2006年10月
10/28

「教育崩壊」の幻想

 必修教科の履修漏れという問題はますます広がりを見せているようだ。すごいね。とくに東北地方での広がりがすごい。盛岡第一高校とか、私の母校である仙台第一高校など軒並み巻き込まれている。私が講演をした高校のいくつかも入っているらしい。皆、教育熱心な高校ばかりでホントに気の毒だ。

 私は父が大学の教師、母が進学校の高校教師、という家庭環境で、日本の中等・高等教育の現場のシステム矛盾を身をもって体験してきた。前にも言ったけど、私の幼少期の遊び場は女子高校と大学構内だったのである。そういう人間から見ると、今度の騒動はホントに馬鹿馬鹿しい。素人が知ったような口聞くんじゃないよ、と言いたくなる。

 たとえば、伊吹文部科学大臣は「救済措置は執らない。補習でも何でもやってもらって、卒業させるようにしてもらう」と言っているらしいが、何を言っているんだろうね!? 今年になって、問題が表面化したのだが、こういうことは何年にも渡ってやっていたことだ。だとすると、過去に卒業した人は必修をとらないで卒業したことになる。伊吹氏がこんなカッコよい啖呵をキメるつもりなら、当然、公平を期すために、今まで必修科目をやらないで卒業した者の卒業資格も取り消す覚悟でしょうね?

 その結果、おそらく10年ほどにわたって、実は高校卒の資格がないのに卒業していたという世代が世に溢れる。その数、何万人ということになるか私は寡聞にして知らないが、その後始末もしなくてはならない。現在、大学生になっている連中、就職して会社員になっている連中、そういう人々の高校卒業資格をすべて取り消して白紙に戻し、全国的に世界史の補習授業を行う、という大事業をやろうというわけだ。

 もちろん、彼はそこまで考えているわけがない。そんなことをしたら、社会的に大混乱が起こるに違いないからだ。(ちょっと見てみたい感じもするけど…)でも、文部科学大臣の言葉がこんな簡単な論理さえたどれずに言っているとしたら、ほとんど「バカの壁」以下である。こういう連中が教育についていっぱしの発言をしようと言うのだから、夜郎自大もはなはだしいと言わねばならない。

 こういうことになった原因は何か? 簡単なのだ。高校の評価が大学進学によって決まっているからである。その高校が良い高校かどうかは、卒業生が良い大学に何人入ったか、で決まる。それ以外の基準は今のところない。この条件を、高校側はどうしようもできない。この条件の中で努力して、良い結果を出すほかないのだ。ところが、文部科学省の指導要領を守っていたら時間が足りない。だから、表面だけつじつまを合わせて、結果を出すように工夫・努力したのだ。

 こんどの文部科学大臣の言は「失業者が出てくるのは、企業が労働者を雇わないからである。ちゃんと労働者を雇え!」なんて言っているのと同じことである。雇わない企業に罰則を与える経済政策をとったらどうなるか? 制裁が恐いから企業は雇うかもしれない。しかし、当然、それだけの仕事量はないから、企業内で働かない労働者の数が増える。そういう人間の賃金は下がる。生活できる限界以下になったら、労働者は自主的にやめる。もし、かまわずに高賃金を払っていたら企業がつぶれる。結局、失業者はまた増える。

 教育だって同じだ。大学に入れるために、それぞれの高校は熾烈な競争を戦っている。進学率ないし進学する大学のレベルが下がれば、高校の評判は地に落ちる。だから、大学入試用の勉強に特化する。でも指導要領でそれが出来ないとなったら、苦肉の策を弄しても現実に合わせる。だから、表面だけ指導要領を守っている振りをして、実は裏で受験対策をやっているのだ。その努力をいったい誰が非難できるのか? 

 もし、上記の努力をを文部科学省が禁じたらどうなるか? 地方の名門校をつぶすだけだ。今度、履修漏れを起こしていた学校はそういう学校が多い。大学に入学者数を上げるために「なりふりかまわず」(毎日新聞の表現、何という悪意!)努力していたところだ。それが出来なくなるから、当然受験教育のレベルは下がる。結果、大学入学者数も減る。名門校はただの高校になる。

 でなければ、高校が担当しない分を塾・予備校が引き受ける。高校は粛々と指導要領をこなすだけの儀式の場と化し、意欲ある教師は辞める。意欲ある生徒も高校には期待しない。実質的な勉強は塾・予備校に依頼するという結果に終わる。今までの都市の「名門校」で起こったことがまたぞろ地方で繰り返されるだけである。

 でも、よく考えてみれば、そういう教育を「イカン」と否定して、「高校よ、もっとちゃんと教育しろ」と言い続けてきたのが文部科学省ではなかったのか? 今更、自分だけ良い子ぶって、高校の現場に責任を押しつけるなんて、無責任きわまりない。それに「なりふりかまわず」と書いていた記者よ、君は大企業に入ったけど、そういう現場の努力の恩恵は受けなかったと言えるのかな? 自らを省みて罪がない者がまず石を投げよ! それぐらいの倫理は持ってほしいものだと思う。

 もし、指導要領にある科目を学ぶことが高校生の必須の教養だとどうしても主張するのなら、それに基づく高校卒業一斉テストを実施して、生徒の到達度をチェックするしかない。大学入学検定試験のようなものだ。何科目にもわたって、詳細なテストが必要になる。もちろん、基準点に達しないものは容赦なく落第させる。そうすれば、必須の教養は身につけたことになる。しかし、高校生の負担は大変なものになるだろう。テストを作る費用は国庫から出るのだろうか?

 もう一つ、今のように個々の大学が勝手に試験科目を設定することはやめさせるべきだ。大学がそういうことをするから、高校はそれに合わせなければならなくなるのだ。大学には入学試験の科目を左右できないようにする。これこれの科目を試験せよ、と文部科学省あるいは高校側が指定する。大学側の自由はなくなる。

 一番簡単なのは、高校卒業一斉テストに合格した者には点数順にどこの大学に行っても良い、という資格を与えることだ。そうすれば、必須の教養を身につけた者が卒業し、大学生にもなる。文部科学省が想定する理想の大人もできるだろう。高校側は、そのレベルをクリアするようにそれぞれ努力する。これなら、高校が卒業生の質を保証するシステムの主導権をとれる。

 もちろん、履修漏れを批判する人にはこんな改革は出来るはずがないし、そもそもそんなことをしようという気もない。そんな覚悟もなくて、ただ「ルールを破ったのはいけない」ぐらいの素朴な認識で批判しているだけだ。「学びからの逃走」などと書いた有名な学者も、そんなアホなことを言って文部科学省におもねっている。教育の現場を知らない者など、教育学者の名に値しないと思う。

 これに限らず、教育で一番問題なのは、現場のやりくりを知らない人間が主導権をとっていることだ。デスクワークならルールも適当に作れる。しかし、現場でやることは、そういうつじつま合わせのゲームとは違う。限られた時間の中で、目に見える結果を出さねばならない。現場は人間を作っているのである。その大変さを実感できない人間があれこれ勝手な想像を膨らませて、おかしなドグマやルールを押しつけ、その幻想が守れないと言って嘆き、実際に苦労している人間を恫喝する。この権力関係はどう考えたっておかしい! 

 近頃、教師の抑鬱傾向が増している、という調査結果があったらしい。むべなるかな。無理なことをさんざん押しつけられて、お前が悪いと言われれば、誰だってキレル。しかし、悲しいことに、教育成果のおかげで教師はキレることができないように自己コントロールできる。後は自分を責めて鬱に逃げ込むしかないではないか。つくづく現代の教師には救いがないと思う。

 この構造は、医療過誤は全部医者のせいだと現場に責任を押しつける構造とよく似ている。畏友小松秀樹氏は『医療崩壊』でその惨状を「立ち去り型サボタージュ」と名付けて大きな反響を得たが、教育も同じだと思う。教師の給料も下がるそうだし、良い教師はもう学校にいたくはないだろう。専門職をいじめて一般市民は溜飲を下げるかもしれないが、将来的には機構が崩壊して、教師叩きした者たちが割を食う。実は『教育崩壊』は、現場を無視して教育制度をいじりたがる人たちとその尻馬に乗った者が引き起こしているのである。


10/19

教育再生会議の愚

 政府で教育再生会議とかいう会合をやっているらしい。どうせ人気取りのためだろうから期待はしないが、はた迷惑なことだと思う。前著の『だまされない〈議論力〉』にも書いたが、今や日本の若者はサバルタンと化している。だから、発言力を持つ大人は若者について何でも言える立場にある。その結果、その人の妄想・勘違い・幻想・過度な期待、など何でもぶち込めるという状態になっている。

 「他人を見下す若者たち」とか「ケータイを持ったサル」だとか、若者バッシングは必ず大人に受けるから、政府・マスコミは派手にぶち上げる。たしかに議論は百出するだろう。しかし、どれも妄想に基づき、現実性はないから、実効力のある対策は出ない。その結果、「教育バウチャー制度」など、とりあえず目玉になるような施策を一つ出しておしまい、という無惨な結果に終わるだろう。

 教育をヒット商品の生産や何かと間違えていないか? たしかに競争をすれば、すぐれたものは精選される。しかし、教育の目的は「すぐれたものの生産」に尽きるわけではない。人間は社会のインフラの最たるものだ。すぐれて傑出した者がいても、全体としてそれをうまく生かすシステムがないと、結局社会は停滞する。その意味で、初等・中等教育の目的は、すぐれた人間を作ることにはない。平均的な人間のレベルを少しでも上げて、社会が円滑に動けばいいのだ。全面的競争させてすぐれた人間を作るのは、高等教育の役割なのだ。

 そもそも、一人や二人すぐれた人間が出てきたって、全体のレベルが上がっていなければダメなのだ。たとえば、アメリカの大学に来ている発展途上国の学生はほぼ例外なくムチャクチャ優秀だ。日本人留学生の何倍もすぐれていると思う。しかし、その人たちが学業を終えて帰って、政府の要職について、どれほどその国が発展したか? ほとんどよくなっていない。彼らの優秀さを支えているのは、彼らの資質だけではなく、先進国の大学という特殊な環境なのだ。優秀さが発揮されるのも、実は大学という社会インフラが必要なのだ。それには、学生だけでなく、事務も食堂も掃除も電気も水道も必要なのだ。それを支える環境が故国にないから、どんなに優秀でも現実を変えることはできない。

 この間、ノーベル平和賞を受けたモハメド・ユヌスとグラミン銀行はそういう矛盾をなんとか解決しようとする試みだったと思う。バングラデシュに生まれ、アメリカに留学し、経済学を学んだ。帰ってきて大学の先生になる。なるべく美しい経済理論モデルを作ろうと研究する。しかし、大飢饉を経験して、こんな経済学では役に立たないと、経済理論と現実とのギャップに突き当たるのだ。

 村に行って、貧困の調査を開始してみると、最も貧しいのは女性であり、その原因がほんの少しのお金の不足であることが分かる。たった二、三十ドルのお金がないばかりに、村民達は高利貸しから資金を借りて仕入れをし、たとえば竹の籠を編む、できた製品を又高利貸しに納める。その過程で、利益のほとんどをとられてしまう。貧困の悪循環から出られないのだ。

 しかも、銀行では「担保がないから」ということで貧困者向けの融資はしない。富裕層にばかり貸そうとする。村の人々は働こうとする意欲もあり、そのためのテクニックも持ってるのだが、最初の少額の資金が足りないばかりに、貧困から抜け出せないのだ。そこで、ユヌスはこの悪循環をなんとか変えるべく、「マイクロ・クレジット」という貧困者向けの少額融資を始めるのだ。

 ほんの2、30ドル。その資金を「マイクロ・クレジット」は最も貧しい女性たちに貸し付ける。人々はそれを使って自分の才覚で商売を始め、貧困から抜け出す第一歩を踏み出すのである。そうやって、第一回の返済日に借りたお金を返すとき、ほとんどの人は「自分もできる」という達成感ですごく興奮するのだそうだ。自分が変わり、周囲が変わり、世界が変わる。ローン返済率は97%に達している。

 くわしいことは『ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』(早川書房)に書いてあるので、ぜひ読んでほしい。今や彼の銀行は、バングラデシュ政府にも匹敵するほどの規模になっているという。成果も著しく、貧困層の2/3が貧困から抜け出しつつあるらしい。

 皮肉なことは、ODAやIMFなどの巨大機関が、巨額の援助資金を注ぎ込みながら、今まで何十年もの間、この貧困の問題をまったく解決できなかったことだ。資金のほとんどは政府の支配層に行き、腐敗の温床となった。IMFなどは「途上国を援助しよう」と口当たりの良いことを言いながら、結局してきたことは、経済理論の硬直的な応用、その結果の経済の停滞、人々の更なる貧困化にすぎない。ユヌスのグラミン銀行にもIMFが何度も融資しようと持ちかけたのだが、すべて断ったそうだ。巨額の資金と引き替えに、IMFに口を出されては、「マイクロ・クレジット」のシステムはムチャクチャになってしまうからだ。

 私は、この話はそっくりそのまま日本の教育談義にも適用できると思う。教師や若者は発展途上国に例えられる。教育再生会議なんてODAやIMFみたいなものだ。高所からあれこれマクロな制度をいじって、途上国の状態が何とかなると思っている。この教え方をしろ。ああいう方法もある、ここに気を付けろと現場に口を出す。これが今まで教育現場にどんな混乱を持ち込んだのか、ちょっと反省すべきだと思う。

 現場の人間=教師は何をやればいいのか、それぞれ自分の方法と技術を持っている。その誇りもある。その誇りをムチャクチャにして、何ができるというのか? むしろ、その方法が生かせるように最初のきっかけを与えてやればいいのだ。後は、その人たちが工夫してレベルを上げてくれる。そういうシステムにしなければならない。

 政府がいろいろと制度いじりをして、教育がうまくいった例はない。この間の「ゆとり教育」とその悲惨な顛末を思い出せばいいと思う。そんなことより、もっと論理的な思考ができるための方法や、文章が上手く書けるためのテクニックや、本を読んで理解するためのやり方など、具体的なアイディアが噴出することが大切なのだ。百マス計算だって悪くはない。あの簡単なアイディアが教育を変える特効薬だ、とあれだけ期待されたのは、具体的だったからだ。でも、具体的なアイディアであるだけに、その射程は限定されている。百マス計算さえすれば、教育全体が変わる、なんてのは明らかに幻想だ。

 大切なのは、ああいうアイディアが特別のことではなく、様々な試みとして出てくること、かつ、それを教師が学ぶチャンスがあること、さらに実験してみる勇気と余裕があることだ。その環境を作るのが、制度設計ではないのか? それなのに、教師の評価に役立てるとか言って、詳細な報告をさせる。ただでさえ忙しい教師の時間を、そういう文書作りでさらに忙しくする。どうせ、そんな報告など校長や教育委員会は細かく見るはずがないから、膨大な書類はただ無駄になる。かといって、出さないとにらまれる。膨大な書類と恣意的な人事。もうムチャクチャである。

 「教育バウチャー制度」の結末も見えている。実力主義・成果主義を教育に導入するのだと政府は言うが、そういうフィクションがどんな惨状を生むかは、城繁幸『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(光文社)に詳しい。多少叙述はゴチャゴチャしているが、現実と理念の複雑な関係を理解するのに、こんな良い資料はない。きっと教育に「成果主義」がこれ以上持ち込まれたら、もっとひどいことになるのだろうな、と思う。

 経済学の原則は、直接に状況を動かそうとするのではなく、実際の現場が自発性を持つように制度設計をしなければいけないということだ。グラミン銀行のように、そのアイディアとテクニックはちょっとしたところにある。それをどうやって見つけるか? 見つけたら応用する。頑張る人を励ます。達成感を持たせる。直接命令するのではない。

 その具体的な積み重ねしか、良くなる方法はない。今度の再生会議には経済界から何人か来ているはずなのに、そういう簡単な原理も分からないのだろうか? 

10/3

海外の衝撃・中庸の美徳

 学生数人を引き連れて、海外に行って来ました。もうこっちも老い先短いから(というのは大げさだけど、とにかくもう若くないのは確か)、こちらが体験したことを年下世代に伝えておかなくては、と使命感に燃えて連れ出したわけ。

 国際経験の豊かな若い人々がいる一方で、今回連れて行った人達はほとんど海外経験ゼロ。中国に行ったという人がいるくらい。皆、国内ではとても優秀な連中なのだけど、海外経験では「下流」(!?)に甘んじている。だから、見るもの聞くものがすべて面白いらしい。とくに今回連れて行ったような「途上国」は新鮮みたい。前の日からわくわくして眠れなかったとか。

 室内で生まれたネコを初めて外に出したときのことを思い出しちゃいました。抱いて外に出ると、家の中では我が物顔に振る舞っているネコが、キュッと身を固くしてしがみついてくる。その緊張が自分にも伝わってきて、慣れていた車の音のすさまじさにあらためて気づかされる。他者の反応を通して現実を見る面白さ。こちらも彼らと旅行することで新鮮な驚きをたくさん得た。

 学生たちはもちろん「しがみついた」りはしないけど、やっぱり新しい環境にとまどうし、何となく頼りにもされる。空港で降りた途端に集まってくる荷物持ちのポーターたちを追い払えない。ガイドをしてもらった現地人に過大な金を巻き上げられる…一つ一つの行動が「冒険」になるわけです。

 外国を旅行するということは、本国なら何でもない日常がいちいち刺激になることです。そういえば、私もアフリカの田舎町のバス・ターミナルで切符を買えずに途方に暮れたことがあったっけ…。盗難にあったりだまされたり、けっこう海外経験の授業料は高かったかも…。でも過ぎてみれば、それは全部楽しい思い出だし、すべて人生の智恵になっている。彼らにもそうなって欲しいと切に思う。

 今回の場所は、ボカボの長谷さんのいわば第二のHome Town。何十年も前からおなじみの所です。彼女のおかげで、学生たちにはかなりディープな経験を提供できたような気がする。地元の人と出会う仕掛けもいっぱい。ホテル一つ取ってもごくごく安いHome Stayから超高級の老舗ホテルまで、値段の点でも20倍くらいの開きがある。市販のツアーじゃ、とてもこんな体験の幅は望めない。高級ホテルはたしかに快適だけど、彼らは安いHome Stayのご主人とコミュニケーションできたのが一番良かったみたい。いろいろ丁寧に教えてくれたので、「師匠!」という感じで慕っていた。

 面白かったのは、「途上国っていうから、全体的にもっと原始的なところだと思ったけど、そうじゃなかった。想像以上です」という彼らの感想。TOKYOというモダン・シティにいるので、つい、それ以外は「遅れている」と感じてしまうのだけど、それが二項対立的思考の落とし穴ですね。TOKYOは一つの方向に発展・洗練してきたのに過ぎないので、「途上国」はそれ独自の発展・洗練がある。文化相対主義なんていうけど、それがなかなか実感できない。つい、進歩と停滞というありきたりの二極イメージになっちゃう。

 だいたい、ある方向に発展するということは、新たな矛盾も抱え込むということです。それを解決しようとして、また「発展」が起こる。良い面と悪い面の両方が出てくるんだな。その両面を見なければ、大人の認識とは言えない。それを一方に良い面を割り当て、他方に悪い面を割り当てて、自己正当化をする。これは思考の怠惰です。両極を睨みつつ、極端な断定に走らず、「中庸」の精神を保つ。アリストテレスの「ニコマコス倫理学」じゃないけれど、これはすごく大事なことだと思います。

 極端に走ると良くないと言う例は、海外に限らず、色々なところにある。たとえば、ロースクール受験でも、まず適性試験対策にばかり力を入れて、志望理由書・小論文で無惨に失敗したり、逆に適性の点数が悪いばかりに受けたかった学校で足切りされたり、今年の結果を見ているとバランスの悪い人が目立つ。両方ある程度こなす中で見えてくることが多いのにね。

 10月7日からReal School 法科大学院 セミナー「小論文Start Up!」「適性試験Start Up!」が始まります。どちらにも偏らず、全体の学力を上げる良い機会だと思います。まだ余裕はありますから、不安のある方はお申し込みを。