2008年3月
3/30

オリンピックは政治の祭典?

北京オリンピックの周辺が騒がしくなってきました。スピルバーグも開会式の総監督を辞退したし、いくつかの国では、元首が開会式への出席を取りやめたようです。

私も正直言うと、北京でオリンピックを開くのはちょっと時期尚早かなという感じがしています。たしかに経済は発展しているし、政治的存在感も大きくなっているけど、中国が自由・民主・平和という近代的理想にあまりコミットしていないように感じるからです。

オリンピックは、西洋の理想に基づいています。だから、古代民主主義の国ギリシアの太陽から聖火を取り、それを平和と繁栄の象徴として開催国にもたらす。日本も不完全ながらもその理想にコミットしようとしました。さまざまな機能不全もあるけど、一応民主主義を肯定し、憲法で人権・自由も保障しているし、平和も国是としている。

しかし、中国は、今のところ経済発展にのみ忙しく、これらの理念を重視する段階には至っていないようです。経済は自由化しても、表現・移動の自由は認めない。人権も保障されず、民主主義とは言いつつ独裁。その中で軍備を拡張して、力でもって国内統一を図ろうとする。

歴史上、こういう姿勢を取る体制下でのオリンピックは問題が出てくることが多い。戦前の東京大会は中止になるし、モスクワ大会はボイコットされた。ナチス・ドイツによるベルリン大会は成功と言われたけど、後世の評価は微妙です。

近代国民国家では、大衆をページェントに巻き込んで、民族的一体感を強化するという政治的扇動をする。共同の儀式を行うことで感情を高揚させ、人々の犠牲を要求する「運命共同体」を幻想させる。しかし、そういう一体感を強調しすぎると、社会の抱える矛盾や問題は棚上げされ、批判する者は抹殺・無視されるわけです。

日本もこの道をたどって、抜き差しならないところに落ち込んでしまった。きっと近代以前の中国なら中華思想をとっていたから、チベットなんて適当に朝貢してくれたら、それでよかった。しかし、近代国家はそれを許せない。隅々まで一元的にコントロールされることを望む。その道具として、オリンピックを利用する。

その意味で言うなら、「オリンピックを政治化するな」と言うが、むしろ、政治利用させないためには、あえてチベットに触れた方が、その精神にかなっていると思います。オリンピックを開催することが、チベットと中国の対話のきっかけになって、はじめて平和の祭典といえるのではないか。

私にとってのオリンピックのイメージは、64年の東京オリンピックの閉会式です。各国の旗がしずしずと集まって終わりかと思ったら、突然に選手たちがどやどやと乱入してくる。肩車に乗ったり、手を振ったり、走り回ったり、大騒ぎ。でも、それが自由・平和への希望をみごとに表していたと思います。北京オリンピックもそうであってほしいと私が思うのは、日本人の勝手な希望なのでしょうか?

3/20

シニアのロースクール日記」が最終回に!

仁賀さんの「シニアのロースクール日記」がついに最終回を迎えました。もちろん、ロースクールを修了なさったからです。60歳を過ぎてからの挑戦をかなえ、三年間努力なさったことは、本当に賞賛に値します。おめでとうございます!

ロースクールに合格なさってから、東京で一度お会いしたことがありました。生き生きとした表情、当意即妙の会話、おまけにつやつやした肌。「成熟」とはこうありたいものだと強く感じました。

大志を抱くのは、もはや若者だけではない。むしろ、中高年こそ第二の人生でさらにパワーアップして社会を変えていく存在になるのだと思います。仁賀さんは、その象徴として、これからの日本の大人たちに希望とエネルギーを示してくれたと思います。何人もの受講生が、彼の日記を見て、「よしやるぞ」と勇気づけられたことか。

しかし、またすぐ司法試験が待っていますよね。合格されて、一日でも早くボカボHPに復帰なされて「シニアの司法修習生日記」を書いていただくことを期待したいと思います!

3/12

経済合理性と教育合理性

vocabowのロースクール講座の受講生と話していると、転校組がすごく多いのに気づく。司法予備校の講座を取っていたのだけど、途中からボカボにやってくるのです。HPで「シニアのロースクール日記」を執筆している仁賀さんもそうでした。某校の小論文講座を受講していても、どうしてもよく分からず、どこか良いところはないか、と探して来たのだとか。彼のように、学校を幾つかさまよってvocabowにたどりついた人は他にも多い。

そういう人たちに聞いてみると、現在の法律学習システムになじめないと言います。決まり切った内容ということもあるのでしょうが、授業は基本的にビデオ再生。ブースにこもって見るだけで、質問も出来ない。元になっているLIVE授業に行っても、質問は禁止。質問者がビデオに映ってじゃまになるから、だそうです。テューターに聞いても「自分が授業をやっているわけじゃないから…」と要領を得ない。「ああいうことを続けていると、自分が人格的に問題ある人になってしまうんじゃないかと心配で…」と言う。

もちろん、こういうシステムの背景には経済的合理性があるでしょうね。学校の経費では講師料が一番高い。だから、出来がよい授業をビデオにとって再生する。すると、講師料は最初の一回分だけで済む。浮いたお金を建物や宣伝に使う。そうすれば、もっと学生が集まる。法律系に限らず、どこの予備校も今はこんな風に経済性を優先する。しかし、ビデオ撮影が至上命令になり、質問は許さない。あるいは、学生の理解を犠牲にしても、効率的システムを優先する、となったら、ちょっと行き過ぎでしょうね。

こういうやみくもな合理化が、現在の教育全般に蔓延しているように思います。その結果、一番大切なはずの教師と学生の相互交流が簡単に無視される。企業である限り、利益は出さなきゃならないけど、そればっかりでは「教育」産業にならないと思う。もちろん、すべての学校がこういう弊に陥っているとは思わないけど、一部にそういう行き過ぎがあるらしいのです。

ボカボが現在の所、そういう弊から逃れているのは幸いです。たとえば、今回の適性講座はそろそろおしまいですが、受講生たちが自主ゼミをやりたいと言い出しました。せっかく力が付いたようなのに、中断したくないというのです。自分達だけだと不安なので、ボカボのスタッフにヘルプをお願いしたい、というのです。

こういう自発性が、私は教育の本質だと思う。相互の信頼の醸成と、自発的な展望。長期的に考えれば、こちらの方が経済合理性より大事です。目先の経済合理性より、人を育てるという長期の教育合理性を優先する。それが、「教育」産業のゆずれない本質なのだと思います。

3/3

社会理論モデル後半はじまる!

三日坊主は10日も書き込みなしでした。ちょっと怠惰だったかな? でも「適性試験Review Perfect!」もあり、「社会理論モデルを読む」の講座もあり、原稿の書き直しあり、で余裕がなかったのです。やっと社会理論モデルの講座も、私の担当が終わり、気持ちに余裕が出てきました。

第4回目は法哲学の藤原完一氏が「功利主義」を講義。この分野での専門家だけあって、明晰なことこのうえない。しかも、現実問題との関わりも濃密に付けてくれる。質問・疑問に正確に答え、さらに論点を拡張する。結果として、知識が生き生きと頭に入ってくるのが感じられる。聞きながら、「これこそ、ボカボが、いや皆が望んでいた教育だなー」と思いました。

何で「勉強を苦痛だ」と考えてしまうのか? 自分のvisionがいっきに広がるから、本来、勉強は楽しいものです。それが苦痛になるのは、視野の拡大が実感できないときになのでしょう。つまらないことをいちいち覚えなきゃならないと感じられる。その意味では、今回の講座は大成功と言ってもよい。とくにロースクール小論文出題の背後にある思想の見当が付いたのか、出席者は目の前の霧が晴れてきて、楽しかったみたい。いつもにも増してたくさん発言が出てきました。

私も教えてばかりいると、教えられることへの渇望が生じるらしい。とくに今回のように、知的刺激に満ちている内容だと、まさに至福のひととき。ついニコニコしちゃいます。そのうえ、講義の後で藤原氏が勧めていたレイチェルズの「現実をみつめる道徳哲学」を手に取ったら、一気に読了できた。たしかにわかりやすい本だったけど、見通しをもらったことで、楽々読めた。すごく得した気分です。

この後の予定はリベラリズム。これも、功利主義のようにすっきり理解できるようになるかと思うと、今からワクワクしちゃいますね。来週の私たちはいったいどんな認識を手にしているのでしょうか?

そういえば、アクティヴ・リラクゼーションという概念があるらしい。たんにゆったりとするのではなく、むしろ活発に身体を動かすことで、リラックスしていく。頭脳もそういうものだと思う。「何も考えない」ことが、リラックスではない。むしろ、挑戦的に動かしていくことが、その後の深い満足とリラックスを生む。

そういうレベルにボカボの企画も一歩ずつ近づいている感じがして、嬉しかったです。



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