2008年4月
4/28

文は他人(ひと)なり

この間、ボカボではさる外資系企業で企業研修を行いました。社員の方々の書いたビジネス文書を取り上げ、それに添削をほどこして、コメントするというWorkshopを進行したのです。さすがこの業界でのトップ企業の一つだけあって、参加者は皆熱心で頭の回転が速い。なかなかエキサイティングなイベントでした。

研修には、私と長谷、それにスタッフの櫻井と岡の4人で行ったのですが、大人が真剣になると空気がピンと張り詰める。4人とも慣れないスーツに身を固めていったら、さすが外資系。社員の方々の服装の方がずっとカジュアルだった。

でも、そこで一番苦心したのが、文章を人格から切り離すこと。いかにカジュアルといえど、企業は雇用関係があり、上下の関係もきびしい。そこで外部の者が委託されたとはいえ、社員の書いた文章を実際に取り上げ、いろいろ批評すると、「自分は会社から不当に扱われているのではないか」という疑心暗鬼を引き起こしかねないと思ったからです。

これは「文は人なり」とよく言われることと関係があると思う。これは、「文章にはその人の人柄が表れる」「文章はその人の人格の反映である」というような意味。文章を論ずる人はこの言い回しが大好きなようで、いろいろなところにこの「文は人なり」が出てくる。

でも、私は、この言葉は文章指導の現場にはふさわしくないと思う。なぜかというと、これを認めちゃうと他人の文章の批判が出来なくなるからです。だって、文章はその人の人格なら、文章批判は人柄批判あるいは個人批判になる。下手すると「俺/私はダメなんだ」と落ちこむか、「あいつは、俺/私が嫌いなんだな」と反発されるか、でなければ「今更変えられるわけないだろう」と居直られるか、どれかになってしまう。これは不毛ですね。

この言葉は昔の中国古典に出てくる言葉だけど、これが言われたときは「四六駢儷体」などの装飾的な文章が流行っていたときだとか。それに対して敢然と「文章は形式ではない。人間性の発露なのだ」と異論を唱えたというのがもともとの意味。形式主義への反発として個人の自由を高らかに歌い上げているわけ。

でも、今の日本みたいに「何でもあり」相対主義の状況だと、むしろ「文は人なり」は自分と他人を隔てる壁として機能する。だって、他人による人格批判だから、怖くて二の足を踏む。その結果、「人それぞれ」という孤立状況に陥るしかないからです。「人それぞれ」が自由を保障するようでいて、いかにコミュニケーションを疎外するか、は前に論じたことがあるけど(『だまされない〈議論力〉』)、この場合も弊害は同じです。

これを避けるには、文を個人の人格から引き離し、客観的な技術として認識する必要がある。文章の善し悪しはその人の人生や教養、知識とは関係がない。むしろ、文章のテクニックをよく自覚していないから、よくない文章を書いてしまうのです。とくに、他人が自分の文章を読んで、どう反応してくるかをうまく予想できていないことが原因である場合が多い。

論理的文章の本質は意見文です。この意見を述べるという具体的状況を考えると、周囲の人は必ず突っ込みを入れてくる。「こうすればよい」と意見を発表すると、「なぜそうなるの?」「それはどういう意味?」「具体的に言うとどういうこと?」とあれこれ突っ込みが来る。それを予想して、あらかじめ答えておく、というのが理由・説明・例示などの「根拠」の役割。根拠がしっかりしていれば、「説得力がある」と言われる。つまり、突っ込みを予想して完璧に答えておき、疑問の余地をなくしておくのがよい文章なのです。

ところが、読み手の反応を予測できないと、その突っ込みに対する応答が用意できない。それが「説明不足」「例示不足」という現象になる。これが「理解不能の文章」の特徴です。その意味で、よい文章とは、他人の突っ込みを予想でるかどうかに依存する。つまり、文は自分の発露どころか、他人=読み手に応える行為と介した方がよいのです。

もっというと、文章の善し悪しとは「うっかり」とか「不注意」のレベルの話なのです。だから、その「うっかり」「不注意」を「こういう突っ込みが出てきませんかね?」と指摘する。「それはね…」と説明できればしめたもの。「それですよ、あなたが書くべきだったのは!」と言う。すると、たいてい「ああ、そうか」と納得してもらえる。

その証拠に、添削した結果を示すと、ほとんどの人が「これこそ本当は自分の言いたかったことだ」と反応してくれます。その意味で、添削とは元の文章を「こうしろ」と添削者が恣意的に変えることではない。むしろ、添削者の反応を通して、本来あるべきであった形・内容をに近づいていく作業だと思います。

他人の手が入ることで、かえって自分らしい文章になる。この逆説が文章の基礎にある。とくにビジネス文書はそういう面が大きい。ビジネスとは他人と関わって、モノやサービスを動かすことだからです。だから「文は人なり」とは「文は自分なり」という意味ではない。むしろ他人に向けて工夫すること、つまり「文は他人(ひと)なり」という漢字をあてるのが本当だと思うのですが、いかがでしょうか?

4/14

孤食と屋台

本では「孤食」が問題になっているそうです。かつてのように家族が一緒に食事を取ることはなく、バラバラに食事して、その内容も栄養素が偏り、貧しくなっている。教育現場では、子供のためにどう食事を作るべきか、親に教育する必要さえ言われているみたいです。

私は、問題の指摘は結構なことだと思うけど、提示された解決法が「食育」というのは、どうかなーと思います。何でもかんでも、家庭や教育で解決しようとするのは発想としてあまり筋がよくない。それは問題を閉ざして、個人の責任と負担を重くするだけ。むしろ、家庭で食事することなんかさっさとあきらめて、地域で屋台を復活させるのがよいと思うのです。

「孤食」に対する危機感は、家族の解体のイメージと結びついています。家族が一緒に食事をしないことが、家族の機能が損なわれているということになる。たしかに、私自身は料理することが子供の頃から好きだし、それを家族・友人に食べさせるのは喜びの一つ。そういう人間からすると、一人で自分の好きなものだけをこそこそ食べるという風景はコミュニケーションの一つの回路が閉ざされている感じがする。

しかし、だからといって、「孤食」を声高に反対するのもためらわれる。というのも、「孤食」は現代人の生活のもたらす必然の結果だからです。働いて帰ってくると料理が面倒になる。働いていたり勉強していたりして、家族外の活動が多くなってくると、いちいち家族そろっての食事などに時間を割くのは面倒、というのも当然の心理。若い人など、家は寝に帰るだけ、ということも多いのではないか?

実際、日本人は「手作りの料理を、家族そろって食べる」ことを当然視しているが、他のアジア地域ではそうではない。たとえば、バリ島ではご飯を作り置きしておき、おなかがすいた人が勝手に台所に入って一人ずつ食べる。しかし、こういう習慣のおかげで家族が崩壊するという話は聞かない。食事が家族団らんの象徴だというイメージは単なる思いこみかもしれないのです。

そもそも「家族そろって」は、よいコミュニケーションとは限らない。太宰治は自伝的短編集『晩年』の中で「家族そろって食べる食事の恐怖」について語っています。暗い部屋の中で、父・母・兄弟と黙りこくって、各自のお膳のモノを食べる。互いに親密になるのではなく、むしろ権威主義的秩序や抑圧を強める儀式。これでは「家族そろって食べる」ことがハッピーとは言えないと思う。

もちろん、「孤食」だと栄養素が偏り、バラエティが貧しくなるという傾向はあるかもしれません。しかし、それもコンビニなどで売っている食べ物が画一化されているのが原因です。そうでなければ、「孤食」だって十分豊かになる。たとえば、タイではお総菜を屋台で買ってウチであるいはその場で食べるという方式が一般的です。ソーセージの揚げ物、きのこの煮込、カレーや野菜炒めなど種類はメチャクチャ豊富。私もホテルのレストランで食べるより、屋台メシの方がずっと好き。適当な屋台を見つけて、家族あるいはカップル同士あるいは一人で道ばたのテーブルで食べる。そこに友人もやってきておしゃべりする。

「孤食」を批判して家庭での食事を推奨するより、日本でも、むしろこのような屋台を復活させた方がよいと思う。好きなときに美味しいモノが手軽に食べられるだけではない。コミュニケーションもオープンだと思うからです。栄養が偏っていたら、「時には野菜も食べなよ」と屋台のオバサンが声をかけるだろう。様子が変だったら、「あんたのところの息子沈んでいたよ」などと家族にご注進があるかも知れない。

これなら、地域の人間関係だって復活するはずです。簡単に始められるので、失業対策としても役立つかも。高齢者も子供が犯罪に巻き込まれるのを防ごうと自警団ばかり作るのではなく、むしろ自前で屋台でもやった方が子供と仲良くなれるのでは? 衛生上の問題があるとかで、日本から屋台はどんどんなくなっていったが、食中毒の危険ぐらいで、このような社会的機能を失うとしたら、むしろマイナスの方が大きい。

少子化を止めるには「女性よ、家庭に帰れ」と言ってもムダだというのが定説です。唯一の処方箋は「育児の社会化」、つまり育児を家庭から解放して、社会がその機能の一部を担うことでした。同様に「孤食」の解決は、家庭での食事への拘泥ではない。むしろ、「孤食」の出てくる社会的背景を受け入れて、それをよりよいものにする方策を考えることなのです。

タイの屋台の前で「さて、今日は何を食べようか」とうろうろする快楽を経験すると、「食育の必要」とか「孤食の危機」などという「良識的批判」がいかにまずしいか、いかに別の観念にすり替えているかよく分かる。問題を指摘するのは学者だから、解決法が「教育」しか思いつかないのは仕方ないけど、それに政治家が乗って教育に手を突っ込んで人気取りする、という構図はもうそろそろ止めた方がよい。

美味しいものを美味しく思える環境で美味しく思える人と一緒に食べて、それで全体が楽しくなるシステムを考えた方が良いに決まっている。もう「現状はダメだ」という道学的発想で、家庭や個人を斬るのはいい加減にしたらいい。家庭も教育はすべての問題を解決する玉手箱ではない。問題を矮小化すると、かえって新しい問題を作り出すと思う。

昔、詩人の寺山修司は「書を捨てて街に出よう」と言いました。「書」とは今風に言えば、流通している情報のことでしょう。情報に頼らず現実を見よ、というのです。食の問題も同じ。まさに「家庭の観念を捨てて屋台で食べよ」だと思うのです。

4/3

思うに

現在、ある法科大学院に行ってらっしゃる方がボカボに来ました。彼はライターでもあったので、文章のスタイルに対してすごく敏感です。

法律家のよいとする文章と、マスコミでよい文章は大きな差があると彼は言います。前者はとにかく考えたことを省略しないですべて書ききるのに対して、後者はどこから読んでも良いように、情報をたくさん入れることが大切なのだとか。

文章には自信を持っていたのに、大学院の先生から「文章がよくない」と言われてはじめはショックだったとか。「でも、この頃はだいぶ書き分けができるようになりましたけど」。うーむ、すごい。

法律家のよいとする文章のモデルは、だいたい裁判所の判決文らしいのですが、それも時代によって変わってきたらしい。「30年前の判決の文体と現在とでは、ずいぶん感じが違うんですよね」。なるほど。

そういう意味で言うと、司法予備校などでよく教える法律文体はちょっと古すぎて、あまり感心しないと彼は言います。

たとえば「思うに…」。この表現が頻発されているのを見ると、志望予備校で苦労してきたんだナーとすぐ分かる。しかし、法科大学院の教授に言わせると、この表現は複数の解釈がある場合、自分はこの解釈を取るんだ、と打ち出すときに使う表現なのだそうです。だから、「思うに…」を使うとすぐバツ。「『思うに』を使うなんて10年早いよ」と言われる。

あるいは「…と考える」。これもすごく多いのですが、私はいつもカットしなさいと教える。だって論文は自分の考えたことを書くのだから、「…と考える」は冗語になる。これは、法科大学院でも同じ事を指摘するらしい。「40〜50年前はあったらしいですが、このごろは裁判ではめったに使わないようですよ」

@Aと箇条書きにするのもいけないと言れるようです。これも私が教えてきたことと同じ。論文で箇条書きにしないのは世界共通です。でも、予備校ではむしろ箇条書きにせよと教えられるらしい。注意すると「だってこう書きなさいと言われましたから」となる。彼の話を聞いて、今までの違和感がやっぱり正しかったのだな、と思いました。

でも、なぜ予備校では大学院でやってはいけないと言うことをわざわざ勧めるのか? 彼は「短い時間で書くために便法が発達したのだろう」と言うのですが、私は一種の都市伝説なんじゃないかと思う。

最初は「こんな風に書くと書きやすいよ」という合格した先輩の教えを参考にする。しかし、それを講師が教えていくウチに、だんだん特徴を肥大化・単純化させる。その方が教えていてインパクトが強いからです。それを繰り返すウチに、こういう表現さえ使えば法律家風だという妙な信仰が生ずる。その結果、司法予備校文体という珍妙なスタイルができあがったのではないかと思います。

私も予備校業界はよく知っていますが、生徒のウケがすべてなので、教えることは単純なマニュアルになりがち。それを「これさえ守れば合格だ」と獅子吼する。でも、たいていはそれ以上のことをしないと合格しない。

これは適性試験の解説などにも言えるかもしれない。司法予備校を経てきた人々の発想・解答を見ると、きちんと論理の筋道をたどっていないような気がします。パターンを覚えて、パッと見てパッと反射神経で答える面が強い。

でも、問題作成者はそのパターンを外そうとして頑張って問題を作る。当然受験生は間違う。そこで、予備校はさらにパターンを増やして教える。問題作成者はそのパターンを外そうと…。こういういたちごっこ。そのうちにパターンが増えすぎて何が何だか分からなくなる。そうすると「これだけやれば合格」と気休めを言う講師に人気が集まる…。

その意味で、ボカボで、最後の時期に「適性試験直前演習」のコースを開講するのは、論理的に考えるという基本に立ち戻る、という意味が強い。パターンを使うのが悪いとは言わないけど、何でも簡便法でものごとが解決できることは少ないのです。王道を行くのが、結局は近道なのです。「適性試験直前演習」コースはその力を養成する最後の機会だと思います。



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