2007年7月
7/28

タブラ・ラサの季節

もう7月もそろそろおしまい。早稲田・慶応などのロースクールを受験する方は、追い込みに必死になっていると思います。ボカボはロースクール受験者が激減したのに、去年と同じ受講者をキープ。これって、けっこうすごいことだと思いませんか?  ボカボの良質な仕事ぶりが評価されているのだと思います。

忙しさは去年と同じなのだけど、今年は頼もしい助っ人たちがいます。そのおかげで、忙しい時期にも関わらず、PHP新書『世の中がわかる○○主義の基礎知識』も完成することができました。スタッフの皆さんたちの働きに感謝・感謝です。

そういえば、この新書も先週出版したばかりなのに、かなりの勢いで売れている。紀伊国屋では先週仕入れた分がもう売り切れ。発売1週間で増刷が決まりました。すごく早いね。スタッフが紀伊国屋新宿東口店に行って確認してみたら、1Fの売り場の正面にベストセラー『女性の品格』と並べてあったとか。このページを読んだ皆さんも本屋に急げ!

と思えば、今日は、とある政府機関の方がオフィスを訪ねていらした。『世の中がわかる○○主義の基礎知識』を読んで、ちょっと日本の未来のために力を貸してほしい、ということ。お話を聞いたら、内容は長谷眞砂子と私がかつて何度もやったことばかりなので、「力を貸す」のは簡単にできそう。日本の未来のために本当に役立つかどうか…詳細は、そのうち発表する機会があるかもしれません。でも、今のところは秘密。

人間の心はタブラ・ラサだとイギリス経験論は言います。赤ん坊のときは真っ白で、それが経験を重ねるにつれて、そこに書き込みが増えるのだとか。これは、人間の可塑性・可能性を表す言葉だと受け取られてきたようだけど、私ぐらいの年齢になってくると、もう白いところが残り少なくなっている気がする。後、どれくらいの「新しい経験」ができるのか、心もとない感じもある。

でも、コンピュータにも外付けハードディスクというものがある。他の人の力を借りることで、可能な範囲を広げていくことができるかもしれない。外付けタブラ・ラサとかね。これからの10年はまさにそういう時期になってくるのかな、とオフィスに出入りするフレッシュな人々を見ながら、感じました。

さて、志望理由書のラッシュもそろそろ終盤。これが終わると、「法科大学院小論文 夏のセミナー」にまっしぐら。このセミナーこそ、外付けタブラ・ラサです。去年は多士済々で、毎回の議論が実に楽しみだったけど、今年も期待できそうです。他人の力を借りて、自分ものびる絶好の機会。残席わずかなので、お申し込みはお早めに。

7/17

早稲田・課題2をどう解くか?

早稲田大学法科大学院の課題2が発表されました。早稲田大学の教授陣が書いた課題文が7つ並び、これらの文章の一つ以上に関連させて、「これからの日本のあるべき姿」を書け、という問題です。これは、志望理由書というよりは、小論文の問題ですね。

出ている問題も、少子化・高齢化・健康・科学知識など非常によくある内容。そもそも、こういう頻出問題の議論のポイントをよく知らない人は拙著『論文試験 頻出テーマのまとめ方』(実務教育出版)を参照すること。問題点が詳しく書いてあります。

早稲田という学校は大学・大学院を問わず、文章に関しては「寛容」というか「ゆるい」問題を出すのですが、こんどの出題もその面目躍如と言ったところです。形式はかつての慶應大学のSFCとくに総合政策の問題に似ているのですが、「一つ以上」という表現がいかにも大ざっぱです。

それだけに、書き方について、いろいろ質問が来ました。一番多かったのが、「一つ以上に言及する」とあるのだけど、一つで良いのか? それとも複数に触れた方がいいのか?という疑問です。

これは、どちらでも良いと思います。一つしか触れないでも減点はされないでしょう。自分が知識・関心を持っていることを中心に書けばよい。ただし、複数の資料に触れた方がプラスに評価される可能性は増えます。なぜなら、複数の資料から共通の問題を抽出する、ないしは一つの問題に複数の資料を関係させる、という手間が一つ増えるからです。

問題提起は、文章を書く上で重要な作業の一つです。評価するポイントが一つ増えるのだから、ちゃんと書けばそれだけ加点されるのは当然といえましょう。ただし、作業が増えるということは、失敗する、もしくはうまく行かなくて減点されてしまう危険性も出てくることをお忘れなく。

複数の資料に言及するのは、それなりにテクニックを必要とするから、安全策をとるか、あえて冒険をおかすか、体操やフィギア・スケートのプログラムの戦略を立てるようなディレンマに陥るのです。どちらをとるか、は自分の選択です。

もう一つ注意することは、問題にも明記してあるように、自分なりの提案をきちんとすることです。「これからの日本のあるべき姿」だから、理想の姿をを示すことと、それを実現する道筋のビジョンを出さねばなりません。

よく、提案するときにはどこまで具体的に書けばいいのか、と聞かれるのですが、それは具体的であるほど良いに決まっている。ただし、自分が政策立案者ではないのですから、実行のディテールまでは要らないでしょう。むしろ

1 どういう方向にするのか?
2 どういう点に留意するのか?


など明快になるように書くとよいでしょうね。

気を付けねばならないのは、提案は問題の分析から導き出されねばならないということです。問題や矛盾がどういう社会構造・メカニズムから出来上がっているのか? その仮説を最初に考えておく。それに従って、どこにどう働きかければよいのか、という形で提案を導き出すという具合です。

これを怠るとどうなるか? 一番よくあるダメな提案は「意識を変えよう!」です。環境問題なんかでよく言われますよね。「一人一人の意識が変わったら、環境問題なんかすぐ解決する」って。こんなことが言われて数十年もたつのに、今だに問題は解決しないどころか、かえって悪化しているのはどういうわけだろう?

人間、自分の意識を変えるなんてことはそう簡単にできるものではない。むしろ、自分の意識など、社会のムードの中で自然に決まってくるものです。自分の意識なら簡単に変えられる、と思っているその前提がそもそもダメなのです。それに、この解決法が有効なら、どんな問題でも「意識を変える」だけで解決してしまう。そんなバカなことがあるだろうか? 問題の種類によって解決法は変わるはず。念仏やお祈りじゃあるまいし、万能の解決法は、逆に何の解決ももたらさない。よく覚えておきましょう。

しかも、こういう提案は「合成の誤謬」という現象も無視しています。「合成の誤謬」とは、個人個人にとってはよいことでも、それが社会全体で行われるとマイナスに働くという現象です。たとえば、「倹約」は個人が行う分には美徳でしょう。しかし、社会全体が行うとモノが売れなくなり不況になる。したがって、社会全体が倹約するのは経済的には最悪の選択です。こういう提案をしてしまう人は、社会科学的センスがない、と批判されても仕方ありません。

さて、基本的な構成はどうなるか? いくつか考えられるけど、次のような形に沿って考えると書きやすいかもしれない。

1 複数の資料を比較対照しつつ要約する
2 それらに共通の問題点を抽出する
3 その問題の背景・メカニズムなどを分析する
4 問題を現象させている社会構造を示す
5 本来あるべき姿と対照させる
6 メカニズムのどこに働きかければ、理想に近づくかを示す


といった具合でしょうか? 自分が何が出来るか、などは、もう課題1で十分書いたはずだから書かなくてもいいでしょうね。

複数資料の扱い方、あるいはその比較対照の仕方がよく分からない人は、拙著『大学院・大学編入学 社会人入試の小論文』(実務教育出版)あるいは『吉岡のなるほど小論文講義10』(桐原書店)の該当個所を参照のこと。Good Luck!


7/12

過去・現在・未来

さて、もう7月も半ば。法科大学院受験の方は、7月末の早稲田・慶應などの出願を控えて、志望理由書作成の真っ最中ではないでしょうか? もしかしたら、いろいろ書いてもどうしても気に入らず、頭が真っ白になりかけている人も多いのでは?

某新聞社の出している大学入試用「推薦・AO入試の本」では、AO入試を「過去・現在・未来」を問う入試だとしています。つまり、過去は自分が高校で何をやったか、現在はなぜその学校に入りたいのか、未来は大学入学後に何をしたいのか。それを書くのが志望理由書である、と言う。

これをロ−スクールの志望理由書に適用するなら、過去は自分が大学・職場で何をやったか、現在はなぜその大学院に入りたいのか、未来は法曹になって何をしたいのか、を書くべきだということになる。

こういうアドバイスはつらいなー、と思いました。坂口安吾ではないけれど、世の中には知ってためになる真実と、ならない真実があると思う。安吾は「人生はどうせ灰になるだけだ」なんて言葉がそうだと言います。こういう厭世的見解は、たとえ本当でも、これから生きようとする若者には何の意義も意味もないじゃないか。たしかにそうだと思う。

志望理由書は「過去・現在・未来」を問う、という言い方の何がいけないのか? 一番おかしいのは、これが「過去・現在・未来」と一直線上に並んでいる時間をイメージとしていること、過去が事実として動かせないことを含意していることです。

私は、志望理由書とは「未来(将来)を見据えて、過去の来歴を語り、現在の自分の決意につなげる」ということだと思っている。どこが違うのか? まず過去を「事実の集積」ではなく、「来歴」と捉えることです。

来歴とは、現在の私と一貫するように整理された過去の姿です。その現在は、将来の夢という形で未来とつながっている。だから、どんな未来が見えるかで、この来歴も変わってくる。

過去・現在・未来とバラバラの事実が並列して存在するのではないのです。もちろん、時間も過去・現在・未来という順には並ばない。過去は未来とともに変化可能だし、そういう未来を持っている現在に、過去は整理されていく。現在から振り返った「来し方」として過去は意味づけられるし、意味づけて良い。

たとえば、恋愛の場合。恋愛しているときは「私はこの人と出会うために今まで生きてきたんだ」なんて感じる(らしい)。その人と出会ったのは偶然なのに、そんなバカなことはないだろう。しかし、そういう言い方がその人の決意の深さを表現していることは間違いない。だから、この言い方にはリアリティを感じる。

もう一つの例。病気で余命3ヶ月と分かったとしよう。そうしたら、どんなにお金を貯め込んでいても、もう使えないから何の役にも立たない。そのお金を貯めるために一生懸命働いた過去も今となってはばかばかしくもむなしい。もっと大切なことに時間を使えば良かった、と自慢だった過去を後悔する。ここでも、自分の未来の姿が過去の意味を変える。

ドイツの哲学者ハイデガーは、人間の時間の構造とは、過去・現在・未来と直線的に捉えられるものではない。むしろ、自分が死すべきものであるという人間の条件の認識から、過去の意味は生まれ、それを引き受けて現在において決意する。そういう循環する構造を持つと言いました。

志望理由書で言うなら、将来何をしたいか、というヴィジョンがあり、それにつながってくる過去が発見・招来され、その延長として今法曹を目指す自分の決意を述べる。志望理由とは、自分がこれからこう生きていきたいというイメージですから、当然ハイデガーの言う構造を通して現れるわけです。たんに、過去が現在・将来を決定するという因果的・物理的な時間にはなっていないのです。

もちろん、それは自由自在に変えられるのではない。それでは詐欺師になってしまいます。そうではなく、自分が持つ将来のヴィジョンに染められて、過去もそのつど現れるという構造になっているし、そういう語り方には人間的リアリティが感じられるという意味なのです。

その意味で、自分の過去なんて大したことはなかった、などと落ち込む必要は全くないですよね。将来に向けての豊かなイメージを持つことができれば、過去もそれに見合って意義あるものとして現れてくるわけ。もし、未来のイメージを持てないのなら、資料や情報を使って何とか豊かにしようと試みればよい。そうすれば、それを必死になって調べていた時間は、有意義な過去として意味づけられる。

とくに、この頃の志望理由書を見て思うのだけど、自分の体験を語ることばかりに偏りすぎだと思う。体験は確かに大事だけど、それだけでは他人とつながらない。それを一般化して、社会で共有できる問題にする必要がある。未来において他人と結びつく可能性が見通せて、はじめて自分の過去の意義や、現在の個性も決まってくる。

たとえて言えば、これは変数が三つある三元方程式を解くようなものなのです。事実は変わらないのだから、それぞれの変数の動く範囲はある程度与えられている。でも、それぞれの変数は、他との関係で決まってくる。Zか決まれば、XもYも決まってくる。志望理由書を書く、とは、そういう過去・現在・未来の同時決定を行うことに他なりません。

その意味で、志望理由書に悩むのは当たり前かもしれませんね。それは、自分の人生の意味とイメージを発見し、再創造することでもあるのですから。さらっと通り一遍のことを書いてやり過ごそう、なんて考えていたら足をすくわれます。頑張って、そういう過去と自分の再創造を完遂してくださいね。悩む意味は十分にあるのです。

7/5

来訪と歓迎

Officeの1Fで作業していたら、「こんにちは!」とお客さんが入ってきました。いつもは見慣れない顔なので誰かと思ったら、何と去年の「法科大学院小論文 夏のセミナー」を受講していらしたMさんでした。「ボカボが改装したというので、一度寄ってみようと思ったのですよ。お邪魔でした?」。いえいえ、そういうことならいつでも大歓迎です。

彼は有名な新聞社で記者として活躍なさっている方です。長年、マスコミに携わっていろいろな問題を感じていて、ロースクール開設を聞いて弁護士を志した。ところが、適性を受けてみたら、点数が思ったほどではなかったということで、小論文で挽回しようとボカボの「夏のセミナー」に来たのです。Mさんはみごとその秋、某法科大学院に入りました。今は毎日知的な刺激を受けて、「楽しくて仕方がない」とか。たしかに大人になってから、そういう経験をすることは幸せだと思います。

Mさんが実際に法科大学院に入ってみると、適性試験の点数などほとんど法律の勉強とは相関がないことに気づいた。むしろ、とにかくすばやく正確に文章を書く力が要求される。小テストでも30分で400字以上の解答を2つ記述式で書かねばならないとか。しかも手書き。たしかに大変です。そういうときに、ボカボで習った論文の書き方がすごく役立っているそうです。

彼によると、小論文に代表される論文の作法は、新聞の文章とはかなり違っている。長年文章を書いてきて、著書も何冊か出している彼でさえ、最初は何を書いていいか戸惑ったそうです。新聞記者は文章のプロだという通念があり、司法予備校でも「元新聞記者」を売り物に小論文指導をしている方がいますが、どうも新聞記事と小論文とは言われるほどシンプルにはつながっていないようですね。

新聞はどうしてもたくさんの人に読んでもらうため、内容をやさしくやさしくと心がける。それが行きすぎて、根拠などがあっても面倒なときはさっさと飛ばしてしまうこともしばしば。論文のように、主張をまず明示して、それを淡々と根拠でサポートしていくという論理的な構造とはずいぶん異質だそうです。

彼はボカボで厳密な方法を習ったために、そのへんがずいぶん楽になったらしい。まったくの未修で入ったのに、憲法の先生からは「前に憲法の専門的な勉強をしたことがあるのですか?」と言われたのだとか。これって、最高の誉め言葉ですよね。Mさんすごいな。私たちも、お役に立ててホントにうれしいです!

ボカボのスタッフ達と、仕事と勉強の両立の大変さや報道や会社組織の問題、実際の勉強法、将来の夢などいろいろ語り合った一時間でした。今はちょっとオフレコにしておかなければならない内容もあり、そのすべては書けないけれど、彼が弁護士になったらもう少し書けるかもしれませんね。数年後の「新聞記者、法曹になる!」を乞うご期待。

7/2

ラッシュとダッシュ

さて、7月に入って、ボカボも添削ラッシュの時を迎えました。毎日何人もの受講希望が来ます。メールを開けるのが怖いぐらいです。

適性試験直後のいろいろ反応を見ていると今年は難しかったのかな、と思ったのですが、実際平均点が出るとかなり上がっていますね。67点ぐらい。第一部も上がっているけど、第二部がなんと30点台後半だった。どうも大学入試センター第二部の平均点は安定しませんね。いったいどうしたのか?

つくり方にぶれが大きいのか? それとも適性試験の対策が洗練されてきたのかな? 第二部の解法が飛躍的に良くなったということはないだろうから、きっとやさしく作り過ぎたのでしょうね。まだ問題は見ていませんが、また今年も解説をするので、原稿を書きながらじっくり判断しようと思います。これで来年は、また難化と決まりました。シーソーみたいに推移していくわけです。

さてこうなると、二つ方向が考えられます。まず適性試験の点数が良くても、今年はあまり他との差にはならない。合格不合格の基準は、前にも書きましたが、国立を中心に(私立にも広がりつつあるのですが…)むしろ志望理由書や小論文に移っている。適性試験の点数が入学後の成績と相関がないことが次第に明らかになったからです。今年のように、みな成績が良いとその比重はさらに低くなる。その意味で、点数が良かったからと安心していると足下をすくわれます。

もう一つは、適性試験の点数が悪かった人は苦戦を強いられるから、戦略をきちんとする必要があります。志望理由書や小論文を特に重視するとしている大学院はいくつかありますが、そういうところにねらいをしぼって対策する必要があるかもしれない。いずれにしろ、適性試験は頼りにならないのですから、全力を振り絞って頑張る必要があります。

ボカボ・オフィスの入っているビルには、往年の中日の名選手谷沢さんの野球チームの東京事務所があることは前にも書きましたね。彼の特技は何か? 一致した意見は「気分転換の速さ」です。その日の結果が良くても悪くても、次の日には引きずらない。勝負はつねに続いているのだから、余韻に浸っていてはダメだからだそうです。

いつまでも適性試験の余韻に浸っていないで、次の荒波に乗っていきましょう!