2007年2月
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流刑地にて…

TVを見ていたら、平井堅という歌手のコンサートをやっていました。いつも思うんだけど、この人はどうしても「盲目の歌手」という感じがする。歌うときに目をつぶるので、そんな感じがするかなと思ったのだけど、それだけではない。

ナポリで深夜のピザ屋に行ったとき、盲目の歌手が門付けに来た。うらぶれた風情でカンツォーネを歌って何ともいい感じだったけど、平井の場合はずいぶん違う。積極的な盲目というのか、関心のないこと・邪魔なことは見ない、という意志的な感じがするのです。

「エレジー」という曲がスゴかった。「愛の流刑地」という映画の主題曲らしいのけど、最初のうち静かに始まって、途中でグワーンとギターが高鳴り、突然♪その手で、その手で、私を汚して…、と絶叫する。これってエロスとタナトス? 迫力があるのだけど、なんだか妙に混濁した感じがする。

カフカに「流刑地にて」Penal Colonyという短編があります。将校が処刑を見せてくれるので、主人公の旅行者がのこのこついていくというストーリー。処刑の機械が特殊で、囚人をうつぶせに固定し、その背中に機械仕掛けの針を刺す。犯した罪を飾り文字で背中に刻みつけ、時間と共にだんだん深く、最後には心臓を突き刺して終わり。その瞬間、囚人の顔にはえもいわれぬ至福の表情が浮かぶのだとか。

説明しつつ、将校は処刑を始めようとするのだが、なかなか上手くいかない。ついには囚人を放免して、自らが台の上に横たわる。旅行者は止めようとするのだが、「正義は行われなければならない」と耳を貸さない。処刑が始まる。将校の体を針が突き刺していく。ところが、途中で装置はうまく働かず、次々に分解する。針はいきなり身体を突き通し、将校はあっけなく死ぬ。もちろん至福の表情も浮かばない。

謎めいた短編ですが、私は、この小説の主題は観念と身体が同一であらねばならない、という執念だと思います。罪を犯した身体には、「正義」という記号が身体に刻みつけられ、処刑される者もその記号と同一化され、至福を感じる。そうあらねばならない。旧約聖書的というか、カルヴァン的厳格さというか…

『愛の流刑地』もエロスに殉じるストーリーらしいから、そういう観念が身体を滅ぼす物語でしょうね。エロスが極限まで高められ、生きているという快楽をいつのまにか追いこし、死を望むようになる。そういう転倒こそエロスの本質だ、と言うJ. バタイユのような人もいるけれど、私はどうしてもそう思えない。

なぜなら、生きるという前提があるのだから快楽もあるという原理は崩れないと思うからです。それを崩したら、退廃とかデカダンスになるのではないでしょうか? 『流刑地にて』の将校が、罪が身体と同一化するという奇妙なロジックに取り憑かれて身を滅ぼすのと、滑稽さはどこか似ている。いくら極限の愛と言っても、どこか無理がある。

平井堅の歌も、その転倒の無理を敢えて成り立たせるため、現実のエロスの事情など無視して、ひたすらエロスとはこうあるべきだという観念に閉じこもる。「これではない何か」「今私が到達していない何か」「まだ私が持っていない何か」を表すために、最大級の言葉をちりばめる。そんな最大級なんて誰も見たことも感じたこともないのに。そのかたくなさがあの「盲目」を思わせる表情になったし、歌詞の臭みにもなっている。

しかし、愛に殉じるという転倒は意外にステレオタイプです。生活に退屈したマダム(?)とか、競争に疲れた企業戦士とかが、あるはずもない極限のエロスにあこがれる。ときどきPCに来るエッチ・メールの文面のひたすら扇情的にしようという努力は、そんな欲望の裏側を垣間見させる。現在の生活の補完物として、「もっともっと」と刺激の極限を求めているだけなのです。

肉体労働をしている人が強い酒を好むように、キツイ快楽は精神的・身体的にキツイ状況と関連している。その意味で、最大級の快楽・エロスを希求している人が多くなったという状況は、現在の日本がさらにキツクなった現実を表しているのかもしれません。

ところで新刊のご案内。友人のAndrewと英文ライティングの本を書きました。『TOEFLテスト ライティングの方法』(実務教育出版)です。アカデミック・ライティングのシカゴ・スタイルの方法をTOEFLに応用した画期的な本です。英語学習の本は初歩的なものが圧倒的に多いけど、この本は少し勉強が進んで、質を高めたいなと思っている人をねらいました。

昔、ある英会話学校の先生に「日本の英語教育の本は物足りない」と言ったら、「だって初級用ばかりじゃなければ売れないもの」と言われました。こういう本が受容されるということは、日本の英語学習のレベルが上がってきたことでもあります。内容・レイアウトなど読みやすい。長谷眞砂子のエディトリアル・デザインはいつも美しく明晰です。このように「知と美」を両立させる創造的な仕事は日本ではめずらしいと思う。いい本になっていると思いますよ。書店には、来月初めあたりに(amazonや早いところでは26日ぐらいから)並ぶみたい。乞うご期待!

また3月10日からのリアルスクール「法科大学院適性試験Perfect」もそろそろ人数が多くなってきました。参加ご希望の方はお早めにお申し込みした方が状況がキツクならない(?)と思いますよ。


2/17

自然の逆襲とバランス

日本の経済は回復基調にあるというのは、数値から言うと本当らしいけど、TVを見ていたら、東京都心回帰現象が顕著だという番組をやっていました。湾岸に高層マンションが建ち並び、そこに入居者が殺到しているのだと言う。

入居者は30代からお年寄りまで、とナレーションが入るのだが、昼間ということもあるのか、歩いているのは高齢者ばかり。「何でここに入居しようと思ったのですか?」という問いに「娘に勧められて…」と答えている。

呆れてしまいました。何が都心回帰なのでしょうか? たんに子供が親に、長年住んでいた家土地を売り払わせて、マンションを買わせているという構図がミエミエだからです。後で自分に利益がくるように仕組んでいるわけです。

こういう状況よくあるのですよね。近くに暮らせてよいとか何とか情に訴え甘い言葉で誘って、実は不動産で利殖ねらい。長年築いた人間関係から断ち切って都心のマンションで一人暮らしさせて、何が「親孝行」かと思う。お年寄りに聞くと、長年住み慣れた場所から離れると、精神的、肉体的に大きな負担を強いられると言います。なぜ他の選択肢は存在しないのか?

私は、高齢者に都心が大好きという人はいないと言っているのではありません。都心回帰を正当化する力が大きいと言いたいのです。高齢者を食い物にして、不動産の活況を生み出しているなんて、なんだか恥ずかしい。「夜景が綺麗で眠りたくないのよ」なんていう人も出てきたけれど、夜景なんて毎日見ているうちに必ず飽きる。私は、ベランダもなく、天気も肌で感じられないタワー・マンションのどこがいいのかわからない。

これに限らないけど、現代では、何かを犠牲にしてしか利益が生み出されない構造が深く定着しているような気がします。搾取exploitationという構造がハッキリと見えているのに、その犠牲に目をつぶって、活況だ活況だと騒ぐ。まことにタチが悪い。

東北の高校に講演に行ったら、今年はこれだけ冬が暖かいから今年の夏は冷害になるのではないか、とみな心配していました。この感覚、私は健康だと思う。自然はやっぱりバランスだからです。だから、今が暖かいということに懸念を覚える。実際、3月にドカ雪という天候はよくあるのです。

私の家の近くも、紅梅は散り加減なのに、いつも見に行く公園の白梅は、今年はほとんど蕾がない。だから、花もほとんど咲いていない。冬が暖かいと言っているのに、その裏で荒廃が進行しているような。不気味な感じです。

自然と社会は関係しないというけれど、私の実感からすると、微妙に繋がっている。自然のタイミングがおかしいときは、社会もどこかバランスが狂っている。そのポイントはおおっぴらな搾取の礼賛にあると思います。こういう搾取の構造に取り込まれないように、バランスを考えて自分の身を処していかなくてはならないでしょうね。なんだか、自分の幸福の追求だけではアンバランスだ、と感じるような「人間のバランス感覚」が問われている気がしてなりません。そういった感じを頼りに、新しい方法を模索している人も増えていると思いたいのですが…

さて、話は変わりますが、法科大学院適性試験までもう4ヶ月あまり。適性試験を受験する方、準備は着実に進んでいますか? あわただしい日常に紛れて、対策が延び延びになっていませんか? 出題側は、適性試験には対策が効かない、などと言っていますが、もちろん嘘です。演習した方が、点数が取れることは今までの経験から明かです。

もちろん演習だけで、よい点数が出るわけではない。演習量の多さは十分条件ではなく、必要条件。だから、演習量が少ないのは、そもそもだめ。対策している人なら、この辺のロジック分かりますね?

このあいだのリアルスクール「法科大学院適性試験Advanced」も盛況だったけど、3月10日からは「法科大学院適性試験Perfect」が始まります。ちょっと難問あるいは手順が面倒な問題などを取りあげてみようかと思います。どうも点数が伸び悩んでいる人、点数を上げるヒントがつかめるかもしれませんよ。

2/10

医療崩壊と医学部人気

新聞を見ていたら、今年も医学部の人気がすごいらしいですね。グローバル化とか規制緩和とかいって、社会全体が不安定化しているから、どうしても資格を持つ職業に人気が出る。ただ就職しただけでは、自分の人生がどうなるか分からない。その不安感が、安定的な「資格」を求めて右往左往しているということでしょう。

実際、一流企業に就職しても身分は安泰ではない。ボカボの受講生の中に一流銀行の行員がいたけど、今は大企業でも35歳を過ぎたら「自分で生きていってください」という態度らしい。エリート候補以外、会社に残すつもりはなく、どんどん出向させるのだとか。

数年前、韓国では実質的に40歳定年制になったと言われていたけれど、日本でもほぼ同じようになってきたようです。すごい競争社会になったものです。当然、資格系職業の代表である医者の人気が上がる。高収入で社会的地位も高く、自分で開業できるということが魅力らしい。

しかし、一方で医療現場では「医療崩壊」が言われています。医療過誤がさかんに言上げされ、患者の権利意識が高まるとともに、たくさんのクレイマーも生み出している。保険会社の内幕を聞くと、すごいことになっている。とにかく、患者が死ぬとまず医療過誤を疑うという風潮らしい。

これでは、医者はたまったものではありませんね。手を尽くしたのに亡くなると医療過誤と非難される。結局、先端的な治療を行う病院から医者が辞めて開業医に変わる。クレームをつけられるかもしれない治療に携わるよりも、よっぽど安全ですからね。

前にも触れた虎ノ門病院の医師で『医療崩壊』の著者小松秀樹さんの命名によると、これを「立ち去り型サボタージュ」と言うのだとか。実際、東大医学部を卒業した医師は今やほとんど外科を選ばず、精神科や皮膚科を選ぶ。もちろん、訴えられる危険が少ないからです。

ということは、今医学部に進学している人たちも、卒業後にそういう報道やクレイマーの被害に遭う危険が大きい。いったん「医療過誤」として認定されたら、後は何をされるか分からない。たとえば高額の慰謝料を要求される。医師免許の停止ないし剥奪もある。傷害罪や業務上過失致死などで、警察の取り調べを受ける。社会的地位が高いエリートが一瞬にして「犯罪人」扱いされる。その精神的苦痛たるや大変なものです。

しかも、少年犯罪と同じで、状況が改善されて、医療過誤の発生件数が少なくなっても、世間は攻撃の手をゆるめない。かえって、「他はちゃんとやっているのに、お前は何だ!」と騒ぎ出すという構造になっている。比喩的に言えば、医療はもう「世間的信用」を失っている状態です。だから、医療者側がけんめいに努力しても、そこは全然認められず、むしろ細かなところをいちいち暴き立てられ、非難・攻撃される機会が増えてくる。

実際、現場の産科医に言わせると、ある確率で出産時に事故が起こるのは防げないと言います。障害児が生まれる確率はゼロにはできない。しかし、今はそんなことを言っただけで「許せない」と非難される。弁解するのも許されず、黙って職務に励むことしか許されない。確率に基づいて、ある日災難が降りかかる人もいる。他の人はある日突然いなくなる。

こういうリスクがあることを、マスコミはちゃんと発信しない。原因は簡単で、そんなことをしても大衆からの支持は得られないからです。それより、エリートを引きずり下ろして「正義の鉄槌」を振り下ろした方がやんやの喝采を浴びる。このまま行くと、神経症の医者が増えるのではないかしらん?

こういう現象は、経済におけるバブルと同じことかもしれません。医学部に人気が集まると、世間の人気が集まっているというだけで、自分も負けるものか、と競う。一方で、それが含む矛盾や問題は無視されたり軽視されたりする。しかし、矛盾や問題がはっきり出現したときに、膨らんだ過大期待は一気にはじける。すでに転回点は超えているように思うけれどね。

現場と期待を煽る言説とのバランスはいつも悪い。いつかは収支決算をせまられるのだけど、それまでは膨らむだけ膨らませて逃げ込もうとする。でも、恐慌で得をした者がいないように、「現実」の方がちょっとばかり早くやって来る。すべての物が情報として操作できると思いこんでいる分だけ、「現実」から復讐される度合いもひどいかもしれないね。

さて、今の医学部人気の波に乗るべきか、それとも降りるべきか…