2008年11月

11/22

お一人様のヴェネツィア

TVでアメリカ映画『旅情』をやっていた。面白かったので、つい夜中の3時まで見てしまいました。往年ハリウッド映画の「名作」、10代にも何回か見ているはずなのに、ほとんど細部を覚えていませんでした。キャサリン・ヘップバーンが主役だということさえ忘れていた。

それもそのはず。社会化に血眼になっている若い頃には、この映画の本質は分からない。だって、これは究極の「お一人様」映画だからです。若い女の一人旅(「あまり若くない」と当人は言うけど、せいぜい30代だから十分若い)。しかも、傷心の旅なんかじゃない。秘書をやっている経済的に自立したアメリカ女が、金を貯めて一人でイタリアのヴェネツィアにやってくる。ちょっと前に「自分へのご褒美」という言葉があったが、まさにそれ。

でも、泊まった民宿は老いも若きもカップルばかり。その中で、独り者の彼女は何となく浮いている。それを見た妖艶な女主人が「ヴェネツィアの夜を楽しむには自分が一歩踏み出さないと」なんて唆す。そんなわけで、あてどなく街を歩いているウチに、ヴェネチアン・グラスを売っている店の店主と出会う。その男に惹かれて、つかの間の恋愛を楽しむ。そういうストーリー。

美しいヴェネツィアの風景が背景にあって、登場人物もさかんに「最高ね」とアピールする。日本のOLたちが観光地に行って、円の力をバックに、現地の若者たちと恋愛して楽しんでいることを考えれば、日本人もようやくこの境地に達したのかもしれない。実際、この当時のイタリアとアメリカでは経済格差も大きかったはず。現在の日本とタイ・インドネシアみたいなものかな? だから、ちょっと給料を貯めたぐらいの金額でも、けっこう豪華なことができた。その解放感の中で行動も奔放になる。色恋沙汰も起こって不思議はない。

もちろん、この素敵な恋愛は特別な場所と経済格差に支えられている。だから、彼女がイタリアに住む、なんてことになったらすぐさま終わりを告げる。「旅情」の主人公も恋愛を味わいつくした後、決然とアメリカに帰っていく。ただ、別れを告げる場面でも主人公は貪欲だ。サン・マルコ広場のテーブルで男と会って「静かなところに連れて行って」と頼み、運河のほとりで「二時間後の列車に乗る」と宣言するのだ。ゆらゆらする水の反射光の中で「帰らなければ行けないの」と言いつのる。「リゾートの恋」の決定版だ。

しかし、こういう物語は、昔はむしろ「中年男」の専売特許だったような気がする。出世とか競争とかいう幻想に引き回され、身と心をすり減らしたあげく、ふと旅に出た先で見知らぬ女に出会う。何日か楽しい日々を過ごしたあげく、自分の家に帰っていく。

そういえば、たしかチェーホフにもそっくりの短編があった。『犬を連れた奥さん』。生活に倦んだ男が水辺の保養地にやってくる。街をやたらと歩き回るがすぐ退屈する。でも、そこで一人の女と会って恋愛して生き返る。前よりも生き生きとなって、モスクワに帰って行く。「こんな女性と会えて得したな」と。この『旅情』はその女性版かもしれないね。いつの間にか、男も女も同一の物語類型を巡って欲望することになったわけだ。まさに現代を象徴するストーリー。

だが違いも大きい。チェーホフでは、その女がどうしても忘れられずにもう一度戻る。再会して、その女も自分を想い続けていたことを知って、この人と一緒にいたいと思う。でも将来のことは真っ暗闇。彼女を抱きながら「この先どうしよう」と二人で泣く。思い迷う。その現実の心配と恋愛の恍惚の宙ぶらりんで小説は終わる。

それに対して、『旅情』は恋愛は恋愛、現実は現実とすっぱり分けて、あくまでさわやかに帰って行く。こういうキャラクターを支えるのには、キャサリン・ヘップバーンは最適だと思う。顔の皮膚からそのまま骨が見透かされるようなきっぱりとした顔。行動と意志が明確に見える、いかにも「主体的な人間」。それがリゾート地と恋愛と男を堪能して、より充実して、またビジネス現場に帰っていく。恋愛の喪失すらも「思い出」というリソースに変えて。

だから、恋愛もいかにもイタリアの色男との典型的関係で終始する。突然「あなたに惹かれた」と告白される。女の都合に合わせて会いに来てくれる。サン・マルコ広場のカフェーの常連にしてくれる。大人の恋を提供してくれる。徹頭徹尾主人公の欲望に合わせる。要するに「恋愛の対象」という消費財であればいいのだから、人間的豊かさや影があってはかえって困るのかも知れない。

ただ、こういう情報消費は新しい世界を見せてくれない。現実と恋愛が触れて動揺するところがないからだ。せいぜい「新しい世界」というステレオタイプを見せてくれるだけ。だから、どうしても淋しい。街をさまよってもどこかデジャ・ヴュ。それを壊してくれるのがlove affairのはずだけど、それがまた「イタリア男性との恋」というステレオタイプにはまる。無限後退の世界。そこが『犬を連れた奥さん』の、何とも身につまされるけどリアリティのあるラストシーンと異なるところなのだ。

情報の中で泳ぎ回って、情報を消費して、手持ちの情報も少し豊かになる。それが「成長」や「向上」のイメージなのかもしれないが、自分の尾っぽを追っかけている猫というのか、鏡を見ていて自分に恋したナルシスというのか。「おひとりさま」が持っている寂しさとは、相手がいないことではない。むしろ、自分の想定範囲からいつまでたっても現実が超えないことにあるのかもしれないな。そういえば、キャサリン・ヘップバーンってどことなく上野千鶴子に似ているかも…。

そんなことを映画を見ながら考えていました。昔はただの恋愛モノだと思っていた映画が、今見ると、随分違って見える。世の中のことが多少前より分かってくると、いろいろ違った楽しみ方ができるものですね。その意味で、年を取ることの喜びというのも、確実にあると思うのです。

11/18

罪と罰の限界

この頃、ひき逃げ事件が連続発生しているという。酒に酔って人をはね、そのまま何キロか引きずって死なせた、という凄惨なものが多い。どうしてこんなひどいことができるのか? おそらく、原因は飲酒運転に対して厳しい罰を課すようになったことにあると思う。だから、人を引いたときに「逃げた方が得だ」というコスト計算が働くのだ。

私は、何もひき逃げした者を弁護しているのではない。人を殺した罪は重いと思う。ただ、重い罰を科すことでこういう悲惨な事件が少なくなる、という考えは、素朴すぎる思いこみだと思うのだ。

厳しい罰があるからと、普通の人は安心する。自分だったら、罰が怖いから飲酒運転はしない、皆も同じように考えるだろう。だから飲酒運転は減る、と思うわけ。しかし、そういう風に自分を律することができる人は、そもそもひき逃げなんて事故を起こさない種類の人間だ、とは考えられないだろうか? 

我々は、つい自分を尺度にして考える。厳しい罰を予想すると行動が改まるはずだ、と善良な市民ならば誰でも思う。しかし、飲む奴は何があっても飲む。実際、事件を起こした者は過去にも酒気帯び運転で捕まっている。つまり、この世には懲りない人々がおり、そういう人間が事故を起こす確率が高いのだ。だとしたら、罰を厳しくしても反省しないから、事故抑制効果はない。あるのは、ひき逃げ事故を起こさない人間が安心するというアナウンス効果だけなのである。

そもそも一罰百戒とよく言うが、罰を重くすることで人々にアピールするという方法は、取り締まりシステムが上手くいっていない証拠だ。だから、治安が悪い国では例外なく刑罰が過酷になる。捕まえた奴の罰を過酷にして、多くの取り逃がした奴らに見せつけようとするのだ。その伝で言えば、現在の日本のように酒気帯び/飲酒運転に対して厳しくのぞむのは、酒気帯び/飲酒運転が日常的に十分取り締まられていない証拠だろう。

もっと暴論を言うなら、そもそも酒があって車があり、地方では車以外の移動手段がなく、かつ地方経済が衰退しているとしたら、酒気帯び/飲酒運転は増えるに決まっている。だいたい、酒を飲んだ後に自宅にどうやって帰るわけ? 車以外ないでしょ。代行運転を頼めって? 金がなかったら、どうやって頼む? 外で酒を飲むな、と言ったら地方経済はますます冷える。それでいいの?

どんなに罰を重くしても、上のような条件がそろっていたら、ひき逃げ事故をゼロにはできない。その意味で、罰を重くするのは対症療法にすぎないのだ。たとえていえば、コレラに下痢薬を与えるような安上がりの治療法。それで病気が治るわけではない。ただの気休め。

たしかに、罪を犯した者は罰を受けねばならない。それは自明の理だ。だが、それは因果応報という世間の人々の信憑を強化するためであり、実際に事故が起こらない/起こりにくい社会を作ることは別の問題だ。それを混同するのは怠惰な考えだし、社会や政策を語る資格はない。その意味で、「厳罰化傾向」は世間に頭が悪くなった人間が多くなってきたことの証拠なのかも知れない。

そういえば、小論文の授業でも、問題解決の方法を提案させると「法律で規制すればいい」「教育で学習させればいい」というシンプルすぎる主張を繰り返す人が多い。法律があっても犯罪は出てくるし、教育をしてもたいていは学習効果は上がらない。逆に犯罪があるから法律で取り締まり、教えても効果がないから教育産業が栄えるのではないか? 自分の経験を思い起こせば、こんな理屈はすぐ分かるはずだ。何で、法律と教育にばかりそんな幻想を抱くのか、バッカじゃなかろうか?

それなのに、この頃、何でも人に謝らせ徹底的に罰するという傾向が強い。高級官僚に謝らせ、企業の経営者に謝らせ、大学の学長に謝らせる。でも、その多くは、居酒屋タクシーだとか、食品に異臭がしただとか、学生が大麻を吸っただとか、全然たいしたことない。疲れていたら、タクシーがお得意様には缶ビールくらい出すし、クリントンだって学生のとき大麻を吸ったと告白している。そこで、彼を退学させたらどうなったか? 有為の人材を転落させて良いのか? もうちょっとバランス感覚を働かせた方がよいと思うけどね。

警察だって、すべての犯罪者を捕まえるわけじゃない。そんなことをしていたら、今の何十倍の規模があっても足りないだろう。「前さばき」と言って、違法行為があっても犯罪にせずにこっそり処理している場合が多いのだ。それをいちいち「犯罪」として暴き立てて糾弾するのは、むしろ大衆が自分たちより惨めな者を見つけて、溜飲を下げることを最優先にしているからだ。これは、社会に害を及ぼす利己主義だと思う。

つまらない犯罪に騒いでばかりいると、大麻に逆に興味を持ったり、飲酒運転が何だ!と逆ギレたり、人を引いても逃げりゃいいんだ、という反応をする奴も出てくるはずだ。メディアってそういう逆様のメッセージを伝えることもあるんじゃないの? むしろ、目の前の経済危機の方が日に日に大きくなっているんだから、そっちに先に取りかかった方がよいと思うんだけどね。

11/5

司法試験合格第一号!

日曜日のオフィス、適性一部の講義中に、電話がかかってきました。「Kです。覚えていらっしゃいますか?」もちろん覚えていますとも。最初は大学への志望理由書、次にロースクールの志望理由書と小論文と受験の節目節目でヘルプさせていただきました。だから、WEBとRealの両方でもう10年以上のおつきあい。懐かしいね。

「司法試験、合格しました!」

おお、vocabow受講生の合格第一号! スゴイじゃないですか。

「これから、ご挨拶に行って良いですか?」もちろん、いいですとも。あたふたとオフィスを片付けると、あっというまに彼はやって来ました。10年前の面影を若干残しつつも、ちょっと大人っぽくなっている。何となく若武者という感じ。席に着くやいなや、彼は奔流のように喋りはじめました。

「実はロースクール修了間際まで論文を書いていたので受験準備が全然出来ず、試験後に今回はダメだと思って就職活動していたのです。」へえー、どこかに決まったの? 「S銀行なんです」え、ロースクール生にそんな就職先があるの? 意外ですね。この頃はロースクールを出ても就職難だとか、社会人にはリスクが多すぎるとか、いろいろネガティヴな情報ばかり目立つけど、そういう道があったんだね。

「ロースクール生めがけた企業の説明会がときどきあるのです。M物産とかS電機とか、全然法律知識がない者を取るより、法務部などで使いやすいという感じがあるのかもしれませんね。S銀行は学校の掲示板に小さく載っていたんです。ぼくは事情があって、何年も司法浪人できないし、無職になるのも不安だったので、とにかく受けてみようと思ったんです。皆殺到するのか、と思ったら、意外にも数人しか来ない。何だこりゃと思っちゃいました」

皆、司法試験のことで頭一杯になっちゃうんだろうね。だから、企業説明会なんかにあまり集まらないのかな。でも、皆もっと自由に考えれば良いのにね。

「そうなんですよ。学校によっては、いろいろ考えてくれるところもあるみたいです。ぼくの参加した説明会も、理解ある先生方がS銀行に働きかけてくれて実現したものだと聞きました。幸運だったのは、S銀行の方がその場で、修了生のエントリーを受け付けると言ってくださったことです。すぐ手続をとって、面接は何回もあったのですが、最後まで比較的スムーズに進めました」

君はたしか環境法を専攻していたよね。銀行に就職して関係あるの?

「ええ、融資の条件で環境貢献の評価などもあるみたいですし、けっこう今までの知識が活かせるんじゃないかなって思ったのが決め手なんです」

なるほど。司法試験を通って、弁護士になるだけが唯一の進路ってわけじゃないのですね?

「そうですよ。これから毎年何千人とロースクール卒業生が出てくるのですから、その社会的活用をしなくては、資源の無駄だと思いますよ。今までと同じように、ただ法曹として活躍するというだけでなく、多様な活動が出来るはずだし、その基盤はしだいにできつつあると思いますね」

ロースクール卒業生の進路については、暗い話題ばかりが言われていたようだけど、彼の話を聞いているとちょっと別みたいです。たしかに、ロースクール卒業したからって、皆が皆、弁護士や裁判官として活動しなければならないわけではない。皆、専門知識の方にばかり注意が行っているようだけど、むしろ、学校で付けた思考力の方が価値を認められるんじゃないかな。

もちろん、今のところは企業も手探りということかもしれません。ロースクール生は常識がないという偏見もあるだろうし。高学歴の人間は扱いづらいという日本企業特有の思いこみもある。それでも、情報化の中で、チョー高度な労働力として活躍する場がしだいに開けつつあるのかもしれない。。

「僕の場合は、とにかく内々定をもらってすごく嬉しくて…それに比べたら、司法試験合格のときは周囲の人ほど無邪気に喜べなくって」

実際、銀行就職と司法修習とどっちを取るか、悩んだんだろう? 

「いえ、電話をして事情を話したら、司法修習が終わるまで就職は待ってくれるそうです」そりゃすごい。「S銀行では、途中で学位を取って学究になる人などがけっこういるのだそうで、資格を取ることについては寛容なみたい」

そういえば、K君は東大確実と言われながらも、あえて自分のやりたいことのために他大学に行ったり、ロースクールに行っても受験一色ではなく、自分の専攻分野の論文をわざわざ書いたり、進取の気性がある人です。そういう自主独立の人間だからこそ、司法試験の重圧にも負けないで、余裕を持って突破できたのかも知れないね。

「余裕じゃないですよ。もう時間が足りなくって、思い通りには全然出来ませんでした。それでも、周囲を見ていると僕以上に勉強方法が分からない人もいたみたいですね」

K君のりりしい顔を見ていると、いかにも新しい時代が始まっているという感じがします。未来が開けている人間がいる、ということは、周囲の人間にも勇気を与える。私も11月の寒い日にめでたいニュースに出会えて本当に良かった。K君には、この話を元に、そのうち「ロースクール生の就職日記」や「司法修習生日記」などを書いてもらえればいいのですが…。今はまだ修習生のための予習で手一杯なのだとか。でも、そのうちにね!

ところで、「合格第一号」なんて書いたけど、もしかしたらボカボ受講生の中で司法試験に合格した人が他にもいるかも知れませんね。そういう人は、ぜひボカボにご連絡ください。

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