11/27 ●見事な紅葉 何だか暖かくって、ちっとも秋らしくなかったのだけど、私の住んでいるあたりでもやっと紅葉になりました。イチョウはいつものように見事に黄色くなったし、サクラの葉っぱも今年は赤くて鮮やか。サクラは春の花と秋の葉と二度見所があって、得した気分です。自然はちゃんと摂理どおり約束を守ってくれるから、律儀な奴だと思う。
そういえば、他にも原稿がたまっています。急いで書かなくっちゃ… |
11/19 ● えんぴつで書くプルースト! この頃、『えんぴつで書く…』という本が売れているらしい。『えんぴつで書く奥の細道』『えんぴつで書く徒然草』など。こういう流行には、呪術的な感じ方が影響していると思う。一つ一つ文字を書き写すうちに、その名文が自分の血肉化する、というような感覚。写経の行為に持ているかも…。もしかしたら、強い人間の肉を食うと自分も強くなるというカニバリズム(人肉食)の名残かもしれない。 小論文を教えていてもよく言われるのだが、「模範解答は書き写した方がいいのでしょうか?」なんて質問する学生がいる。「止めときなさい、何の役にも立たないのだから」と言うと、すごく意外そうな顔をする。「昔、学校の先生に『天声人語を書き写せ』と言われたんです」。けっこう学校教育の現場では流通している伝説らしい。「で、君は実行していたの?」と聞くと、たいていやってない。実行できない方法には意味がない。なぜ、良いと言われてもやらないのか? 私はその直観の方が大切だと思う。 この行為がなんだかおかしいのは、書き写すものの性質を分かっていないことによる。文章は子供が親の口まねをするような方法では習得することが出来ない。なぜなら、同じ言葉だと言うけれど、話し言葉と書き言葉はまったく違うメディアだからだ。 たとえば、話し言葉はすぐ消える。息づかいや声の大きさが理解に影響する。さらには、身振り・手振りというヴィジュアル情報すら介在してくる。リズムやメロディは唱和しやすい。つまりは、集団的・身体的なものを志向するメディアなのだ。それに対して、書き言葉は紙の上に残る。基本的に白い紙の上の黒い文字というモノクロの世界。その中に自分の理解やイメージを投影する。読み直したいと思えば、何度でも過去に戻れる。基本的に個人的・自己言及的なメディア。 もちろん、書き言葉の中でも話し言葉に近いものはある。それは韻文だ。リズムがあり、リフレインがあり、息づかいが伝わるように作られる。散文はその反対。リズムは隠される。リフレインは禁じられる。ロジックと思考が前面に出る。百人一首を暗記することは日本の伝統に繋がり、意味があるかもしれないが、山崎正和や吉本隆明を暗記しても仕方ない。むしろ、他人の口まねをして、同じことを繰り返すのは「エピゴーネン」として蔑まれる。散文は徹底的に個人の言語なのである。少なくとも、そう振る舞うことを要求されている言語なのだ。 書き言葉の世界の中での振る舞いは、だから人真似をすることではない。文章を通して自立を目指すしかない。自分の思ったことを試行錯誤で書いていく。その中では、昨日読んだ小説やエッセイの単語や表現が入っているかもしれない。身の丈に合わなくても、それを自分の行間にはめ込んでみる。うまくはまる場合もあるしはまらない場合もある。書いた物をもう一度眺めてみる。言いたいことがその中から読みとれるかどうか、吟味する。そういった作業を繰り返す中で自分の好みや文体も決まる。 文章を書く、ということは、基本的にこのメディアの要求する孤独な姿勢・振る舞いを身につける、ということに帰着する。それさえきちんとあれば、その個々のスタイルは実はどうでもいいのだ。長々と連ねる野坂昭如の文章だって、短文でまとめる志賀直哉だって、どっちも文章としてはO.K.だ。主張・立場だって右から左まで色々あってよい。右だからあるいは左だから、という理由で日本では言論が弾圧されると言うことはない。それが許容されているということは、実際は立場の違いより、きちんと孤独かつ丁寧に思考されているか、を読者は感じているということなのだ。 だから、他人の文章を「そのまま書き写す」という行為は、良い文章を書くとは対極の行為だ。「よい文章」という勝手なイメージを無反省に膨らませ、それをひたすら書き写すことで近づく。これは、ほとんど集団や権威と同一化する行動だ。これでは良い文章にならない。むしろ、「文章が書けない」というコンプレックスを忘れさせる、あるいは「自分も書ける」という幻想をはぐくむ代償行為なのだ。こういう流行は困ったものである。 このような「練習」を繰り返していたら、いつまでたっても自分で文章を書けるようにならないだろう。自分が強い人になる努力をする代わりに、強い人の肉を食べて強くなろうというお手軽で愚劣な方法とどこも違わないのである。『えんぴつで書く…』の流行は、日本人にもちゃんとカニバリズムの伝統が生きていた証拠かもしれないね。 『えんぴつで書く…』のばかばかしさは、これのシリーズ化を考えてみればすぐ分かる。『えんぴつで書くプルースト 失われた時を求めて』とかさ。ちょっとイメージしただけでも、写経よりもすごい精神力が必要だろうな。コルク貼りの部屋に閉じこもっても、完成までには数年かかるだろう。挑戦してみますか? フランス文学じゃイメージがわからないのなら、『えんぴつで書く源氏物語五十四帖』なんかどう? 相当疲れるけど、紫式部になれるかも。あるいは『えんぴつで書く日本文学全集』『えんぴつで書く世界文学全集』ならノーベル賞ものか? 『えんぴつで書く広辞苑』、『えんぴつで書く大漢和辞典』…。まだまだ考えられるけど、これでもやっぱりえんぴつで書きますか? さて、10-11月のReal School「法科大学院 Start Up!」コースも来週でおしまい。8回で受講生は確実に成長したけど、上のような質問が出てくるというのでは、まだまだ足りないところも多いと言わざるを得ないね。年末のReal School「法科大学院 小論文・志望理由書 冬のセミナー」ではその辺をもっと追究したいと思ってます。特に法科大学院の志望理由書は、毎年適性試験の後にバタバタする人が多すぎるね。少なくとも、法曹になるに当たって自分が何を考えているか、適性準備の嵐の中に突っ込む前に、整理しておいた方がよいと思いますよ。 |
11/15 ● 「下流喰い」の増殖 先週から今週にかけて、いくつか「格差社会」ものを読み直した。『下流社会』『若者はなぜ三年でやめるのか』『ニッケル・アンド・ダイムド』『希望格差社会』など。この頃、「格差」ものは売れるらしい。ベスト・セラーの上位にいつも何点かは入っている。自分がどのランクにいるのか、やっぱり気になるのだろうね。 一番面白かったのは、『ニッケル・アンド・ダイムド』。アメリカの女性コラムニストが自分で下層労働者を2年やって書いたのだという。当然、ディテールも充実している。最低賃金でレストランのウェイトレスをしているときでも、なんとか客にサービスしようとする。馴染みの客のサラダにたっぷりドレッシングをかける。肉には脂身をサービスする。そうしてアメリカ人が太りすぎに貢献する。それがウェイトレスの喜びなのだ、という。 泣かせるなー、こういうのは。そういえば、知り合いの大学生が出来たばかりの塾で働いたのだが、生徒の集まりが悪くほとんど無給状態。「もう辞めたら」と忠告したのだけど、それでも、「自分がいないと仕事が回らないっすから…」と一生懸命。けなげだけどバカ。経営者はそういう最下層の労働者の献身を利用して事業を存続させ、利益を出す。 しかし、『ニッケル・アンド・ダイムド』の悲しみはさらに深い。そういうことが分かっていても、労働者はどうしようもない。やはりどこかで自分が働く意義を見いだしたいという気持ちが働く。だから一生懸命働かざるを得ない。分かっちゃいるけどやめられないのである。 一方、『若者はなぜ三年で辞めるのか』は、20代の人々がなぜ早々と仕事を辞めてしまうのか、を解明する。原因は中高年の利益を守るために、若年層にしわ寄せが行く構造だって…。安い給料で下積みの仕事をさせられる。学歴が上がって能力も開発されているのに、目の前の仕事はつまらないものばかり。あまりのことに馬鹿馬鹿しくなって辞めるのだとか。 しかし、これもどこかで見たような議論だなー。以下は『日本のメリトクラシー』(竹内洋著)の中で、明治30年代の高等商業学校出身の会社員が書いた手記の記述。 朝夕簿冊の裡に頭をうずめていたり、機械的に事務を執るだけの生活。学校のとき努力して学んだ学問はなにも必要ない。かえって記帳の文体が下手だとか、速算や、往復文やなんかに骨が折れると云う始末。算術や作文くらいで十分… つまり、こういう事情は100年間変わっていないのだよ。今更のように嘆いたって仕方がないのだと思う。 それに、著者は、年長者を食わせるために若者達は下積み仕事を安月給でさせられると憤るけど、これもどうしようもなくデジャ=ヴュ。「団塊世代は無能なのに、仕事を牛耳っていてけしからん」って、私はバブル時代に会社に入った人々から何度聞いたことか。『若者は…』の年功序列批判はそれとまるで変わらない。でも、そういう人たちが前の世代と比べて、どれほどすぐれた仕事をしたのか、私には分からないけどね。 もう、こういう「私が恵まれないのは、前の世代が悪いのだ」言説は止めたらどうか、と思う。何でもかんでも、世代対立に落とし込んで一件落着!とさせるのは悪い癖だ。これはたんに「若い者はいつも正しい」という議論で、「若者はいつもけしからん」という議論と同じくらいステレオタイプだ。 そもそも、低賃金の下積み労働に従事させられるのは、前世代のせいではない。たんに資本主義のロジック。高賃金を払えば利益が少なくなる。だから、なるべく人件費を減らす。いくら経営者が人情があっても、この基本構造から逃れられない。前世代ではなく、世界がそういう仕組みになっているのだ。文句を言いたいのなら、その仕組みそのものに文句を言ったらどうか? それを、「前世代だけが特権をもらっている」なんて憤懣をぶつけるのは見当違い。笑っている人間は別にいるのだ。 この頃、「下流喰い」という言葉があるらしい。要するに社会的弱者からさらに金を搾り取るというアコギな商売らしいのだが、こういう『若者は…』の言説も、「下流喰い」しているように思えてしまう。「下流」は教養・情報が足りないので、何度も同じ詐欺に引っかかる。それを利用して、不満を真の原因からそらし、ますます搾取システムを強化するのである。 マルクスは「宗教は民衆の阿片だ」と言ったが、「下流喰い」言説はまさにこの阿片性を利用して人々の一体性や忠誠心を高め、それを利用して自分だけちゃっかり利益を得ようとする。プチ・ナショナリズムとか、スピリチュアリズムとか、根っこは一緒だろう。 この頃は『三位一体』という本が流行っているらしい。「この原理を知れば、世の中なんでも理解できる」というのだが、面白そうなエピソードが散乱し、ところどころで「これも、三位一体で考えれば分かるわけです」なんて合いの手が入るだけ。読んでもいったいどう役立つのかサッパリわからない。ただの儲け主義にしか見えないんだけど。 これ、どこかで見たことがあるなー、と思っていたら、ある予備校のカリスマ先生が書いた『ロジカル・シンキング』という本に同じ仕組みがあったのを思い出した。これもいろいろ適当な成功エピソードが書いてあって、数ページ毎に「これこそ、ロジカル・シンキング!」と繰り返される。でも、これだけでどこがロジカルなのか? 『ロジカル・シンキング』は『ロジカル・シンキング』という教えを広めることとは違う。 しかし何と言っても、「下流喰い」の究極は、この間明らかになった内閣府によるタウン・ミーティングの「やらせ事件」かもしれない。教育基本法の改正をねらって、市民との対話を装いつつ、実は教育基本法改正賛成の意見をわざわざ依頼して言わせていた、しかも謝礼金まで払っていたのだとか…。 あまりにもすごすぎる発想! 「公平な意見発表の場にしようと思って」と言いわけしているらしいが、「公平」というのは、両方の意見を形式的にそろえることではない。自発的に出てきた意見を正しく扱うことだ。要求も意見もない内容を捏造して、「公平」を装うとは、不公平そのもの。自分で火を付け、自分で火事だ火事だと騒ぐ。こういう所業を昔は「マッチポンプ」と言った。 テレビ局がやらせをやったときには、あれだけ政府も非難したのだから、自分たちがやったことにも厳正な処分をしてもらいたい。そもそも教育基本法改正などに民意がまったくなかったことが明らかになったのだから、成立をすっぱり諦めるべきだ。「粛々と成立を目指す」など恥知らずといったら言い過ぎだろうか? こういうことをやっていると、政府与党に対する信頼を堀崩すということも分からないのか? 大衆をバカにしつつ「これがあなたのしたいことですよ」とか「皆はこういうことを思っているのですよ」とか、策略で思い込ませようとする。もし、それをやって恥じないのなら、政府与党も「下流喰い」の一族だと判断するしかないと思うのだが。 |