2007年11月
11/28

要約力の危機

11/25で「法科大学院 小論文・適性試験Start Up!」が終了しました。10月から11月の長期講座なので、ボカボ・スタッフも大変。でも、彼らが献身してくれたおかげで、「Start Up!」は今までで一番の盛況でした。どうもありがとう!

もちろん、出席者の皆さんも満足してくれたことと思います。「また受講します」とか「年末講座まで時間が空くけど、どう勉強したらいいですか?」とかいう声が次々と。モチベーションが確実に上がっているわけ。このままの調子で突っ走って欲しいと思います。中には、今年絶対決める、という人々もいたけど、ぜひその願いを叶えて欲しいですね。

Webの方も国公立も主要な試験が終わりつつあるせいか、講座を完走して、後は結果を待つだけという人が多い。そういう方から「どのような参考書や予備校よりも分かりやすく、実社会においても使える技術を得ることができたと感動しています」なんてメールも舞い込む。我々の伝えている技術が役に立っているのなら、本当に嬉しいことです。

さて、ボカボの方もここでちょっとスイッチの切り替え。今までの2ヶ月の整理をして、たまっている本を猛スピードで書かねばならない。多少の休みも必要かも。いろいろな企画で、あれ? いつの間にか年末講座までの時間はぎっしり埋まっている。その一方で、Webはずっと続けているし…けっきょく忙しさは変わらないみたいですね。

そんなことを言っていたら、昨日前々回の夏のセミナーの受講生Tさんがひょっこりと訪ねてきました。聞けば、今年は早稲田・明治・明治学院など軒並み私立は受かったとか。「余力で国公立も受けてきました」余裕ですね。「夏のセミナーの後どうしたの?」と聞いたら、「憲法と行政法の勉強をちょっとして、それから新書を一杯読みました。ボカボでやった議論がずいぶん役に立ちました」ということ。

彼は今年受けた法科大学院の問題もたくさん持ってきてくれました。私立では要約に力を入れるところが多かったそうです。見てみると確かに、自分の意見を書かせるよりも、書いてある意味はどうなのか、と問う形式が目に付きます。しかも、法律の文章を読ませて要約させるなんて未修にあるまじきものまである。おいおい、何やっているんだよ。

一方で、京大や一橋など一流校はしっかりと自分の意見を書かせる形式を守っている。これはスタッフの豊富さの違いかな。私立では、法律の専門家しかいないので、一般的な問題で論文を書かせても評価できない。でも、それでは「法律への間口を拡げる」という法科大学院の理想はどこに行ったのか? こういう手抜き問題は、三年後の司法試験での低合格率というコストを払わなきゃいけないと思う。

とはいうものの、この頃、受験者たちの要約力が不足しているという現象も目立ちます。ちょっと長い文章を読ませると、「えっ、こんな読み間違いをするの?」と驚く。JLFの問題にも出たけど、若者たちにとっては「世界が虫食いの意味に見えて」いても気にしないという構造になっているのかも知れない。

私の感想もそれに近い。まず、接続詞が使えない人が多くなった。せいぜい「そして」「また」程度です。私の本を読んだ人なら知っていると思うけど、こういう接続詞はただ文をつなげているという意味しかない。論理的な意味が出てこない接続詞なのです。

接続詞がないということは、文と文とのジョイントが外れている状態です。つまり、一つの「…は…である」という命題と、他の「〜は〜である」という命題とはまったくつながって感じられない。一つ一つの意味が、孤立して意味空間に漂っている。寄る辺のない状態というか何というか…。考えてみれば、これほど不安な状態はない。

しようがないから、漂っている文の分かっている単語だけをつなぎ合わせて、ステレオタイプのストーリーに当てはめて、適当に理解している。だから、何でこんな解釈になるの? というとんでもない状態になる…のではないかと思う。

いったい、学校では何を教えているのだろう。要約ぐらいできるようにしろよ!と思うのだけど、そういえば、私も、要約法を教師から習った覚えはない。独力で方法を開発した。それを考えれば、現在の惨状は仕方ないかも…。

11/19

情動と運動

11/17に草月ホール「ルネッサンス・ジェネレーション」という会に行ってきました。これは下條信輔さんという知覚心理学者・脳科学者(カリフォルニア工科大学教授)がプロデュースなさっているイベントで、今回のテーマは「情動」。この間、下條先生とお会いしたとき「来てみませんか?」とお誘いを受けたので、早速ボカボの長谷と行ってみました。

心理学・神経科学・マーケティング・精神分析・政治思想などといくつかの分野の専門家による講演と対談、最後に議論からなっているのですが、どれも情動(Emotion)とは何か?を探求している。下條先生のお話によれば、この頃人々は理性よりも情動の方に人間が動かされている気がする。それで、このテーマにしたのだとか。

私のかつての専攻は演劇理論なので、このテーマはなじみ深い。なぜなら、演技の際にどう感情(情動とはちょっと違う言葉なのですが、ここではとりあえず同義語として使います)を再現するか、は演劇理論最大の問題の一つだからです。

これに対して、よく言われていたのが、NYのアクターズ・スタジオなどによる「燃え上がる記憶」という方法。これは自分の記憶の中の「悲しい出来事」「楽しい出来事」の細部までを思い起こして心の引き出しに用意しておき、そういう感情表現が要求されたときは、その場面を思い起こすという方法です。これはアメリカではカルト的人気がある方法らしく、昔、周囲にもはまった人が何人かいた。私も一応当時の流行の方法だからやってみたけど(ゼン・ヒラノさんお元気ですか?)、どうも発想が安直な感じがしてなじめなかった。

もう一つは、呼吸法から入る。私は大学で身体表現法を教えていますが、学生に笑いを教えるときには、息を「ハーッ」と一杯に吐き、吸うときは控えめにさせます。つまり、ちょっと空気が足りない状態にするのですね。これを連続させると、横隔膜がヒクヒクする感じを味わえる。その感覚がつかめたらしめたものです。笑う動作に楽に入れます。泣くときは逆で、息をたくさん吸って、ちょっとしか吐かない。これを連続させると泣きたい気持ちになってくる。こ

つまり、「燃え上がる記憶」が精神分析みたいに過去のトラウマを思い出し、気持ちを準備することから入るのに対して、逆に、気持ちより身体のあり方を先行させるわけ。同じことは、ポーランドの演出家グロトウスキも言っている。「怒ろうとするなら、まずテーブルを叩け!」と。

心理学で言うなら、前者が情動の中枢仮説、後者がW.ジェイムズの言う辺縁仮説でしょうか? あるいは、やや行きすぎた比喩かもしれませんが、前者が心理療法、後者が薬物療法かな? 私は両方体験してみましたが、後者の方がずっと楽。当然ではあるけどね。

ただし、呼吸法を覚えるだけでは情動にはつながらないのもたしかです。そこにちょっとだけジャンプがいります。なぜなら、笑うためには、笑いという身体動作がおかしさという感覚を生み、そのおかしさがまた笑いを呼ぶという連鎖・ループに入りこむ必要があるからです。

その連鎖の渦に飛び込むには、呼吸法だけでは足りない。笑いに移行するには、今まで忘れていた記憶がよみがえったり、目の前の他人の顔がおかしくてしかたがないと感じられたりする瞬間、いわば世界が相貌を変える瞬間が必要なのです。呼吸法はそれへの入りを楽にするというだけ。身体=感情とは言い切れないのです。

「ルネッサンス・ジェネレーション」では、広中先生のお話が、このディレンマに光を与えてくれました(下條先生の名著『サブリミナル・マインド』にも同じ実験の引用がありますが…)。つまり、感覚の信号は大脳皮質に行くだけでなく、延髄(運動系)にも行く。情動は、その運動系と強い関係があるというのです。

たとえば、高いところにある吊り橋を渡らせてから、美人の心理学者が「質問紙に答えて郵送してください」と依頼すると、吊り橋を渡る前に依頼したときより、ずっと郵送率が良いのだとか。これは、吊り橋を渡る恐怖で心臓がドキドキする。そのドキドキの身体感覚を感じつつ、美人から依頼されるから、つい自分がこの人に好意を抱いている、と感じてしまう。それで、郵送率が高くなる。

この実験の示すところは、人間の内的感覚なんてあてにならないということです。恋愛のドキドキと吊り橋を渡るドキドキを、人間は区別できない。それを区別するためには、そのドキドキを意味づけする周囲の状況を参照する必要が出てくる、というわけです。

この笑いの演技も似たようなものでしょう。つまり、特殊な呼吸をすることは吊り橋でドキドキした身体感覚になることに当たる。ただし、それだけでは笑いにならない。その身体感覚を解釈しなおす作業が必要とされる。「恋愛」という文脈に結びつけてドキドキを意味づけるように、周囲の世界ないし記憶にある何かと結びつけて「おかしい」と認知する作業が必要になる。それがうまくかみ合ったときに、笑いという情動現象になる。

そういう意味で言えば、演技なんて人間の身体感覚の曖昧性を利用して、自分をだますテクニックといえるかも知れません。「燃え上がる記憶」みたいにまっとうに記憶や感情を信じて、それを利用しようなんて、所有欲に凝り固まっちゃダメ。自分の身体と意識の限界をわきまえて、それをだましつつ戯れる行為なのです。その意味で、無意識なんて難しいことを考える必要はないのです。

うーむ、これで若いときから頭を悩ました問題に一つ決着が付いたような気がします。ちょっと、いい気持ち…かな。

その意味から言うと、最後に少しだけ出てきた精神分析家十川幸司さんの図もおもしろかった(本人のお話はやや苦痛だけど。なかなか言いたいことの中心に行かない。この人はきっと本の方が面白いのでしょうね)。互いに交わらない感覚と言葉という二つの円があって、その二つを情動と書かれた円が結びつけている。言葉も書いたりしゃべったりする身体行為と考えれば、それが感覚と直接結びつかないという感じはよく分かる。実際、書くときには、直接の感覚よりも、頭と手を使って工夫することが大事です。工夫しているうちに、様々の感情がわいてくる。すると発想や記憶が出てきて筆も進む。つまり、情動が起こることで、言語が感覚と結びつけられるのです。この図式はなかなか微妙で、これから使えそうです。

他には、沼沢エリカが扮装・化粧を変えてポーズするビデオの前で朗読があったり、政治思想の酒井隆史氏がインタビューに答えたり。だけど前者はアートの文脈からするとちょっと表層的あるいは粗雑すぎるし、後者はフーコーの焼き直しで、どちらも面白さは今一つ。

ただ、クリスチャン・シャイア氏と下條さんの対談は刺激的でした。認知心理学の学問成果をマーケティングに応用することの倫理的意味についての対談ですが、シャイア氏はまったく問題ないと言い切るのです。なぜなら、「人間は自分の見たいものしか見ないのだから」。この割り切り方はなかなか明晰でよかった。フーコー式に「管理社会の恐怖」なんて想像するのよりずっと健康だと思います。

ただ長谷眞砂子によると、この考え方は1980年代、彼女がNYに映画などの「映像表現における視覚効果」の取材に行ったとき以来変わっていない、とのことでした。「20年前も、そういう結論だったよね」。なるほど。あれから人間がことさらロボット化されたという証拠はなさそうだから、認知心理学がビジネスに応用されることで人間が支配されるという危惧も当たっていないようですね。

11/8

賞味期限とドクキノコ

食欲の秋と言いますが、この頃は「賞味期限」の問題が大変みたいですね。製造中止だとか謹慎だとか。毎回のように頭を下げる会社首脳部。

しかし、私は、この問題をコンプライアンスだとか何だとかと騒ぎ立てるマスメディアのやり方が嫌いです。むしろ、「賞味期限」なんて信じる方がおかしい。

実は、私の趣味はキノコ採集とそれを食べること。ご存じのように、いくつか致命的なドクキノコがあります。たとえば、ドクツルタケ。これを食べるとどうなるか? 「殺してくれ〜」と床をはいずり回りながら血反吐を吐く、などかなり凄惨な死に様になる…らしい。見たことはないけど。

こういうドクキノコはけっこう人家近くにある。私は講義している大学の裏山で何本も見つけた。これを見つけると胸が躍る。なぜかというと、ほぼ同時にタマゴタケというおいしい食キノコが出ていることが多いからです。

タマゴタケの傘の色は真っ赤。軸は真っ黄色、根本は真っ白、ととても食べられる外見ではないけど、スープにすると結構おいしい。ドクツルタケの方がずっと穏当な色。ドクキノコなんて簡単な見分け方はない。一つ一つ、図鑑と首っ引きで、致命的なドクキノコの形と色を頭にたたき込むしかない。

食キノコとドクキノコは隣り合って出る。フォト日記(写真・文は長谷眞砂子)に載せたアカモミタケの場合もそう。横にカキシメジというドクキノコが生えているわけ。私は、アカモミタケはすぐ分かったけど、カキシメジは確信がなかったので、一緒にとって来てしまった。色も茶色でおいしそうだったしね。家に帰ってから、じっくりと検討。結局ドクと分かってすべて廃棄。確認しないで食べたら今頃寝込んでいたかもしれない。

キノコ採集をしていると、生きることと死ぬこと、食べられることと毒は紙一重だと感じます。いくつかの分岐点で生きる方を選び、今の私がとりあえずある。実際、判断を誤ってドクキノコに当たったこともある。一晩中下痢と嘔吐の繰り返し、「これは死ぬな」と覚悟しました。しかし、不思議に後悔の念はありませんでした。それなりにおいしかったからね。

そういう人間から見ると、賞味期限などで騒ぐ人間など気が知れない。食べられるか食べられないかの基準を、生産者の表示にだけ頼って恥じないのだから、生き方として手抜きだと思うのです。

たしかにミートホープ社などの偽装表示はよくはない。しかし、挽肉になったものなど、何が入っているか分からないと考えるのが普通です。私なら使わないし使いたくない。それが個人のリスク感覚というものです。

賞味期限は可食期限ではない。そういう風に考えている人は現実を知らない。「おいしく食べられなくなるかも知れませんよ」というボヤッとした目安に過ぎない。夜中の12時を過ぎたからって、今まで食べられたカステラが食べられなくなる、なんてことはあり得ない。「白い恋人」なんて、防腐剤もたっぷりだから、たぶん賞味期限を1ヶ月過ぎても大丈夫なんだろう。だから社長も油断した。ある意味で、あの社長は食品に関して「現実感覚」を持っていたとも考えられるわけです。

賞味期限は少々時間が過ぎても大丈夫なように、食べられなくなるずっと手前に設定する。だから、それを信用しすぎるのは間違いだし、こだわりすぎるのもおかしい。元々、過ぎたの過ぎないのと、いちいち揚げ足取るような厳密な代物ではないのです。見かけ上の厳密さは、数字になるから出てくるに過ぎない。

それを言うなら、防腐剤の方がずっと怖い。知り合いが、仕事先でもらったと言って、防腐剤を持ってきたことがありました。素手で触ると即座に手がただれる。そんなものをジュースだとか総菜などに入れて平気なのです。冗談じゃないよね。でも、防腐剤を入れて賞味期限を長くした方が確実に体に悪いのに、そちらはO.K。

注意すべきものは、数字ではなくて現実のモノなのに、皆そちらの方はどうでもよくなって、数字のことばかり気にしている。どこか方向が違っている。もっとも、こういう矛盾は今に始まったことではない。かつて小説家の幸田文は「食中毒」騒ぎ(昭和30年代?)を批判して、こう書いていた。

毒になるたべものをたべさせるはうの業者たちはもとより心臓が麻痺していると見るが、たべるはうの子供たちはいったい腐敗について教へられたことがないだらうかと訝しいのである。もし毎日三度食べるたべもので。腐敗の味や臭ひや感覚を教へられてゐない結果がかうした中毒になるのだとすれば、中毒の一半の責任は親たちにもあると思ふ。いゝたべものもいゝが、子供のときから腐敗のもの、毒になるものについて厳しく教へるのは必要だと思ふ。(幸田文『おふゆさんの鯖』)

幸田文は小さいときから、腐ったものを捨てたら怒られた、と言います。せっかく腐りかかったのだから、その状態を「眼と鼻と舌と手でよく覚えておけ」と教えられる。

こういう「大ざつぱな鑑別法」をバカにしてはいけない。むしろ、こういう感覚が働くかどうかは、人間の生存に決定的な役割を果たす。体験を積み重ねれば、カンも働く。それも働かないようなものなら、あえて食べないと自制する。あるいは、信用のおける人や本の判断に頼る。こういう当たり前の手続きをさぼってはいけないと思う。

生産者が出す情報やシステムに依存しているのは、そういう必要不可欠な手続きをさぼっていることだ。生きる技術を放棄したような人間が「企業の責任だ」などとやたらと言いたがる。そういう食品がいやなら、自分で判断したらどうか? 

そういえば、清水大典というキノコ研究家は、日本に発生するすべてのキノコを自分で食べてみたのだとか…。先述したドクツルタケも、死なないようにほんの少しだけカケラを食べたらしい。とりあえずなんともなかったとか。すごいね。体を張る、とはこういうことを言うのでしょう。

「生きる」ということはいずれにしろ、体を張ることだ、と思うのです。


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