2006年12月
12/31

前半の終了、後半の始まり

 12月30日までの「冬のセミナー」小論文コースがやっと終わりました。いつものことながら、師さえもひた走るこの時期に集まってきた受講生の皆さん、ご苦労様でした。教室の中では、議論と思考のデッドヒートが行われていました。でも宿題も残っているので、おせちを食べながら構成を考えていてくださいね。正月のテレビ番組なんてどこも同じだし、初詣に行ってもごったがえすばかり。案外、小論文を考えていた方が面白いかも…

 だいたい正月に限らないのだけど、テレビ番組の質は低下の一途をたどっていますね。ほとんど大人の見る物はない。高齢者の方と話すと、「最近のテレビは面白くない」と口をそろえます。若いタレントが出てきて、内輪話をダラダラとやっておしまい。放送関係者にしか関係のない話を何で視聴者が聞かなきゃいけないのか? 世界がテレビという中で閉塞されている感じがたまらない。

 こういうことを言うとオヤジ扱いされるから、言いたかないけど、昔のテレビは面白い番組もあった。「お荷物小荷物」なんて覚えている人いないだろうな。男ばかりの家族の中に、若いお手伝いさんが入っていって引っかき回すという設定のドラマなのだけど、その最終回は今でも覚えている。

 主人公の娘を男達が皆好きになって追いかけ回す。娘はトラブルを避けて逃げ出す。家中追っかけ、通りに出て、はてはセットから出て、スタジオ中を追いかけ、放送局も飛び出す。逃げ回る主人公、追うカメラ、周りで笑うスタッフ達、何が起こったのか、ふりかえって見ている通行人。一瞬にして、テレビ内から世界につながる。テレビと社会の仕組みを一瞬相対化する見事なつくりでした。

 たしかに、この手は今は使えない。スタジオから外に出ても、そこはテレビの外ではなく、やっぱりテレビの中に過ぎないという感じがあるからです。だからこの手段では外部とはつながれない。世界がのっぺりと情報化という趨勢の中で繋がって、どこにも逃げ場がない。それが情報化社会あるいはネットワーク社会の払った代償なのです。「情報無限地獄」というか…

 でも、TVディレクターたちには何か工夫してよ、とは言いたい。テレビや映像という小世界に閉じこもり、「あたしら、大したこと出来ないですみません」と白旗挙げているんじゃ周囲の人に影響を与えるメディアを預かっている責任が果たせないでしょう。ドラマなんて超保守的な作りで、泣けるとか泣けないにこだわるだけだし…。後はスポーツとネイチャーもの? 何を見るかと迷ったあげく、結局駅伝と昔の映画とドキュメンタリー。これではいい加減、飽きるよね。

 この何ヶ月かだけど、「新しいものを作るのは業界の存続のためである」という言い方が目立ってきました。たしかに何でもそう。番組を作るのでも、本を出版するのでも、何か新しいことを見つけなくてはいけない。しかし、やっている方は毎回毎回イノベーションを求められるので食傷している。「新しい」ことをやりたいのではなく、それをしないと経済的に成り立たないから仕方なくやっている。そういう倦怠感が蔓延している。ムードは確実に衰退と退廃に向かっている。

 そういう意味で言うと、ただテレビを見てぐたぐた休んでいるより、頭が自発的に回転している方が数段面白い。問題にぶつかって、「どうしよう」とか「どうすれば上手くいくか」などと工夫する。しかも、その問題は解けないほど難しいものではなく、努力すれば何とかなる。そういう適度な大きさの問題を考えている「私」を感じられる状態って、けっこう心地よいんではないでしょうか? 数字パズルの愛好者が増えているそうだけど,集中しているとき頭がスカッとするのがやはり気持ちいいんだろうね。 

 お正月気分が終わるとまもなく、ボカボでは「冬のセミナー」志望理由書コースが始まります。受講者の方々、頑張りましょうね。何だか息つく閑もないようだけど、これはこれで精神衛生には良いのかもしれない、と思う今日この頃です。

 それではみなさんよいお年を!



12/21

タコツボ化する社会

 今年度のS学芸賞では、手塚治虫を論じたマンガ論が受賞したようです。著者は「人は見かけが9割」を書いたT氏。私はその本をまだ読んでいないので、直接の評価は出来ないのだけど、その後の展開が面白い。本の帯で「日本初の本格マンガ評論」と謳い、「マンガ表現論を包括的に論じる力を持った人がほとんどいない」と自著の前書きで発言したことに対して、強硬な抗議が相次いだそうだ。それに対し選考委員の三浦雅士が矢面に立たされて対応に追われている。石子順造や夏目房之介に限らず、マンガ論にはすぐれたものが多いのに、先行研究を一切評価せずに書くのはおかしいのではないか、という抗議です。

 それはそうだろうと思う。マンガを読む人は多いので、その中には相当鑑賞レベルが高い人もいるはずです。もちろん、マンガ論に対する視線も厳しいし、仲間達の間で論議も交わされたはずです。そういう人たちの眼から見れば、今度の賞を受けた本などそれほどすぐれたものに見えないのかもしれない。その意味で、審査員が一般読者の精選された部分ではなく、むしろ一般読者のレベルにも達していなかったという可能性すらある。これでは賞の意味はないでしょうね。

 しかし、もっと問題なのは、選考委員達が、マンガの現場や受容のされ方を知らずに、自分の狭い見聞・交友の範囲から受賞者を決めているのではないか、という疑念が拭えないことです。最近のテレビなどを見ても「内輪受け」の内容が多い。業界の中でしか分からないギャグをとばして、自分たちだけで受けている。言葉がタコツボ化しており、同質の人々の間で「あれ、面白いよね」「そうだね」という確認作業になっている。

 これはそれぞれの「業界」が巨大化すると共に、情報がその中だけで生産され消費されるという自己言及的な構造になっているからだと思います。出版界だって、そういう弊がよく見られる。ベストセラーを書いた人だから、あるいはよく知っている人だから、出版人に受ける内容だから、などという理由で判断する傾向が強いのではないでしょうか? そうやって、業界の中だけで評価している裡に、知らず知らずのうちに現実感覚が麻痺してしまう。賞の選考委員達も、そういうタコツボ化した評価になっていなければ幸いだと思います。

 さて、先週の金曜日に東大法科大学院の発表があったそうですが、ボカボの受講者からも東大合格者が出ました。京大法科大学院の合格者も出たので、これで東西そろい踏み。ボカボの方法の正しさの証明にもなった感じで、さすがに嬉しいです。合格者からのメールに、こんな内容がありました。

 未修の小論文の課題は法と社会の関係を広く原理的なレベルで問うものが多いですが、 法律家となる上では、法の解釈論だけではなく、こうした考え方も培っていきたいと思います。大学受験などで小論文の学習をしたことがないため、最初のうちは全然書けませんでしたが、 vocabowの講座を受けて大分力がついたと思います。

 司法予備校などに通っている人には、細かい法知識に頼って書く人が多いけど、そういう視野の狭いことでは大成しないと思います。法律はたんなる条文の突き合わせではなく、それを使って現実の紛争を解決していくことです。その意味で、法律の条文の中だけで自己完結するのは間違っている。「もう一度、原理的なレベルに立ち戻る」ことが必要なのです。法の解釈だけではなく、その法の成り立ちの基礎、さらには社会状況や歴史への関心と教養などが、実は一番大切なのです。

 現代では、自分にとって利益となる最短コースをたどって余計なことは切り捨てるという傾向が強いけど、そういう追求の仕方は、かえって「最短」にならないことも多い。全体像がつかめないからです。だから、未知のものが出てきたとき途方に暮れる。その全体観を与える機能を果たしているとすれば、幸せなことだと思います。ずっと信じてやってきた方法が有効だと分かってとりあえずうれしいナー。

 ところで、年末年始の「「法科大学院 小論文・志望理由書 冬のセミナー」」はまだ受け付けていますからお早めに。

12/16

労働と快楽の関係

 もう今年も残り後わずかです。ついこの間、お節(せち)料理を作ったばかりと思ったのに、もうまたその季節が巡ってきてしまいました。

 前にも書いたけど、我が家のお節は豪華です。いろいろ知り合いから珍しいものを送っていただくし、自分でも出来るだけ作る。しかも日本伝統風の煮物だけではなく、洋風・中華風、おいしいものは何でもウェルカム。結果は豪華絢爛、新春爛漫(そんな言葉はないか?)ということになる。

 毎年、出来映えに自分で感激して写真を撮っている。そのうち、HPにでも載せましょうね。皆様にせめて眼でだけでも味わっていただきたい。

 作るのは大変ですが、それがあるだけに喜びもひとしおなんですね。いくら豪華でも、お節を買ってすませたのではこの喜びは得られない。自分で苦労して作るところに意義があるのです。政治哲学者ハンナ・アレントは『人間の条件』という本の中で次のようなことを言っています。

 「労働の苦痛と努力を完全に取り除くことは、ただ生物学的生命からその最も自然な快楽を奪うことになるだけでなく、特殊に人間的な生活からその活力と生命力そのものを奪う…『神々の安楽な生活』はむしろ生なき生活であろう」(志水速雄 訳)

 何だか難しい表現を使っているけど、言っていることはごく簡単。適度な労働は満足を得るために不可欠だということです。

 こういうことが今忘れられている感じがしますね。自分にとって安楽のカードだけを集めると幸福になると思いすぎているのではないかな?もちろん、安楽なことは快適だけど、それだけでは人間的満足は得られない。その裏付けとなる労苦が少し必要なんです(疲れすぎてexhaustedになっては困るけど…)。それが無いと手応えがない。

 お金を使うのだって、愉しいのは自分が稼いだ金をぱーっと蕩尽するからです。解放感というかなんていうか。人からもらったお金を蕩尽したって、そんな解放感は得られない。それと同じで、食事も出来るだけ自分が作った方が主観的にはおいしい。私はそんな気がする。

 こういう発想を小市民的と笑う人がいるかもしれないけど、意外に現代ではそういう小市民的バランスを持続するのは難しい。つい、毎日レストランで飽食する大金持ちが幸福で、食べるものも乏しい貧乏人が不幸だという二分法に陥ってしまう。「勝ち組」「負け組」という言葉に踊らされると、こういう極端な考えになりがちですね。

 「足る楽しみ」なんて言うとやけに古くさい感じがするけれど、人間の身体が満足する範囲は意外に狭い。それをいろいろ情報を知ることで、つい身の丈を超えた欲望に苛まれてしまう。

 そういえば快楽主義(エピキュリアニズム)の元になったエピクロスも「一片のパンと一杯の水があること」を最高の快楽にしています。あまり貧乏なのも困るが、一方で身体的快楽に限度があることを知ることも必要かもしれません。それを超えて欲望しても「自分が豊かだ」という観念の単なる消費になってしまう。

 さて、新年を迎える前に、私はもう一仕事も二仕事もある。Writingの本がもう一踏ん張りだし、何よりもボカボ最大のトレーニング・キャンプ、あの年末年始の「「法科大学院 小論文・志望理由書 冬のセミナー」」が残っている。25日から30日まで新年は3日からと、集中的に小論文と志望理由書をこなすReal Schoolです。この合間にホンの一瞬だけ奇跡のように正月が来る。

 どうやって「冬のセミナー」を乗り越えるか、今は見当も付かないけど、その労働の後に来る快さは今からでも予測できる。こういう刻苦と努力とないまぜになった快楽こそ、人間の避けられない条件として受容しなければならないとアレントは迫っているわけです。うーむ。ユダヤの智恵は深い。皆さん、頑張りましょう。


12/8

●ひさびさの映画三昧

 11月の末にやっと東大・一橋などの入試が終わり、次のReal Schoolも12月末なのでボカボもしばしの休息(というほどでもないですが…)の時に入っています。そんなわけで、忙中閑ありというわけで、先週前半は映画を一日に一本ずつ見ていました。久しぶりの文化的豊穣に浸っている感じです。

 まず月曜日はTVでヴィスコンティの『若者のすべて』。初期のネオ・リアリスモの傑作で、若き日のアラン・ドロンが出ています。火曜日は渋谷で『エンロン』。アメリカの企業詐欺の記録映画。水曜日は新宿でアニメ映画『パプリカ』。ジャンルも内容もバラバラでしたが、それぞれ見る価値があるものばかりでした。

 ヴィスコンティはとにかく重厚というのがぴったり。イタリアの田舎から大都市ミラノに出てきた貧しい家族の発展と転落の物語。兄弟達が日雇い労働に従事するうちに、次第次第に生活レベルが上がってくる。その反面で、犯罪に手を染めて破滅していく者がいたり…この辺りは日本の高度経済成長期の混乱にも重なっていて、社会主義リアリズムみたい。そういう手法は今から見ると古くさい感じもするけど、この頃、日本映画で役者が下手なのに慣らされてしまっので、どの人も上手いのには驚きました。

 とくにアニー・ジラルド。この人をはじめて見たのは『パリのめぐり逢い』という恋愛映画でしたが、大人の女性の魅力に溢れている。知性美というのはこういう感じかと思いました。それがこの映画では娼婦役をやっています。アラン・ドロンと三角関係になって昔の恋人にレイプされて殺されて…純情さと蓮っ葉なところの演じわけなど見事なものです。しかも下品に堕さないでむしろ品を醸し出す。

 アラン・ドロンは珍しくまじめな若者役。彼は『太陽がいっぱい』もそうだったけど、陰ひなたのある複雑な感じが持ち味。それが純情な若者を演じているのだから、少し妙な感じです。でも、彼がやるから、そんな単純なキャラクターにも「不幸」「悲劇」の感じが色濃くつきまとう。人間の持つ重みというか存在感がストーリーと絡み合っているのです。このバランスが今の日本映画にはない感覚です。

 ストーリーも波瀾万丈で、もう終わるかと思うとなかなか終わらない。スープの変わりに量がタップリしたパスタを出すイタリアン・フルコースを食べさせられたみたい。整理がつかなくなりそうな複雑な箇所もきわどくつないでいく。監督の追求には感心するしかない。やはり名作なのです。

 次の日に見た『エンロン』は企業犯罪の実録モノです。アメリカのエネルギー会社がアグレッシブに行動して、人々の期待をあおり企業を大きくしていく。その手法は市場原理主義。ここ10年ほど日本を襲ったこの原理が、実は情報のごまかしによる詐欺の温床になったという矛盾を突きつけます。

 そういえば、9.11が起こったのはエンロンの問題が表面化してすぐだった。あわただしくアメリカはイラク戦争を起こしたけど、エンロンのおかげで資本主義の本質的な欠陥をごまかそうと、戦争を起こしたという感じがどうしてもしてしまう。

 面白いのは、見に来ている人がほとんど中高年だと言うことです。若い人はほとんどいない。バリバリの背広を着ている金融あるいは不動産関係サラリーマンと退職したやや裕福そうな人たちが企業詐欺の話を粛々と見ている。お金にまつわる映画だから、お金を取り扱う、あるいはお金を持っている人しか興味がないのか…妙な風景でした。

 うってかわって、次の日に見た『パプリカ』は若い人ばっかりでお金に縁がなさそう。うがった見方をすると、そういう状況だからこの映画の主題である無意識や心理に興味を持つのかな? とすると、昨今のスピリチュアリズムの流行も実は不況の影響だったりして。

 映画自体はなかなか面白い。前に押井守の映画を『三日坊主』で酷評したことがあったけど、それに比べれば脚本がまずウェルメイドになっている。筒井康隆が原作なので、他人の夢の中に入るというSF的な設定の可能性がとことん追求されて、ストーリーの発展が心地よい。

 普通、アニメでは初発のイメージが面白いのだけど、それが展開していくに従って、作っている人の物語レベルで教養の洗練不足が露わになる。この先キャラクターの行動がどうなるのか、途中で思考が進まなくなる。だから、ストーリーが停滞して歯がゆい。作っている本人もそれが分かるのか、つい自分の得意な絵の細部の作り込みで勝負しようとする。結局、ストーリーと絵のバランスが崩れる。

 しかし、『パプリカ』は少なくとも夢というテーマが一貫して展開するのが気持ちよい。とくに現実と夢との境が曖昧になって、どちらがどちらだか分からなくなる、というところがスリリングです。「夢から覚めた夢を見る」というような入れ子構造もさりげなく入る。押井守の映画でも、こういうメタ物語の構造はあるのだけど、『パプリカ』のようにそれがうまく全体に収まらず、衒学趣味に感じられる。『パプリカ』はその弊を避け、エンタテイメントに徹している。人間関係もお約束でわざと単純化する。その分、夢の構造が際だつのです。

 結果として、力を入れるところと抜くところがはっきりしていて、メリハリが効いた作品という古典的な完成感が出てくる。日本のアニメも成熟したんだなー、と感心してしまいました。これなら海外で高く評価されるのも無理はない。

 面白いのは、最後のクレジットタイトルで作画のところに中国名がずらりと並んだところでした。アニメーターのかなりの部分が日本人ではないのです。そういえば、今日本のアニメ界は人件費が高くなって作画を中国や韓国に依頼しているという記事を読んだことがあります。そのため、日本国内で技術継承が危機に瀕しているのだとか。

 日本では輸出商品としてアニメ映画が注目されているのだけど、その先端商品ですら、もはや他国の人の手を借りなければ作れなくなっている。先端と言っても制作現場の低賃金構造に支えられて繁栄していたのだとしたら、皮肉ですね。市場原理とグローバル化はここにも押し寄せている。だとしたら、後はやっぱり日本は『エンロン』みたいな世界になるしかないのか? 映画は面白いのに、それが暗示する日本の先行きにちょっと悲観してしまいました。

 ところで、年末のReal School「法科大学院 小論文・志望理由書 冬のセミナー」はまだ席の余裕があります。もうすぐ埋まると思うので、ご希望の方はお早めに!