2008年1月

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エコ原理主義が偽装を作る?

製紙業界は古紙を混入していなかったとして謝罪し、今度は古紙混入率をチェックする機構を作るという。バカじゃないか、と思う。コンプライアンスとか言って、上層部が現実にはやれもしない約束をして、現場では無視せざるを得ない。それをみつけた人間がまた告発して、また謝る。これは医療事故でもよく見られた構図だ。

今度のチェック機構の結末も知れている。チェックしてますと言って、手抜きをする。それをみつけた人間がまた告発。偽装の上塗りになる。こういう不毛な図式はもうやめにした方が良いと思う。

郵便はがきの品質をクリアするには、古紙を一定以上混ぜられないはずだ。たとえば、機械で仕分けするのだから、紙の滑りがちょっとでも悪くなると、仕分けが滞る。古紙混入率にこだわると、はがき仕分けの現場で大混乱が起こることは間違いない。それとも、混入率を上げるためなら、年賀はがきが一ヶ月遅れで配達されても良いというのか? 

そもそも、この古紙の問題だって、エコ原理主義の錯誤から発生していることを知っているだろうか? リサイクルすれば、環境にいいはずだという思いこみから、社会システムを混乱させてしまったのが原因なのだ。

つまり、製紙業界が紙の値段を安定させるために政府に圧力をかけて、それを「熱帯雨林を守ろう」というキャンペーンで正当化した。メディアはニュースとして売れるから世間にばらまいた。それに乗って自分の勢力を拡大しようとしたのが市民団体。この構図が四つどもえになって事態を大きくしたのだ。

面倒だけど、起こったことを具体的にみてみよう。古紙の回収は、環境問題が取りざたされる前からうまくいっていた。一定以上の年齢の人は古紙回収業を覚えているだろう。団地などを軽トラックで回って、「トイレットペーパーとお取り替えします」とやっていた。回収率は50%を超えていた。

それがリサイクル・ブームで、ボランティアとか自治体が古紙回収をすることになった。ボランティア・自治体は経済原理など無視して回収するから、中小の回収業者はたちまち破綻。せっかくの経済活動がつぶされてしまった。しかも、回収率は約50%で前と変わらない。

なぜ、そんなバカなことになったのか? 製紙業界のキャンペーンに踊らされたからだ。市場にまかせていると古紙の値段が安定しない。だから、古紙を一定量使っていた製紙業界が困って圧力をかけ、自治体に独占的に古紙回収をさせて、大手業者に買い取らせるシステムにしたらしい。「官から民へ」とか言われてきたけど、これじゃ「民から官へ」だ。

それをするのに利用されたのが、「熱帯雨林を守れ」というキャンペーン。紙の消費を抑制すれば、熱帯雨林が守れると宣伝した。ちょっと考えれば分かることだが、これは大嘘である。紙パルプの原料は熱帯雨林ではない。むしろ先進国の森林なのだ。だから、紙の消費を抑制しても熱帯雨林が守れるはずがない。

しかし、この偽装キャンペーンにエコが飛びついた。捕鯨禁止に狂奔する団体やかつての割り箸反対派のように、「環境のため」と言いさえすればメデイアに取り上げられるので、何でもやってエコ派の勢力を拡げようとする輩がいるのだ。

こういう人々が、「熱帯雨林を守れ」というデマを広めてボランティアを煽った。製紙業界の思うつぼである。そのあげく、ゴミ捨て場に捨てられていた古紙を古紙回収業者が持ち去ったというので窃盗罪で訴えた。ゴミが資源だから…。バカも休み休み言ってほしい。それだったら、生ゴミの所有権はどうなる? ちゃんと処理すれば肥料になる。勝手に持って行くな、と家の周りにゴミをためている人が言ったら、反論はできまい。

こんな風に、不合理にはお構いなく、エコの要求はどんどん高くなる。リサイクルを拡げることが、環境を守ることだと信じ込んでいるのだから始末に悪い。はがきに適さない品質になっても、エコを優先しようとする。その結果、古紙混入率40%とか無理な規則が作られてしまった。

製紙業界も、エコ派をたきつけて古紙の値段を安定させたのは良いのだが、ここまでやるとは思っていなかっただろう。要求を実現すると、品質を保てないから、表向き「ちゃんと混入しますよ」とさらに偽装した。しかし、内部に不満分子がいて、内部告発された…と、まあこんな二重三重の偽装ストーリー。製紙業界とエコ派が結託して、この事態を作り出したのである。

もちろん事件になっても、エコ派はめげない。今度の「偽装」だって、「せっかく我々が環境のことを考えたのに、製紙業界は裏切った」などとコメントしている。「善意の行為にケチがついた」と自分だけ良い子になって嘆いている。

だが、今度の事態は、エコの暴走が作り出したとも言えるのだ。法律を厳格にしすぎると、犯罪人を作り出すのと同じ構図。禁酒法がギャングをはびこらせたように、こういうエコ原理主義者が、製紙業界の横暴を許し、技術の限界を無視して無理な規則を作らせ、環境問題にデマの山を作り、挙げ句の果てに社会的混乱をもたらしたのである。

善意だから免責されるべきだという主張はもう成り立たない。市民運動・ボランティアも立派に発言権を持っているのだから、やみくもに行動するばかりではなく、自らの言動の結果と効果を冷静に検証・自覚する責任があるはずだ。もしそれができないというなら、環境運動はもはや「過ぎたるは及ばざるがごとし」という段階に入っているのだと思う。

その意味で、社会の全体像を無視して、善意であれば許されるという思いこみは、はた迷惑なだけだ。真の善は、その社会的影響を勘案しなければならない。2/6から始まる「社会理論モデルを読む」セミナーは、自分のなす行為がどんな社会的・全体的意味を持っているか、を考える機会を提供するつもりでいます。


1/23

身体時間と社会時間

もう1月の下旬。三日坊主通信も二、三回前にはおせち料理の写真を載せたのに、もう梅の花が咲く時期になりました。言っても詮無いけれど、時のたつのは速すぎる。

毎週1回はプールに行って1000m泳ぐことにしているですが、いつも運動のリズムが似ています。つまり、初めは何となくぎごちないのでゆっくり泳ぎ、そのうちにそれでは物足りなくなって、スピードを出したり泳法の工夫をしたり、そのうちに疲れてくるが最後の200mとなると、また元気が出て猛ダッシュという具合。これはどんなに準備運動を丁寧にしていても、変わりません。最初からダッシュというわけにはいかないのです。

世阿弥の『風姿花伝』を読むと、「序破急」という言葉が出てくる。能楽では、はじめはゆったりと舞い、中程になると激しくなり、最後はさっと切り上げるべきだというのです。プールで泳いでいると、この感覚が身体時間としては自然だな、と実感する。

もしかすると、この時間感覚は人生とも共通するのかも知れない。幼少年時はあれこれ学習せねばならないので生きるのが大変。しかし、しだいにやり方を覚えてきて、いろいろ発展する。充実してきて「さあ、これからだ」と思うまもなく高齢期に入って、さっと死んでいく、とか…

しかし、だとすると「起承転結」はどうなんだ? はじめにテーマが出てきて、それが発展し、思わぬ方向に変換したかと思うと、急転直下結末にいたる。これも日本人の時間感覚として親しいものだと思うけど、どこがどう違うのか? 身体時間として考えると不明なところがある。「起承結」だけなら、「序破急」とそう変わらないが、そこに「転」が入っている。

私は「論文は起承転結ではない」と教えています。問題と解決と根拠という構造でなければならない。根拠には理由・説明・例示がある。その後に結論として、もう一度解決を繰り返せば、それで完成。とくに意見が割れるような問題に対しては(たとえば原発建設の是非とか)、あえて予想される反対意見を出して、それを批判すればよい。

そんなに風に解説していたところ、ある高校の先生から、でも問題と解決を「起」、理由・説明・例示などの根拠を「承」、予想される反対意見を「転」、批判と結論を「結」とは考えられませんか? という質問があった。なかなかするどい質問ですね。

たしかにそう捉えれば捉えられる。しかし鑑賞するときには「起承転結」は役だっても、書くときには役に立たない。書くときには、リズムに注目していてもダメで、何を書くかに集中しなければならない。その時は、そんな意味のことを答えたような気がします。

しかし、今は別な言い方が出来ます。論文は対話である。全体のリズムをムードとして捉えていてはダメで、アクションの連続として捉えなければならない、と。

皆で気にかけていることを取り出して、まず問題提起。それに対して、自分の意見を述べるのが解決。「どうしてそうなの?」という突っ込みに対して、「なぜなら」と理由を述べ、「それだけじゃ分からないよ」とか「どういう風に?」「どれくらい?」などという細部の質問に対して、「それは…なのだ」と説明をして、「具体的にはどうなの?」に対しては「たとえば…」と例を出す。とくに強硬に反対意見を述べる相手に対しては、「たしかに…もあるかもしれない」と一応認めておいて、「しかし…」とひっくり返す。

こうやって考えると、論文あるい議論とはほとんど他者との対話の構造としてまとめられる。西欧で、プラトンの対話編が哲学のモデルになったわけですよね。自分の述べることの中に、つねに他者が入ってくる。それに対応していく中で、議論を深めていく。

だとすると、先の「転」も自分だけの発展ではなく、そこに必然的に入ってくる他者の契機として考えることができるかもしれません。自分の中だけで完結しないで、他者からの介入をあえて入れ、それを包摂しつつ、解決・完成に向かっていく。そんな感じかな?その意味で、「序破急」よりも社会性があると言える。

だから、「起承転結」はドラマに向いている時間形式です。スポーツだったら、水泳みたいな自分の向上ではなくて、テニスとかサッカーとか敵や仲間がいる感覚なのかも知れない。自分の行動の中に他者が否応なく入ってきて、それを含みつつ結末に向かってなだれ込む。などと、この頃「起承転結」をちょっと見直しているわけです。

ただ、この他者の契機が一回で終わっているところが、なんか淡泊で物足りない。完結までにもう一波乱も二波乱もある、というのが、グローバル化の嵐の吹き荒れる現代にはふさわしい。そんな感じがします。その意味で、生活時間として近いのは、やっぱり議論・対話モデルでしょうね。そんなことを考えて泳いでいると、けっこう水泳もメディテーションになるわけです。

さて「法科大学院適性試験 Advancedコース」は先週から始まりました。いつものように議論沸騰。どこかの予備校みたいに、ビデオで粛々と解き方を覚えるというのとはひと味もふた味も違った展開です。皆「よく頭に入る」と好評のようです。そりゃそうでしょうね。活動の中で覚えるのが一番いいのです。

2/6からは「社会理論モデルを読む」セミナーも始まります。これは、マルクス・ウェーバー・フーコーなどロースクールなどでよく出てくる社会理論をやさしく解説しつつ、それを現代の問題に当てはめるという刺激的講座。もっと談論風発しそうですね。ボカボが古代ギリシアの学校(アカデメイア)のようになるのではないか、と期待しています。


1/12

中村中の言葉の力

この頃中村中(なかむらあたる)の歌にはまっていました。事の起こりは、去年12/31の紅白歌合戦。おせちを作りながら、聞くともなく聞いていると、突然手が止まってしまったのです。曲目は『友達の詩』。

曲調はどこか懐かしい「昭和の歌謡曲」風。赤いドレスをまとった「女性」歌手が歌いだす。

♪触れるまでもなく 先が見えてしまうなんて そんなつまらない恋を ずいぶん続けてきたね

普通の恋愛の歌だ。恋人とのちょっとした接触にときめく自分を切々と歌い上げる。だが、その先が面白い。

♪手をつなぐくらいでいい、並んで歩くくらいでいい それすら危ういから

どんな関係なのだろう? 「並んで歩く」だけで「危うい」とは? この最小接触の状態がさらに深まり、ほとんど接触が不可能となったときに

♪大切な人は見えているだけで上出来

と、恋愛感情は完成する。すごいね。サビの所はつい息を止めて聞いてしまった。言葉が一つ一つ磨き抜かれており、聞いていると次の何の言葉が来るかスリルがある。

聞きながら、私は正岡子規の『墨汁一滴』の記述を思い出しました。結核に冒された子規は嘆く。

「人の希望ははじめ漠然として大きくようやく小さく確実になるならいなり。…遠く歩行き得ずともよし、庭の中だに歩行き得ば、といいしは四五年前の事なり。その後一二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思いし…が一昨年の夏よりは、立つ事は望まず座るばかり病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなおここに止まらず。座ることはともあれせめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ばいかに嬉しからん、とはきのう今日の我希望なり。小さき望みかな。…この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といい耶蘇はこれを救いとやいうらん」(正岡子規『墨汁一滴』一月三十一日)

生きる望みが一つ一つ絶たれていく中で、それでも「これくらいは…」と希望をつないでいく。それが次々に不可能になっていく中で、その希望は「小さく確実になる」。

『友達の詩』でも、恋人との接触をしだいにあきらめ、希望が極小化していく。そのあげく

♪大切な人は友達くらいでいい

と落ち着く。執着する気持ちがしだいに小さくなり、その分だけ恋愛として確実になる。悲劇というか何というか…。この感じが切なくあるとともに、どこか心地よい。

30年前には大部分の歌はこういう甘美な喪失を歌っていたと思います。それがいつの間にか消えた。その間に、センチメンタリズムは「甘え」となり、ポジティヴ・シンキングが奨励された。

歌謡曲でも、リズムが容赦なく時を刻み、その中に「私とあなた」とか「ガンバロー」とか、信頼や愛を訴えるメッセージが切れ切れに絡まる。しかし、こんなリズムの中で、いつの間にか「悲しみ」を味わいつつ、それを言葉として昇華し、コントロールする術が見失われて来た。だから、悲しみは「鬱」や「トラウマ」などの病気になって治療されるしかなかったわけですね。

そんな気持ちの空白に、『友達の詩』は一つのまとまった形を与えます。「悲しいなら、こんな風に悲しめばいいのに」とヒントや範型を与えてくれる。自分の悲しみを取り戻す、そんな気がします。

聞くところによると、歌っている中村中は「性同一性障害」で、姿も声も女性だけど戸籍上は男なんだとか。なるほどノーマルの男の子にゲイの男の子が恋したらこうなるのかもしれない。『桃尻娘』シリーズにもあったけど、こういう関係では、結ばれる可能性すらないからこそ、恋愛感情はより鮮烈になるのかもしれない。

これは言葉の力と言ってもいいでしょう。今の自分の状態をノリや雰囲気ではなく、明確に対立と悲劇として捉える。その中でこそ、自分の生きる形は明確になってくる。「悲しむときには敢然と悲しむ」強さも出てくるわけです。雰囲気やノリばかりが重視される中で、こういう言葉の力が感じられる歌は希有の存在だと言えましょう。

ボカボでも、方法は違うけど、文章や世界をメカニズムとして捉えようとする。その意味で、こういう言葉の力と直接つながっていると思うのです。1/19から行う「法科大学院適性試験 Advancedコース」、2/6からの「社会理論モデルを読む」セミナーなども、その試みの一つだと思っています。


1/7

男も小正月の夢を見るか?

ついに2008年。それももう一週間の終わり。高校生の時はこんな未来まで自分に時間があるなんてイメージしませんでした。

20世紀の終わりくらいまでしか想像力は及ばなかった。なんたる構想力の無さ。でも30年なんてあっという間。平成になってからだってもう20年。昭和は遠くなりにけり、です。

年末には、去年の「夏のセミナー」受講生が忘年会を企画してくれました。今年の受講生有志も参加して盛り上がりました。ボカボからこんな固い絆ができあがるなんて、ほんとにうれしい。今年は国公立の合格率も良かった。京都・東北など合格者が続出でした。

さて、正月2日からずるずると始まった仕事も、とりあえず今日で一段落。自分だけの正月にやっと入れたという感じ。昔は、こんな日を小正月といったんじゃなかったか? 

正月の行事で忙しかった女の人たちが、昔は女だけで祝った休日らしいけど、私も年末年始とチョー頑張ったから、そういう行事に混ぜてもらう資格がちょっとあるかもしれないな。おーい、誰か酒でもついでくれまいか? 

…こういう甘え心を見せると即座に批判されそうですね。ま、自分でついで、静かに小正月気分になりましょう。

そういえば、1/19から、またすぐ「法科大学院 適性試験 Advanced」が始まります。今回は、基本ルールがわかった上で、さらに解答力をアップするための脳力拡大講座。秋のStart Up!を聞き逃した方、あるいは「法科大学院 Start Up!」だけでは充分練習しきれなかったという方にお勧めです。

さらに2/6からは
社会理論モデルを読むというセミナーも始まる。マルクスとウェーバーとフーコーを読み直さなきゃ。これはロースクールやMBA志望者だけではない。広く社会に関心を持つ人々全体のためのものです。その意味で、ボカボの精神に最も近い講座かも。

結局、一つ終わったからって、気を緩めるのは早すぎるようです。冬はまだしばらく続きます。受講生の皆さん、またご一緒に頑張りましょう!


P.S.去年に倣って、今年の自作おせちの写真も入れておきます。しっとりと美味しく仕上がりました。右側のお重三つは私の手作り、あとの三つはいつも送ってくださる方からのプレゼント。皆様の所のおせちはいかがですか?




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