2007年1月
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豊かさを肯定する?

ボーッとTVを見ていたら、あるトーク番組でアート・ディレクターのサトウ・カシワという人のインタビューをやっていた。私は彼をほとんど知らなかったのだけど、UNIQLOのニューヨーク支店の広告・アート・ディレクションなど大きな仕事をして今注目を集めている人らしい。

見ているうちにだんだん引きつけられた。話しぶりがいかにもストレートだったからである。彼は「デザインは自己表現ではない」と言う。むしろ、コミュニケーションの問題なのだ。良い商品なのに売れなかったり過小評価されてたりしているのは、どこかにコミュニケーション不全があるからだ。自分はむしろ医者のようなもので、その部分を直すのが仕事だと言う。

その意味で、いちばんやりたいのは病院や学校のデザインらしい。なぜなら、そういうところはデザインの力が生かされていないからだ。「病院は別に意図してコワくしているのではないと思う。それが結果としてコワくなっているのは、どこかでコミュニケーション不全になっているせいだ」なるほど。

こんな率直な物言いをするアート・ディレクターは初めて。聞いているうちに不思議な気分になる。デザインや広告を支えている感性がしばらく前とずいぶん変わったナー、と感じる。

その違いは、たとえば、かつての広告界のスターだった糸井重里と比べてみればよくわかる。彼の「おいしい生活」という西武の広告は、今考えてみれば、相当暗かったと思う。まず、「おいしい」という言葉に両義性があった。「おいしい仕事」などという言い回しが流行ったように、そこには「労力の割には報酬が高い」「うまく立ち回った」などのやや下品で後ろめたい含意がまとわりつく。

視覚的にもその印象は強かった。なぜなら、ポスターの写真がウッディ・アレンだったからだ。彼の映画はこの三日坊主でも何回か取りあげたけど、なかなか一筋縄ではいかない。私が好きだったのは“Deconstructing Harry”という映画だが、これは自信と劣等感がないまぜになった複雑なキャラクターが恋人に殺されて地獄巡りをするという内容。面白いけど暗い。暗いけど大笑いする。

だから、糸井の「おいしい生活」が発するメッセージは、たんにHappy Lifeということではない。むしろ、ironyやpathosという部分が言外の意味として見えてくる。バブル消費の絶頂の中で、不安を感じつつはしゃぎまくることで日々を過ごす虚無的存在というか、ある種の「不安」と「暗さ」を抱え込んでいるわけだ。

同じ番組だったと思うけど、しばらく前に糸井も出演していた。彼の主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」の話をしていたのだが、「ほぼ日」が売り出した商品の中で一番売れたのは手帖だったと取り出した。「この手帖の良いところは、ページを開いて手を離しても、そのままで閉じないことなんだよね」と言ってテーブルの上で開く。手を離すと閉まってしまう。スタジオに軽い笑いがおきる。「あれ閉まっちゃったね」と言って、もう一度開く。やっぱりダメ。「いつもは開くんだけどね」と次の話題に進む。

強烈な印象だよね。自分の所の看板商品が言ったとおりの性能を出さない。そうとうヤバイ話だ。それなのに、うろたえる様子もなく、ちょろっと誤魔化して済ます。この番組は別に生番組ではないのだから、上手くいかなかったら撮り直せばいい。でも、そうしない。この人は何をやっているのだろう。

一つの可能性としては、前言撤回の効果をねらっているのかもしれない。つまり、「こうなのです」と言って、結果がそうならないことを示す。普通なら、それは「それはおかしい」という非難が巻きおこるところをあまりにさりげなくやってしまうので、「それでいい」ことになってしまう。つまり、前言の意味内容を無化しつつ、名称だけは伝わるという構造を取るのである。

さらにそこにはある虚無的な響きがまとわりつく。なぜなら、「手帖の機能なんて大したことはないんですよ。でも売れているからこれでいいのです」という身も蓋もないメッセージも伝わるからだ。もし、このような効果をねらっているのだとしたら、糸井重里はかなりニヒリストだと思う。バブルのさなかにこういう暗さが受けるのだから、時代も何か後ろ暗いところを抱え込んでいたのだろう。

それに比べれば、サトウ・カシワのやっていることは豊かさに対する信頼がある。たとえば、UNIQLOニューヨーク店のショッピングバッグは日本のイラストレーターや漫画家の絵を使っている。一つ一つのバッグの裏に描いてある絵がそれぞれ違って数10種類もある。私が客でも、これは嬉しい。友達と一緒に買い物に行って、ふと気が付いてみるとバッグの絵柄が違う。他の人はどうかと調べてみると、また違う。見回してみると、一つ一つ違う。当然どう違うのだろうと興味を持つ。その結果、風景が違って見えるのでは?

糸井の得意だったひねりやironyはここにはない。むしろ、一つ一つ違った絵柄のショッピングバッグというモノの多様さが確実に生活を面白く楽しくする、という確信がある。豊かさを肯定的に眺め、それを更に豊かになるために使っていこうという健全な合理主義がある。

この人は今30代らしい。すると80年代に10代だったのだろう。精神形成はその時代のはずだ。前にも書いたことだが、私は80年代はあまり好きではない。たしかに豊かにはなったが、その分いろいろな基準や追求が甘くなり、大衆化に寄りかかったような仕事ぶりが目立ったからだ。たとえば、この時代の日本映画は小説家や音楽家を監督にして、ひどく衰退した作品しか出ていない。

でも、このサトウ・カシワの仕事の一端を知って、80年代もそう捨てたものではないかもしれない、と考え直すようなった。ただ酔いしれたり悪ふざけしたり多幸症になるだけでなく、豊かなモノをそれなりに利用して世界を変える方法もあるというメッセージが伝わる。この時代精神のよい面を受け継いで、仕事に生かしている感じがする。

もう、我々は消費社会にマイナスイメージだけを持つ必要はないのかもしれない。糸井のように、妙にコンプレックスを持ったり虚無的になったりする姿勢も必要ないのかもしれない。むしろ、消費社会や豊かさという現実を認めて、そこから何かできることをやっていく、という生活感覚の健全さが大事な時期にきているのかも…。

斜に構えて何ができるか? 何もできない。その答えは80-90年代の「現代思想」や「脱構築」が、結局何となく左翼的な言説に衰弱していった経緯を見れば明かだろうね。糸井重里のニヒリストぶりもちょっとね、という感じがしてしまう。

その意味で言うなら、サトウ・カシワのストレートなやり方・しゃべり方は、人々に希望を与える。どこか高見から悲憤慷慨したり、冷ややかに社会を眺めたりするのではなく、実質的に社会や人間関係を良い方向に変えていくテクニックが今必要とされているからだ。この感じはボカボのポリシーとかなり近いな、と思うけど…、どうだろう?

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暴論:ゼロ・トレランスの息苦しさ

この頃,学校では「ゼロ・トレランス」という傾向が強まっているとか。生徒のどんな小さな規則違反でも見逃さず減点に処し,点数が一定限度を超えたら,停学・退学処分を厭わない。このような取り締まりをしたら,生徒の欠席率も減少したので,ますます広まりつつあるという。「トレランス」とは寛容という意味だから,「不寛容」方針ということ。でも,学校で「不寛容」を教えちゃってよいのかな,という気がする。

こういう感じは,しばらく前から流行っている「割れ窓理論」という見方にも共通している。学校のガラス窓が割れているのは,生徒の秩序意識の乱れている証拠,ひいては非行に繋がるのだから,どんな小さな兆候でも見逃さずに取り締まるべきである,というのだ。それが大きな犯罪や非行の芽を摘むらしい。

でも,こういう見方が問題なのは,そのうちに力点が「秩序の取り締まり」というところから,「どんな小さなところでも」という部分に必然的に移っていくことだ。そのために,社会に無用な摩擦を与えやすいということにある。

なぜなら,こういう取り締まりは,必ず誰かが担当しなければならないのだが,取り締まりを強化していって,だんだん取り締まりの対象がなくなってくると,自分の仕事もなくなる。だから,「どんな小さなところでも」違反や乱れを見いだして,それを摘発することで,自分の仕事を維持しようとする意志が働くからだ。

たとえば,鳥インフルエンザがよい例だと思う。鶏が何千羽か死んだとニュースで報じるが,今更という感じが否めない。生物学的に言うと,鶏はちょっとでも体温が上がるとすぐ弱ってしまう。インフルエンザにそもそも弱い体質なのだ。だから,昔の養鶏場では弱った鶏がいると先に出荷するのが習慣だった。たぶん鳥インフルエンザにかかって死にそうになった鶏など,今までたくさん食べていたのである。それで,何か支障があったのだろうか?

このようなことになったのは,一昨年だったか,第一次世界大戦中に世界中でインフルエンザが流行って,何百万人も死んだという本が出てからだ。その後も,『感染症』などを扱った本が売れている。ただ,それらの本が警告するわりには,世界規模の伝染病は一つも出ていない。感染症の医者の出番は増えたが,感染症自体は大きな問題になっていないのだ。むしろ,目立っているのは感染症専門家がTVでコメントするのが目立つようになったこと。ちょっと意地悪な言い方かもしれないが,鳥インフルエンザ騒動は感染症専門家がメディアでコメンテイターとしてデビューするまことに良い機会だった。

こんなことを言うと,専門家たちは「これだけ入念に対策しているから,世界規模の伝染病にならずに済んだのだ」と反論する。しかし,この言い方は肺ガン検診のときにも同じようなことがあった。疫学調査の結果,肺ガン検診は意味がないということになったのはついこの間だ。いくらレントゲンを撮っても,そこで見つかる肺ガンはもう手遅れか,これ以上進行しないタイプなので,治療してもしかたないのだという。むしろ,レントゲンの放射線を毎年浴びることでガンの危険性が増すので,廃止になった。

この検診体制を批判したのは,慶應大学の医師だが,医学界からはさんざん攻撃されたという。「これだけガン対策しているから,ガンが征圧されたんだ。そういうシステムを壊す気か」と言われて,学会での発言も妨害されたらしい。それはそうだろうと思う。その頃,ガン検診は一大産業となっていて,その制度が一つ廃止されるだけで,医療業界は莫大な損失を被るのだから。鳥インフルエンザがそういうことになっていなければよいけど。

そもそも鶏が死んだくらいで,白装束の人々が残りの鶏を何万羽も殺しまくり,廃棄処分にするというあの映像は何とかならないものか。一時期話題になった新興宗教みたいだ。「けがれを払う」という心理的意味あいがあるのだろうけど,「殺人光線」から身を守るために,全身白で固めたという信者たちを笑えないよ。

現実との折り合いの部分が極端に単純化されている気がする。本来,現実には「良くも悪くもない」あるいは「良くはないが,まあ仕方がないか〜」というグレーゾーンがあるはずだ。ちょっと気持ち悪いが,我慢していかなければならない部分が世の中にはあるのだ。

ところが,そういう部分の領域がどんどん狭まって,社会全体に「ゼロ・トレランス」が広まっている。「良くなければ悪い,悪くなければ良い」という極端にデジタルな判断に陥り,いったん「悪い」となると排除や規制の方にどんどん突き進む。結局,完璧にクリーンで疑念のない状態にしなければこの運動は止まない。でも,「角を矯めて牛を殺す」という言い方もある。「いい加減」なところで止めておかないと,元も子もなくなりかねない。

「痴漢キャンペーン」にしても電車の「女性専用車両」にしたってそうだ。痴漢をする人間は悪いに決まっているが,痴漢しない男も一緒くたに排除しようという考えは馬鹿げているし,男性に対する侮辱的な扱いだと思う。私が利用する地下鉄にもそういう車両ができたようだが,いったい誰がそういうサービスを望んだのか? 聞いてみたいよね。

それに,電車から痴漢を追っ払ったところで,こういうことが好きな人は別の所に集まる。最近,やたらとHメールが増えた。一日100件以上来る。その中には痴漢電車がどうしたとか,という内容も多い。「女性専用車両」という禁忌を作ったお陰で,こういう人たちの幻想のなかでは「痴漢」の価値がかえって上がったらしい。

危機管理がいき過ぎて,ちょっとした事件でも,世間もメディアも潔癖にピリピリする。今度もどこかの食品産業が期限切れの材料を使ったとかで総攻撃を受けているが,今のところ食中毒を起こした人はいないらしい。逆に報道が過熱してから,不二家の菓子を食べて気持ちが悪くなったという人が続出したという。

大きな問題はコントロールできないから無視し,自分がコントロールできる問題にリソースを集中し追求することで憂さを晴らす,という瑣末主義に陥っているんじゃないか? どんな瑣末なマイナスも積み上がれば大きなマイナスになるというのだが,社会には,逆の現象もたくさんある。マイナスが積もって逆の反発力が出てくるとか,極点まで行けば飽きてしまうとか…。

警察でさえ「前さばき」という処置がある。刑法上では明らかに罪になることでも,いちいち罪にしないで,適当に処理するという方法だ。現場にいる人間は,秩序を守るか/守らないかで決めるとあんまりだからというので,こんな方法を取って「適当に」処理する。そんな現場を知らない人間が,やたらと「取り締まり」や「罰則」を振り回す。あれこれ細かな規則に拘泥すると,相互監視化して世の中はますます息苦しくなる。

情報化社会になるに従って,専門家の言葉が直接シロウトを振り回す。専門家は視野が狭いから専門家と言うのです。ところがみんな情報発信者の言葉に次々反応して大騒ぎする。生活感覚が希薄になっているから,高度な情報がむしろヒステリーをひき起こしているのだ。これって,いつキレて爆発するかわからないから恐いよね。「大目に見る」とか「清濁併せのむ」という昔からの生活の智恵も死語にしてはいけないと思うのだけどね。世の中を正しくするより,楽しくしましょう!

ところで,今月20日からのリアルスクール「法科大学院適性試験アドバンスト・コース」はまだ残席ありますよ。直接出会って勉強しましょう!

1/10

「ロスト・ジェネレーション」の作られ方

あっと言う間に1月も1/3が過ぎてしまいました。時間の経つのの速いこと! 去年はここからが速かった。あっと言う間に夏になり、あっと言う間に年末になり、あっと言う間に正月。そして、またあっと言う間に一月も1/3過ぎたと書いている私。今年も去年も区別が付かない。同じレールの上をグルグル回っているだけのような感覚です。

10代の頃、タイムスリップ物のSF小説の最後の部分で「時間が崖の上から滝のように落ちていく」イメージがあって衝撃を受けましたが、何のことはない。今の私の目の前でもまさに時間がごうごうと音を立てて落下していく。滝壺の前で呆然としている。こうやって、あっと言う間に人生が過ぎていくのでしょうか?

その流れに逆らって新しさを演出するかのように、世間では「〜世代」という言い方が毎年のようにもてはやされる。朝日新聞を見ていたら、「ロスト・ジェネレーション」とある。現在25〜35歳の人々を言うんだとか。ちょうどバブル崩壊のあたりに就職氷河期になって、割を食った世代ということらしい。

それだけにいろいろ問題を抱えているらしい。一回ごとに「愛国世代」「難婚世代」「起業世代」「消耗世代」「自分探し世代」などと副題が付いていて、問題山積みという感じですが、多すぎて収拾がつかず、かえって焦点がぼけている。

Lost Generationって元々の意味は知っていますか? 第一次世界大戦の戦中に育ち、人生の方向や意味を見失った西洋の若者たちの一群を言います。特に第一次世界大戦後に活躍したアメリカの作家たち、たとえばヘミングウェイとかフィッツジェラルドとかですね。

ヘミングウェイの「武器よさらば」を読んだことありますか? ブツブツと切れた乾いた文体。行動描写ばかりで心情描写がない。「武器よさらば」なんて甘美な恋愛小説なのに、最後に恋人が死ぬところ等まで全編この調子。「キャットは死んだ。私は帽子をかぶりドアを閉めた」でおしまい。饒舌と言うより、沈黙が支配する空間です。意味が消えた世界だから、言葉ならぬ沈黙が支配するのは当たり前です。そういえば最近、村上春樹訳でフィッツジェラルド『グレートギャツビー』が出てますからその辺の感じを比較してみたらどうでしょう。

それに比べると、日本の「ロスト・ジェネレーション」も「ロスト・ジェネレーション」論も饒舌ですね。問題を言い立て,論評し,解決・対策を出しつつ、結局無視するという感じ。簡単に意味づけしないのが本来のLost Generationだと思うのだけど、日本のは、むしろ様々に語ることで意味を無化するという方法を取っているみたい。色を様々に塗り重ねているうちに真っ黒になって、色が消えてしまうというのか…

「本質」という謙虚な言葉は死語と化している。だから、現在では意味づけは人それぞれ。質は問わない。様々にしゃべり、意味づけし、規定する。最初に規定した者、声が大きい者がその場を意味づける。だから何でも良いから、意味づけして消費して捨てて、また新しい意味づけの対象を見つけに行く。それが社会参加だと思っている。

意味づけの轟音の中で失われた意味。そういう文脈なら、「ロスト・ジェネレーション」も確かに失われて(Lost)いるのかもしれない。「〜世代」と規定し,規定される身振りだけが流通する中で、意味を意図的に失わせることに熱中する人々。にぎやかな歓声の裏にそんなニヒリスティックな姿を見てしまう私は,へそ曲がりなのでしょうか?

1/20からスタートする「適性試験アドバンスト・コース」では、そういう失われた状態から回復するのが目的の一つです。「人それぞれ」ではなくて,仮の基準を立てて、それを元に現実を眺める。そうすると、今まで意味が見えなかったところに明確な意味が立ち上がって見え出すのです。自ら意味づけるのではなく、一呼吸おいて意味に謙虚に聞き耳を立てること。そういう態度も捨てたものじゃないと思うのです。


1/2

謹賀新年

明けましておめでとうございます!

日本社会の先行きが何だか不透明な中、今年も、ボカボからつつがなく新年のご挨拶が出来ることは本当に幸せです。これも受講者や支持者の方々のおかげだと、心から感謝しています。

おかげさまでWeb Schoolの受講者の数は去年よりずっと増え、新スタッフの増強もいたしました。今年は皆様の添削依頼にさらにすばやく応えられると思いますよ。

一方、神保町オフィスでのReal Schoolも毎回盛況を見せています。受講者同士の結束も強く、毎月勉強会を開いているグループもあるとか…。その中から着々と合格者が出ている。

そのうちにボカボ卒業生は日本の法律・経営の世界で一大勢力をなしてくれるのではないかとひそかに期待しています。

さて、今年はちょっと我がオフィスのおせちのお裾分け。校長が12/31に手づから作ったものです。去年は「和」の趣味がやたらと流行しましたが、我がオフィスではお正月はずっと「和」のハイレベルを保っています。ローマは一日にして成らず。年季が入っていると思いませんか?

(1月1日撮影)

塗りのお重の中の料理が自作。白木のお重の中のものは親戚からの贈り物。例年,築地で材料を買いこんできて大晦日に料理開始。今年は煮物がしっとりと煮えてGoodでした。お酒に久保田をおごってみました。なーんて書いているだけで幸せ感がふつふつと…

なぜだか、食物はいつも豊富な巡り合わせになっている。皆様、時間があったら是非食べに来てください。あっ、WEB上では無理ですよね。せめて目で味わってください。

こんなことが出来るということは、如何に日本をめぐる状況が平和で幸せかということです。我が国の道徳が衰退している、などと危機をあおるデマゴーグには耳を貸さず、この幸福を作り上げてくれた先人達・周囲の人々に素直に感謝したい思いです。

しかし、この奇跡的な平穏ももうすぐ終わり。明日から「冬のセミナー」志望理由書コースが始まります。それから、新刊書の最後の仕上げに向かってまっしぐら。皆様、今年も頑張りましょう!