2008年5月

5/28

第二外国語の怪

大学では、今や第二外国語が絶滅中らしい。英語を習得するだけでも大変なのに、第二外国語までやるわけにはいかない、というわけで、フランス語・ドイツ語などの必修がどんどんなくなりつつあるそうです。私が大学にいた頃は、もちろん第二外国語必修の時代で、初年度のクラスもフランス語組、ドイツ語組、中国語組などと第二外国語で分かれていました。その頃の同級生とは今でもつきあっています。それを考えると、この変化はまさに隔世の感。

たしかに、第二外国語の習得は難しい。私はフランス語組だったけど、不規則動詞の変化を覚えるのに精一杯。その他に、張り切ってドイツ語・ラテン語・ギリシア語などもやっていたので、無茶苦茶大変。昨日覚えたことが、どの言語の法則だったのか忘れてしまう。

ギリシア語の活用は一つの動詞で160近くもあるので、これは一ヶ月でドロップアウト。ラテン語は一学期頑張ったけど、二学期はパス。ドイツ語はとりあえず文法事項だけ独習し、その後ハイデガーのエッセイを読むクラスに入ったけど、その後二度とやっていない。フランス語は頑張ったおかげで少ししゃべれるが、流暢とは言い難い。発音は「綺麗だね」とほめられるのが唯一の収穫か?

同級生たちも適当にやっていました。そういえば、仏文科に進んだ友人だって、フランス語がちゃんと読めたかどうか怪しい。それでも、卒論を書いてマスコミに就職。でも、この間会ったらほとんど忘れてしまったとか。とても、実用レベルに行くのは難しい。その意味で、第二外国語なんて止めてしまえ、という意見も一理ある。その時間があるなら、英語を実用レベルにまで引き上げた方がずっと役に立つ、というわけ。第二外国語にかけた時間を英語にかければ、ずいぶん上達するはずだ…。

でも、そうかな? 昔から言うけど、勉強は時間かければいい、というものではない。忙しいときに努力することでかえって身につくこともある。もちろん時間は大事だけど、第二外国語に時間をかけなくなった分が、本当に英語をやることに回るのか怪しい。そもそも英語をnativeに伍して喋るのは4年間頑張ったってとても無理。T大学という英語教育で有名な女子大学だって、4年卒業でTOEFLで大学院入学レベルのスコアを取れる人などほんの一握り。ちょっとぐらい英語の時間を増やしたところで、上達は見込めない。

それに、英語しかやらなくなったら、英語が不得意な人はどうするのか? フランス語をやるのは「英語が嫌いだからフランス語をやる」という人が多かった。そういう人は意外に頑張り屋で、数年するとパリ大学などに留学する。英語でトラウマを持ったから、他の外国語でリベンジする。そういう人の敗者復活戦の機会を狭めるのはよくない。効率性ばかり追求するのは、心の逃げ場をなくすばかりだと思います。

そうかと思うと、ある大学などは「ウチは国際性がウリだから」と、第二外国語を必修のままにすると新聞紙上で宣言していた。これは英断だと思っていたら、そこの院生から意外なことを聞きました。たしかに第二外国語は必修だけど、その科目も自由に変更できるのだとか。だから、最初の学期にフランス語をとった人が、次の学期に別な語学に変えてもいい。

すると、どうなるか? 初歩の科目の方が断然単位を取りやすいから、学生は皆学期ごとに言語を変える。一学期はフランス語初級、二学期はアラビア語初級、次の年はドイツ語初級、その次は中国語初級、と言った具合。結局、何もモノにならないで終わる。「第二外国語必修」と言ったって、これじゃほとんど実質がない。かつての制度をさらに改悪する結果になっている。

「必修」と言うからには、大学側がある程度学生が学習するような環境を整えなくてはならないし、ちゃんと制度設計すべきだと思う。それをこんな抜け道だらけにしてしまうのは、怠慢としか言いようがない。これが日本のトップランクの大学だというのだから、驚愕の実態です。その院生は「私に子供が出来たらこの大学には通わせたくない」と言う。すごいですね。

日本ではいろいろ教育改革が言われるけど、こういう実質部分にはほとんど注目されない。大学は産業界との結びつきに汲々とするばかりで、まともに学生を勉強させようという理念に欠ける。学生はたんなる授業料の運び手となり、それを集めるために「国際性」だとか「情報」だとか、曖昧なムードだけ流通させる。大学をこういう詐欺まがいの商売に追い込んだのは、最近の経済界主導の「教育改革」だと思うのですが、いかがでしょうか?

5/18

要約力の危機?

この頃、とくに思うのだけど、人々の理解力が低くなっている感じがします。というのか、理解の幅が極端に狭くなっているために、判断が快/不快あるいはすっきり/すっきりしないという体感的レベルに縮小している感じがする。たとえば、昨日は、さる予備校で慶応大学の小論文を教えたのだけど、生徒が出してきた答案を見てびっくり。ほとんどの人が、課題文で何が言われているのか、まったく理解できていないのです。

内容は日本の時事。日本が加害者、中国・韓国は被害者という図式を我々は受け入れるべきか否かというシンプルな問題です。筆者は、その図式が歴史的に真実でなかったとしても受け入れるべきだと結論しています。なぜなら、その図式を受け入れることでしか、戦後の社会秩序は保てなかったからだというのです。その戦後の秩序を現在我々が享受しているのだから、その繁栄の元となった図式も受け入れるべきだというわけ。

これを説明するために、筆者は政治的正義/法的真実と歴史的真実という区分けをしている。つまり、前者は事実がどうあろうと、社会秩序が守られるために行われる処理であり、絶対的真実がどうであったかを探求する歴史/科学とは違うというのです。東京裁判という戦後処理は、政治的正義であり、歴史的真実に基づくものではない。その意味で、歴史的真実としては違うと思っても、日本人は政治的正義として東京裁判の考え方を受け入れるべきだと結論づける。

たしかに、ちょっと複雑な議論かもしれない。筆者は日本人にわだかまる「日本は韓国でそんなに悪いことばかりしたのか?」「中国側が言うほど、南京大虐殺で犠牲者が出たのか?」というような不満に一定の理解を示している。その一方で、日本が加害者、中国・韓国は被害者という図式を政治的には受け入れろと言う。一筋縄ではいかない、感情的にはすっきりしない議論です。

それを乗り越えるのは、法的真実と歴史的真実という概念的区別です。実際、裁判や法律では真実など明らかに出来なません。それを象徴するのが「司法取引」という考え方かもしれませんね。被告と検察がむやみに事実関係を争わず、一定の妥協をすることですみやかに社会秩序を回復する。つまり、法で言う「真実」とは、事実がどうであったか、を争うものではなく、罪に対応する罰を決めることで、それまでの秩序の混乱を収拾する作業なのです。

この制度がないせいか、日本ではこのアイディアがなかなか根付かない。「真実を求める」ために延々と裁判を引き延ばし、20年以上もたって判決が出りする。たとえ無罪でも被告の利益にならない。それくらいなら、いっそある程度罪を認めて服役した方が個人にとっても社会にとっても害が少ない。この間の沖縄の少女暴行事件の判決など、その典型ですね。

私が生徒に「この考え方をどう思うか?」と聞いたら「反対です」と答えました。なぜなら、「それでは本当の解決にはならないから」。では、本当の解決とは何か? 「分からないけど、でも本当の解決になっていないと思うんです」じゃあ、どうしろって言うの? 「本当の解決をするように努力すべきだと思います」では、本当の解決とは何か? 「分からないけど…」

これでは、堂々巡りになってしまう。しかも特徴的なのは、その堂々巡りをちっともまずいと思っていないこと。いつまでも、自分の感情=割り切れなさにこだわり、「すっきりしたい」ということに固執する。自分の快不快と関係のない中立的・客観的な原理に立つという発想がない。だから、この課題文が理解できない。

もちろん、私は課題文の筆者の言うことが正しいとは必ずしも思わない。法的真実だから受け入れるというロジックなど、きっと「反日」を叫ぶ韓国・中国の人には通用しないでしょう。だつて、そういう人は、自分の主張が歴史的真実だと心から信じているはずだからです。だから、日本人が東京裁判を仕方なく認めたとしても、「それでは反省が足りない!」とさらに批判するに決まっているからです。しかし、それでも日韓中の感情的対立を何とか妥協させようと、こういう概念装置を提唱した筆者の努力は評価すべきだと思うのです。

問題は、そういう努力が「面倒だ」「理屈っぽい」「分かりにくい」とあっさりと拒否されてしまうことです。「もっと速く手軽にすっきりさせる方法がほしい」と言うわけ。でも「それは何だ?」と聞くと分からないという。「でも、あるはずです」。あるのだろうか? 「そういう方法を見つけられないのが悪いんです」。それは誰?「政府とか…」「どこか違う」と思ったら、「では、どうすべきか?」について探求するのが努めだと思うのですが、それは誰か別の人の仕事だと思っているのでしょう。 

でも、こういう議論に進むのはまだましな方。大部分はそもそも要約で何をするのかさえ、自覚していない。たとえば、大部分の生徒は、要約というとまず課題文の第一行を書き写すことから始まる。イントロなんて、読者の興味を引きつけるための単なるフックに過ぎないのに。これじゃ自由意志を持った人間の所業じゃない。刷り込みで動くパブロフの犬みたいなものです。「動物化」ということは、この頃いろいろなところで言われたけれど、こんな状態を見ると、たしかに日本人は動物化しているのかもしれない。

そういえば、最近の慶応大学の小論文は要約力を重視しています。たとえば文学部の一昨年の問題などは、400字2題というのは同じなのですが、2題とも「まとめよ」という要約問題。前だったら、問1は「まとめよ」なのですが、問2は「あなたの考えを述べよ」だったはず。ところが、昨日扱った問題は2007年度の法学部の問題ですが、これは制限字数1000字のうち500字を使って「まとめよ」と言うのです。

これが、かなり異常な指定であることが分かるでしょうか? たしかに、小論文では課題文を要約してから自分の意見を言うのが基本ですが、本質は意見文なのですから、要約はさっさと切り上げて、主たる内容である意見をくわしく書くのが理の当然です。それなのに、わざわざ要約が全体の半分の分量を占めるようにさせるというのは、大学側の明らかな意志が働いているとしか思えない。要約力が極端に落ちていると危機感を持ち、それを強化しろと受験生にせっせとメッセージを送っていると思うのです。

たしかに現在の惨状を見ると、この危機感は正しい。「思考力の必要」とか「発信力」と言われたけれど、もっと事態は悪化している。むしろ「理解力の必要」「受信力」が急務になっていると思うのです。

5/6

教育論議の不思議

日本で行われる教育論議はどうして初等教育レベルばかりが多いのか、と思います。今日も新聞を見ていたら、小学校二年生から辞書を引かせるという教育法を説いた本が売れているとか。何をバカ言っているんだろうね。

小学校の低学年なんか辞書を引く必要はない。私ははっきりそう思う。それより、言葉の意味について、直接教師や親から聞くことが大切だ。誰かが言っていたと思うけど、言葉を話すとは、言葉を話したときの身体をなぞることだからです。

これは英語の習得過程を考えれば直ぐ分かる。私は始めてNew Yorkに行ったとき、I wonder if...という言葉の用法に始めて触れました。私がある芝居を見に行きたいと行ったら、知り合いの日本人が劇場に電話をかけてくれたのです。「チケットはまだあるかナー」と言うところを“I wonder if...”と言い始めたのです。ああこういう感じか、と瞬時にその感じがピーンと来た。以後、私は電話で何が聞くとき、彼の言い方をいつも思い出す。“I wonder if...”と言わないときでも、「そういう言い方もあるんだよな」と頭の片隅に残っている。

日本語も同じではないでしょうか? ある言葉は、それが使われるぴったりの文脈があり、びったりの声調がある。それに出会えれば上手く使えるし、そうでなければその言葉に疎遠なまま。その最初の経験は辞書で引く意味ではない。むしろ、文脈と声調と身振りが混然となったまるごとの経験なのです。

小学校レベルで受け取るべきは、そういう根源的な言葉と身体と文脈が融合したような経験であって、辞書などという二次的な情報ではない。それを与えるのは、教師と友人と家庭なのです。それを「小学校二年生から辞書を引かせる」とは? バカも休み休み言ってほしい。

これに限らないけど、日本の教育談義は、何かというと小学校レベルに集中しがちです。中学校になってしまうと、とたんに「心の闇」になってしまう。これは大人の怠慢の表れだと思う。小学校レベルなら、相手から文句を言われないから、好き勝手言えるとでも思っているのだろう。

私に言わせれば、日本の初等教育のレベルはもう十分だと思う。その結果は、文盲率の低さで証明されている。むしろ遅れているのは、高等教育・成人教育。私は、大学院はアメリカの学校に行ったのだが、本当によかったと思う。学生の学習意欲の高さ、教師の熱心さ、システマティックなカリキュラムなど、日本の大学の比ではない。「学ぶ喜び」という感情を味わえたのは本当に貴重な経験だった。

ところが、日本の大学システムと来たら、私は一応名門といわれる大学に行ったはずなのに、学生の学習意欲は低いし、教師の言うことは信じられないし、カリキュラムはいい加減だし、と三重苦の世界。呆れ果てた。結局、大学で何を学んだか、未だにハッキリしない。

これは外国人がよく言う「日本の権威主義」と関係があるんじゃないかな。私の経験する限り、アメリカの教師は必ずしも学生と意見が一致しなくても、何らかの有益な刺激を与えてくれる人が多い。しかし、日本の教師は、学生に自分の考え方を押しつけようとする傾向が強い。その限りではすごく熱心。しかし、自分と違う考え方を持つ学生に対しては、ほったらかし。

自分の違う人間であっても、その自立性を認めて、それなりに向上させるというのが、高等教育の本質だと思います。それは、自分と同等の存在に対する公平な態度です。日本で教育というと高等教育が言及されないで、自分よりずっと下の存在を支配する初等教育ばかりになってしまのは、こういうリベラルな態度の方法論が根付いていないからでしょうね。

つまり、それは支配/被支配という二分法以外の他人への対し方を知らないということですね。同等の権利を持つ間のフェアな関係ではなく、つねにアンフェアを前提にして画策するしかない関係。あるいは、両方が大人としてつきあうのではなく、片一方が子供になって保護されるしかない関係。

こういう関係を脱しない限り、日本では「高等教育」あるいは「成人教育」なんて思想は根付かない。せいぜいがアジアから優秀な人材を引っ張ってくる、というようなご都合主義の発想しか生まれないのだと思います。その意味では、ボカボは、充実した「成人教育」を進める機関として、日本では前人未踏の領域に達しつつあるのかもしれませんね。

さて、法科大学院適性試験準備もいよいよ大詰め。5/17から「適性試験リアル・サポート」も始まります。疑問部分をクリアにする最後の機会といってもいいですね。何度練習しても、今ひとつ確信が持てないところを、講師に遠慮なくぶつけてみてください。きっと、納得のいくアドバイスが得られるはずです。

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