2007年10月
10/25

首相の言葉

福田首相の言葉について、「人間味がない」とか「もっと国民に届く工夫を」などと「言葉の専門家」が言っているらしい。でも、私も「言葉の専門家」のはしくれとして言わせてもらえば、彼の言葉は結構ユニークだし、一部の国民にはしっかり届いていると思う。個人的には、彼のコメントは結構好き。すごい皮肉家だからです。

昔、官房長官をやっていたときに、記者団からの質問の前に「ふふっ」と笑いを漏らすときが多かった。たいていは紋切り型の質問のときです。そういうアホな記者を一瞬鼻であざ笑う。切り返しの身振りとしても鮮やかで、結構色気がありました。私は、この笑いを毎回楽しみにしていました。

日本の政治家でこういう人は実に珍しい。一応民主主義だから、馬鹿な質問でも尊重するタテマエになっているし、そういう質問も尊重するのが世間的にはよしとされているが、私は好きではない。勉強や学習では発展途上なのだから、どんな質問でも暖かく受容すべきですが、仕事の場でそれは許されてはならない。

馬鹿な突っ込みははっきり「バカ!」といってかまわない。そうしないと、言論の競争原理が働かないからです。バカにされないように記者も鋭い質問をしようと努力する。それに必死で切り返す。馬鹿が許容されていると、なれ合い、つまりバカのモラル・ハザードが起こる。日本では、学習の場でバカを非難するのに、仕事の場ではバカを許容する傾向がある。そういう倒錯を許さないという意味で、彼の嘲笑は「さわやか」ですらある。

今回、首相になって、一番面白かったのは、教育再生会議の面々を集めたときの時の挨拶。「ま、教育は誰でも一家言あるものですから」というコメントだった。いやあ、これもすっきりとした軽侮の言葉。教育再生会議の顛末は誰でもご存じだと思うけれど、悲惨なものでした。「権威者」の集まりのはずなのに、誰でも言えるような論議をグチグチしているだけ。皆あきれていたと思う。それを、あっさりと一言で皮肉る。

私が教育再生会議のメンバーだったら、かなりムッときただろう。これだけ馬鹿にされたら辞職しないのが不思議なくらい。でも、会議が継続した、と安心したのか、皆ニコニコしている。こういうところが教育再生会議の持つ鈍感さなのでしょうね。バカにされていることが分からないバカという構図。彼の言葉はこういう意味関連を一瞬浮かび上がらせる。

自民党のやろうとしている政策にはいろいろ問題があるけれど、ステレオタイプで自己顕示欲だけが目立つ政治家が多い中、とりあえず個人の言葉がしゃべれる政治家が首相になったのは、悪くない現象だと思います。久しぶりに政治ニュースが楽しめそうです。

10/20

日本の大学生に「日本語教育」を!

早稲田大学が来春から、新入生全員に「日本語教育」をするという報道がありました。(07.10.19読売夕刊)学生たちの論理的思考・表現力が落ち、ゼミで議論していても深まらないからだそうです。学生の論文添削を丁寧に行うことで、「日本語で考え、表現する力を向上させる」そうです。添削は「日本語を専門的に学んだ早大の大学院生が担当」するらしい。

シカゴ大学などが、もう何十年も前からカリキュラムに組んでいるのに、日本の大学では文章の書き方は全部学生任せ。その結果が「思考力の低下」になったのだと思います。読書量が減ったこととか、メールのやりとりが多いことが原因だとまるで他人のせいみたいに分析しているけど、私ははっきりと「教師側の怠慢」だと思います。

やっと日本の大学もここまで来たかと思いますが、それでも、いくつか腑に落ちないところがあります。まず、添削指導は「日本語を専門的に学んだ早大の大学院生が担当」というところ。「専門家だから安心」と思いそうだけど、そうでもないのです。むしろ、「日本語の専門家」がどれだけ「論理的思考力」と「表現力」を持っているのか、ちょっと疑問です。

私は仕事柄たくさんの国語教師と会うのですが、こういう人々の大部分が「国語学」つまり「日本語」学の出身です。でも、そういう「専門家」が一番嘆くのが、「現代文」に代表される「論理的文章」をどうやって教えていいか分からないこと。「古文の活用を教えるのだったら得意なのですけどね。評論はよく分からない。まして小論文の添削など、どこをどうしていいか…」それはそうだろう。「語学」と「論理」は全然違うものだからです。

つまり「日本語を専門的に学んだ」からといって、必ずしも、論理的思考・表現力に対してよい判断力を持っているわけではない。そういう人に添削をいわば丸投げして、はたして効果が上がるのか? かつての小論文添削によくあった「原稿用紙の使い方」とか「テンマルの付け方」などというアナクロな指導に戻ってしまわないか、とすごく心配です。

そもそも、どういう基準で添削するのかな。私は自分なりのルールを作って、いろいろな添削者に添削させていますが、その統一がとても難しい。ボカボのスタッフなら、気心が知れていて問題ないのですが、Yゼミなどの添削者は、いくら添削要領を作って配っても全くそのとおりにやってくれない。あきらめて、各自の思い通りにやってもらうことにした。これでは、質問が多いのも当然だよね。効果的な添削をするには、まず添削者の教育添削から始めなければならない。「将を射んと欲すればまず馬を射よ」です。早稲田はそれをやっているのかどうか…

それに、大学側の今までの態度を見ていると、この決定はやや唐突です。ご存じのように、早稲田大学は学部試験で「小論文」をほぼ廃止しています。つまり、早稲田に入る学生には論文能力を問わないという姿勢を鮮明に打ち出している。そのかわり、「玉虫厨子に入っている玉虫の羽は何枚か?」などというほとんどナンセンスに近い知識偏重設問をしている。こういう試験をモデルに勉強してきた学生に今さら「論理的思考力を養成」するのは、あまりに大変すぎる。

教育とは手間がかかる事業です。いくら教えてもその通りにはやってくれない。だって、それが学生の主体性の表れだから。それを否定したら元も子もないから、彼らがその気になるのを辛抱強く待っているしかない。非効率の極み。もちろん、効率的にする方法は一つだけある。素材を選ぶこと。ある程度出来る学生を集めておけば教育は楽です。でも、「玉虫厨子に入っている玉虫の羽は何枚か?」ばかり気にかけてきた学生を教育するなんて、ほとんど底辺校の底上げ状態です。

早稲田が本気で学生の日本語力を上げるつもりなら、入学後に「日本語教育」をするのではなく、入学前に選別することだと思います。まず試験で小論文を復活させる。慶応の問題にはちょっと見劣りしたけど、かつては良い問題もあったのだから、それをするだけでずいぶん教育が楽になるはずだと思うけどな〜。どうも方針に一貫性がない。

いろいろ批判をしたけれど、頑張っては欲しいです。何せ日本では珍しい試みですから。考えてみれば、この「日本語教育」の方針は、三日坊主にも何回か登場なさった石原千秋先生のご発案かもしれません。 だとしたら、上に述べたようなことももう考慮済み。もしかしたら、ある程度解決済みかも知れません。おそらくそうだろうし、そう思いたい。早稲田の試みが、また「論文なんかどうにでも書ける」なんて世間の見方を変えてくれるように願いたいものです。

10/10

美に寄り添う援助

すっかり秋になりました。日比谷公園の松本楼で夕方カレーなんか食べていると、いちょうの向こうの闇が深い。そこを人が通っているのか、いないのか…先週の日曜日には、ここは大賑わいでした。途上国支援の活動をしている団体や企業、果ては外務省までテントを出して、フェスティバルをやっていました。

その中に、タイのチェンライで少数民族の子供たちを支援する「さくらプロジェクト」のブースが出たので挨拶に行ってきました。「さくらプロジェクト」主宰の三輪隆さんを長谷眞砂子が紹介してくれたのです。三輪さんはカメラマンでもあり「世界美少女図鑑」なんて素敵な写真集も出している。

タイの少数民族は、元はチベットや雲南からやって来たらしい。山の中で焼き畑農業など独特の暮らし方をしています。民族ごとにきれいな制服があって、いつもそれを着ている。昔、メキシコに行ったときも、村ごとに色とりどりの制服があって、その美しさに目を見張ったのだけど、タイの民族衣装もなかなかです。

「さくらプロジェクト」の2階、3階には三輪さんが15年以上かけて集めた民族衣装のコレクションが展示されていて、すばらしかった。彼らは、時間のかかる手仕事をふんだんに施した布を使って、お守りのように身を包むのです。街の中心にも民族博物館がありましたが、こちらのコレクションの方がはるかに充実しており、愛情がこもっている。

でも、昨今のグローバル化で少数民族たちも昔の暮らしが守れない。都会に働きに行ったり人身売買にあったり、社会的弱者化している。そういう少数民族の子供たちを寮に入れて、日本人の寄付で学校に通わせ、激動の現代タイ社会でも生きていけるようにヘルプしようというのが「さくらプロジェクト」です。

でも、これは近頃はやりの個人の生き抜く力を増大させる「エンパワーメント」とは違います。三輪さんの姿勢はもっとソフトです。「弱く美しい存在に寄り添う」とでもいうのか。とりあえず、少数民族の子供たちがひどいことにならないように手助けする。もっと言うと、少数民族の人々を美として愛でるという気持ちが底にある。

人道援助というと、つい危機と善意を強調するという風潮があるけど、私はちょっとそれは押しつけがましいと思う。少数民族は美であり、それを守り、この世に存在させるという気持ちがあっても良いと思うのです。

三輪さんはタイの少数民族の写真を一杯撮っているけど、その中に出てくる子供たちは、男の子も女の子もものすごくかわいい。芸能プロダクションに入れて売り出したいぐらいです。タイの少数民族の少女による「スクール水着写真集」なんて出したら、爆発的に売れるかも。ちょっと不謹慎な想像だけど…。

この間、日本でも「男の子」のやんちゃな表情を捉えた写真集が話題になったけど、少数民族たちの表情はそういうステレオタイプを超えている。何というか、子供や「人間」の原型というか。笑顔は影がないし、すましているときは本当にきれい。中にはSFに出てくる「異星のプリンセス」という風情の神々しいまでに「美しい」子供たちもいる。見ていると、こういう人々がこの世に存在できなくなったら世界は終わりだ、という感じがするのですよね。

さくらプロジェクトの三輪さん自身も、もう近頃の日本人にはいないタイプです。カメラを向けると、そっと物陰に隠れてしまう。すごくシャイな人です。善意を叫んで援助を訴えるというエネルギッシュなポリティシャンではない。しかし、それだけに信用ができるとも言えるのです。

現代の情報社会では、「知られなければ価値が生まれない」から、自己アピールばかりが言われる。「もっと強くなれ」「臆せずものを言え」「リーダーシップをとれ」「個性を前面に出せ」など、いつもの自分以上を見せようと緊張している。でも、それは全部外の他人に対してのかっこつけにすぎない。「いるだけでよい」「そばにいると何となく分かる」という存在の芯がなくなり、他人の視線の前で鎧のように身を固めるだけです。

その結果がどうなったか?  毎日、変動する株価と為替相場、それを一分一秒の遅れもなくキャッチアップする。先のことは考えない。明日の我が身も知れぬ激動にキャッチ・アップする。でなければ、精神世界とか異世界とか、やたら神秘をあおり立てるビジネスにはまる。

そういう不毛な二者択一しか残されていないのだろうか?  ちょっと我々は疲れ気味です。だから、三輪さんのようなシャイな人が黙々と善意を実行しているのを見ると、「世の中捨てたものではないな」という気にもなるのです。

フェスティバルには、学生たちのブースもたくさんあり、みんな「これを見てください」と大声を張り上げている。その顔は「就職はどうする?」とか「ワーキング・プア」とか嘆いたり怒ったりしている人々の顔とは違ってほんわかと明るい。おそらく彼らは途上国の人々に関わることで、少し元気になっているのではないか。「エンパワーメント」されているのは、日本人の方なのかもしれない。

先進国とか途上国とか言うけれど、少数民族たちが存在していることで、実は我々が浄化されている。それをつぶしてしまったら、我々も望みがない。そういう因果関係になっているような気がする。その意味で、「援助」というのは、我々が生きる世界の美を守る運動であって欲しいと思うのです。


P.S.「さくらプロジェクト」では里親になってくれる人を探しています。月額5千円で、一人の子どもが学校に行き、生活できます。 PDF資料

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