2007年5月
5/31

「情報化」の虚偽

今、リチャード・H・ロービアというジャーナリストの書いた『マッカーシズム』という本を読んでいます。メチャクチャ面白い。マッカーシズムはご存じですよね?

1950年代、冷戦の最盛期、上院議員のJ. マッカーシーが「国務省に205人の共産党員がいる」と爆弾発言をして、たくさんの公務員だけでなく、マスコミの人たちまでもが「赤狩り」をされて、職を追われたという社会的混乱を招きました。

エリア・カザンなんて名監督は「映画界の共産党シンパの名前を出せ」と捜査官から脅されて、たくさんの無実の人々の名前をかたり、リストを提出した。そのために何人もの自殺者が出る、という騒ぎになりました。

この爆弾証言はまったくのデタラメだった。しかし、デタラメだと分かっても「赤狩り」は収束しなかった。一つの虚偽が暴かれても、マッカーシーの発言は信用され続けたのです。なぜか?

ロービアは「大胆な虚偽は政治家にとって損失とならず、かえって得になる」と言います。「まさか、こんなことがあるはずはない」というようなことの方が話題になりやすいし、信じる人も出てくる。しかも、虚偽を言い続けていくうちに周りが辟易して、誰も真実を追究しなくなるらしい。

たとえば、マッカーシーは第二次大戦後におけるアメリカ兵の元ドイツ兵に対する残虐行為を告発しています。(一見、人道派ですね)その「証拠書類」と称するものをロービアに見せる。しかし、ロービアはどこがその「証拠」になるのかよく分からない。

「ここのどこが残虐行為の証拠なのですか?」
「まさにそこだよ。もう一つの書類を読んでみたまえ。ジグソーパズルのように構図が見えて来るはずだ」
「(読む)やはり、よく分からないんですけど」
「君はなかなかすばらしい眼を持っているな。しかし、そこに盲点があるんだ。こちらのリストを読めば、君にも事情が分かるはずだ」
「(読む)ただの名前の羅列のような気がしますが…」
「それが奴らの手なんだよ。そうやって事実をごまかしているんだ。そもそも、軍隊の上層部は……。それは、こちらの資料を読めば納得できるよ」

以下延々と資料を出しては、残虐行為が隠蔽されたことをとにかく論じ立てる。これをロービアは「多重虚偽」と言っています。この調子でマッカーシーは「共産主義者発言」を行い、いつの間にかこのデマを国民に信じさせるわけです。このしつこさだけはすごいね。

彼の議論は上院ではまったく相手にされなかった。そもそも「205人の共産党員」という数字自体が、87人になったり、25人になったり、演説のたびごとに変わる。それを聞けば「信用ならない」とすぐ分かる。ところが、メディアではそのふらつきは報道されず、「爆弾発言を行った」という事実だけが報道される。

そのために、ソ連の国力が増して中国も共産化して、共産主義の脅威に怯える国民からの圧倒的な支持を得た。とくに、マッカーシーはメディアを扱うのが上手く、次の日の新聞の見出しになりそうなフレーズを新聞の締め切り時間直前に言っていたらしい。

国民からの支持があると見た議員たちは、マッカーシーを批判しにくくなる。それどころか、彼をけしかけてもっと「反共」運動を広めようと画策する。メディアに頼る政治は、こういうところが危うい。現実に起こったことの価値は低くなり、その後に報じられた情報の方がことの進行を左右する。

ここ10年ほど「情報化社会」とか「情報の価値」ということばかり言われてきた。しかし、「情報化」にはこういうネガティブな側面もあるということを知っておいた方がよいと思います。現実を見れば一目瞭然なのに、それが「情報」として確立することだけで、真実と見なされる。実際に起こったことは、まったく無視される。

これを増幅するのは、一般大衆の不満です。一般大衆は政治やエリートに自分たちの主張が通っていないといつも不満を抱えている。だから、「悪者はエリートの中にこそいる」というような主張に飛びつきやすい。国務省や政府に対する激烈な非難を繰り返すマッカーシーに対して、全国から5ドル・10ドルと大衆からの「浄財」が集まり、何百万ドルにもなったそうです。

ところが、マッカーシーは反共主義者でさえもなかったらしい。爆弾発言をしたのも、次の選挙が危ないということで、争点作りをねらったらしい。そんな利己的な理由で、たくさんの人々の命を奪い、アメリカの内政・外政を混乱させたのだから、罪は深いですね。

ひるがえって日本はどうか? メディアによって政治が大きく影響を受ける傾向は強まっています。そのくせ、そのメディアを検証する技法はまったく進んでいない。少なくとも、情報の受け手である人々のスキルをもう少し上げていかなくては、マッカーシズムと同じようなことが起こりかねないと思います。その徴候はもうくっきりと現れていると思うのだけど…。

ボカボのやっていることは、一般の人々の情報リテラシーの力を上げることで、そういう傾向にも一石を投じることだと私は思っています。


5/23

ニーチェ嫌い

どうしても読めない本がいくつかあります。世に名著だと言われていても、肌に合わない。ニーチェもその一人。『ツァラトストラ』はトイレに置きっぱなし。学生時代から少しずつ読んでいるのだが、どうしても読了しない。

これはラテン語も同じ。学生時代に半年だけ受講して、その後、必要性は感じながらもどうしても復習できない。文法書もトイレに置いてあるのだが、最後まで読めない。

『アンチ・クリスト』は超訳まである。5年間で12刷もしているので、読めなかったのは訳が悪いのかもしれないと思って買ってみた。やっぱりダメ。単なる悪口の集積にしか見えない。

ニーチェの何が嫌いなのか? まず、文体が嫌い。すぐ決めつけるのが押しつけがましいし、ののしりの言葉がやや下品。道徳や同情の批判もダーウィン風の優勝劣敗で単純すぎる。比喩が多くて、論理矛盾も目立つ。

とくに困るのが、批判が鋭いのは良いのだけど、それが過ぎて、批判されているものよりももっとひどい解決を提示しちゃうところです。ユダヤ人に対する侮蔑・差別なんてその一例。よく「ニーチェは激烈な毒だ」と言うけれど、その通り。効き目があるのかもしれないけれど、副作用が多すぎるかつての抗ガン剤みたい。病気は治ったけど死んでしまった、というのでは元も子もない。

でも、ニーチェの熱狂的ファンは多い。「ニーチェは自分の人生観を変えた」なんて告白する。不思議なことに、そういう人は実生活では道徳を無視した「超人」を実践していない。むしろ、物静かで真面目な人が多い。善良な市民でありながら、何がそんなに彼らをアツくさせるのか?

たしかに、善良な市民として日々振る舞っているからニーチェが好きということは分かる。世間の道徳を信じ、あっちに義理立てし、こっちの機嫌を取り、怒りがたまる。だから「道徳が何だ!」と時々叫びたくなる。その代弁者がニーチェ。「善とか悪とか関係ない。自分の思うままに生きればいいんだ!」。そういえば、ニーチェ自身も激烈な言葉にも関わらず、現実生活ではパワーを持てず、書物の中で吠えていただけ。

パワーを実際に持つと、その使い方には細心の注意を必要とする。他人に影響を与え、何が起こるか分からない。その怖さを知る人はニーチェのように気楽に批判できないと思う。道徳だってウソかもしれないけど、社会を安定させるには一定の効果がある。ウソも方便、そういう言葉の両面性に気付かない人がニーチェの読者になるのでしょう。「くそまじめ」とでも言うのかな?

もう一つの害悪は、ニーチェを読むと、優勝劣敗を実践するエゴイストへの批判力が鈍くなることです。そういう人はニーチェなど読まない。ただ本能のままに隣人を踏みつけて自己利益を得る。それを見て、善良なニーチェ読者は社会を変える「超人」のイメージを見いだして、喝采を送る。こういう構造が全体主義を生み出したと思う。

言説は、それを生み出した構造をチェックしなければ理解できないと思う。ニーチェの場合はとくにそう。言葉のうわっ面だけを受け取って理解したつもりになることで、とんでもない隘路に入り込むことは多いのではないかな。

たとえて言えば、自分は弱いくせに、集団の討論となると、もっとも強硬なこと・もっとも正論を主張する人というところ。そういう人は発言の機会を与えると面倒だから、軽くいなして笑い飛ばしてしまうのが一番いい。その意味で、ニーチェをまともに「大思想家」として扱うのは反対です。才能あるブラック・ユーモアの作者ぐらいにしておいた方がいいと思うけどな……

さて、法科大学院の適性試験まであと一ヶ月ほど! 最後の仕上げは上手くいっていますか? 短期間で問題を大量にこなす、ということは、穴をなくすために非常に有効です。
法科大学院適性試験 直前演習コースはまだ受け付けていますので、ぜひご利用下さい!

5/20

あわただしい恐怖感

この間、はじめて未修者も含んだロースクール卒業生が受ける新司法試験が行われました。予想される合格者数は30〜50%だとか。ロースクールを出さえすればだいたい合格できると言われていたのに、これでは元の司法試験に戻ってしまうのでは? とネガティヴな評価が多い。

でも、前は合格率3%と言われていたんですからね。それが30%になっただけでも大改革だと思う。それに競争はいいことではなかったのか? 3%では「落とすための試験」と言われても仕方ないけど、1/3以上合格するなら許容範囲ではないかと思いますね。

そのうち、合格者数が低い法科大学院は淘汰されるはずです。私は、合格者から、大学院側の体制についていろいろ不満を聞いています。ひどいところは経営危機に直面させて、抜本的対策をさせるべきだと思う。その意味では、大学入試並の三倍程度だったら競争率としては問題ないと思うけどな。何で騒ぎ立てるのか、意味がわかりません。あんまり理想に合わせたラジカルな解決を求めると、かえって失敗すると思うけどね。

「騒ぎ立てる」と言えば、政治社会の動きも、何となくざわざわしていて落ち着かない気分です。まず、降って湧いたような憲法と教育の改革論議。

教育再生会議は毎回「道徳を教科にしろ」とか「家庭で朝飯を食べさせろ」とか井戸端会議みたいな議論ばかりしています。「子供が悪くなった」「教育はダメになった」が大前提で、次にその原因を親と学校に求める。でも、その前提が本当なのか、原因が本当に親と学校にあるのか。むしろ、国の教育体制全体に問題があるのではないか、誰も検証しようとしていない。そもそも再生会議にいるのは教育の素人ばかりで、科学的データなしでやっているのは変です。

憲法の方も「とにかく9条を変えろ」「集団的自衛権を認めろ」と言うばかりですが、今まで日本は9条のおかげでまがりなりにも平和であり、経済的にも繁栄してきたのです。それで何が悪いのか、やっぱり騒ぎ立てる理屈がよく分からない。「アメリカに向かって撃たれた核ミサイルを日本の基地から打ち落とせるか」とかいう問題を討議するようだが、要するにアメリカの軍事的同盟国として効率化するということのようです。でも、イラクで大失敗したアメリカの属国を続けて未来はあるのだろうか?

このように、国防と教育の話はいつも話が止めどなく拡がり、大風呂敷になる運命にあります。それは両者とも恐怖に基づいているからです。国防は空間への恐怖、教育は時間への恐怖です。

「あなたは息子に殺される!」という本があったけど、教育の根源にはこの次世代への恐怖があります。まだ現実にはなっていないから、想像の中でイメージは広がり、ますます強くなっていく。当然、対策もあてどなく増えていくし、強化されていく。

この恐怖は単なる可能性に止まり、現実化しないことが多い。実際、何度も書いたけど、少年犯罪はむしろ減っている。「犯罪の凶悪化」というけれど、これもウソ。殺人・強盗も激減している。親殺しも昔からあった。むしろ、目立っているのは札付きの「ワル」が事件を起こすのではなく、「いつもはおとなしくて物静かな子」が当事者になっていることです。

これは逸脱行動が表現される場が減ってきていて、それが日常生活の中に潜んでいることを意味している。つまり、前なら「いい子」「わるい子」がはっきり分かれていたのに、その境界がなくなり、我が「いい子」でさえも、いつ殺人者になるかわからない、という恐怖が浸透してきた。その恐怖が、教育への危機感や少年法の厳罰化につながっている。

世論や政策を形成することができるのは大人ですから、当然、その恐怖のレベルに合わせて子供のイメージは形作られ、そのイメージに合わせて対策は立てられる。結局、すべて幻想に基づいているわけです。だから、統計と整合しなくても構わない。効果がありそうかなと感じられる対策がメチャクチャに立てられる、という結果になります。はたから見ると、おかしな対策ばかりになる。

そういえば、ドイツでも子供の集中力が10分しか続かないという教育心理の研究が出たために、授業時間を10分で切り上げる先生が増えたらしい。しかし、そんな短い時間では体系的なことは教えられない、という反対意見が出ていて、今や国を二分する大議論になっているのだとか。ドイツ版「ゆとり教育」論争ですね。

はじめに聞いたとき、呆気にとられた。たとえ10分しか集中力がなかったとしても、それに合わせて授業を切るという発想が理解できない。社会で必要とされる集中時間を身につけさせるのが教育ではないか、「バッカみたい」と思ったのだが、さて逆に日本の「教育談義」は外国から見て「バッカみたい」ではないのだろうか、と気になってしまいました。

一方、国防の危機感は「隣国に侵略される!」です。しかし、グローバル化が進むとともに、この「隣国」は変わるし、拡大します。しばらく前は日本の仮想敵国はソ連。だから、北海道に陸上自衛隊の最強部隊を置いた。その前はもちろんアメリカ。今や中国と北朝鮮です。とくに今は北朝鮮に対する怒りの感情が盛り上がっている。平和的外交手段もうまく進行しないので、イライラ感は高まる。「何だかよく分からん隣人」をおとなしくさせるのは、暴力しかないと感じているわけです。

それだけではない。北朝鮮のTVアナウンサーの話し方は、昔の日本の公共放送の話し方とそっくりです。日本の満州運営はソ連の政策をお手本にしていたと言われています。 日本の戦時体制は社会主義だったんですね。つまり、現在の北朝鮮は前の日本とそっくり。いわば日本の子供時代。いやがうえでも「このままにしていると、何をやらかすかわからん」感が強まる。

それがメディアの中で拡がりふくれあがり、「何をやらかすか分からん」隣人のイメージが止めどない恐怖になる。「先制攻撃」論ってこういう雰囲気の中で出てくるような気がするな。

こういう想像力の放恣、ないしは消費に歯止めをかけるのは何か? コストの認識でしょうね。時間的・経済的コスト。何かをするときに絶対かかる時間と資金を考えること。教育だったら、提言するのはいいけど、それを実行する人員を確保すること。今の教員がダメだというなら、代わりの教員をどうやって手に入れるかを議論すること。その給料はいくらにするか考えること。研修ばかりさせたって、意味ないと思いますよ。そんなしんどい職業はイヤだと若者が逃げ出すばかりになる。実際、教育系大学の志望者は激減している。

国防も、専守防衛を崩したらどうなるか、核兵器を国家が持ったらどうなるか、ちょっと考えればわかることです。アメリカがたびたび起こす戦争につき合い、そのたびごとに核兵器を使うかどうか議論しなければならなくなる。その決断はちょっとしんど過ぎないか? そんな決断などむしろできない方がいいのではないか?

危機感に駆られて、こういう冷静な判断ができなくなるのが一番よくない。その意味で、教育再生会議も国防の議論も何だか危機感に煽られすぎのような気がする。ちょっとデタッチメントして、「日本を変えるんだ」という熱を冷ますのがよいと思います。極端な理想に駆られる者は、右でも左でもろくな結果は残さないということは、歴史の証明するところです。

ところで、ボカボでは今年も
「法科大学院小論文 夏のセミナー」を行います。去年のセミナーは面白かったナー。キャリア官僚から新聞記者、一級建築士など多士済々。もちろん、優秀な学生も多い。そういう人たちと毎回法科大学院で出題される様々の社会的問題について突っ込んだ議論を行う。それぞれの意見が衝突して、経営などでいう「異業種交流会」などより数段面白い。そこから小論文の発想法と書き方が具体的に学べます。

そんなわけで、今年は好評につき、回数を全10回に増やして行います。長丁場のようだけど、備えあれば憂いなし。危機感に追われるのではなく、危機感を克服していかねばならないのです。去年はここから東大法科大学院をはじめとして、将来の法曹界を担うであろうロースクールに多数合格者が出ました。今年もどんな参加者と出会えるかと、わくわくしています。乞うご期待! 

5/9

ゴールデン・ウィークと車

ゴールデン・ウィークもやっと終わりました。と言っても、私たちはほとんど関係ありませんでした。友人も「4日の午後はオフだったかな」というぐらいで、皆忙しそう。もちろん、ボカボもほとんどオープン。他の人が休めないときに休んでいることもあるのだから、まあ、いいか、と自分を慰めています。

ゴールデン・ウィークの高速道路渋滞も大したことなかったようですね。昔は60km渋滞なんてことがしばしばあったのに、今年GWの渋滞はせいぜい25kmだとか。しばらく前に、都心の電車のラッシュアワー現象も緩和されたという報道がありましたから、日本もいよいよ少子化社会になったようです。

これには、日本国内の新車の販売台数がここ何年か減少し続けていることも関係しているかもしれない。去年は29年ぶりの低水準に落ち込んだとか。原因はハッキリしています。1.労働時間が多くなり車を利用する時間がなくなったこと(たとえお金があっても車を使う時間がない!)。2.今までは地方に車が行き渡ることで売り上げを伸ばしたが、それも一段落したこと。3.収入格差が開き、お金のない人は高価な買い物は出来なくなったこと、などでしょうね。

その反面で、日本車の生産台数がアメリカのメーカーを抜いて世界第一位になったとか。この間、アメリカに行ったとき、町を走っているほとんどの乗用車が日本製でビックリしたのだけど、その傾向が世界的になったわけ。これで、日本はますます世界市場に依存する方向になってきている。

資本主義は、まだ資本主義に取り込まれていない地域を利用して発展する、というのが法則です。その意味で言えば、中国とかアジア・アフリカなど資本主義化がまだ十分でない地域から原料調達し、製品を作り、またそこに商品販売をして、利益を得る。

しかし、逆に言うと、中国・インドの経済発展など、資本主義に取り込まれていない地域がどんどん縮小してくると、資本主義は利益を上げる余地がなくなってしまう。製品を売る範囲が縮小してくるから、日本の車のように売れなくなる。その時期が刻々と近づいている感じがします。経済はある一定規模で推移し、大きな成長は望めなくなる。そのとき、どういう社会になるか?

少なくとも、今までのように「数量で勝負」ということはできなくなる。いくら大規模生産しても売れないし、値段を下げるから利益率も低くなる。すると「発想で勝負」ということになりそうです。どこにもない目新しい商品を作って売るしかなくなる。しかも、モノは溢れているから、その価値の大部分は情報になってくる。

情報の価値の究極は「美的」ということです。「美的」という評価は比類がない評価です。確立すると、いくらでも高い値段が付けられるのは、ブランド商品の流行を見ても分かります。その「美」をどう創り出していくか? 「美」と「美でないもの」の基準をどう設定するか? 

その意味で、日本経済でもこれからは経済系・体育系ではなく、人文系・芸術系が評価されると思う。日本人にとって美とは何か? それが国内ビジネスのキーワードになる日ももうすぐ。人文系・芸術系は今まで経済的にほとんど傍流にあったけど、これからは違ってくる。これは単なる連休呆けの夢想ではないがするんだけどな。