2006年9月
9/18

反響いろいろ

 拙著『だまされない〈議論力〉』を読んだ方からさまざまな反響がありました。アマゾンにも書評が三つほど掲載されていたけど、ボカボの所に来たものから一部をご紹介しておきます。

大学の教材として使えそうです。
―大学の先生のご意見。ぜひ使ってください! 日本人の議論の水準がちょっと違ってくると思う。

最近の新書は、中身が薄いのが多くて読み飛ばすって感じなのですが、丁寧に読んでいます。最初の「自立した内面」、心に響きました。議論の仕方を学ぶこと、学問をすることとは、外部に押し流されないような「内面」を獲得することなんですよね。それと、「新しい真理と出会うためには積極的に負けなければならない」というのもいいですね。異なる意見は嫌悪し排除するのではなく、なぜ?どういう点で違うのか?考えるべきですよね。職場もだんだんそういう余裕がなくなってきています。
―高校の先生からのご感想。さすがに現実の重みを感じます。深い読み。

3.最近の学生は英作文でめちゃくちゃな理屈を書いてくるので、「まずこれを読め」と授業で勧めているよ。これまで、いいロジックの本がなかったんだよなー。
―某予備校のカリスマ英語講師のご託宣。英語学習にも応用できるとはうれしいですね

4.ご著書、入手いたしました。すっきりとした仕上がりで読みやすいですね。苦労した甲斐がありましたね。高校教員をしている友人たちにも勧めていますが、みんな買うといってくれています。
―友人の暖かい評価。高校にも広めてください。

5.早速読ませていただき、大変な力作だと思いました。一番よかったのは、第3部で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」あたりから佳境に入ってきましたね。万有引力のたとえが説得力がありました。Dをやっつけたあたりは痛快でしたね。最後の文部省批判もよかった。
―大変センスのある先輩からの評価だけにうれしい。「なぜ人を殺してはいけないのか?」のところは私も力が入っています。今まで、いろいろな人が論じてきたのだけど、今ひとつ納得できなかった。それを最終的に解決した、と自負しているのだけど、読者や如何に思ひきや?

他にもいろいろあったのですが、一昨日こんな方からも突然メールがあってビックリ。

6.大変面白く、共感して拝読いたしました。また、拙著を引用していただき、恐縮です。あまりに共感したので、ちょっと気が早いのではないかと思うのですが、ちょうど来年の新入生用に早稲田の生協が推薦図書を指定してくれと依頼してきたので、4冊のうちの一冊に入れさせていただきました。こんな推薦文を付けました。「マスコミも学者も信用できない。でも、一番信用できないのは「自分の意見」だ。そのことに気づかせてくれて、「ヤバイ、大学でちゃんと自分を鍛えよう」という気にさせてくれる本だ。」(早稲田大学教授石原千秋)

 石原先生はもちろんご存じですよね。「カミソリ石原」と呼ばれ、漱石研究で有名な日本近代文学の先生。私は『秘伝 中学入試国語読解法』(1999)からの大ファンでした。ご子息が中学受験をするという体験に重ねて、国語問題のテキスト読解に基づく批判が明快で、国語の問題からこれほど面白いことが言えるのか、と眼を見開かれる思いでした。今度の『だまされない〈議論力〉』で大学入試の問題を入れたのも、石原先生のひそみに倣っています。

 推薦図書として早稲田の学生が来春読んでくれるかも、というのがうれしいですね。その上、このメールの後、ご著書『大学生の論文執筆法』まで送っていただきました。石原先生、本当にありがとうございます。

 さて、その『大学生の論文執筆法』は二部に分かれています、一部は体験的論文作法、二部は実際の文章を俎上に載せて研究論文の方法を解説しています。感じとしては、一部は名打者に「打撃のコツ」を聞くという感じです。時々脱線も交えながら、隅々まで体験の裏打ちがされていて、それが具体的なアドバイスになっている。こういう書き方は『議論力』が意図した方法化とは方向が違うけど、役に立つのは確かです。二部は「線を引く」というアイデアで物事の分節化を説明しています。この分節化によって生まれる差異が、書き手の問題化を可能にするわけですね。この問題の発見は『議論力』の基本テーマでもあります。

 とくに面白かったのは、同じ本に対する斎藤美奈子とご自身の書評を比べたところ(p99-102)。斎藤の批評が見事に「商品」になっているのに自分のはなっていないと告白。「やられた!」という感じが伝わってくるけど、こういうことを自分をネタにしてさらっと言えるのが、石原先生の上品さと公平さですね。

 それに、茶目っ気というか遊びも忘れていない。ラストにエラリー・クイーンの推理小説みたいに「読者への挑戦!」が付いている。

 最後に、学生諸君に宿題をひとつ。この第一部の奇妙な形式は、ある有名な哲学書を真似ている。翻訳では岩波文庫とちくま文芸文庫から出ている。文科系の学生なら、学生時代にその本を買って、パラパラ読むことぐらいはしてほしい。(『大学生の論文執筆法』p.128)

 これだけじゃわかんないだろうな。ヒントは冒頭にある数字。この前の項の番号は10.4。その前は10.3.1。私は最初文体模倣かと思って考えたのだけど、そうではなかったみたい。もう分かるよね、L.ヴィトゲンシュタイン。え、知らない? 

 今度は、本の中でさんざん叩いた方にもご意見を頂きたいと思います。やはり、日本ではそれは無理かな?

9/10

東北のキリシタン

 金曜日に岩手県の一関一高に行って、「添削の方法」について職員研修会でお話ししてきました。今回は、先生方のなさった添削について、私がコメントを付けていくという形式です。「添削」というと、つい「てにをは」の修正など瑣末主義に陥りがちだけど、添削者の全体像が如何に大事か、それを掴むことで添削が如何に劇的に変わってくるか、というお話をさせていただきました。一関一高の先生方、ご参考になったでしょうか?

 一関一高に呼ばれるのは、今回でもう二回目です。国語の鈴木勝博先生のお招き。鈴木先生は、代議士の秘書をしていたという変わり種。その経歴もあるのか、高校教諭としてちょっと型破りの大柄な発想をなさる先生です。小論文教育の重要性にいち早く気づき、前任校の盛岡北高校では小論文教育を充実させ、全国の高校から見学者が殺到した、とか。その頃からのおつきあいです。この頃は、ご自身も各地の教育委員会などから呼ばれて、小論文教育の重要性を講演なさっている。バイタリティ抜群の名物先生です。

 こういう人がいると、日本の教育もまだまだ捨てたものじゃない、と思いますね。教育に文句ばっかり言っている評論家連中は、こういう現場の努力を過小評価しているんじゃないか、と思う。だから、愛国主義教育をすれば道徳的な子どもが育つとか、バカなことばかり話題にする。そんな空論を議論するより、国語力を上げるための具体的教育法の一つでも論じて見ろ、と言いたい。

 これに限らないことだけど、日本の教育論議はまったく現場に即していない。今まで行われた「教育改革」が如何に学校を混乱させ、現場の教師の意気消沈を招いたか、少し反省して貰いたいと思う。『日本を滅ぼす教育論議』(岡本薫)は、元文部科学省の官僚がそういう論議の分析をした本です。なかなか面白いから、ぜひご一読を。

 次の日、鈴木先生に藤沢町にあるキリシタン殉教の地を案内してもらいました。上野先生という女性の先生もご一緒。「村おこし」のために、アイデア豊かな町長が埋もれていた物語を掘り起こして『大籠キリシタン殉教公園』を作ったのだそうです。ちょっとビックリしたのですが、殉教は九州の専売特許かと思ったら、東北地方にもちゃんとあったのですね。全然知らなかった。藤沢の地は伊達藩の製鉄の中心だったらしいけど、その技術を伝えた人がキリシタンだったらしい。信仰が広まって江戸時代初期に300人以上殺されたとか。

 そういえば、支倉常長の遣欧使節団は伊達藩から出たのだっけ。冷静に考えてみれば、その後始末はしなきゃならなかったはず。キリシタン弾圧があっても不思議じゃない。何だか、自分の思考の穴を指摘された感じです。

 でも東北って平泉の藤原氏が滅亡して以降、ほとんど日本史に無視されているなと思っていたのだけど、これもその証拠かな? 長崎には立派な二十六聖人像があるのに、藤沢町の話は埋もれている。『だまされない〈議論力〉』にも触れたけど、「歴史記述の恣意性」をここでも感じさせられますね。

 ところで、そのキリシタン記念館では、ビデオが上映されていて、「信ずることの大切さを現代に伝えてくれます」なんて、ナレーションが入ってます。うーむ、そうなんだけどね。でも、キリシタン弾圧は、その宗教的熱狂を為政者が恐れたせいじゃないかな。

 ご存じのように、宗教勢力と政治が結びつくと、けっこう大変なことになっている。加賀の一向一揆とかそうですよね。ヨーロッパ中世でも、宗教戦争は悲惨な結果をもたらす。そもそも信念があるから、死を怖がらない。これは、政治にとって危険ですよね。だって人々をコントロールする一番の手段である暴力装置の効果がないということだから。政治権力は恐れるよね。脅してもすかしても人々は言うことを聞かない。これでは権力は無力化してしまう。

 だから、キリシタン迫害で政治がやろうとしたことは、自分の生命を惜しませるというある意味で「健全な」感覚を取り戻すことだったと言ったら暴論だろうか? それがあれば、政治権力は人々をコントロールできるからです。だから、拷問も死刑も行って、それを呼び戻そうとしたのではないだろうか? 

 そういえば、キリシタンの弾圧では火炙りの刑も行われたとか。これって奇妙ですね。火炙りなんてそれまでの日本の伝統にはない。これは、中世キリスト教の異端弾圧の方法をそのまま逆利用したとしか思われない。キリスト教では、死んだら土葬にするのが普通で、火葬にすると最後の審判でも肉体がないから「復活」できないと思われているらしい。だから、火葬を嫌がる。その恐怖を利用したのが、火炙りの刑です。だから、異端の弾圧には火炙りの刑がさかんに行われた。ジヤンヌ・ダルクの死刑もそうですよね。

 キリシタンの弾圧にこの刑が使われたのは、「あいつらが一番怖がる方法で脅してやろう」という発想が働いたに違いない。でも、それにもひるまない。結局、権力側は最も残酷な方法を実行せざるを得なかった。結果として、日本のキリシタン弾圧は残酷だった、というストーリーが残る。

 相乗効果っていうのはこういうことを言うんだろうね。恐怖の応酬をすると互いに相手の主体性をうち砕くために最悪のことを発想し、それに合わせて対策をしていく。その結果、もっとも残酷な仕打ちが行われる。

 幕府側は、すぐ転向してしまった人の方が命を大切に思うという意味では普通だし「人間らしい」という理屈をつけた。それが出来ない人は政治の支配の障害となり、そもそも「人間」ではない。早急に「人間」に戻さねばらならない。戻らない奴は殺してしまえ…という発想になる。この連鎖ってやりきれないですね。

 ここではカトリック教会はたまたま犠牲者の側になっているけれど、一方、ヨーロッパ中世では異端者を残酷に処刑した加害者でもあった。幕府はそういったカトリックの支配力を恐怖してキリシタン弾圧をしたと言っている人もいる。立場によってまったく語られ方が変わってしまうのです。いずれにしてもデリケートな問題だと思う。それを「信ずることの大切さを現代に伝えてくれる」と単純化してしまうのはやっぱりおかしい。ビデオを作った人には悪いけど、むしろ、「宗教的寛容の大切さがいかに大切か」ということでメッセージを止めておいた方がよかったのではないか、と思いました。


9/7

●家族制度と言説 

 柄谷行人の「双系制について」というエッセイを読んでいたら、「日本では儒教は表面的にしか受容されなかった」という記述に出くわしました。「あ、やっぱりそうか!」と思いました。

 塾で「倫理社会」を教えたことがあって、西洋思想史と日本思想史をざっと勉強してみたのですが、儒教のところがなかなかうまく教えられなかったのです。「仁」とか「義」とかいろいろ徳目はあるのだけど、どれも道学臭くてウソっぽい。最初の年は結局「封建の遺制」としてしか教えられなかった。

 これではあかん、と次の年は考えて、中国の父系制の話から始めてみた。儒教は父系制の反映だと説明してみたのです。すると非常によく分かる。儀式を守ることの大切さも、家を守ることが国家の平安につながるという主張も、すっきり理解できるのです。

 父系制ってご存じですよね。自分→父→祖父→曾祖父と男子の親子血縁関係で家系を辿っていく親族構造です。中国と韓国は父系制で、そうやって自分の家系を何十代も辿れる。『三国志』なんかでも、戦った者同士が途中で名乗りを上げて「それでは、お前は私の三代前の叔父の孫ではないか、私たちは兄弟だ!」などという「信じられない」ような場面がある。

 政治学者の小室直樹によれば、中国社会の基本はこの父系制だと言うのです。このシステムの中にいる人は徹底的に助ける、ところが他のシステムにいる人は完全に無視する。同じ「家族」の中にいる人だけが「人間」として助け合う互助システムなわけです。外国企業が中国でしばしば痛い目に遭うのは、中国人同士がかばい合い、外国人との契約など無視するからだそうです。逆に言うと、この家族制度さえ守れば、中国社会は安泰なのです。

 もちろん、日本は違います。特別な家系を除いては、3、4代もさかのぼると何が何だか分からなくなる。それに養子制度が盛んで血縁には余り重きを置かない。女の子に婿養子を取る、あるいは子どものいない夫婦が夫婦養子を取る、それでも「イエ」は続いていく。「イエ」の本質に血縁はない。柄谷行人の言う「双系制」ですね。

 こういう社会では、血縁システムに頼ることが出来ない。逆に契約とか友人とか会社とか、人工的な信頼関係を創造していく他ない。「放蕩者の実子より働き者の養子」というようなことわざがあるらしいけど、血縁より個人の信頼が大切になる。西欧流の契約との相性もいいわけ。ただし、その関係は中国的に言えば「主観的」にならざるを得ない。血縁のように「客観的」には辿れないからです。

 「主観的」なだけでは困るから、何とか「客観的」にしようとする。だから、他人同士の信頼関係を「親子血縁関係」になぞらえる言説が流通する。とくに前近代の日本では、中国の影響が強かったから、そのタームで説明するのがかっこいい。そうなると、言葉は言葉で勝手に増殖する。必然的に、現実と言語は乖離する。

 今度の皇室の男子出産報道を見ると、どうもそんな気がするんですよね。みんな「男の子が産まれておめでとう」と口々に言うけれど、真実はどっちでも良かったのではないかな、という気がする。愛子さまは可愛いから、皇室典範なんか変えちゃえ、というムードがしばらく前は確かにあった気がする。

 皇室典範は「正統性」を定める法律で、建前でガチガチなのは仕方ないと思うけど、国民の実感は建前なんかどうでもいい。女の子しか産まれないのなら、法律変えればいいじゃんというくらいです。ただ、変えるとなるとまた言葉の戦いがあって、面倒だなという感じ。出来るならそっとして置いた方がよい。「万世一系」なんて誰も信じちゃいないけど、ときどき皇室で盛り上がるのは楽しいなという程度ではないでしょうか?

 でも、かつては皇室の文化的な権威づけのために「父系制」を守るポーズを示す必要は確かにあった。つまり、「中国はエライ」という前提に則って、「万世一系」のすごさは成立する。その意味で、現在のナショナリストたちが「万世一系」を主張するということは、実は中国の価値観に寄り添った判断なのです。彼らは日本ナショナリストどころか、精神的レベルでは中国的価値観を宣伝するチャイナ・ロビーだったりして…。そういう自覚は、彼らにはきっとないだろうけど。

 こういう言語と現実の乖離はダメだという人もいる。吉本隆明は、「アイヌの人にとってモノを名付けることは、モノがあるということと同じだった」などとあこがれのように言っていたとか。だけど、これは言語が広がり流通するものだということを無視している。

 自分の生活実感という狭い領域と広い範囲を流通する言葉との乖離など当然のことなのです。実際、生活実感に即して純粋であることを選択したアイヌ語は使う人も減り、もう絶滅寸前になってしまった。それを避けるには、純粋をねらわず、現実との乖離を調節しつつ使う、という以外に言葉の使い方はないのだと思う。言葉は本質的にアドホックなものなのです。

 だから、そのチェックも、面倒だけど毎回行わなくちゃいけないのでしょうね。その意味でメディア・リテラシーとはコンピュータの使い方などではない。むしろ、メディアに流通する言語の綿密なチェックを意味するのだと思う。私の『だまされない〈議論力〉』はそういう志で書いたのです。良かったら、読んでください。