2006年4月
4/22

新学期・新講座始まり

 この間お花見をしました。ボカボのスタッフや出版社の社長を交えて、事務所でパーティです。前に私の教えた高校生がビックリしていたけど、皆、キャラが濃い人たちばかりです。美食の話からトマス・アクィナス哲学の話まで、話題は跳びまくり。TVや雑誌の話で盛り上がるのに較べて、こういう大人の会話は面白いナー。
 vocabowでも若い人たちの受験だけでなく、こういう大人達の講座ができたらいいですね。もちろん講師はたくさんいる。Andyはアウグスティヌスをやりたいだろうし、同じくシカゴの同級生であるTaro-chanなどラテン語はおろか、古典アラビア語までできる。コーランから現代英語、仏語のテキストまでをみんなで読む講座なんてスリルがあります。大人が今まで読みたくても読めなかった原書の読書会、ぜひやりたいですね。
 豊富な言葉とお酒でちょっとほろ酔い加減になりながら、千鳥が淵の桜を見に行きました。もちろん、桜より人の方が多い。最後は良く行くフランス料理店でコーヒーを飲んでおしまい。

 そんなことをしていたら、もう4月の中頃。学校でも、新学期が始まってしまいました。昨日は大学最初の講義だったので、久しぶりに大学に行ってみたら、どういうわけか学生がごった返している。
 私の『日本の言語表現』というクラスも、教室に行ってみたら、何と100人以上の受講者が来ている。廊下にまで長蛇の列。入りきらなくて床に座っている。去年は50人、一昨年は25人だったから、年ごとに二倍になるという急成長ぶり。しょうがないから、大教室に変えてもらいました。それでもほとんどの席が埋まってしまう。一番後ろは遙か彼方で顔も見えない。10数年前は予備校でこういう状態もあって一瞬懐かしい感じもしたのだけど、そんな懐旧の情に浸ってはいられない。
 もともとそんな大人数を相手にするような授業形態ではないので、教務課に「こんな状態じゃ十分に学生の面倒をみれない。人数調整をしてくれ」と訴えると、「抽選をすればよい」とこともなげに言う。「語学や音楽では時々あることだから」。でも、可哀想ですよね。せっかく、この授業を取りたいと思って学生はわざわざ来ているのに、自分の能力や努力とは関係ないところで先生に落とされるなんて、泣くに泣けない。運命を呪うしかない。
 そう言えば、私も学生の頃、ジャズ評論家油井正一の音楽ゼミで応募人数が多くて抽選が行われ、すごく聞きたかった講義なのに、落とされたことがある。ショックでその夜は眠れませんでした。今度も「抽選するかもしれない」と学生に言ったら、いっせいに四方からどよめきと悲鳴が上がりました。後で教壇に押し掛けてきて、4年生が「この単位を取らないと卒業が危ない」などと訴える。皆、眼が真剣です。どうしよう。困ったなー。来週までにどうするか、人文学科の主任と相談して決めなければなりません。こんなに来るのなら、2コマ連続にしてくれればいいのに…。

 その点、WEBはいいですね。何人来たって入りきれないということはないのですから。昨日からVOCABOWでも「法科大学院 適性試験直前コース」が開講しました。今年は初日から、去年の受講者人数を上回る人数が来ました。いろいろな問題を処理して、受講者にメールを送ったのは夜でしたが、それでも特別な混乱はなし。後は提出日に解答を送ってくるのを心静かに待つだけです。この違いはいったい何だろう?
 それに、一人一人の面倒はWEBの方が密に見れる。全体の時間が決まっているわけではないので、講評などけっこう時間をかけてメッセージが書けるのです。もちろん、質問だってメールを通してだから、空いている時間を活用すれば、くわしく返答できるというものです。一緒に活動しているVOCABOW精鋭スタッフも忙しいことに慣れてきたみたいなので、今年もそれほど問題なく進みそうです。

 そんなわけで、適性試験直前コースはまだ受付中ですから、ふるってご応募下さい。時間がない中で、自分の弱点に気づき、知識や方法の整理をするのに最適です。お待ちしてまーす!

4/15

永田町に行こう!

 議員会館というところに始めて行ってきました。虎の門病院の小松秀樹さんの講演を聞きに行ったのです。衆院参院の議員たちが集まって、勉強会を開くので、その講師として呼ばれたのだとか…。小松さんからメールが来たので、永田町に出かけました。

 入り口で入場証をもらって、守衛さんに見せます。講演の行われる会議室に行くと、通路で小松さんが「やあやあ」とばかり私に手を振ってくれてます。いつも気さくな人ですね。でも、もう10分前なのに出席者は数えるほど。「医療過誤防止議員連盟」というのは、こんなに少ないのかな、と思っていると、途中からどやどやと入ってきて、あっという間に一杯になってきました。

 小松さんは『慈恵医大青砥病院事件―医療の構造と実践的倫理』というすぐれた本を書いています。現場の医師の立場から、現在の医療の問題点・矛盾点を指摘する。元総理のM氏の主治医だったとか…医者としての社会的評価も高い。そういう人が具体的に医療を論じるから、説得力がある。制度改革に熱心な活動家、評論家は数多いけど、その中にはたんに政治が好きだったり、「患者のための医療」などの抽象的な理念を唱えたりするだけの人も多い。小松さんは、そういう上辺の議論に惑わされることなく、率直に問題点を指摘する。曖昧な決着を好む日本社会にはめずらしい方で、私は彼のストレートな言い方が好きです。だって、その方が問題がすっきり分かるじゃないか!

 日本の医療は崩壊しつつある、その原因は警察・検察などの司法権力の過度な介入にあるというのが彼の持論です。三日坊主でも、病院医がどんどん辞めていくことについては書きましたよね。医療は本来善意の行為なのに、最近は警察が「医者にミスがあった」と刑事事件にして簡単に介入する。それを怖がって、外科や産科の医者たちが仕事を辞める。あるいは、医学生が外科や産科を志望しない。このままでは、日本の病院で手術やお産をすることができなくなると言うのです。

 最近では、福島県の産婦人科の先生が癒着胎盤の処置を「誤った」ために福島県警に逮捕される事件が起こりました。これは新聞でも大きく取り上げられ、医師会が警察の操作のやり方に対して遺憾の意を表明しました。小松先生に言わせると、癒着胎盤の事例は大変少なく、ほとんどの産科の医師に経験がないのだとか。たとえ、ベストの処置が出来なくて妊婦が死に至ったとしても、それを罪に問うのは酷だというわけです。

 医療には一定の危険は付き物です。それなのに患者側の医療に対する期待水準は高まり、その危険を認めようとせず、何か事故が起きると医者のミスだと考える。民事訴訟になると、今度は互いの徹底的なたたき合いになる。たとえ患者側が勝訴しても、最終的な満足度は低い。だから、不満があるときは警察に訴える。警察・検察はなるべく市民からの訴えに応えた方が、自分たちの社会における信用度が増すから、積極的に介入する。

 だけど、その介入の仕方が医療には向かない。警察はすぐ「犯人」を挙げようとするからです。最近の医療はチーム主体だから、何か事故が起こってもシステム・エラーの場合が多い。だから、個人の責任を問うのは難しい。それなのに、警察・検察は無理矢理個人に責任を負わせる構図で決着させる。たとえば、手術中に患者が死亡した場合、その原因が機械の操作にあっても、執刀医の責任にしてしまう。これでは、かえって医療過誤の解明を歪める。

 患者家族代表も出席していましたが、病院と遺族が話し合っても、医療スタッフが刑事罰を恐れて、なかなか真相を話してくれない。航空機事故の例に倣って、真相を正直に話したスタッフについては、刑事罰を軽減するというような措置も必要ではないか、と発言していました。期せずして、被害者側と医療側の意見が一致したわけです。面白い展開ですね。

 しかし、集まっていた国会議員が、きちんと理解しているかというちょっと疑問な点もありました。元総理のM氏も出席していて、そのしゃべり方、体の大きさ、さすがだなと貫禄を感じたのですが、「この問題は医師の問題であって患者の問題とは違う。医師の絶対数を減らしたことが問題だ」などと発言しました。失礼ながら、ちょっとピントがずれている。医師側と患者側の利害が一致しているところがポイントなのになー。

 一方で、他に発言した議員たちも何人かを除いては、M氏にひたすら賛意を表明したり、初歩的な質問を繰り返したり、といった調子。傍から見ても、あまりレベルが高い発言とは言いかねる。小松さんのレベルとギャップが大きすぎる。しかも、忙しいのか、しょっちゅう途中退席・途中入場。M氏も「途中退席が多すぎる」と苦言を呈してました。

 せっかく良い講演だったのに、それを聞いている議員たちの様子を見ていると、日本の医療政策が変わるにはまだ前途多難という感じ。でも、トクヴィルは『アメリカの民主政治』の中で「アメリカの政治家にはすぐれた人物は少ないが、そのわりに政治がうまくいっている。これが民主主義の良さかもしれない」と書いていました。ふーむ、そういうことなのか…。議員会館下の食堂でカレーを食べながら、いろいろ考えてしまいました。

 ところで、適性試験直前コースがもうすぐ始まります。毎回講評がつき、一人一人の受講生の問題点を詳細に指摘します。率直さと明快さでは、小松先生に負けないつもりです。4月20日開講です。最後の調整のために役立つと思いますよ。

4/6

外国語の響き

 久しぶりにフランス語の本を読んでいます。ミシェル・フーコーの『言葉と物』(Les Mots et Les Choses)1年ほど前に高円寺の古本屋さんで見つけて読み始めたのですが、中断していました。17世紀フランスの思想史。読み始めたときは「めんどくさそう」と思っていたのですが、久しぶりに再開してみると、結構簡単で面白いので、なーんだ、こんなに楽しい本なのかという感じで読み進んでいます。もう100ページを超えたので、何とか読み続けられそう。しばらく英語の本ばかりだったので、さすがに飽きていたのかもしれませんね…。
 この本に限らないのですが、読書は音の感じが重要だと思います。読んでいると、何となくその言葉の音が頭の中に鳴り響く。一つの言葉だけ読んでいると、決まった音色しか鳴らない。だから、時々言葉を換える。すると、新鮮な音色が脳に満ちて細胞が活性化する。この頃は、老化防止に計算問題とかやる本が売れているらしいけど、私に言わせれば外国語を練習した方がずっと良い。
 英語とフランス語では、明らかに読んでいるときの響きが明らかに違う。だから、英語ばかり読んであの一種ギクシャクしたリズムに慣れた後で、フランス語を読むと、そのまろやかさに陶然となる。いつも刺激していない脳をタッチされたみたいで、すごく幸せな気持ちになる。言葉のエロチシズムというものは確かにあると思う。私の脳はまだまだ許容力があるんだ、という自信もつくし…。

ラテン語もやってみたけど…

 そういう経験を重ねると、今までは英語とフランス語だけだったのだけど、もう少し言語の快楽を広げても良いかな、という感じがしてきました。それで、この頃トイレの中でラテン語の文法をもう一度復習しています。屈折語というのか、名詞も動詞も形容詞も活用する、というやっかいな言語。古文の助動詞の活用を覚えるようなものです。Regina, reginae, reginae, reginam…と延々と活用が続く。大学時代に一度覚えたはずなのに、きれいに忘れている。必死で覚えるのだが、なかなか進まない。1回に5ページのペースかな。この言葉でトマス・アクィナスやアウグスティヌスを読めるのは、一体いつになることやら? 気が長い話ですね。でも10年やれば何らかの結果が出る、と思います。
 気が長いと言えば、私が年取ってからやりたいもう一つは、古代ギリシア語をマスターしてプラトンとアリストテレスを読むことです。20年もあれば全部読めるでしょうから、60歳あたりから始めようかな? ギリシア語も大学時代にやり始めたのだけど、動詞の活用が一つにつき150以上もあるのであきらめました。でも、時間を十分かけて良いのなら、いつかは習得できるはず。こう考えると、私の「老後」は忙しくて仕方ない。退屈する暇はないから「老後」なんてものではなくて「老中忙ばかりなり」ということになりそうです。

読める本の限界

 一方で、読み続けられる本というのは、意外に限定されてしまう。実は、フーコーにたどり着く前に、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』(Dialectics of Enlightenment)など読み始めたのだけど、何だか英語が分かりにくくてあえなく挫折。Andyに聞いたら、「やっぱり読みにくいよね」だって。科学哲学専攻の英語のNativeが言うんだから、やっぱり訳が悪いんだ、と自分の感覚に納得した次第。名著と言われるものでも、自分の肌に合わないものはしようがない。読めるものは読める、読めないものは読まない。自分の人生なんだから、結局こんな風に居直るしかなさそうです。
 この頃は神保町オフィスに行く電車の中がもっぱら仕事に関係ない「読書タイム」です。フーコーの前はレヴィナスを読んでいました。もっとも、これはフランス語はちょっと大変そうなので、岩波文庫で読み始めました。これが面白いのだけど、むちゃくちゃ分かりにくい。昔なら、一文一文それこそクイズを解くように読んでいったのだろうけど、今はそんな根気はありません。ところどころ分かるところを拾い読み、という感じです。それでも、結構面白い。これは「老い」がもたらした怠惰なのかしら、と思うのですけど、そうやって純粋に楽しむ読書ができることも、結構幸せなのかも知れない、と思って、電車で読書にいそしむ今日この頃です。