2007年4月
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英語のチカラ/日本語のチカラ

黒田龍之助という言語学の先生が講談社「本」という雑誌に面白い文章を書いていました。彼はロシア語・ベラルーシ語などが専門なのだけど、近頃は英語も教えているのだとか。他の語学と違って需要が多く、TOEIC受験などの科目も教えるのだけど、そういう実用をやると学生が実につまらなそうなのだという。それより、カーペンターズなどの歌詞の聴き取りなど、みんなで苦労しながら「聞き取れないね」なんてウダウダやっていると、「先生、英語っておもしろいものなんですね」と言ってくるのだとか。

当然でしょうね。実用とか資格のためにやらなきゃいけない、なんて勉強が面白いはずがない。TOEICもビジネス英語なのだから、何で人生経験と知識を広げるべき大学生がやらなくてはならないのか。比較的高い点数がとれても、達成感があるわけもない。前に三日坊主で「英会話な人々は体育会系だ」と書いたけど、よっぽどのマゾでもない限り、そんな勉強に興味を持てないというのは、別に特別のことではないはず。

ペラペラには誰でもあこがれるけど、そういう次元を目的にしたら、語学の勉強は退屈で仕方がない。言語学的観点とか、文学的観点とか、芸術的観点とか、何かペラペラ以外に知的好奇心をそそられるポイントがないと、やる気力なんて湧かないものです。たんにニュースを聞くために何時間も努力しようとする学生が大勢いるとは思えません。

それでも、英語を拡充しさえすれば学生は集まるので英語の講座は増え続けている。私にまで某大学で英語を教えないか、という話が回ってきました。アメリカ人の先生と二人で掛け合いでやってほしいとのこと。今回は時間が合わなくてできなかったのだけど、恩師の頼みなので次は引き受けねばならないだろうと思っています。

でも、いったいこの異様な実用英語熱はどこまで続くのでしょうか? その結果、日本の若者の英語嫌いはどこまで増えるのでしょうか、興味津々というところです。この間、一緒に本を作ったAndyもW大学、I大学など何校も掛け持ちして気息奄々の有様。4月からしょっちゅう風邪を引いている。仕事がたくさんあるのは良いことだと言うけれど、はたで見ていると少し気の毒なくらい。

TOEFL用ライティング講座」も4月末から始めるつもりでしたが、彼がそんなチョー多忙状態なので、万全を期して少し開始を延ばすことにしました。大学の一学期が終わった8月始めから開始しようと思います。期待していた方、ちょっとお待たせしてご免なさい。でも、その分充実した講座にしますのでご寛恕を! 「英文ステートメント」についてはReal School「個別コーチング」で個別指導を始めます。

それに対して、今年は文学部で国文科が大流行だとか。仏文とか露文とか、独文とか(英文科でさえも!)志望者が急減少して惨憺たる有様になっているのを後目に、G大学国文科など120人の定員に180人合格させたのだとか。それだけ志望者が押し寄せたのですね。

プチ・ナショナリズムのせいだという人もいるけど、たぶんそればかりではない。そもそも、外国文学なんて言うけれど、大学2年間で今までやっていない語学を学んで、それで文学を鑑賞しようなどと言うプログラムが無理なのです。英語だって、最低9年間もやりながら、言語で読むのはおぼつかないというのに、第二外国語なんてたいして上達できない。結局、文章は日本語の翻訳で読んで、肝の所だけその言語で読むということになる。

もう一つは外国に対するあこがれがなくなったこと。あるいは、生活の方が欧米化して、むしろ日本の伝統の方が物珍しくなったことが影響している。印象派の展覧会よりも、日本画の展覧会に人が集まる。同様に、日本文化も気が付いてみると、意外に面白いものがあるという感じが強くなった。日本の伝統文化が、現代の若者にはエキゾチックな魅力に溢れている、というのは言いすぎでしょうか? 

逆に言うと、日本文学もようやくグローバル・レベルで捉えられるようになったのかもしれない。つまり、日本語も「閉ざされた言語」ではなく、数ある言語の一つになっている。しかも、自分がたまたま日本に生まれたので無理なく理解できる。それなら、外国語をもう一つ学習する苦しみを忌避して日本語でやろう、という判断が徐々に現れてきたのかもしれませんね。その意味で、大学において、外国文学の凋落するのは別に悪いことではないのかもしれませんね。

4/26

マルクスのために…?

この間の三日坊主で、マルクス主義のことを書いたけれど、「先生は社会主義者なのですか?」という質問がありました。うーむ、こういう質問が来るとは思いも寄らなかった。これは少し説明しておかなくてはならないかな?

まずマルクス主義は必ずしも政治信条ではありません。むしろ、社会を分析するための道具と考えた方がよいと思います。その証拠にアメリカは政治的には反社会主義の国だけど、人文・社会科学の学者たちの大部分は自分のことを「マルクス主義者」と言うと思います。だからといって、彼らは共産主義者・社会主義者ではない。むしろ政治的には自由主義者・保守主義者であることが多い。ただ、分析方法としてマルクスの方法を使うということなのです。

日本だって経済界のトップにいくらでもマルクスの愛読者がいるはずです。かつてNTTのトップだった人も、「自分はマルクスの資本論に最も影響を受けた」と自叙伝に書いていた。マルクスの考え方と保守主義は両立するのです。

マルクス主義=共産主義者・社会主義者と考えてしまうのは、かつてのアメリカの「赤狩り」ヒステリーを思い出させます。これはマッカーシーという議員が「アメリカの知識人にはソ連のスパイが居る」と爆弾発言を行い、国中を大混乱に巻き込んだ事件です。たくさんの人が査問を受けたり、業界から追放されたりした。自殺した人も多い。現在では、マッカーシーはデマゴーグとしての評価が定着している。マルクスの名前を出すと社会主義者だと決めつけるのは、マッカーシーズムと同じレベルになってしまいます。

マルクス主義は社会を見る際の一つのすぐれたモデルなのです。社会はただ見ていたって、そのメカニズムが分かるわけではない。何かのモデルを立てないと、そのメカニズムは見えてこない。ぼーっと周囲を眺めていたって何も見えてない。「周囲にいくつ赤いものがあるか?」と言われて、はじめて何か赤いものがないかと気を付けるように、一つの焦点を持ってみないと何も把握できないのです。

社会のモデルには、おおよそ三つあると社会科学では言われています。その三つとは、マルクス型・デュルケーム型・ウェーバー型です。

マルクス型は社会を階級による支配システムとしてみます。たとえば、圧倒的な資金を持つ資本家が自分の身体以外のリソースを持たない労働者を支配する、というのが近代資本主義ですね。下の階級がイヤだと思うことであっても、上の階級の方が強いから、強制することが出来る。働くのがイヤでも、働かないと食っていけないなら、働かざるを得ないし、社長の言うことは「おかしいな」と思っても聞かなくてはならない。こういう見方をすると、この世の中には様々な階級支配関係があることが分かります。たとえば、メディアと大衆、健常者と障害者、男性と女性など色々な支配・被支配関係も同様な面があると思いませんか?

デュルケーム型ではそう考えません。社会は分業のシステムだと考えます。ある人が生活するには、食料もいる。住居もいる。しかし、それをすべて自分で創り出すことは出来ない。誰かの助けが必要なのです。逆に自分が手助けできるところがあるかもしれない。そういう風にして、社会は相互扶助しているわけですね。イメージとしては、生物(有機体)を考えればよい。心臓は心臓の役割、皮膚は皮膚の役割がある。それらが協力して身体を作っている。社会もそんなものだ、というわけです。

ウェーバー型は社会のまとまりは共通する信念(エートス)から出てくると考えます。各自がバラバラのことをやっていたとしても、皆が「人間は働くことが大切だ」と思っていさえすれば、それなりのまとまりが得られるでしょう。だから資本主義も上手くいく。私の好きなバリ島では皆が「この世で一番大切なのはヒンドゥー教だ」と思っているので、ヒンドゥー教のお祭りがあるとすぐ仕事を休んでしまう。ビジネスには都合が悪いけど、宗教指導者の言うことはよく聞く。だから、社会の結束は強いし、秩序も保たれる。

実際の社会では、これらのどの面も少しずつ入っている。近代資本主義と言っても、すべてが資本家/労働者という対立だけで割り切れるわけではない。会社の中では互いに協力していかなければならない場合だってあるだろう。あるいはバリ島だって、宗教共同体というだけでなく、観光ビジネスをやっておかなければ生活できない。そこで資本家と労働者の闘争だってでてくる。どの面をメインとして考えるか、で見え方も変わってくるのです。

社会問題を考える場合は、この視角ないし視座が重要です。対象にしている問題で、どのような視座を取るべきか? あるいは議論になっている問題で、相手はどのような視座を取っているのか? それに対して、自分はどうか? それぞれの視座の特徴を分かっていて、分析できなければいけない。そういう分析道具は、政治信条とは別なのです。

私の政治信条は、基本的に、リベラリストかつ保守主義者というところでしょう。しかし、現在、問題となっている「格差」などを考える場合に、マルクスの考え方である支配−被支配のモデル、さらには「労働者窮乏化法則」などの発想が一番しっくりくる。それを抜きにして、格差社会だから、年収300万で生きろとか、上司との関係を良くしろとか、スキルを身につけろなんて言ったって、所詮表面的な解決策にしかならないのです。

こういうように、政治信条とは別に社会モデルを考え利用する、ということは、どうも普通の人には苦手らしい。普通は、社会の見方と社会の理想がくっついてしまうのですね。しかし、それができなければならないし、それができないと多様な社会の分析が出来ません。社会の分析に、主にマルクスの図式を使う、という点でなら、私は「マルクス主義者」と言えるのかもしれません。でも、それは政治的に共産主義を支持することを意味しません。

エリツィンが亡くなったと新聞に出ていたけど、ソ連崩壊以来、このあたりの微妙な違いが分からなくなって、マルクスというと「ソ連のダメな考え方だろう」という粗雑な意見が多くなってきています。これはむしろ脳天気または思想の劣化です。気をつけましょうね。

そのあたりの考え方の違いを説明した本を、今執筆中です。仮題は『主義の手帖―社会思想の脳内マッピング』。夏に出版予定です。乞うご期待


4/20

マルクスの復権

私は数年前から主張しているのだけど、現代ほどマルクスの理論が当てはまる時代はないのではないか、と思っています。社会主義が崩壊し、資本主義しかないために、その運動に歯止めが利かなくなっている。結局、その矛盾が犯罪・社会不安の形で出てきていると思うのです。今度のヴァージニア工科大学の大量殺人はその典型ですね。

「優勝劣敗」という競争原理は資本主義の原則です。これがないと、効率化も進歩も出てこない。しかし、この原則は反面で、いったん失敗すると救いがありません。なぜなら、優れている者が勝ち、劣っている者が負けるということは、現在失敗している者は全員「劣っている」あるいは「無能力者」という烙印を押されることを意味するからです。

日本でもそうだけど、ここ15年ほどのネオ・リベラリズムによる経済改革は、経済発展を実現したものの、その恩恵は主に上流階級にいっている。中・下層階級は搾取されるだけで、まったく生活水準は上がっていない。なぜか? 「能力のない者」に分配することは、この競争原理に反するからです。その意味で、中・下層階級はやり場のない怒りをため込んでいると思われます。

実際、経済全体が上昇すれば、そのお余りが中・下層階級にも波及するとさんざん言われたけれど、その徴候はほとんどない。恵まれた人は更に恵まれ、恵まれない人は更に奪われる。これでは、不満を持った人たちが暴走するのは、理の当然かもしれません。

一方で、社会主義の退潮と共に、労働組合など中・下層階級の利益を代弁するはずの組織の力は弱まっている。だから、個々人の不満は、組織的な政治力となって社会を変える方向に行くのではなく、孤立した病理的な行為として現象してくるしかない。たまたまアメリカでは銃という武器が流通しているから、それと銃が結びついて突発的で悲惨な事件になったのだと思います。

ヴァージニア工科大学の犯人も貧しい育ちで、犯行前にメディアに送りつけたビデオでは、金持ち階級に対する呪詛の言葉が満ちていると言います。殺人という行為は悪いけど、こういう確信犯が出てくるということは、社会の病理もかなり進行しているのでしょうね。

他方、こういう犯罪に対して、罰則を強化して、収束を図ろうという動きがある。けれど、それはまったく意味がない。なぜなら、刑罰が抑止力になるのは、刑罰を恐れる人がいるからです。ところが、ヴァージニア工科大学の犯人も犯行の後に自殺している。自分の死を覚悟してやっている人間に対して、死刑の脅しは役に立たないのです。

日本でも、この頃、動機がよく分からなかったり、「死のうと思った」と言いながら他人を傷つけたりする犯罪が目立っている。自殺願望と他殺が結びついているわけです。こういう自暴自棄になった人々には、罰則の強化は効果がない。もっと根本的な対策が必要だと思います。

では、どうするか? 「機会の平等」などという寝ぼけたネオ・リベラリズム・イデオロギーの残滓にしがみつくのではなく、結果の平等をある程度実現するほかない。なぜなら、能力の低い人であっても、とりあえず社会の中でしかるべき位置を占めないと、マージナル化されて、社会全体を敵に回す存在になるのです。「経済の効率化」「優勝劣敗」などという経済原理は、結局そのコストをこういう社会不安という形で払うほかないのです。

こういう事件はこれからも頻発するはずです。ある意味で自爆テロと同じですね。イラクでだけ自爆テロが起きているのではない。「アメリカのイラク化」「日本のイラク化」という事態が粛々と進行していくわけです。

気が重くなる事件が続いていますが、粛々と自分を鍛え、自分の頭で考える力をつけることが大事であるのは間違いないでしょう。そのための方法の一つとして、読書を習慣にすることをお勧めします。良質の読書の積み重ねは、人生そのものを豊かにする力を持っていますから。ところが、意外と役に立つ読書ガイドは少ない。最近書評の仕事も始めた作家の佐藤優氏は、「新聞や雑誌の書評欄を読むと、少しも読まないで評したり、一部しか読まないで書いたものはすぐわかる」と言ってますが、同感です。今、ボカボでは読書案内のページを準備中です。本読みの巧者たちが集まるボカボならではのページにしたいと思っていますのでご期待下さい。

ところで、皆さん、法科大学院適性試験の準備は着々と進んでいますか? 後2ヶ月の余りですので、今までの知識を総ざらえして確実なものにしておかねばなりません。「法科大学院適性試験 直前演習コース」では充実した模擬問題を用意しています。今の時期、とにかく問題演習をたくさんしておくことが、高得点への早道ですよ。

4/16

アジアと携帯文化

しばらく所用でインドネシアにいました。連日30度以上。太陽は真上から容赦なく照りつけ、夕方には連日のスコール。その中で植物は青々と屈託なく茂る。日本に帰ってくると、緑の淡泊さに驚きます。前にフランスに行ったとき、「何にでもベージュ色が入っている」と思ったのですが、熱帯から帰ってくると、日本全体が何だかベージュがかっている。

インドネシアでも、インターネットやEメールは簡単につながります。ホテルでは無線LANになっているし、町中でもインターネット・カフェがけっこうある。ちょっと速度は遅いけれど、これもそのうちにすぐ速くなるはず。こういう環境だから、受講者・スタッフとのやりとりもいつもと同じ。東京スタッフもいつも以上にがんばって連携を密にしてくれました。ボカボは私が日本にいなくても、いつも通りちゃんと機能しています。

現地在住の友人に聞いたら、もう隣町までブロードバンドが来ているので、自分も敷設リストに入れてもらったのだとか。もうすぐ自宅でも、日本とまったく変わりない通信環境になるようです。デイ・トレーディングをしながら、現地ホテルに長期滞在する日本人もいるらしい。そういえば、IT化は携帯電話でも進んでいます。かなりの人数が携帯を持っている。

日本では、電気・ラジオ・テレビ・電話・インターネット・携帯とエネルギー・情報革命は、順を追って何十年もかかって進んできたのだけど、インドネシアでは進歩の速度が何倍もなっている。しばらく前には電気も通っていなかったところに、携帯とコンピュータが普及。発展の急激さも大変なものです。だから、科学技術知識の変化に生活意識が追いつかない。「現地の人々にとっては携帯はまさにマジックなんですよ」と友人は言います。一瞬にして、ここと向こうが繋がるマジック。それをインドネシア人は日々体験しているわけ。

しかし、私だってTVがどういうメカニズムで映るか知らないし、コンピュータで仕事をしていながら、ITは得意ではない。一応生活・仕事で使えているから、知っているつもりでいるが、マジックを信じているという点で言えば、インドネシアの人たちとそう変わりはないかもしれない。一時期、『ケータイを持ったサル』なんていう言い方で、女子高生を揶揄する言い方が流行ったけど、そういうことを言う大人達だって、どれだけ科学知識があることやら。

ただし、この経済発展はマイナス面を導入していることも確かです。街を歩くと、超ミニで化粧の濃い若い女性が目立つ。しかも白人や日本人の男と連れ立って歩いている。服装も派手だし、明らかに余所からやってきた人です。夜の商売も盛んになって、しだいに歌舞伎町化している感じがする。今までは、地域共同体がしっかりと機能していて、こういうことは自然に避けられてのだけどね。

結局、世界は急激に一様化している。情報化・グローバル化が進行して、地域文化・地域社会は急速にそのパワーを失っている。そのパワーを無理にも復興しようとするなら、原理主義のようなヒステリックな形を取らざるを得ない。もちろん、私のような「旅行者」もそれに一役買っている。「10年前とはずいぶん変わったな〜」という嘆きを言うことは、ほとんど傲慢に等しい。なぜなら、私のような外国人が居やすくなるように、この地域も適応してきたはずだからです。

私は、この地域が歌舞伎町化するのはイヤだけど、それでもそういう機能を大多数の旅行者が利用しているのは確かです。たぶん、あまりにもその方向が進み過ぎると、問題が頻発して、政府の規制が入るだろうね。そうなると、観光はあっというまに衰退する。原理主義者は喝采するだろうけど、現地経済は衰退する。悩ましい二者択一を、今アジアは迫られているわけですね。そういうプラスもマイナスもひっくるめたエネルギーを感じて帰ってきました。

ところで、「法科大学院適性試験 直前演習コース」を現在開講しています。日頃よくできると思っている人でも、模擬試験形式で解いてみると意外と穴があるものです。今回も一人一人の弱点を明確にコメントしています。その意味で、最後の追い込みとして有益だと思います。


4/3

「先生」受難の時代

いつものことだけど、桜があっと言う間に満開になり、あっと言う間に散ってしまいました。私の住むところの下は桜並木なので一時は一面桜色。その隙間から、ワイワイ言っている子ども達の姿がちらほら。金色の雲の下に街の人々が見えるという洛中洛外図の構図そのまま。まあ、平和な風景ですね。

ただし、日本の雰囲気は「平和」とはほど遠い。戦争もないのに、至る所でバッシングが起こっているからです。とくにひどいのが所謂「先生」業に対する攻撃。まず医療への攻撃が加熱して、「外科」「産科」のリスクを増大させ、結局これらの科の医師のなり手が少なくなった。ボカボにも、医師や看護師が法律家になって医療関係者を守りたい、という希望が殺到している。

それに引き続いて、今度は学校教育に対する攻撃が激化している。とりあえず、教師を叩いておけばいいというのでしょうね。そのためかどうか、教育系の志望者が毎年減っている。得られる利得に比べて、教師はリスクが多すぎる職業と感じられているせいでしょう。現場に言わせると、毎年毎年、文部科学省があれこれ干渉して官僚化が進み、提出書類が増える。おかげで、生徒に接する時間が減り、ますます教育が空洞化する事態が進行しているのだとか。「教育再生会議」どころか、「教育破壊会議」という陰謀が進行しているのか?

こういう状態になったのは、教育・医療がサービス業化したためでしょう。なぜなら、サービスとはそもそも召使い・奴隷の役を演ずる仕組みだからです。たとえば、レストランは王侯の食事を市民階級が享受できるようにした場所です。したがって、給仕する人間は召使い・奴隷の役を積極的に演じ、客は暴虐をふるえばふるうほど満足を得られる。たとえば、ウェイターがちょっと水をこぼしただけで、客は怒鳴りつけて土下座させるのを何度か見たことがあります。客観的に見て客の方が下品な感じがしても、客だから丁重に扱わざるを得ない。

もし医療がサービス業化するとどうなるか? 患者の「自己決定」に従って、黙々と治療または処理する。ところが、ある決定をした後で悪い結果が出ると、「ちゃんと説明していない」と患者側はいちゃもんをつけて、医者のせいになる。医療崩壊の根っこはここにあるのだと思う。同様に、教育がサービス業化すると、客である生徒・学生のクレームの付け放題になる。実際、この頃の子ども達は注意すると、「私は注意されてすごく傷ついた。まず、そのことを先生が謝れ」と要求するのだとか。もちろん、親も「人権侵害だ」と大騒ぎする。親と子が一体になって、クレーマーと化す。

こういう対応をする生徒・親に、「いじめをしているだろう」と注意したらどうなるか? 「いじめていると言われた私が被害者だ」とか「うちの子を差別している」とか逆襲してくるに決まっている。それに対して、学校は断固として対決できるか? サービス業なら、そんなことできっこないよね。結局、従業員=教師に頭を下げさせておしまい。こういう状況で、教師が「いじめの予防」をするなんてそもそも無理。「教育再生会議」にもサービス業の経営者が入っているらしいが、教育のサービス化だけは勘弁してもらいたい。

それでも、この傾向は止まず、もっと進んでいくはずです。なぜなら、ここには「弱い者がもっと弱い立場の者をいじめて憂さを晴らす」という背景が存在するからです。国全体が第三次産業化し、ほとんどの人が「サービス」に従事する。そこでは、客に徹底的な奉仕つまり奴隷化を要求される。それに応えれば応えるほど評価も上がる。しかし、反面で鬱憤がたまる。だから、自分が客になったときは、思い切り従業員をいじめて気を晴らす。従業員である限り、客には反抗できないのだから、初めから勝つ喧嘩をしているようなものです。つまり、日本はいずれ全面的な「相互いじめ社会」になることが予想されるわけ。これってほとんど地獄図ですよね。

社会科学ではよく「合成の誤謬」ということを言います。一人一人は善意に基づいて実行することが、全社会的に進行すると破壊的な結果をもたらすということです。「みんなが倹約すると、モノが売れなくなり、ますます社会が貧乏になる」というのが代表例だけど、この教育・医療の話もそういう「合成の誤謬」の典型例だと思う。「教育を良くしよう」という一人一人の善意は疑えないとしても、それが全面的に展開すると変な方向に暴走する可能性は大きい。あれこれ横から口出ししないで、専門家が各自努力できるような余裕と環境を整えてやることが先だと思うのだが、政治のやることはいつも逆コースばかりです。

さて、4月5日からボカボで「法科大学院適性試験 直前演習コース」が始まります。これは適性試験とほぼ同じ形式・内容・レベルの問題を5回にわたって、演習して提出するものです。こちらではそれを採点し、丁寧な解説を付け、さらに一人一人に得点傾向・弱点・勉強法などを書いた講評を送ります。最後の追い込みと整理にきっと役立つと思いますよ。これは教育効果抜群。ロースクールを受けたい人は、ぜひ受講してみてください。