2007年3月
3/25

「どろろ」と近代意識

一昨日は久しぶりの休日だったので(というより世間が休日なのに気が付いて、私も休日にしちゃったのですが…)、近くの映画館に行きました。ちょうど手塚治虫原作『どろろ』をやっていました。

子供時代に読んだときには、化け物退治の話なのに「身体を取り戻す」という妙な設定がくっついているな、という感じしか持たなかったのですが、今回見て、ずいぶん構造がはっきり分かりました。要するに、これは『ファウスト』と『オイディプス』を混ぜあわせ、ラカンで味付けした物語だったのですね。

発端は、父親が魔物と契約をして、戦乱の世の平定を目指したことです。その条件として、自分の子の身体を魔物に引き渡す。やがて生まれた子供は、目鼻も手足もない肉のかたまり。生まれると同時に捨てられる。それを拾った呪術師から仮の身体を与えられ、自分の身体を取り戻すべく、魔物と戦っていくというストーリーです。

父親が魔物と契約するあたりは、ファウストがメフィストフェレスに魂を売って、世界の真理を手に入れる話とそっくりです。もちろん、これは自分の欲望のためではない。むしろ、平和をもたらすためだ。自分は正義を確立するためという大義名分が立ち、その目的を理解しない他人を苛烈に抑圧する。だから、父親の「正義」は領土にさまざまな混乱をもたらし、魔物を跳梁跋扈させる結果になる。

この構造は、『スターウォーズ』でアナキンが闇の力と手を結んだのと同じですね。善を確立しようとすればするほど悪にのめり込むという逆説的構造。その中で犠牲になった子が、このねじれた構造を立て直すべく頑張る。最終的は、悪の源泉である父親と対決して、それを殺すとともに、その善の部分にも気づき許す。父殺しが世界の浄化につながるという『オイディプス』風ストーリーになるわけです。

これは近代人の宿命としても見ることができる。ホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』で言っているけど、「人類は啓蒙(知識)によって文明を獲得したが、野蛮を克服した人類は、その啓蒙(知識)によって新しい野蛮状態に落ちていく」となるわけですね。自覚的個人は、その落とし前を付けなければならない。「どろろ」のストーリーはこの定型を忠実に追っているわけです。

一方で、これは、人間が身体を取り戻すという自己回復と調和、あるいは成長のストーリーにもなっている。フランスの精神分析家ラカンの「鏡像段階」という説はご存知でしょうか? ラカンによれば。幼児は自分の身体イメージを持っていない。ところが一歳半ぐらいから、しきりと鏡を見て笑いかけるようになる。この段階で、幼児は欲動の断片にすぎなかった自分を、始めて他者の目から眺めて、統一的なイメージとして捉える。「他人から見た自分が自分である」という仕組みが完成し、社会的存在になる第一歩を踏み出す。

「切れ切れになった身体」というイメージは、これが上手くいっていない状態ですね。欲動が一つ一つ分節化されず、互い矛盾して勝手に動いたり対立したりするカオスになっている。主人公百鬼丸が魔物達と戦って、一つ一つ身体器官を取り戻すと言うことは、このカオスとしての欲動が分節化・整理され、自己意識が統一化・社会化されることになる。その過程で社会も平和になる。一石二鳥ですね。

つまり、父親が『ファウスト』で、自分が『オイディプス』、その方法が「鏡像段階」という複雑なメカニズムになっているわけです。このようなテーマを持った「どろろ」は、したがって、日本にはやや珍しいタイプの物語になる。「母」と一体化し、その「愛」に包まれるという解決ではなく、「父」の残した問題と矛盾を解決し、その中で自己を確立していく近代的な教養物語Bildungsromanになる。土俗的なようでいて、本質は近代人の成長物語だったんですね。

ところで、コンセプトはそうだとして、映画自体の出来はどうか? 根本的な問題は、全体が短すぎたことにあると思います。教養物語Bildungsromanはトーマス・マンの『ブッテンブロオグ家の人々』などもそうだけど基本的に長くなるのです。だから、一つ一つのエピソードが意味づけられて、主人公が着実に成長していく過程が辿ることができるのです。本来なら、『スター・ウォーズ』並の長さであるべきかもしれません。

ところが、魔物と戦うエピソードは極端に省略され、数も少ない。戦いのイメージをただ並列させるだけで、どんな魔物=悪だったのか、パンフレットを読まないと分からない。外形はしっかり作ってあるけど、その分単なる怪獣映画になってしまう。あっさりしていて良いという見方もあるかもしれないけど、最も大切な要素をこんな風に扱うのはかなり無理がある。ただ、これは製作体制の問題かもしれませんね。

俳優は健闘していたと思う。たとえば「どろろ」の役が本来は子どもなのだが、女優の柴咲コウが男性ぽく演じている。両性具有というか。「またか」と思ったのだけど、これはこれで世相にあっているし、演技も頑張っている。百鬼丸を演じた妻夫木聡(つまぶきさとし)も清潔そうで上品、好感も持てる。ただ両者ともに映画のシーンよりも、ポスターやパンフレットの写真(つまり、静止画像)の方がかっこよく見えるのはなぜか?

美術や衣裳も丁寧に作ってある。スタッフが楽しんでいろいろ工夫したのだという感じがする。ただ、何となくどこかで見たようなイメージになるのだけどね。たとえば、父親の住んでいる城は『ロード・オブ・ザ・リング』の城と似ている。「ああ、あんな感じでいきましょう。いいですね」という感じで和気藹々と作ったのかもしれない。

そういうことを考えると、設定から俳優からセットから、すべてが豊かな感じに裏打ちされている映画なのです。ロケ地もニュージーランドだしね。そのうち、旅行会社で「どろろ」めぐりの旅なんて企画が出来るかもしれない。利用できるリソースが周囲にいっぱいあって、それをあれこれと引用すれば、それなりに工夫できるという日本の状況が窺える。その分、成長物語としての切実さは希薄なのだけど、エンタテイメントだからまあ良しとしようか。

これからの日本映画は、こんなふうに複雑さをあれこれ工夫して、「豊か」に処理していくエンタテイメントにどんどんなっていくのだろうね。

3/15

派遣の品格

昨日、TVドラマ『派遣の品格』が終わりました。残念! ニュース以外TVはほとんど見ない私が、けっこう連続して見ていたのだから、よほど面白かったのですね。篠原涼子演ずる主人公が、毎回いろいろなスキルを見せてくれるので、腹を抱えて笑っていました。

このドラマの良かったことは三つあるような気がします。一つはエンタテイメントという枠内で、真面目な社会問題を取りあげたこと。正社員が実は派遣社員に支えられているのに、給料も身分も低い。実質的な身分格差になっていることを分かりやすく示した。その不公平の描写がなかなか面白い。TV番組もふざけるばかりではない面白さを作れることを示したことです。

さらに「働くこと」の意義を明確にメッセージしたこと。「働くことは生きることである」という言葉が毎回のように出てくる。マルクスやヘーゲルじゃないけれど、消費ではなく、労働こそが人間の本質であると唱う。消費を煽ってばかりの他のテレビ番組とは大きく違う。ある意味で倫理的な番組だったということ。

三っつめは、働くことの重要性に触れながらも、「自由」という価値を明確に抱く人間像を示したこと。主人公の「大前春子」は、世界中を旅する資金を稼ぐために仕事する。残業はしない、会社の人間関係にコミットしない。機能的に仕事を捉える自立した個人。こういう女性像は今までほとんど出てこなかったと思います。すっきりとクール。

この軸足がずれていないのが大きな魅力です。それが人間関係にグチャグチャと悩んでいる周囲と様々な葛藤を起こす。そのドタバタから、日本社会の滑稽さが見える。良いドラマだったと思います。

ただ、見終わったとき感じたのは、主人公の行動がけっして「人情の不足」ではないことを強調しすぎていなかったか、ということ。恋愛話が絡まってきたり、実は主人公が人情に厚いことを見せたり、職場との一体感が描かれる。ドラマの作りとしては、上手くまとめるにはこのようになるしかないのだろうが、それでも「無い物ねだり」のように、これで良かったのかなと思ってしまう。

前に、ある画家の文章を読んだときに、作品と自然・現実がどこが違うのかを次のように説明していました。作品はつねにある限られた空間の中にある。それに対して現実には境界がない。富士山は美しいにしろ、その裾野はダラダラと続いて、いずれ醜い別の現実と接する。それに対して、作品はどこかで強引に限界を引いて、それを美として提示する、と言うのです。

私が、「派遣の品格」を見たときに、つい「無い物ねだり」をしてしまったのは、そういう作品の成立条件とも関わっているのかもしれませんね。現実を表しつつも、どこかで境界付けて、まとまりとして示さねばならない。個人的には、その問題がドラマの構造を浸食しちゃうほど強力なのが好みなのだけど、喜劇として考えると、このまとめ方が良かったのでしょう。

その意味で、『派遣の品格』について、こんな風に終わっちゃっうの? という思いを抱いたことは、むしろこの作品のまとまりの善さを証明することになるのでしょう。作品は終わる、しかし現実は続く。現実の困難の感覚がちょっとでも視聴者に残れば、ドラマとしてはOK。その意味で、昨今のフィクションの形式とは、そもそも3ヶ月でキッパリと終わる派遣労働のようなものかもしれないですね。

3/4

やっと完成!

TOEFLテスト ライティングの方法』が出版されました。最初の原稿を書いたのが、去年の4月頃。ホントは10月に出る予定だった。ゴメンナサイ。

今度の本は共著です。英語と日本語の調整にも神経を使いました。二人の間で何度も原稿が行ったり来たり。ビートルズじゃないけれど、毎日がHard Dayユs Night!

共著者のAndyは英語論文教育について強い信念を持っています。ICUを出た後、アメリカの大学に留学。さらにオクスフォードのマスター、シカゴ大学のドクターを出たというincredibleな俊秀。その中で、アカデミック・ライティングにおけるシカゴ・スタイルに大きな影響を受けた。論文はこう書かねばならないという信念とそのための明確な方法論を兼ね備えている。

その信念は、私も共有しているからこそ一緒に書いたのだけど、それでも意見がぶつかることもしばしば。話し合いもシビアなものになります。。忍耐がいる作業でしたが、日米の文化を往還するよい経験になりました。

ライティングの理論は日本ではきちんと教えられていないというのがAndyの意見。そんなわけで、方法のプレゼンテーションにも気を遣いました。文章の各要素がどう構造化されているか明示する。そのためにアイコンを使用しつつ、見やすく美しい紙面にする。このような知と美を両立させる全体のコンポジションは長谷眞砂子の独壇場です。

そんなわけで、手に取ってみるとけっこういい本に仕上がったと満足できます。ある教育コンサルタントに見せたら、「これはいい、売れるぞ!」というご託宣。ぜひ、そうあってほしいものです。

だいたい、今までの日本の英語学習本は初歩的すぎるものが多かった。レベルを上にすると市場が小さくなるという事情もあるのだろうけど、中級者が頼れる本が少ない。だから、どれも似たような企画が溢れる。でも、これだけ英語市場が成熟し、英語が使える人もたくさん出ているのに、いつまでも「必須表現100!」なんてコンセプトではしようがない。

たしかに言語習得は最初のうち体育会系で頑張るという面があるけど、それを運用する段階に至ったら、そういう理屈無視の方法では限界がある。前にもちょっと書いたけど、こういう方法で英語を習得してきた人々の言葉は内容が貧しい。こういう「英語使い」たちが日本人の代表だと外国人に思われたら嫌だな、とずっと思っていました。

その意味では、この本は日本の英語教育本の中では徹底的にreasonを追求したユニークな本になっていると思います。これからの英語教育の方向、「英語使い」たちの意識を大きく変える可能性がある。英語運用能力を伸ばしたい方、ぜひお手にとって見てください。

それから、この本の出版を期に、念願だった「英文Essay Writing個別対応コース」をスタートすることにしました。VOCABOWをスタートさせてから5年。その当初から計画にあった講座です。その第一弾は「TOEFLライティング Basic」。共著『TOEFLテスト ライティングの方法』のメソッドに基づいて、受講者が書いた英文を添削するシステム。今まで、英語学校の先生が片手間にやっていたレベルではなく、徹底的にcorrectionします。

その徹底性は今まで日本語でやっていたものと同レベルあるいはそれ以上。ご期待下さって結構です。開始時期は、新学期の開始に合わせて4月の予定。今、その準備に大わらわ。続けていくつかの英語プログラムも開講する予定です。VOCABOWは今年もHOTです!

それから3/10から神保町オフィスでReal School「法科大学院適性試験Perfect」も始まります。まだ残席があります。お申し込みの方はお早めに! いよいよ追い込みに入ってきました。法科大学院を目指している方、手を抜かないで頑張りましょうね!