2008年12月

12/28

議論力はアスペルガーに効く?

ボカボの受講者で、お子さんがADHDまたはアスペルガー症候群と診断されている人から面白い話を聞きました。ADHDは多動性障害と訳されますが、学校生活などに適応できず、授業中などに動き回る発達障害のこと。アスペルガー症候群は自閉症と似ていて、社交が出来ない・表情などを読み取るのが苦手などの特徴がある。その代わり、数学など一定の領域には天才的な能力を示す場合があるそうです。

彼女の子供の場合は、とくに発想が豊からしい。論理的能力も高く、数学の能力も非常に高いのだとか。しかし、あれこれと思いついたことを猛スピードで喋りまくるので、周囲からは発言・発想のつながりが分からない。本人もうまく説明できないので理解されない。無視されて孤立する。その結果、癇癪を起こして爆発する、という繰り返しだったと言います。

ところが、彼女がロースクール受験のためにボカボで小論文の方法を学ぶと、そういう症状がずいぶん軽くなったのだとか。お子さんが癇癪を起こしたり苛々したりすると、小論文のゼミのように、お母さんは「何でそういうことを言うの?」といちいち根拠を示すように求めたのだそうです。すると、一生懸命考えて、言葉で返してくる。アスペルガー症候群の子どもたちは、表情・行動の理解つまり「空気を読む」のが苦手で、言語を言葉通りに受け取る傾向が強いのだが、逆に自分の行動を言語化するように求めると、「…だからだ」と見事に応答してくるらしい。

そうすると、聞いている方でも「ああ、そういうことだったのか」と了解できるようになる。了解できると「変な言動ばかりする」という周りからのレッテルも変わる。周囲の反応が変わるから、子供も落ち着いて、癇癪も起こさなくなる、結果として自己評価も他人からの評価も高くなる、という良循環に入る。

「ちょっと変わった子だけど、これだけしゃべれるし、数学もすごく出来るし、こういうキャラもあって良いんじゃないか、って周囲が受容してくれるんですよね。結局、私はロースクールには入らなかったけど、ボカボで習ったことは、子育てに見事に役立っているんですよ」

すごい話だと思いました。なぜなら、これまでADHDやアスペルガーに対する対処法は「周囲の者が同情・配慮する」という方法しか提唱されてこなかったからです。「アスペルガーの子はこういう特徴を持つから、それを分かって接しましょうね」なんてね。でなければ、薬物療法に走ってたり脳障害の一種にしたりしてしまう。

彼女の話は、まったく違ったアプローチを示しています。子供の言語をしっかり構築して、周囲にも理解可能なプラットフォームに載せる。そういうプロセスを踏むことで、周囲とコミュニケーションを取る/取らせることができ、社会性を獲得できる。しかも、重要なのは、そのように理解の通路を造るためには、親の方がむしろ言語能力を高める必要があったということです。

たしかに、普通の人は、言語と共に表情・行動を読むことが出来るという能力があるが、それだけ言語自体に対していい加減だということがあります。当然ですよね。曖昧なことを言っても、ちょっとした表情で「ね、わかるでしょ」と片付けてしまえるからです。言語と表情がダブル・ミーニングをなしていて、たいていは表情の方を信じるわけ。でも、言語に敏感な人あるいは言語を一貫した意味の集積と捉える人にとっては、こういう使い方は許し難いし、理解不能ですらある。アスペルガー症候群の人たちがそういう状況に陥っている、ということは考えられないでしょうか?

思うんですが、話し言葉と書き言葉は、全然別のものです。たとえば、話し言葉はすぐ消え去るから繰り返しが必須だし、繰り返さないと伝わらない。逆に書き言葉は一度書いたら二度と書かなくて良いし、書いたら重複として非難される。さらに、話し言葉は表情や身振りが付けられるので、言葉を省略しても伝わるし、多様な意味が出るから、曖昧性も増す。しかし、書き言葉では表情や身振りがないので、一義的に意味を確定しやすい。同じ言葉と言っても、メディアとしてはまったく違った性質を持つのです。

だから、話すのが上手い人は必ずしも文章を書くことが得意ではない。私の周囲でも、ものすごく講義が面白いので、それを本にしようとしたら、箇条書きみたいな文章しか書けなかった先生がいました。「何回も書き直しさせたのだけど、結局いいものににならないんですよ。講義はあんなに面白いのに不思議ですねー」と編集者が嘆く。でも不思議でも何でもない。彼にとっても、メモ書きみたいな文章でも、そこには意味と表情が溢れて感じられる。だから即興でどんどん喋ることができる。でも、そういう能力がない人は、メモ書きを見ても何を言っているのかさっぱり分からない

その意味で言えば、アスペルガーの人の言語は書き言葉に近いのかも知れませんね。それも、物語文と言うより、論理的文章。「…ならば…である」という命題があり、それを支える根拠があり、例示やデータがあり、それらが寄り集まって一つのメッセージを伝える。こういう論理構造として言葉が捉えられている。だから、そういう明確な構造を取らない普通人の会話が耐えられない。

そういえば、アスペルガーについては「作話」という現象も知られています。話のつじつまを合わせようとして、周囲の人にはウソや言い訳としか思えないようなお話を作ってしまうことです。しかし、これも曖昧さに耐えられず、明確な論理に載せようとして、つい普通人が理解している現実から離れてしまうということなのかもしれません。

このように考えると、アスペルガーが「発達障害」として捉えられてしまうのは、普通人たちの言語認識や論理能力が十分でないという場合があるのではないか、と思えてしまいます。論理を通そうとする人が、「面倒なことを言う」とバッシングを受けるように、すぐれた論理能力を持っているばかりに忌避されると言うことがあるのではないか。

だとしたら、「周囲の者が同情・配慮する」という方法は、むしろ能力の低い者が高い者を「アイツはバカだから、やさしくしようね」と決めつける構造に似ている。無能力を責められねばならないのは普通人の方であるのに、いつの間にか逆転した対応になっている。考えるとけっこう恐ろしい人間力学が働いているような気がします。

私が心理学的アプローチに対してどうしてもなじめないのは、こういう普通人の傲慢さ、自省のなさがあるからです。自らが理解できないもの/なじめないものに、「異常」というレッテルを貼って、「病気」や「障害」として処理する。世の中にはアスペルガーでない人の方が圧倒的に多いのだから、それで通ってしまう。でも、それが真実を隠蔽する仕組みになっているという可能性があるのではないか? 

でも、とりあえず、受講生だったお母さんがボカボで習ったテクニックを応用することで、我が子の能力を再認識し、しかも、それを社会に受け入れさせるような回路を開発できたということは素晴らしいことです。ボカボの養成する議論力については、この頃企業からも注目されているのですが、こんな風に心理学にも応用できるかもしれないというのは、新鮮な発見でした。

12/22

冬の都会から夏の村へ、そしてまた冬へ

冬のさなかの東京を抜け出して、常夏の島インドネシア・バリ島にやって来ました。私がボカボの長谷眞砂子に連れられて始めてバリに来てから、いつの間にか10年を超えている。田んぼが延々と続く風景のせいもあるのだけど、幼年時代を過ごした岩手のような感じがする。つまり故郷=田舎です。

でも高度成長以後、日本の「田舎」がはげしく変貌したのと同じように、バリも前に比べるといろいろ変わりました。車が多くなった。信号ができた。町中ではガソリンをGSで売るようになった。欧米風レストランが増えた。ヴィラが沢山建った。スパがやたらと多くなった。ダンス・グループも倍増した。etc.,etc....

去年、別荘地として借りようかなーなんて考えていた土地には、来年1月からジャワ島から大資本が入って、ショッピング・モールの建設が始まるんだとか。音楽やダンスの島だと思っていたのに、いつのまにか一大商業地に変貌してしまう。バリの友人たちが、土地を大資本に貸して金持ちになったことを考えると喜ぶべきなのでしょうが、何だか昔知っていた故郷がなくなっていくようで複雑な感じです。

それでも、今回ボカボはバリに拠点を持とうと思っています。これは、長谷の何十年来の夢なのですが、いよいよ土地や家を決めようと思っているようなのです。長谷は電気の通ってなかった頃からバリを訪れて地元の人と交流を続けています。今日、プリアタン村のバグース・マンダラさん(バリ島ファンなら必ず知っている世界的に有名なダンサー・音楽家)が連れて行ってくれたのは、定宿プリ・アグンからしばらく車で行った家です。

20アール以上の大きな美しい庭を持ち、目の前に椰子の木と棚田が広がる素晴らしい場所。ほとんど世界遺産並みの風景。すっかり気に入ってしまいました。「瞑想にもヨガにもいいよ」とバグースは言うのですけど、私は実を言うとスピリチュアル系はちょっと苦手。でも、静かな自然の中でなら筆が進みそう。それに食事も美味しい。「目の前の水田にはドジョウもいるし鰻もいるし、カタツムリだっているよ。それを融合して無国籍料理のパーティができるじゃないか」グルメのバグースの説明に、横で聞いていた私も思わず納得。

家の持ち主ニョマンもそれを聞いているうちに目がウルウルしてきます。「日本にはどんなドジョウ料理があるんだ? バリの料理とミックスしたら美味しいんじゃないか?」たしかにバナナもジャックフルーツの木も、それどころかパイナップル、マンゴスチィンだって生えている。私はもうそのパーティで作る料理を決めました。こちらの豚肉(バビと言います)を使って、パイナップルと一緒に醤油と酒で煮込む。それをバナナ・リーフの上にざっくりと載せたら、さぞ豪華だろうと思う。もちろん、エスカルゴ料理も忘れやしない。

そこにバリからも日本からも欧米からも友人を呼ぶ。もちろん、バグースがそこで踊ってくれる。日本のカブキ・ダンサーを呼ぶのはどうだろうか? そこに自然の蛙の声が重なって、世界最高のパーティとなること間違いなし。

でも、問題はまだ山積みです。電気は? インターネットは? ご近所とのつきあいは?「ときどきお寺のお祭りの時にDuckを数羽村に寄付すれば良いんだよ」のどかなもんですが、地元の人とのつきあいは日本でも簡単でないので、ちょっと不安。それでも、何とかするしかないだろう。せっかく人として生まれてきたからには、やり残したことがないようにしたい。バリで生きることのすべての部分を残りなく楽しむ。Enjoy holistic life! きっと、これは日本の高齢化した社会全体の願いではないかなと思うのです。

そんな中でもインターネットカフェでチェックしていると、東大・京大などロースクールに、次々にボカボから合格者が増えています。やはり「この人なら」と思っていた受講者たちが受かっていくのは嬉しい。

来年からロースクールでは定員削減が行われるらしい。それを見越してか、東大では今年から大幅に定員を減らしています。来年の合格基準は厳しくなりそう。ボカボでは、23日から「冬のセミナー」が始まります。新しい年が始まるまでに、小論文と志望理由書の目鼻は付けておかないと、来年になって対策しようとしても時間がなくなること間違いなし。私も、もうバリから帰国して、「冬のセミナー」の準備に大わらわです。


12/5

セキュリティ過剰意識社会

ある司法修習生が、地方裁判所からPCにウイルス・ソフトを入れるのが必須であると言われたそうです。でも、彼のPCはMacなのでウイルスにはかからない。それを裁判所に言ったら、「あなたのPCはそれでいいけど、他の人のPCにうつったらどうするの。責任取れないでしょ」と返されたとか。そんなわけで使いもしないウイルス・ソフトを入れるしかないらしい。

Mac Userなら皆知っていることだけど、ウイルスはほとんどWindows用に作られている。だからウイルス・ソフトもいらない。東大病院のPCには一日一万件を超えるウイルスが来たので、全部Macに変えたらしい。結局、ウイルス・ソフトを用意する必要がなく、保守費用が激減して大喜びしている。地方裁判所はそういう事情を知らないのかもしれないけど、ウイルス・ソフトなんて情報を中途半端に知っているから、ヘンな判断になってしまう。

こういう過剰意識は、鳥インフルエンザ騒ぎも同じことかもしれませんね。人に伝染するのが怖いので、白鳥に人が近づけないようにしているんだって。岸に一生懸命金網を張って「餌を与えないように」。大きなお世話だと思うけど。鳥がインフルエンザにかかればすぐ死ぬけど、必ずしも人間に伝染するわけじゃない。それを毎年、冬になると大騒ぎして…。製薬会社の思うつぼじゃないかな。

だいたい、養鶏場では昔から大量死がかなりあって、弱るととにかく出荷を早めるというのが経営ポリシーだった。それで、大して被害も出なかった。それを「大量死を隠した」とかよってたかって悪者扱いして、自殺させちゃったりして。そういういじめの責任は誰が取るんでしょうね?

そもそも鳥インフルエンザが人間に感染するとかいうけれど、インフルエンザで鳥ならぬ人間が大量死したなんて、私の記憶では起こったことがない。1917年の大流行が言われているけど90年も前。関東大震災より古い。震災の心配だって毎年毎年こんな大騒ぎをするわけじゃないんだから、実態のない情報がさらに情報を生んで暴走しているとしか思えない。

意識過剰といえば、この間来年の『公務員試験 頻出テーマのまとめ方』の資料として、東京都の問題をもらったのだけど、その用紙を見てびっくり。いつもの通り、四、五行の問題文が二題。その後に麗々しく「この問題文を使用する場合は、著作権者の許可がいります」とハンコが押してある。この尊大さは何だろうと思ってしまいました。

こんなものが著作権保護の対象になるわけない。問題内容には格別オリジナリティはないし、もし、こういうものに著作権が認められるのなら、スーパーのチラシだって、トイレの落書きだって著作権がある。何でこんなに居丈高なのか理解に苦しみます。

法律や規則を盾にその本来の意義を見ないから、こういうバカなことになるのでしょうね。言葉尻を捉えるばかりで、情報が実質を離れて流通する。情報社会日本の命運も尽きたなと思う今日この頃ですね。

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