2008年8月

8/24

オリンピックと社会変化

オリンピックで野球が4位になった。昨日の韓国戦で負けたことで、たぶん今日も負けるだろうと予測していました。それを三日坊主で予言しようと思っていたのだが、忙しさにかまけている内に、あっという間に三位決定戦。あまりにも予想とぴったりの結果だったので……うーむ、早く書けばよかった。

それにしても、今度のオリンピックは、日本のマスコミが煽ったイメージがことごとくはずれた、という意味で大きな意味があると思います。マラソン、柔ちゃん、野球、サッカー、福原愛、オグシオ、室伏など(競技名と個人がメチャクチャだけど、それがマスコミの取り上げ方でもある)、マスコミが事前に注目して大騒ぎした種目・選手ほどうまくいかなかった。

その代わり、フェンシング、競歩、陸上リレー、ソフトボール、カヌーなど、マスコミが全然取り上げなかった部門でメダルや入賞が相次いだ。フェンシングも意外でしたね。西洋剣術かな?なんて感じで、全然ポピュラリティがない。今度の大会は強化費をたった6,000万円しかもらっていない。それを惜しげもなく使って、選手を合宿させて、この成果を出したのだとか。女子も入賞したはず。それに比べて、野球とかマラソンとか強化費は桁違いだったにもかかわらず、何の結果も出なかった。この見込み違いはすごいね。

カヌーの入賞選手は、実は私の友人の娘さん。本人には一度もあったことはないのだけど、お母さんはよく知っています。あそこは家族の感じが普通とちょっ違う。お父さんが仕事で一生懸命というタイプではなく、とても家庭的で娘を川に連れて行ってよく遊ばせた。その結果が入賞。周囲はお父さんがあまり働かないとか、いろいろ言っていたらしいけど、こうなってみるとオリンピックに入賞する娘を育てたのが彼の仕事だったのでしょうね。人生の余裕です。

こうしてみると、今度のオリンピックの結果は、日本の社会変化や産業転換の構図とぴったり合っていないだろうか? 今まで社会的に注目され、大きく投資されていた社会システムや産業がだんだんうまくいかなくなり、今までお金をかけられていなかったものの方に可能性が出てきた。メーカーから情報産業へ、会社から個人経営へ、性別役割分業から自立した個人へ、という流れかな? だとすると、スポーツだけでなくビジネス投資も家族もお金の流れや気持ちの入れ方を変えた方が良いのでは?

野球なんてとくにそういう比喩が成り立つと思う。野球は日本の会社システムの隠喩そのものです。細かいサインとか作戦とかに凝ってばかりいて、ちっとも躍動感がない。baseballとは異質の組織原理。監督の命令一下、手足のように動く。ベテランになると、選手も何だかメタボリック症候群みたいになって、とても運動選手には見えない。それでもスポーツ新聞では大きく取り上げられ、スター扱いされる。それが、世界的にはまったく競争力がないということが分かった。

そもそも、野球は北京大会に出るために去年末にアジア予選を行ったのだけど、その参加国が四つだけ。日本は一位になったけど、そのうち三つの日本、台湾、韓国が北京大会に行って、落ちたのがフィリピンだけらしい。これってそもそも予選の意味があるのだろうか? 形だけ整えて騒いでいるだけ。ロンドン大会から正式種目でなくなるのも当たり前だね。ちょっとこれはひどいね。

この頃のTVが内輪受けのギャグばかりで盛り上がっているように、日本のスポーツ界も内輪でワアワア言って盛り上げているだけで、実はちゃんと世界と競争するつもりはないのかもしれない。マスコミも現実を直視できず、一時的に皆を楽しませるだけ。スポーツの大本営発表みたいなものかな。バカにされるのも当然だね。

「目覚めよと呼ぶ声あり」ってバッハのカンタータがあったけど(そういえばオリンピックの第2〜4回大会にはスポーツと共に絵画と彫刻と音楽が競技種目としてあったんだって。だから、メダルを取った選手の最高齢は絵画で73歳らしい)、スポーツ界もマスコミも聞く耳持たないだろうね。こんな詐欺まがいを繰り返しているうちに、韓国が言っているように、あっというまに「日本沈没」となったりしてね。ありゃりゃ、また変な予言になっちゃった。これが実現してもらっちゃ困るので、もうオリンピックのTVは消した方が良いかもしれない。でも、今日がもう最終日でしたっけ?

8/20

君はどんなイデアを幻視する?

今週は月から金まで代ゼミの夏期講習の第一時限目9:00AMから「慶応大小論文」の授業。金土日は「夏のプチゼミ」と「夏のセミナー」さらに金曜日は長野県の高校で毎年行っている講演。猛暑なのに、あまりにも忙しいよー。

「夏のセミナー」では、入試が迫っているので、中央大学ロースクール2007年の「文系/理系」の区別の問題をやりました。簡単な問題だと思うけど、実は大紛糾。進行のS君が苦労したようです。聞いてみると、トラブルの原因は簡単。「…について筆者はどう述べているか説明せよ」という問題を「要約」と参加者が皆見誤ったためです。中央大学の小論文設問の文面はけっこういい加減で、この設問も、まったく要約ではないのがミソ。

だって、課題文を見てみると「…について」筆者は何も決定的なことを言っていないからです。「問題である」と疑問として放り出しているだけ。だから、筆者が述べていることを材料にして、自分がかなり内容を補って、ストーリーを完成させなきゃならない。言うならば、ピースの数が極端に不足したジグソーパズルのようなものです。ある意味で、その破片から「十人十色」の解答が引き出せる。しかし、それでも完全な間違い、かなりの間違い、まあまあの正解、文句なしの正解などいろいろなレベルの解答も出てくる、というちょっと複雑な構造をしているのです。

この頃、入試制度が完備したせいだからだと思うけど、こういうアバウトな区別をよく分からない、あるいは許せない人が多いようです。正解か間違いか、どちらかだと思ってしまうのですね。二値論理の極み。そういえば。PCでもそうです。どこか一箇所小さな間違いがあると、全体が動かないということがしばしばある。

そういうとき、昔はどうしたか? 叩いたのです。どっかコツンと叩くと、機械は目を覚ましてウィーンと動き出す。TVだってそうでした。どっか叩くと、とりあえず画像の質が悪くなっても、映ることが多かったのです。ところが、今はそうではない。PCが動かなくなって叩いてもどうにもならない。どこかシステムエラーがあるに違いない…というわけで、細かい細かい詮索が始まる。

でも、このアナロジーで論理や議論を見るのは間違いです。世界とはそんなものではないからです。近頃は論理学というと、記号を使うのがほとんどだから、ついそう思ってしまうけど、はっきり言って違う! 細かいところが追い込み不足だって、全体として動くということはしばしばあるのです。というより、人間世界ではそういう場合がほとんどで、論理/議論も例外ではない。

どこが違うのか? 論理や議論は機械じゃないからです。それどころか、機械の動きにも人間は夢を見る。映画が1秒間に24コマの静止画からできているのは知っていますよね。だったら、どうして「動き」として感じられるのか? その1/24秒の間隙を脳が想像力で補っているからです。それと同じように、論理や議論もメカニズムではない。むしろ、ある点と点を補う脳の働きだ。動きは人間の方が創り出している。点がいくつか与えられれば、それが何を「意味」しているかを我々は積極的に創り出す。

だとしたら、ジグソーパズルのピースが足りなくったって、全体の絵のvisionは完成できるはずなのです。全部言っていなくたって、筆者の目指す大きな方向は分かる。うまく想像してやればいいからです。ただ、その完成のさせ方に上手い/下手がある。面白い絵とそうでない絵の違いがある。各ピースを上手く使ったストーリーと、見るからにたどたどしい並べ方がある。現実と論理の対応なんてそんなものだし、その違いを見分けられなければならない。

それを正解がたった一つ先験的に存在する、なんて思いこむのは、倒錯した観念にすぎない。理想やイデアを持つのは大切だけど、それがそのまま現実にあるなんて思うのは間違い。イデアのような理想世界があると脳の中で信じつつ、泥だらけの現実で格闘する。その中でちょっとでも良い形が見えてきたら、それは幸福な瞬間と考えねばならない。愛だって正義だって、そんなものではなかったのかな、ねえ君?

さて、「夏のセミナー」も「夏のプチゼミ」もそろそろ後半にさしかかりました。皆、どのような議論のイデアを幻視するのか? 「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」それとも…


8/13

実用のための弁証法

先週は何だか忙しい週でした。金土日とReal Schoolをやっていることもあるのですが、それ以外に個別コーチングはあるし、代ゼミの教員研修の全国放送に出るし、夏のセミナーの概説の補講はあるし、という状態でややへばってしまいました。

教員研修では、青森高校から沖縄普天間高校までの先生方が40人以上集まりました。代々木だけでこれだけいるのですから、仙台や札幌、福岡まで混ぜたら結構多いでしょうね。学校の先生相手だと資料を予習してくるので、いちいち「読んでください」の時間を取る必要がないので、サクサク進む。こういうところが学生相手と違います。

そんなわけで、思ったより早く進んで、小論文の基本構造から始まって、要約の仕方、課題文問題での主張の仕方、グラフ・データ問題の解法、弁証法の基本概念、ヴィジュアル問題へのアプローチプラス質疑応答まで、4時間半で一応サーベイ。小論文の概説としては最短記録です。

とくに弁証法については、研修で扱うのははじめて。互いに反対の意見が、実は共通の前提を持つことを指摘して、対立全体をひっくり返す鮮やかな論法です。これが高校教師用の小論文の講義でシステマティックに取り上げられたのは、おそらく本邦初!ではないかな?

実際、弁証法の適用できる範囲は意外に広い。この間も、田原総一朗が日曜にやっている政治討論番組で、秋葉原の殺人事件について櫻井よし子や東浩紀がコメントしていたけど、櫻井氏のコメントに仰天しました。「日本国憲法では自由と権利ばかり教えて、義務を教えていないから、こんな事件が起こる。即刻憲法を変えるべきだ」と言うのです。

保守派のアイドルと言ってもよい櫻井女史が、このレベルの認識だとは驚いちゃった。法律を学んだことがある人なら誰だって知っているけど、憲法は政府と人民の契約です。しかも、人民が政府に対して「これだけのことを守らなきゃ我々は支持しないよ」と要求して、それを政府が約束させられるもの。

だから、集会の自由にしても、信条の自由にしても、皆政府が守ることばかりで人民が守る条項はない。自由や権利ばかりで義務が少ないのは当たり前でしょう。それを言うに事欠いて「日本国憲法では自由と権利ばかり教えて」とは。義務ばかり書くような憲法など、そもそも憲法なわけないだろう。こういう人が評論家やっているんだから、困ったものです。

でも、それ以上にビックリなのは、憲法に対する万能視。憲法を変えれば、道徳も変わるし犯罪もなくなるだなんて、宗教や呪術じゃないんですから、そんなことありっこないでしょう。憲法を神様みたいにあがめ奉るのは、左翼の専売特許かと思っていたら、保守派の骨の髄にもしみこんでいるんですね。

思想・信条が現実を変える。だから、思想・信条をコントロールせよ、というわけ。観念論という意味では、共産主義・社会主義と変わりがない。結局、保守派なんてちっともリアリストではなかったのですね。つまり、左右の対立とか言うけれど、結局は同じ穴の狢。共産主義・社会主義者が政権を取った国は例外なく思想・信条を理由に大虐殺をやっているけど、きっと櫻井よし子たちの勢力が政権を取っても同じことが起こるに違いない…それをさせないのが「思想・信条の自由」という項目なのになー。

右か左か、という見かけの対立の下に、実は同じ前提が潜んでいることを見抜く。これが、つまり「弁証法感覚」というものです。実際、ハンナ・アレントは『全体主義の起源』の中でスターリンとヒトラーを同一視している。これが、虐殺を経験した人の「弁証法感覚」です。…てな話をすると、皆「ふーん」と納得したみたい。こういう授業で、少しその感覚を身につけてくれるとよいのですが、そう簡単にはいかないでしょうね。何度説明しても分からない、ということからしても、思想・信条が簡単に現実を変えないのは真実だと思います。


8/6

スカイ・クロラの分裂

話題のアニメ『スカイ・クロラ』を見ました。押井守監督の作品はかなり見ていると思う。前作の“Ghost in the Shell”のときにやや辛口の批評を書きました。で、今度は? やっぱり変わらないんだよね。

ます良い点は、絵が非常に綺麗なこと。人物以外のもの、とくに海や空、建物などは立体感だけでなく、その手触りまで分かるよう描きこまれている。私が感心したのは、煉瓦造りの壁の触感。おもわずシカゴ郊外の建物とあのほこりっぽい空気を思い出しました。この画力はすごいね。

悪い点は、ストーリー設定。キルドレと言われる成長も死にもしない子供たちが主人公なのだが、それが記憶と生の実感を失っていくというのが骨子。でも、これってちょっと古典的すぎる。永久に生きるのだから時間の観念がなくなるというのは、20年以上前のテーマ。

たとえば、精神医学者の木村敏は「人間は死ぬから時間を感じられるのだ」と言いました。もし、不死なら何も終わらないから、時間の意味はなくなり、やがて忘れられるであろう、と。だから、時間と死は一体の感覚なのです。だから、この設定は論理的にはO.K.。でもそれだけ。作品としての工夫がない。

とくに、その手抜きが分かるのが、後20分ほどで出てきた「謎解き」。こういうのは、主人公が自然に気づいていくってブロットにして欲しいのだが、そうなっていない。だから、仕方なく台詞でばらした。これはストーリー・テリングが粗雑すぎる典型例だと思う。

要するに、この作品はアニメーション技術とストーリーの拙劣さが同居している。技術がストーリーを変えていく、あるいは相互浸透して、「アニメ」独特の表現になるという域に達していない。実際、公式パンフでは「一瞬しか出てこない小物にもこだわる」と書いてあったけど、大きな物語の枠組みが出来ていないので、小物にこだわるしかないのかも知れない。コアなアニメ・ファンにはあぴーるするかもしれないけど、そこから普遍的な表現になっていないのだ。結局、ここがこの監督の限界なのかな? 

私がこの頃いいなと思っているアニメの監督は今敏です。去年『パプリカ』を見て、その表現の力業に驚倒したのだけど、この間『千年女優』をDVDで見て、やはりすごいと思った。大きな社会的テーマはなくて、比較的小品だと思うけど、現実と映画、時代のヴィジュアル・イメージが縦横に織り込まれ、随所で感覚を急カーブさせられるようなスリルがある。

他愛ない恋愛の思い出話が映画の一場面に一瞬になりかわり、またそれが女優という虚構の生のメタファーにすりかわる。その変わり身の早さが、各シーンを心地よいリズムでつなぐ。これは、アニメの技巧が物語の語り方にまで影響し、その語り方がまたアニメの技巧につながるという希有な例だと思う。

押井守の映画は、それに比べれば「今の若者に伝えたいことがある」なんて気張っているだけ無粋。だいたい社会的メッセージを込めるより、映画にはもっとすべきことがあるだろう。完成度を上げる、とかさ。その努力が絵の方にばかり行って、物語に行かない、というのが最大の欠陥。結局“Ghost in the Shell”と何も変わっていないのです。

もしかしたら、現代の日本の閉塞状況は、映画の内容にではなく、こういうところに現れているのかもしれません。それぞれの部門はすぐれたことをやっているのだけど、全体としてのグランドデザインがないから、ついディテールにばかりこだわる。そこに注目することはたやすいので、さらにこのトリヴィアリズムの傾向は肥大化する。

結局、私がこの映画から受け取ったメッセージは、「今の若者はよほど退屈しているんだろうな」ということぐらい。だから、不死の生とか、ショーとしての戦争なんてイメージにこだわるのでしょう。でも、こんな観念をもてあそぶのは単なる退廃。つまらない。

さて、ボカボの夏は退屈なんかしていられない。「夏のセミナー」が去年と同様に満杯になりました。「夏のプチゼミ」も去年よりバラエティ豊かなメンバーが集まった。そこで、「論理とは?」「議論とは?」などと白熱した討論が行われるのです。議論のグランドデザインにこだわる夏。『スカイ・クロラ』とは逆に、忘れられない記憶になるはずです。



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