だというのです。

 考えてみれば、そういうアヤシイ言説を元にして、我々は「けしからん」とか「感心だ」とか、善悪の判断をしている。そのくせ、元になった「若者の労働実態」をデータによって確かめたりしないのです。これってかなりやばいことなんじゃないでしょうか? そういう現状と関係ない分析をやっているから、対策もおかしなことばかりになる。

 今度のライブドアによる「風評の流布」を皆はひどいと言うけれど、同じようなことを他の人もやっている。人々の悪意を利用して、ありもしないイメージをでっち上げてバッシングするのと、人々の欲望を利用して、株への期待を盛り上げるのと、どこにも違いはない。こういうように情報だけを操作して、現実を動かそうとする人間が破綻するのは経済・社会が健全な証拠です!

 言説はつねに現実に復讐される。その過程で大混乱も起きてしまう。仕方ないですね。でも、混乱の記憶は10年と持たないところが悲しいのですが…。VOCABOWはそんな風潮とは関係なく、ひたすらcreativeに徹したいと思います。これからの展開、乞うご期待。あ、期待しないで良いのか? 実績を見てもらえば一目瞭然ですよね。


1月12日

大雪と「質朴」の系譜学

 新潟の大雪が連日報道されています。とくに雪で国道が寸断されて、集落が孤立して大変だというニュースや写真がいろいろなところで出ている。平家の落人村と言われる秋山郷というところです。道も建物も雪で埋もれてしまっている。それを見ると、今年の雪は例年になくひどかったと感じる。温暖化の逆作用なんて説もある。しかし、本当にそうか?

 鈴木牧之『北越雪譜』という本の中に、この秋山郷の話が出ています。この本は新潟の雪にまつわる話をいろいろ集めた面白い本なのですが、それによれば秋山郷はこんな場所です。

 「山間幽僻の地なり。…秋山の道はすべて所の人のかよふべきためにのみひらきたる道にて…ことさらに道狭く小笹など深くしてやうやう道を求むることしばしばなり。冬は雪二丈余りもつもりて人のゆききもたゆるゆゑ、此時人死すれば寺に送る事ならざれば…黒駒太子と称する画軸…を借りて死人の上を二三べんかざし、これを引導と称して私に葬る」

 あまりの山間なので、雪が6m以上も積もる。そのため、冬は人が死んでも下の村にある寺に持っていくこともできないので、昔から伝わっている掛け軸を死体にかざして、読経の代わりにしたというのです。

 「秋山の人はすべて冬も着るままにて臥す。嘗て夜具といふものなし。…稿(わら)にとぼしきゆゑ鞋(わらじ)をはかず、男女徒跣(はだし)にて山にもはたらくなり。人病あれば米の粥を喰はせて薬とす。鏡を持たる女は山中に五人ありとぞ」

 米がとれず、わらもないから、履き物も作れない。薬もないからお粥が薬代わりだったとか。鏡を持っている女も少ない。いかに江戸時代とはいえ、居住するのが相当きびしい土地だったんですね。「古風」は自然条件に強制された生活なのですね。しかし、これは悪いことばかりではないと牧之は言う。

 「此の地の人すべて篤実温厚にして人と争ふことなく、色欲に薄く博奕(ばくえき)をしらず、酒屋なければ酒のむ人なし。むかしよりわら一すぢにてもぬすみしたる人なしといへり。実に肉食の仙境なり」

 究極のLOHAS。素朴で平和な生活。文明から離れているだけに、その汚れも少ないというわけ。近頃の自然崇拝の議論と同じものがここにもある。そういえば30年前にはチープ・シックとかシンプル・ライフなんて言葉も流行った。人間の発想なんて、江戸時代も現代も進歩がない。こういうことを丹念に眺めていくと、M. フーコーみたいに「知の考古学」や「言説の系譜学」が日本独自のデータで記述できるのかも知れませんね。

 ところでTVでこの集落の風景を見ると、ちょっと家がまばらだけど、普通の村と同じ感じがする。建物もコンクリート造りらしいものがあって立派。「古風」なんてものではない。国道が雪に埋もれて孤立するのはホントに気の毒ですが、『北越雪譜』の記述を考えると、むしろ近代以後に起こった生活の進歩がいかにすごかったか、分かります。

 でも、もし秋山郷がこういう所なら、大雪はしばしば起こっていたのに、今までは報道の量が少なかったから伝わらなかっただけではないのでしょうか? もしかしたら、大雪が降ったことではなく、こういうところにTVカメラが入ったことの方が、地元から見ればニュースなのかも。「自分たちの村が映っている」と喜んでいたりして…。ニュースを見ているつもりでいて、実はニュースを通して我々が見られているのかも知れない。

 …と、ここまでを昨日の三日坊主にアップロードしようとしたのですが、明日にしようと寝てしまいました。今朝起きて1月12日の朝日新聞朝刊の『天声人語』を見ると、やはり『北越雪譜』の話が載っていてビックリ! 同じ話題じゃまずいから掲載するのをやめようと思ってよく読んでみたら2度ビックリ。素材が同じなのに扱いがまったく違うのです。

 天声人語では「秋山には古(いにしへ)の風俗おのづから残れりと聞きしゆゑ一度尋ねばやとおもひ居りしに…」というDiscover Japan風の引用から始まって、「厚い雪がその家々の屋根を覆っているので、昔の秋山郷のたたずまいがよみがえったように見えた」と懐古趣味に浸る。「古風」の貧しさはまったく触れられず、その代わり、「争ったり怒ったりすることなく、質朴」と例のステレオタイプの対比が強調される。ラストは次のような意味不明の美文。

 「…今では、人々の暮らしは周囲と行き来することで成り立っている。地上の道は閉ざされたが、牧之の時代には思いも及ばなかった空の道も使って、一世界と世界をつなぎ続けたい」

 大雪で困っているから、飛行機で早く生活必需品を届けろと言うのか? それなら、そう書けばいいのに、「空の道」とか「一世界と世界をつなぎ」とか、妙な大和言葉風の修辞で気取る。困った文章である。

 しかし一番問題なのは、スタイルのことより内容です。雪害をネタにしているくせに、いつの間にか「素朴な雪国の情緒」という耽美的なイメージに変換させている。これじゃ大雪の大変さは伝わらない。むしろ、「雪って綺麗ね」という曖昧な賛美で終わってしまわないか?

 前にも書いたと思うけど、新潟人は「東京人は分かっとらん」と非難します。山を切り開いてゴルフ場を作った。そのおかげで村の若者の働き口が確保されて、どれだけありがたいか。それを無視して「自然破壊」などと上っ面のことを言うなと憤る。

 道路も同じことだと思う。かつて田中角栄は、山間の小さな村にまで道路を通し、そのおかげで総理大臣になった。朝日新聞は、かつてそれを「利益誘導政治だ」と批判したけど、彼がロッキード事件で総理大臣を辞めさせられた後にも、ずっと再選され続けた。実際に生活を変えたということの意味は、地元では分かっているのですね。

 こういう事情が、この天声人語はよく分かっていないのではないか、と思う。だから、「一世界と世界をつなぎ続けたい」などと脳天気な美文を並べるのである。そもそも、鈴木牧之は次のように戒めている。

 「雪…を…詞につらねて称翫するは…是雪の浅き国の楽しみなり。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば何の楽しき事かあらん。雪のために力を尽し財を費し千辛万苦する事…おもひはかるべし」

 天声人語の文章は、まさにこの幣に陥っているように思うのですが、如何?

P. S. Real Schoolの新しいプログラムは「法科大学院 適性試験」「志望理由書」など、まもなくHP上でお知らせします。

1月8日

 毎年年末年始は忙しいのですが、今回はとくに大変でした。12/26-30までReal Schoolを開催し、終わったのが30日。掃除をして家に帰ると、もう夜です。次の日は朝から食料の買い出しとおせち料理づくり。

 もう10年ほどやっているので、もう味も見ないでさくさくと造ります。八頭と筍と慈姑(くわい)と椎茸と人参と蒟蒻(こんにゃく)。後よく造るのは、煮豚と牛タンの塩蒸しなのだけど、今年は牛タンが高いので省略。あっさりと煮物中心にしました。海産物は、親戚がいろいろ送ってくれるので、それを並べるだけ。

 年明けの1日は、それを食べることと年賀状書きだけで終わってしまいました。2日は仙台で友達が高校時代の同人誌を復刊させるというので、新幹線に飛び乗って、その集まりに出席。皆いいオヤジになっていました。定年の心配なんかしている奴もいる。

 3日は神保町オフィスに初出勤。おせちを持って下の英潮教育研究所の加藤さんのところにお年始。ちょうど彼がやっている「谷沢野球コミュニティ千葉」という野球NPO代表の谷沢健一さんもいました。彼は1976年のプロ野球の首位打者。やはり、スポーツ選手ってしっかりした身体をしていますね。しかも、とてもピュアで知性的。50才を過ぎて、早稲田の大学院に入学したんですけど、スーパースターが引退後の人生を新しく築いていくのはとても難しいことだと思います。新年から魅力的な人に出会えて得した感じ。自作のおせち料理を勧めたら、美味しいとモリモリ食べてもらったので心から満足しました。「谷沢野球コミュニティ千葉」も応援したいですね。

 4、5日は急ぎの添削を済ませた後、神保町オフィスの整備。資料棚にペンキを塗って、床にカーペットを敷きました。もうすぐできあがりです。やはり完成に向かっていくのは、喜びです。BGMはビル・エバンス。仕事がはかどります。

 6日は朝授業があって、午後はAndy、長谷さんと「TOEFL Writingの方法」のうち合わせ。出版はこれで本決まりです。帰って、明日の個人面談のための添削。7日は午前中授業。地下鉄で神田に移動。午後はReal Schoolで志望理由書の個人面談。結局終わったのは20:30。歯が痛い。これは、極端に疲れているときの兆候です。

 しかし、個人面談してみると、いろいろ面白い話が聞けます。お医者さん、IT会社の社長、税金の専門家など人生っていろいろあるものですね。それぞれの社会観・人生観、直面した問題など、どれをとっても容易ならぬものばかりです。それを文章化しようというのですから、志望理由書を書くという作業は、実は大変ですね。人生の深いところに触れざるを得ない。しかし、そういうものを汲み取ってつくられた志望理由書は迫力が違います。

 これからも、志望理由書の個人面談は折を見て続けた方が良いかも知れませんね。書くときのヒントとして、志望理由書への不安を鎮める意味で、大きな意味があると思います。そのうち、面談コースとしてHPに出そうかな、と思っています。ご希望の人はメール下さい。でも、これじゃ忙しくなるばっかりですね。一体いつ原稿を書くのだろう?

 「少年老いやすく学成りがたし、一瞬の光陰軽んずべからず」とは言いますが、この年になると、その言葉が本当に身にしみます。ちょっとしたことをしようとするだけで、時間が1時間2時間とたってしまう。時間が空くと、この間に何ページ先に進めるか、考えてしまいます。本を読むにも文章を書くにも、時間が足りない。自分のペースが遅いことが分かっているから、それだけに残された時間を惜しむわけですね。何とか工夫して時間を生み出す、これが新年の抱負のメインのような気がします。

 神田神保町で昨年末行ったReal School集中講座の様子です。夜遅くまで皆さんご苦労様でした。こうしてみると私はけっこう授業を楽しんでいるみたいですね。
       

1月1日

 明けましておめでとうございます!
 今年2006年も皆様にとって幸多い年でありますように!

 旧年中もたくさんの受講者がVOCABOWにいらっしゃいました。その中の、かなりのパーセンテージの方々が志望の学校・職業に行けたことは、私たちにとっても大きな喜びです。それはまた、VOCABOWの文章トレーニングの方法がたくさんの人を納得させる普遍性を持っていることの証拠にもなっているからです。

 受講生の方の中には、希望の進路に進めたことの喜びもさることながら、明快な文章の書き方が始めて分かった、苦手だった文章を書くことに自信が持てた、という声がかなりありました。これもとても嬉しい。方法は実践に役立つことで、始めて有効性が証明されます。自分たちの方法が、皆様の人生の方向を照らす光の一つになるなんて、そう味わえる経験ではありません。皆様、本当にありがとうございました!

 さて、私どもVOCABOWにとって、旧年中の大きい出来事の一つは神田神保町officeの開設とReal Schoolの開講でした。今までWEB空間上でばかり活動していたのですが、始めて現実空間に進出するわけです。不安がないといったら、嘘ですね。

 まず全体のデザインとプランを細部に至るまで考え、部屋の掃除をし、床や壁を綺麗にし、机や椅子を買いに行って配置を考えて並べ、看板を掲げ、本棚に資料を整え、授業計画を考え…とけっこう気の遠くなるような作業を一つ一つこなしてきました。もちろん、これは私だけの力ではとても出来ません。長谷を初めとしたスタッフの力が結集した結果です。それでも、直前までいったいどうなるのか、と思っていました。

 でも、年末に第一回のReal Schoolを開催してみて、その不安は吹っ飛びました。参加してくれた方々から、口々に「とても充実した経験だった」といってもらえたからです。実際、年末の忙しい時期、4−5日もぶっ続けで小論文を書いたり、志望理由書を手直ししたり、ということは受講者にも大変だったと思います。

 参加者は、ほとんど仕事を休んで参加していたようで、90分から120分の講義、その後に課題を書く、それが毎日の日課です。出てきた答案を次の日までに全部添削し、それを元に次の日に一つ一つを取り上げ、Workshop形式で皆で検討する。参加者が、他の人の書いた答案を批評し、自分の書いたものについては質問に答えるというバトル形式なわけです。ここで、相乗効果が生ずるのです。

 通信講座では、自分の答案とこちらの書いた「構成例」「解答例」を見比べて、どこが足りないかを理解します。しかし、こういう対面講座では、それに加えて自分と同じ立場の他の受講生の文章が見られる。これがすごいことなのです! 同じ立場だから、「構成例」「解答例」のように自分の答案とかけ離れていない。それだけに、欠陥や利点がよく見えるのです。「あの人があんなことを書いている。よーし、この次は自分も負けないようなことを書こう!」あるいは「今回はあの人に酷評された、この次は感心させるようなものを書こう」などと、良い意味の競争意識も出てくる。

 こうなれば、しめたものです。毎回提出される答案のレベルはどんどん上がっていく。それに対応して、こちらのコメント・批評も高度になってくる。ますます、知的好奇心が刺激される、という結果になるわけです。今回は、そのリズムがうまく行ったようです。出席者の皆様からの言葉を聞いて、私はほっと胸をなで下ろしました。

 同じ時期にWEB上で参加してくれた受講者の中には、つい年末の忙しさに紛れて、1ヶ月で1−2回しか提出できなかったという人もいます。もちろん、一人一人の事情は違うから一概には言えませんが、ある時期、多少無理しても集中して勉強するという経験が有効なのは明らかです。通信でやると、つい自分に甘えてしまうことがありますね。

 このような対面講座を、これから何回か企画しようと思います。予定はHP上で発表しますから、皆様要チェック! 気が付いたら申し込み日を過ぎていたとか、人数が多すぎて締め切りになっていたとかになるといけませんから、出席したい講座があったら、即お申し込み下さいね!

 さて、私の今年の執筆予定はというと、PHP新書から「主義の手帖―現代社会思想のカタログ」(仮題)、実務教育出版から「TOEFL Writingの方法」(スタッフのアンディとの共著)、「朝起きてから寝るまでの哲学」(スタッフの長谷との共著)がとりあえず決まっています。他にもベストセラー「論文試験頻出テーマのまとめ方」の新年度版、「記述対応現代文長文演習」の改訂版など。懸案だった講談社新書「不毛な議論の叩き方」も春には出版される予定です。今年も忙しくなりそうですね。

 では、今年もよろしく! WEBまたはReal Schoolまたは書籍でお目に掛かりましょう!