2008年6月

6/29

夏の雪かき

この前の岩手県地震は大変でしたね。私の祖父の家が一関市にあるので、どうなったかと思ったのですが、一関一高の鈴木先生が無事を確かめてくれました。もう誰も住んでいないのですが、とりあえず建ってはいるみたいで、ホッとしました。地震が発生したので、さっそく鈴木先生にお見舞いのメールをしたのですが、その後、わざわざ祖父の家の様子も見に行ってくれたのです。写真まで撮って送ってくれました。まさに気配りの人。感謝感激。こういう方がいると、地震も怖くない?

この先生は、私が冬に高校の講演に行くと、歓迎会の後に夜遅くまでつきあってくれ、次の日の朝には一人早く起きて、雪かきをして前夜の分をダイエットする、という方です。前回に書いたけど、内田樹によれば、雪かきとは「誰にも感謝されないけど、誰かがやらなきゃいけない仕事」です。でも鈴木先生によれば、その反対。社会で一番評価されるのは、雪が降った後、いの一番に起きて雪かきをする人、だそうです。こういうまっすぐな考え方はいいですね。私は寝坊なので、つい人が雪かきした後を歩く人になりがち。猛省しなきゃいけないですね。

さて、法科大学院適性試験も終わって、これから二ヶ月はボカボは一年で一番ホットな季節を迎えます。志望理由書・小論文など、添削依頼がどっさり来る。それを一つ一つ片付けていく。日本の教育の中で一番ないがしろにされている「書く能力」をこういう機会に一気に向上させなきゃいけない。めちゃくちゃ時間は短いけど、日本の矛盾を一気に背負っているかと思うと、使命感に燃えちゃうところもあります。いわば、夏の雪かき作業かな?

適性試験の平均点は57点そこそこ。去年より大幅に下がりました。だから「失敗した」なんて思う必要はまったくない、みんな悪いんですから。そういうわけで、これからが頑張りどころです。今まで弱かったところを集中的にレベル・アップする。泥縄でも何でも、努力した者が勝ち。あれ、そういう意味ではロー・スクール受験生も雪かきの時期なのかもしれませんね。

6/22

雪かきとしての添削

6月になって、また少しずつ高校の講演が増えてきました。昨日は長野県Y高校。毎年、講演に行っているのですが、今回は事前に課題を出しておいて、3年生全員の添削をして、それを元に講演するという方式です。300通近くもあるので、当然私だけではできず、ボカボの添削スタッフ全員集合。添削方法・評価方法を厳密に指定して、いざ出陣という感じになりました。皆、とても丁寧な仕事をしてくれたおかげで、講演は大盛況でした。

いつも思うんですけど、日本では添削という作業が過小評価されていると思います。個人個人に合わせて、その悪いところを指摘し、さらにはこうすればよくなる、という指摘をするところまで期待されるのですから、原理原則が分かっているだけでなく、その適用のタイミングまで測らねばならない。その意味で、けっこう高度な技術が必要だと思うのですが、なぜだか添削料が低い。

添削業務をやっている出版社に聞いてみると、添削をやっているのは家庭の主婦や塾経営者などが多く、「社会貢献したい」「副業として今の収入をちょっと補えればいい」という動機なので、つい低めになってしまうのだそうです。価格競争も激しいので、添削料は下に張り付いたまま。

さらにビジネスとしても添削は期待できないとか。一人一人に対応するので、どうしても労働集約的になり、お客さんが多くなったらコストも上がる。当然利益は出にくい。もっとマルチプルにできることじゃないと、ビジネスにならないそうです。うーむ、大変ですね。

内田樹は「面倒だけど誰かがやらなければこの社会が成り立たない仕事」の代表として「雪かき」をあげています(『村上春樹にご用心』)。雪が降ったら、ちゃんと雪かきしておかないと、滑ってけがをする人が出る。だから雪かきをする。しかし、それをしたからといって別に感謝されない。ただ無視される。それでも、誰かがそれを担当せねば、社会は回っていかない。だから、そういう仕事をする人は価値があるのだとか。

たしかに言っていることは正しいかもしれないけど、こういう比喩を使うなんて、いかにも関東以南に生活拠点を持つ人ですね。たまにしか雪が降らないから、雪かきはめったに行われず、仕事としての評価も低いのです。東北ではしょっちゅう雪が降るから、雪かきは社会的インフラを保全する必死の作業です。それをしなかったら、隣近所から白い目で見られるし、村八分にも会う。だから、行政もけっこう予算をかけて雪かきする。

この差はどこにあるか? 頻度と重要度でしょうね。たまにしか雪が降らないなら、雪かきしてもありがたみはないし、すぐ忘れられる。しょっちゅう降るなら、イヤかもしれないけど、とにかく時間とお金をかけてやらなければならない。合理的なやり方も考えなければならないし、それを専門に担当する人々も出てくる。

もしかしたら添削も同じかも知れません。今までは、子供が多かったから、集団教育が主で一人一人を評価するなど論外。ときたま出てくるのをとにかく何とかやっつける程度だった。当然、添削料だって認められない。私が昔教えていた予備校の小論文の授業など、40人も生徒がいて、毎回添削をしなきゃいけなかったのに、「それは業務の一部」という位置づけで一銭も出ない。だから、皆小論文の担当をいやがった。東京の雪かきだったわけですね。

そのうちに、そのいやがられる仕事を講師が担当せずに、下請けに出すようになった。とたんに添削の質が落ちた。採点基準を出せばいいことになったけど、基準を出してもなかなか思うように添削してくれない。生徒からのクレームが増える。あまりのひどさに下請けに出す添削料をくれれば自分でやるから、と申し出たら却下。「講師と下請けでは報酬体系が違う」からだそうです。

でも、子供の数が少なくなって、一人一人の面倒を見なきゃいけなくなると、東京式の雪かきでは早晩やってられなくなる。結局、皆の互助活動で何とかするか、専門に担当する人が出てくるか、しなきゃならない。そこで急にコストや予算が発生するわけです。結局、仕事ってこういう風にして出てくるものなのですね。頻度と重要度が少ないときは、篤志家か弱者が担当して「ないもの」とされる。でも、頻度と重要度が増すと、社会的コストとして認められて、「適切な報酬」が発生して、ビジネスとなる。

添削も、そのような途中のプロセスにあるのかも知れません。願わくは、地球の寒冷化が進行しますことを。そうすれば、「雪かき」が上記のような比喩に使われることもなくなるでしょう。

6/11

自殺と他殺の間

秋葉原の通り魔事件は衝撃的でした。でも、衝撃的なのは別に死傷者が多かったからではありません。最近の社会の傾向がますます明確になってきたからです。

それは、自殺的あるいは自罰的殺人です。仙台の商店街で暴走した男も、大阪の小学校で児童殺傷した男も、岡山駅で乗客を突き落とした少年も、今度の秋葉原の犯人も「殺すのは誰でもよかった」と発言している。「殺人をして死刑になりたかった」とも言う。この一致はすごい。こういう人々に対して、死刑にしてもほとんど無駄。だって「死刑になりたい」人に死刑を執行しても、その人の自殺願望の手助けをするだけに終わるからです。この頃、社会には「厳罰傾向」がはっきりしているけど、その無力が明らかになったと思うのです。

A新聞コラムでは「どの『誰』にも懸命な人生があり、大切な人がいることに思いが及ばない…他者への鈍感と、自己愛との途方もない落差にただ慄然とする」と糾弾しています。これは「快楽殺人」という見方でしょうね。「自己の欲望のままに殺す」というサディスティックな怪物を想定する。事件が起こると、必ずこういう見方をする人がいるんだよな。でも間違っていると思う。

むしろ、自分の命を捨てる覚悟があるから、他人の命も軽く考えるのです。今度の犯人も「自分なんかどうなってもいい」と自己愛がなくなっている。だから、他人の命を奪うのにも躊躇しない。実際、彼は何度も挫折を経験しているようです。家庭問題、進学失敗、不安定な職場、孤独な人生、状況は悲惨の限り。誰も彼を尊重しない。生きるに値しない人生。こんな生き方しかできなかった自分。それを罰するために犯罪を実行する。捕まって死刑になればいい。

こういう犯行を「自己愛」として捉える発言の背後には、そう言っている自分が自己愛を実現しつつ生きていられていること、つまり「懸命」に生きられていること、「大切な人」を持つことができたこと、への自省が欠けている。だから、懸命という充実感がない、「大切な人」がどこにもいない、自分が誰の「大切な人」でもない、という絶望に感覚が働かないのです。他人の生を尊重せよと陳腐な説教で片付けて、自分は安全なところにいる。そういう恵まれた状況をまず顧みるべきではないのか? 「罪なき者、まず石を投げよ」です。

もちろん、私は犯人を擁護しているわけではない。何の関係もないのに、命を奪われた人は本当にお気の毒だと思います。その遺族感情を考えれば極刑も当然でしょう。でも、それが何の解決になるのか、「死刑になりたい」という絶望的な希望をかなえてやることが我々のできる唯一のことなのか? それがしてやれることだとするなら、犯人の敷いたレールに我々がはまっているだけです。大団円としてあまりにも情けなくはないでしょうか?

深夜にロベール・ブレッソンの映画『掏摸(すり)』をやっていました。貧しさから「すり」になる青年の話。簡潔で美しい映画です。「世の中には特別な人がいる。そういう人は法を犯しても構わない」と主人公は言う。貧しさの中でも、毅然と自己を保つ。50年前には、こういう人間像が自我の姿として主流だったんですね。その堅固さにため息が出ました。もちろん「特別な人」とは自分のこと。ドストエフスキー『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフと同じですね。

こういうように「特別な自分」を素直に信じられる人間を自己愛的人間というのです。しかし、このくっきりした在り方を今度の事件に適用できるとは思えません。むしろ、だれでもいい自分、どうでもいい自分という悪循環の中で犯罪が化学反応のように析出される。何ともやりきれない感じですね。

このコラムの筆者の方を自己愛的だと感じてしまうのは私だけでしょうか? コラムを使って、実に「のびのび」と自己表現している。たとえば、「南北にゆったり流れる人並みを西から東へと殺意が切り裂いた」なんて表現は、方角尽くしを使って遊んでいる。気の利いた文章になったと喜んでいるのでしょうが、ちょっと場所柄をわきまえるべきだと思う。

新聞という公共の場でちゃちな自己表現をするな。むしろ考えるべきは、自分が書いた「『誰』にも懸命な人生があり、大切な人がいる」という前提自体、この世界では崩れかかっていること、自分のような恵まれた立場を使ってそういう絶望を何とかすべきであること、ではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

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