2007年9月
9/30

経済と言論の一致?

ミャンマーでは大変なことが起こっているみたいですね。日本人ジャーナリストが殺されました。それも国軍兵士が至近距離から意図的にねらって殺した。報道を暴力でコントロールする悪質な軍政というイメージを世界にまき散らした。

実は、私もその数日前にミャンマーにいました。ただしヤンゴンではなく、タイ北部との国境の町タチアイ。タイのメーサイという町から橋を渡ると、そこはもう異国の地。僧侶たちのデモもなく平穏そのもの。タイと地続きなので、何となく風景は似ているのだけど、細部が微妙に違う。

とくに貧しさは歴然としています。橋のたもとにはゴチャゴチャしたマーケットが立ち並んでいるのですが、売られているのは中国の電化・衣料製品と仏具、土産物ばかり。どれも見るからに粗悪で、購買欲をそそらない。それでも、国境の町として例外的に潤っているのだとか…

他に、町にあるのは寺とパゴダ。平屋の粗末なレストランあるいは食堂、後はホテルが二、三軒。オートリクシャーの運転手に町を案内させたのだけど、たいして見せるものもないらしい。道路も舗装がぼこぼこで、タイのすっきりした舗装とは大違いです。軍政の何十年かの間に、経済は大きく差がついてしまったらしい。

そもそも、軍事は経済とそりが合わない。経済の原理は「個人の自由」に尽きます。今ある状況の下、各自が勝手に判断して、価格や取引量を決める。それが総体として活気を生む。しかし、軍隊の原理は逆です。「組織のために個人を犠牲」にする。必然的に、規律は全体主義的になる。あくまでもクリーンで整然とさせる。

それに対して、経済の原理はダーティです。すべてのものを売り物にし、売れるものなら何でもよい。無秩序・非倫理の極み。価値は自分の中にはない。すべて他人が価値づける、それが商業・経済の世界のニヒリズムです。だから、すべてのものを売り物にするし、売れるものなら何でもよい。プライドだって、売れる物なら売り渡す。当然、売春などもはびこるわけ。

軍隊は究極の倫理・道徳を自称する。その最高の価値である自分の集団のために個人の生命を捧げる。善きものはすべて自分たちの中にあり、他にはない。だから自分たち以外の自由を許さないし、許す必要も感じない。悪い奴らをやっつけるのは当然だ。「倫理」は貫かれ、外部は排除され、商業は停滞する。

軍隊的原理が好きな人は、倫理・道徳が好きな人です。しかも、その倫理・道徳と自らが一体化する。自分の中に後ろ暗いところを認めない。後ろ暗いところを指摘されると、躍起となって否定する。批判する者は殺す。商業的原理が好きな人は、自分の中に後ろ暗いところがあることを知っています。だから「まあまあ」と卑怯な態度を取る。しかし、それは究極の悪ではない。むしろ、小ずるいという感じ。

どちらもよくよく見るとあまり魅力的ではないが、あなたはどちらが好きですか? これは究極の選択ですね。

もう一つ。商業が好きな人でも妙に勘違いしている人はいます。この間、知人がバリに行ったのですが、すごく怒っている。「どうして? 」と聞いたら、ホテルでワインを飲んだら一万円も取られたというのです。「バリは日本より物価が安いのにムチャクチャぼられた」と言うのです。たしかに、バリの物価は東京の1/10。

でも、こんな文句を言うのは「グローバル馬鹿」の見本。バリの人がわざわざ高級ホテルでワインなんか飲むものか。酔っぱらいたかったら、そこらの屋台でアラック(米ワイン)でも飲むのです。それもしないで、わざわざヨーロッパのワインを飲むからにはそれなりの対価を払うべきです。

それだけではない。金持ちならば、地元にカネを落とすのが社会貢献ってものではないのか? 岡田斗志夫も言っているけど、貴族とは何か? それは同じモノに対して3倍以上の値段を払ってもいいと思う人のことだ。日本人が金持ちになったのなら、それは貴族になったのも同じ。高級ホテルでワインを飲んだら東京と同じ値段を払え! 「地元の物価に合わせろ」なんて馬鹿の極みです。「ぼられる」のがいやなら、一泊7ドルの部屋に泊まって(それでもバリ人にとっては贅沢です! )アラックを飲め、と言いたい。

グローバル化というのは、物の値段が同じになることではない。世界の不平等に耐えつつ、個人が平等に対して少しでも良いから貢献することだ。金持ちの日本人は「ぼられて」当然だし、それが地元の人を少しでも潤す。そういう構造に荷担するのが、正義なのです。全部が一律のルールに従うことがグローバル化ではないのだ。

これはメディアでも同じだと思う。メディアが腐敗していると非難するのは簡単だけど、腐敗もないと繁栄も自由も生まれない。蓮の花は泥の中からしか生まれないというのかな。その意味で、軍部が引き起こした経済停滞と、日本人ジャーナリストの殺人はぴったりと符合する。倫理化・クリーン化しようとして、結果として状況を荒廃させてしまう。そういう皮肉な繁栄と経済の原理をそろそろ日本人は認識すべきだ。

そんなことをあれこれと考えながら、日本に帰国してみると、ちょうど早稲田・慶応や中央の法科大学院の発表がなされていました。到着したとたんに、ボカボの受講生からも何人も合格のお知らせがぴゅーっと届いた。さすがにうれしい。

とくに「夏のセミナー」受講生の健闘がすごい。「夏のセミナー」では、言論は徹底的に自由であるべきことと、だから内容は何を書いても良い、相手に合わせる必要はないと強調した。その一方で、言論には、良い言論と悪い言論があり、それを見分ける方法もある、とスタッフは主張しました。繁栄と秩序の両立。その結果が「正当にも」出ているのかもしれませんね。これも経済と言論の一致の例なのかもしれませんね。

10月からのReal School 「法科大学院小論文 Start Up! 」講座も本来は来年の受験のためだけど、実は今年の国公立をねらう人もたくさん受講しにくる。その効果のほどは最新の「合格者の声」をご覧ください。きっと参考になると思いますよ。来年の適性試験も更にパワーアップした「法科大学院適性試験 Start Up! 」で準備しましょう! みなさんの熱意に応えられるよう講師陣の準備も万全ですよ。


9/17

リベラリズムの技術

先週は岩手の高校に行ってきました。去年から行っている「校内小論文研修会」です。両校ともに、小論文の添削は全校の先生が担当するという仕組みになっている(前にも「三日坊主通信」でご紹介したS先生の作られた伝統です)ので、どうしても教師のための研修会が必要だということになって、私が呼ばれているわけです。

実際、小論文の学力を向上させるためには、継続的な添削が必須なのですが、その添削をする側で、大学入試の時に小論文を経験した人がまだ少ない。だから、どうすれば効果的な添削になるか分からないし、どこを直せばよいか分からない、という悩みが結構多い。そこで、今回は生徒の書いた答案を前もって添削していただいて、それについてこちらがコメントをするという形式で研修会を進行しました。

すると、結構問題が多いのです。一番多いのが「ダントツ」など生徒が書いた表現を直すタイプ。もちろん、これは口語的すぎるから添削すべきです。でも、あまりにもシンプルすぎる。さて、その他のタイプとなると、「本当にそうか?」「もっと丁寧な説明にする」などというやや抽象的な指摘ばかりになる。

「説明を丁寧に」という指摘は間違いではない。しかし、「丁寧」にするにはどこをどう直せばいいのか、その具体的指示が抜けている。「本当にそうか?」という指摘も問題を深めるにはいいのですが、「本当は…」と教師から突っ込まれたら、生徒はたいてい自信がなくなってしまうのではないでしょうか? 間違いとは言えないまでも、ちょっとコメントとしてはアンフェアという気がするのです。

私は、初心者の場合、内容や表現よりも、まず構成・構造を指摘してやるべきだと思う。たとえば、「問題→解決→根拠」などという基本構造がちゃんとできているか、というチェックです。

「…すべきだ」と書きながら、「なぜなら…からだ」という理由が書いていない。その代わりに「…ではないか」と読者に問いかけてごまかす。理由が書いてあっても、それと例示の内容が対応していない。だから、何のための例示なのか、分からない。あるいは、課題文型の問題でありながら、課題文の要約をしていないので、自分の主張がテーマからずれてしまう。こういうことを指摘するだけでも、小論文の書き方は随分よくなるのです。

それに、構成・構造を明確にすると、書くべき内容も明確になってくる。たとえば、ポイント・ファーストの原則。大切な内容は段落冒頭に一文で書く、というルールですね。実例やエピソードが長々書いてある。テーマと関連があるようだけど、何となく曖昧だ。こういう場合、「たとえば」の前にその実例の意義・意味を明らかにする一文を入れてやれば、何のための実例か、そもそも実例として適当か、などがクリアに見えてくる。

あるいは結論のところに「人間は謙虚にすべきだ」などとステレオタイプの人生訓が書いてある答案。これも、結論に至るまでの構成がきちんと組み立てられていない場合に発生する。構成の不備を指摘すると、たいていはその場しのぎのごまかしのために書いた、と生徒は告白する。

しかし、残念ながら、そういうところに注目して添削をなさっている高校の先生はごくまれです。私が知っている数百人の範囲でも、せいぜい一人か二人といったところでしょう。表現を直し、内容に少しコメントを入れ、という程度でお茶を濁す人が多い。これでは、いくら添削しても生徒の学力は上がりにくい、と思うのです。

一人一人に対応する指導を、あるいは個性に配慮した指導を、とよく言われる。でも、それはかけ声だけで実質にはまだ至っていない。だから、ややヒステリックに「個性なんてあるのか?」などという悲鳴も出てくる。一つ一つ実質的な技術を開発していかないと、そういうヒステリックな声にかき消されてしまいます。

日本の状態はまだリベラリズムを政治技術として実現するレベルには至っていないのかもしれません。だからこそ、そういう技術の開発が急務なのです。管理者的発想でいくと、つい個性なんて面倒だから一律に正解を伝えちゃえ、ということに頼りがちです。でも、そういうやり方は一時的には良くても、長期的には活力を失う。

今回、熱心に私の話を聞いていただいた先生方には感謝したいですね。きっとこれからの教育を変える中核となる人々だと思います。ぜひとも、頑張っていただきたいと思います。


9/7

セミナーの終了、合格の始まり

8月初めから開催していた『法科大学院 小論文 夏のセミナー』がこの間の日曜日に無事終了しました。打ち上げ・壮行会はいつものように学士会館の中の店。否が応でもアカデミックな雰囲気が高まります。

今年度の受講生だけでなく、前年度の受講生、今や法科大学院生のバリバリも何人か来てくれて、学校のこと、勉強のこと、など多彩な情報を話してくれました。面接の重要性は? 仕事との両立は? 一日の勉強時間は? カリキュラムは? 学生同士の勉強会の進行は? R法科大学院では面接は重視しないと入試担当者が明言している、とか貴重な情報が満載。

一方で、この間K法科大学院で起こった「漏洩」については、「むしろきちんとした司法試験対策であり、問題視する方がおかしいのではないか」とか、批判精神旺盛な議論も巻き起こる。日曜の夜でややひっそりとしている店に総勢20人ばかりで談論風発。他のお客さんにはちょっと騒々しかったかな?

しかし、『夏のセミナー』は今年も活発でした。去年の『Start Up! 』から参加している古参もいるし、WEBで添削を重ねてきたベテランもいる。その中に混じって、新人も刺激されたのでしょう。盛んに発言していました。進行は吉岡と櫻井の二人で担当したのですが、論点がいろいろ出てきて毎回「大変で楽しい! 」というのが受講者の意見。我々の進行も上達したのかな? 試験などでやむを得ず欠席した人を除いて、受講者はほとんど毎回出席。熱心さが際だちます。

しかし、合格して現在法科大学院に通っている先輩に言わせると、「後で、セミナーの経験がどんなに役立つか、まだわかんないだろうな♪」だって…。おいおい、あんまり先輩風吹かせるなよ。「そうじゃないんです。新司法試験の受験のために、皆の答案を持ち寄って相互批判をするゼミが行われるけど、どういう論点で突っ込むか、何を議論すべきか、『夏のセミナー』で教わったことがむちゃくちゃ役に立つんですよ。他の学生はそういうことに慣れていないみたいなのです」。なるほど。

たしかに、1980年代以降、日本社会では他人への批判はタブーになっているという傾向が顕著です。それどころか、「場の空気を読む」とか、なるべく他人を刺激しないように息を潜めている。「同調」以外の人間関係が許されていないのですね。

だから、批判が許されるときは、むしろバッシングという形を取って、爆発・暴走する。他人の批判ができない抑圧が、「批判してもいい」というお墨付きが世間的に与えられたことで止めどなくなる。良いところが少々あっても、「すべてダメだ」と全否定する。世間への「同調」と「批判」への渇望が相まって、どんどんエスカレートするわけです。果ては「止めてしまえ」「死んでしまえ」といじめになる。これはどう見ても健康ではない。

とくに言葉・論理の構造を分析して、何が言われて/書かれてあるか、足りないところは何か、どこに飛躍/無理があるか、を客観的に見つけることができない。だから、ダメなら全部ダメ、良いなら全部良いという感情的で極端な結論になってしまう。その段階で「現実から学ぶ」「失敗から学ぶ」という冷静なテクニックが失われるわけです。

そういう意味では、『夏のセミナー』は「健康な批判精神」を養う場になっています。悪いところは悪いところとはっきり言う。その代わり、良いところはしっかりと認める。自分の文章をさらけ出すとともに、他人の文章も「年上だから、差し障りがある」などという世間的な事情で容赦はしない。内容と表現を徹底的に追求する。言葉の真の意味で、「公平」な場所なわけです。

一度体験してみれば、そういう方法は強い。その後の思考の方向を決定する。「大学院のゼミでも、ついボカボの講座を思いだしちゃうんですよね。あのときの方がもっとすごかったよな、とか」。

そこまで、言っていただけるのなら、『夏のセミナー』を開催した甲斐があるというものです。去年の受講生たちはしょっちゅう会って情報交換しているそうです。「今度、学外ゼミを開こうよ」と計画中だとか。研究熱心なグループになりそうで、これからが楽しみです。数年後は司法試験の合格者続出だろうな、などと思っていたら、今年の『夏のセミナー』からはやくも合格者が出ました。

「北海道大学法科大学院特別選抜! 」

ここは、毎年必ずボカボから合格者が出ています。Real Schoolの有効性が証明された感じでうれしいですね。

さて、ボカボでは10月から『法科大学院 小論文Start Up!』『法科大学院 適性試験Start Up!』が始まります。これは、小論文と適性試験の基本講座で、主に来年度受験のための講座として設けたのだけど、例年、小論文の講座では国公立など試験時期が遅い学校をねらう人、小論文対策が遅かった人、など今年の受験をねらう人も多く来ています。そこから、合格していった人も多い。「適性試験が悪くてもあきらめないで、小論文を研鑽し続けると、必ずどこか受かるから…」。これも前年の受講生の「お言葉」です。

適性試験も今年は妙にやさしかったけど、来年は絶対に難化します。確実な基礎力を付けてないと、足をすくわれるでしょうね。ボカボの2008年は2007年10月から始まります。それから合格ラッシュも! 皆さん、また秋から頑張りましょう!


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