2008年10月

10/31

世間というグローバル・スタンダード

世界同時株安が止まらないようです。日本では26年前の水準を割ったとか、円も1ドル90円台になったとか、毎日めまぐるしいニュースばかりです。とはいえ、最近20年でも1ドルは300円から78円まで変動しているし、株価だって90年代には40,000円近くまで行っているんだから、今の5倍近く。だから、これぐらいの変化にはちっとも驚かないけどね。

ところで、その株価はどうして決まるか? 皆が株を買おうとすると高くなり、売ろうとすると低くなる。美人投票で一番美人だと思った人に投票するのではなく、「誰が一番得票を集めるか?」を予想して、その人に投票するようなものです。前者の場合は「なぜ、君はその人に投票したのか?」と言われれば「美人だったから」という根拠で終わりだけど、後者の場合は「皆が美人だと思うだろうから」という根拠になる。「なぜ、皆が美人だと思うとあなたは思うのか?」と突っ込みを入れると、その答えは「だって、皆が美人だと思う基準を満たしているから」「それはどういう基準?」「そんなの、皆に聞いてくれ」「なぜそういう基準だとあなたは思うのか?」「そう、思っちゃったんだよ」「なぜ?」…堂々巡りです。

社会とは、個人が寄り集まって作っていくものと思われてきました。その典型的なモデルは「社会契約論」。個人が孤立していてはいろいろ不利だから、何らかの共同の利益のために取り決めをして互いに助け合うという決定をする。その際、その寄り集まり=国家が何をしていけないか、厳密に定める。それが法律というわけ。日本ではそうなっていないと歴史学者阿部勤也は言いました。なぜだか分からないけど、与えられた行動基準があり、それに従って生きなければならない。個人の主体性とか決定なんて言うと、「村八分」にされる。彼は、これを「世間」の構造だと言い、日本の「前近代性」として批判してきた。

でも、よく考えてみると「市場」って、なぜだか分からないけど、価格という与えられた行動基準があり、それに従わなければならない。どの株が上がるかを決める基準は自分にはなく、誰かが決める。でも、その「誰か」という主体はどこにもいない。皆が自分の意志ではなく、互いの顔を見合って生きている。「空気を読んでいる」わけですね。とすれば、市場は「社会」というより、むしろ「世間」に近いのではないでしょうか。

そういえば、M.マクルーハンは、情報社会が発達すると「世界村」という状態が出現すると言いました。人々の関係が密になるからというのですが、その弊害もあるのではないか? 村の中では、なぜだか分からない行動基準が醸成され、それに従わなければこの世界では生きられない。そこでは、自分の意志も権利も決定も意味はない。これって、「世間に基づく行動」と何が違うのだろう?

前に、私は『世の中が分かる○○主義の基礎知識』(PHP新書)の中で、快楽主義(エビキュリアニズム)をひきこもり」、禁欲主義(ストイシズム)を「ワーキング・プア」と同じだと書いた。古代ローマという世界帝国は分権的情報社会とは違うけど、「今、ここ」でどうするかという決定がどこか別の所で行われる、という点は似ている。その中で、外部をいっさい拒否して小世界に閉じこもるか、それを「運命」として受け入れるか。人間の行動パターンなんて、そうバリエーションはないのかもしれない。

その意味で、現代は、今や古代ローマに近づきつつある。市場の猛威の前に、「個人の主体性」なんてほとんど意味がなくなり、社会を自分達で作ろうなどという気概もなくなり、どこか分からないところで決められた「マーケットの判断」とやらに翻弄される。これでは、もう近代的なフレームはお終いです。「マーケットがどう判断するか?」なんて経済学者たちは言うけど、これは「運命」とどこが違うのか?

日本は前近代的だから「世間」なんて妙なものが残り、いつまでたっても社会が作れないと批判され続けてきた。けれど、もう近代的主体がないとすれば、それが構成した「社会」なんてものもあるはずがない。日本は一週遅れに見えて、実は一足先に「世間」を作っていた分、時代の最先端を走っていたのかも知れません。

そういえば、A.コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』で、日本の「スノビズム」をこれからの時代を示す行き方として述べていた。その意味では、もう「世間」こそがグローパル・スタンダードになっていたりして…もう、主体性なんてどうでもいい。市場の気まぐれに追随する女性や子どもなんかの消費的主体がないと、大人の男も仕事の動機が持てない。こういういい加減な日本がいつの間にか経済大国になっているのを見ると、日本人はこの世間的市場システムに歴史的に適応しているのかもしれませんね。

10/20

著作権とゴミ処理問題についての止めどない妄想

この頃、law schoolの過去問の扱いがひどい。HPを見てみると、「教育理念」なんてところだけは立派だが、過去の問題というところを見ると、「誰々の文章より」と書いてあるだけ。引用した課題文がまったく掲載していないことも多い。ページ数すら書いていない。たとえば、K大とかT大とか名だたる学校がそうだ。そのくせ「出題意図」はバカ丁寧に書いてある。そんなものあったって、受験準備にはちっとも役立たないのにね。

たぶん著作権の問題でHPに掲載できないというのだろうが、過去問を知りたいという受験生の権利はどうなっているんだろう? 「著作権ぐらい、手間を惜しまず取れよ」と言いたい。政府や地方公共団体がオンブズマンから資料請求されて、墨で塗りつぶしたものを提出したのとそっくり。それとも「情報公開」なんて一時の流行だから無視しても構わないというのだろうか? 日本の有名大学のくせして、恥ずかしくないのか? 恥ずかしくないんだろうね。

もちろん私の所には、K大のもT大のも問題がこっそり回ってくる。受験生が「vocabowに世話になったから」とわざわざ受験後に届けてくれているわけ。だから、うちの受講生は「独占的」に新鮮ナマモノの過去問に触れることができる。でも、そういう手づるがない人はどうなるんですか? ネットワークがない人は、差別されてもいい、とそういうわけか?

そういえば、これはゴミの構造と同じかも知れない。神奈川県F市では、分別ゴミの区別がメチャクチャうるさいんだそうだ。業者がゴミ収集日になると、コンテナを運んできて、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「ペットボトル」とこまかく区分けする。でも、そもそも生ゴミは水分をたっぷり含んでいるので「燃えないゴミ」ではないのか? 「燃えるゴミ」として分別したために、生ゴミにはわざわざ重油をぶっかけて焼いているらしい。プラスティックも生ゴミも一緒にして燃やした方がよく燃えるのに、余計なことをするものだ。

それどころか、「よその地区の人がゴミを捨てに来ないように」と朝二時間住民が見張りをしなきゃならないのだとか。それも、遠くの人がクルマでゴミを捨てに来るというのならまだしも、収集日が一日ずれている隣の町内の人が紛れ込まないか、チェックしているのだという。さらに、ペットボトルはキャップを取ったか、水洗いしているか、ガスボンベは穴を開けているか、いちいち調べる。たかがゴミなのに、何をこだわっているんだか、バッカじゃなかろうか?

そういえば、ゴミの扱いがこんな風におかしくなったのは、ここ数年のこと。とくに変だと思うのは、自治体指定のゴミ袋って奴。なんであんなことをしなきゃならないのかね? スーパーの袋でも燃えるし、廃品利用になって良いと思うのに、「焼却炉に負担をかける」とか屁理屈をこねて、無理矢理一種類のゴミ袋にしてしまった。この頃の焼却炉は性能が良いので、袋が違ったくらいで炉が傷むことなんてあるものか。あれは、絶対に利権(もしかしたら某国の?)が絡んでいるのだと思う。どこかの会社がゴミ袋を独占受注して利益を得ている。そういう巨悪を隠すために、ゴミの扱いをこれほど面倒にして、人々の注意をそらしているのじゃないかな?

著作権も同じことかもしれないね。近年、あれこれ急に細かい理屈をこねはじめた。学校が教育目的に使うのは良いが、会社が営利目的で使うのはダメだと言われ始めたら、あっというまに学校が教育目的に使うのにも著作権料を払わねばならない、と言われ出した。果ては、引用だって著者の許可を取らなきゃ、なんて言い出す。おいおい、いったい何をとち狂っているんだ? こういう細かいところばかりが強調されるときは、だいたいが裏がある。

そもそも作家にとっちゃ、もう作ってしまったものには価値がない。むしろ、これから作るものに価値を見いだす。それを、過去にばかり注目しているのは、創造とは無縁の心情だ。それなのにこれほど盛り上がりを見せているのは、いつの間にか、作家たちより商売人たちの思惑が先行しているのだと思う。著作権使用料が作家の手に本当に入っているのか、アヤシイね。結局は、著作権団体関係者などが儲けているにすぎないのでは? そういえば、某著作権団体に勤めている私の友人は「これで俺の老後は安泰だ」とほくそ笑んでいたものだ。悪い奴ほどよく眠る、かな?

細かすぎる規制やルールが出現してきたとき気をつけた方が良い。それはだいたい誰かの営利追及に絡んでいる。「これが正義だ」と思わされて、無自覚に従ってばかりいると、いつの間にか監視ばかりがはびこって、不便になるばかり。規制することに一生懸命になるより、規制の不毛さに早く気づきましょう! 結局みんなで自らの首を絞めて苦しくなっているんだから。

10/12

「教育の失敗」を叫ぶ人々のパターン

しばらく「三日坊主」の更新ができませんでした。今年度の法科大学院の適性試験攻略ブックの原稿はあるし、土日の法科大学院Start Up!コースが始まるし、木曜日の高校生の講座も始まるし、というわけで何しろ忙しくて…でも、いろいろ苦労しただけあって、各クラスともに面白いです。

とくに、木曜クラスは全員がシュタイナー教育を受けているという特異なクラス。シュタイナー教育って知っていますか? ドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーの理念に基づく教育。知性だけでなく、感性・感情の教育も重視する。とくに小学校から中学校2年までは、同じ先生がずーっと担当する。生徒一人一人に細かくつきあうらしい。

ボカボのスタッフに言わせると「高校生なのに、大学生か大学院生みたい」。大人びているわけですね。私の印象では、まず現在の若者には珍しく他者に対してオープン。この年頃は、皆どこかに歪みがある人が多いけど、それがまったくない。こちらの質問や講義に反応が素直で生き生きしている。それでいて、芯が一本通っている感じ。だから、講義していて全然疲れを感じない。そこに人間的交流があるからです。

古い友人にこのことを言ったら、「T先生が命がけで作った学校の生徒だからね」と言われました。たしかに。彼らの学校の先生は、いろいろ教育問題で発言されてきた方ですが、それだけでなく、10年以上前から小さな学校を作り、そこに心血を注いできた。その結果が、彼ら/彼女らたちだとすると、たしかに感慨深いものがあります。実際に人間を作ってきて、その現実が存在するからです。

私は、「教育批判」をする人々を信用しない。なぜなら、そういう人々はきまって理念を語るだけで、実践しないからです。どうやるか、という具体的観点がない。あったとしても、やたらと観念的で、極端に粗雑。愛国心とか、責任感とか。そんなの、たんなるマジックワードにすぎないのにね。

この間も、どこかの大臣が日本の教育を悪くしたのは日教組だとかイチャモンをつけて「罷免」された。私は別に日教組支持ではないけど、発言の粗忽さを考えれば、当然でしょうね。だって、そもそも「日本の教育が悪い」と言うけど、何を元に主張しているのか? 「自分のことしか考えないで、公を考えない人間が増えた」というけれど、その証拠はどこにあるのか?

青少年の犯罪の増加が証拠だというのなら、もちろん根本から間違い。何人も書いているけど、証拠は逆のことを指し示しているから。警察庁発表のデータでは、30年前に比べて、青少年の犯罪は劇的に減っている。増えているのは、「青少年の犯罪報道」、あるいは「青少年の犯罪が増えている」という報道ばかり。それなのに、まだ「青少年の犯罪が増えた」なんて言っている。いくら教えても、知識を覚えず、思いこみで発言する。「ちゃんと資料調べてから発言する」という基本的なことが出来ていない。

そういえば、「日教組の組織率と学力の低さは対応しない」と突っ込まれると、「私はちゃんと調べている」と言いながら、その根拠が「自分の体験」だったりする。この人、客観的な証拠という概念がないらしい。

そもそも教育を良くすると、本当に社会が良くなるのか? フィンランドはこの頃「教育がすぐれている」と話題になっているけど、この間学校で集団殺人事件が起こった。どんなに算数の能力が上がっても、ちゃんと青少年犯罪は起こる。教育と犯罪なんて、それほど相関関係はないのです。それなのに、教育が悪いから社会が悪くなる、と短絡する。何か教え込めば子どもがその通りにすると思うなんて、一度も教えたことのない素人の発想だ。これは、論理能力と経験の欠如ですね。

こんな人間に国家の舵取りを任せていたのでは、危なくて仕方がない。批判されたのは、この「危ない人格」が権力を持つことであって、当人が主張する「言葉狩り」なんかではないと思います。でも、罷免されてまで、その理由が分かっていないのだから、この人もよくよく理解力がない。言うなれば、この人自体が「教育の失敗」例なのです。

それなのに、この頃ネットでは元大臣を支持する声が多いのだとか。「辞める必要はなかった」だとか「よく言ってくれた」だとか。問題の本質がよく分からないのに、イデオロギーだけで肩入れする。こんな人間が多量に出てきたとしたら、たしかに「教育の失敗」かもしれません。でも、そういう失敗例たちは、正直に「俺たちをどうにかしてくれ」と言わない。むしろ「あいつらをどうにかしろ」と主張する。これって、話が逆じゃないだろうか? 「これだけ、勉強能力も論理能力もない我々をどうにかしてください」と教師に哀願すべきでは?それなのに、居丈高になって「教師が悪い」だなんて、「逆ギレ」というか、「責任転嫁」というか、基本的なしつけもなっていない。「教育の失敗」とつばを吐いたところで、そのつばは結局自分の顔にかかるだけのような気がする。

この頃、こういう人間が増えたような気がする。具体的な経験も能力もないのに、いっぱしの意見を言う。どこかで聞いたようなステレオタイプの意見を言い、それで自己主張している気分だけ味わう。「教育がダメだ」と思ったら、自分で実践してみたら? 何か一つで良いから、独自の方法を編み出してみたら? それをしないで「誰かの陰謀だ」と叫ぶ態度は、怠惰な人間の特徴と言っても良い。

しかし、こういう滑稽な状況が「教育論議」の本質かもしれません。良質の教育機会を持てなかった人(学歴のあるなしではないですよ)が「自分だけはマトモだ」と思いこみ、訳も分からず、教育に文句を言う。自分の理解力や想像力がどれほどのものか疑わない人が、思いこみだけで突っ走る。だから、内容がグチャグチャになる。でも、教師の方は真面目だから、一応耳を傾ける。でも、元がグチャグチャだから、結局一層混乱する。「教育論議」とは、よくよく不幸な構造をしているのかもしれません。

とりあえず、こういう人々は天下国家のことを論じるのではなくて、身の回りの家族や子どもを良くすることに集中した方が良いと思う。そこで苦労すれば、簡単に「教育批判」なんて浮薄なことはできないと思い知るでしょう。ネットで発言する人も、ネットだけでなく、もう少し周囲の人と関わってから発言して欲しい、と思いますね。


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