2008年9月

9/30

教員の文章力は?

去年、「法科大学院 夏のセミナー」を受講した人から、ひさしぶりにメールが来て、「神奈川県の教員試験に合格しました」と報告がありました。法律家より、だんだん生徒を教えることに関心が向くようになって方向転換したのだそうです。「ボカボで勉強したおかげで、教育系の小論文でもスムーズに勉強することが出来ました」。よかったですね。

教員試験も最近は昔みたいにコネだけあれば合格というわけにはいかなくなって、人物や成績を見るなど、評価が厳しくなっているようです。小論文の比重も年々高くなっているらしい。大分県教員採用の例もあることだし、やっと日本の社会が公平に実力をみなきゃ、という傾向になりつつあるのかもしれません。これ自体は歓迎すべきことでしょう。

ところが、小論文対策をしようと彼女があれこれ本を買ってみると、あまりにもレベルがひどくて呆れたのだそうです。T書店の『合格の××』だとか、その筋では有名な本があるらしいのですが、解答例がまず信用できない。根拠は矛盾しているし、結論も表面的でとってつけたようだし、「こういう本でほかの受験生は勉強するのか…と思うととても悲しくなりました」だって。

せっかく実力を見ようという社会的機運になったのに、それをサポートする具体的な教育方法などが追いついていないわけです。試験官の顔色をうかがったり、おためごかしの形をとりあえず付けたり、などという表面的な方法論がまかり通っている。「ボカボで教員採用試験のための小論文とかやらないんですか? ぜひ新分野としてお考えいただきたい…」とのこと。

うーむ、そういうことは考えていなかったのですが、たしかに由々しき問題です。いろいろと教育論とか学んできているのに、採用試験のためにむちゃくちゃな書き方を学んでいるようでは、崇高な理念がちっとも活かされない。むしろ、理念を裏切るようなことを実践で学ぶという皮肉な結果になっている。「小論文で適性と人格を見る」というが、実態はお為ごかしとおべんちゃらと論理無視を一生懸命訓練しているわけですね。これを空気が読めると称している。これじゃ日本の教育は良くならないわけだ。

理念は立派でも、それを実現するための具体的手法が練られていないと、逆効果をもたらします。理念は信用されなくなり、現実は思いっきり姑息な方法がまかり通る。それが「大人になる」ということなら、たしかにあまりに悲しい。もう少し、自分がよいと思った理念を実現する方法を考えるべきだと思います。

ヘーゲルが言ったように、理念は現実的であり、現実的なものが理念であらねばならない。現実にならない理念など、気休めか幻想にすぎない。どこかの大臣で妙な教育論をぶって辞めさせられた人がいたけど、大上段な理屈で現実が変わると思っているのは、それだけで粗雑です。むしろ、ミクロレベルで努力する方法が必要なのです。

とくに、メチャクチャな文章をかげばいいと教わった教員がまた生徒を教えるわけですから、将来の文章力や思考力がどうなるか、考えるだに恐ろしい。根拠も出せず、結論も表面的、へつらいとステレオタイプが充満する文章しか書けない。そういう人が、卒業して会社に入り、会議で発言を求められて、有効な意見を言えるか? ロジカル・シンキングなんてほとんど悪い冗談でしょうね。むりに議論しようとすると、個人攻撃とか、ひどい場合にはイジメになっちゃう。「くさい臭いは元から立たねばダメ」と言うけど、この惨状の元は教員採用試験にあったのかもしれませんね。

もうすぐ「法科大学院 小論文Start Up!」と「法科大学院 適性試験Start Up!が始まります。もちろん、ここは表面だけ繕おうという傾向とは一線を画すつもり。上記の受講者の言うように、普遍的な方法を伝えることになる。その意味で、希有な教育をしているのだと思う。日本の将来のためにも、たくさんの人に来てもらいたいですね。まだ、残席がありますので、ぜひお申し込みはお早めに!


9/25

「個人情報」のイデオロギー

昨日、早稲田の法科大学院に合格したと、受講者がさっそく尋ねてきました。「ボカボには本当にお世話になりました」。早速コーヒーを入れて歓談。3時間近くも話が弾んでしまいました。

「志望理由書もボカボのアドバイスがなかったらきっと自分の思いばかりだったでしょう。添削の『一般化してください』というアドバイスに従って、何度も書き直して完成したときには、『そうだ、これこそ私の書きたかったものだ』という充実感で一杯でした。でも、添削されたものがなぜ『自分』と感じられるのか、不思議ですねー」

…実は皆同じことを言うのです。さんざん赤が入った志望理由書や小論文に「くそー」と思って書き直す。何回も書き直す内に、最初書いたものとは似ても似つかぬものになっていく。それでも、次第に「これこそ、自分の書きたかったものだ」という確信が深まる。つまり、人の手が入るごとに自分が自分らしくなっていくのです。

「そういえば、面接対策セミナーでも、皆の志望理由書の中身を開示して、皆でシェアしましたよね。あれが良かった。初めは、自分が隠したいような出来事を聞かれるのはどうかなー、と思ったけど、思い切って話してみたら、みんなちゃんと受け止めてくれる。すごく嬉しかったです。このことが本番での自信につながりました。」

…なるほど。私たちも、「面接対策セミナー」をやる前は、実はすごく心配して、志望理由書の中身を皆が聞く方式を希望しない人は個別にやってもいいと宣言しました。だけど、結局誰一人そういうオプションを選ぶ人はいなかった。すべての参加者が、自分の志望理由書の中身を皆の前でしゃべったのには、正直言って驚きました。

思うけど、この頃「個人情報」と言うキーワードが使われすぎだと思う。他人には知られたくない情報があっというまにネットに開示されることを怖れて、この頃は学校のクラスでさえも名簿を作らないとか。ボカボの受講者でも、頑として我々に住所や電話番号を開示しない人もいる。

でも、告白が聞いてくれる人がいるからなされるように、どんな秘密もそれを漏れ聞く人がいなければ「秘密」としての価値はない。「これは秘密だけどね…」と言って、他人に語るときは「秘密」は発生するという逆説的な構造をしている。語られなければ、ただ忘却されるだけ、あるいは「ない」も同然。

「個人情報」だって同じではないか? それが漏れる可能性を考えるから、価値があると思いこむ。しかし、本当に私の「個人情報」にはそんな価値があるのかしら? 開示したって、迷惑メールがちょっと多くなるくらいぐらいでは? 

価値あるオリジナリティなんて、そのまま個人の中に存在するものではない。それは他人との交流の中で、「他人が持っているもの」を知り、「まだ他人が持っていないもの」を模索することからしか出てこないのです。それが自然にある、と思いこむのが、そもそも間違い。

実際、小論文でも志望理由書でも自然に書いたものには、どこにもオリジナリティは出てこない。むしろ、どこかで見たような既視感のある文章ばかり。後生大事に抱え込むほどのものではない。むしろ、オリジナリティは他者から「この意見の何処が面白いのか?」と突っ込まれて、それを真摯に受け止めて悩み出すところから始まる。

ボカボの小論文セミナーでは、原則として参加者が書いた小論文は、添削も含めて全部コピーして全員に配る。名前つきだから、最初は度肝を抜かれる。でも、そうやってシェアすることで、自分の欠点も客観的に検証できるし、他人の答案への批評眼も養われる。

そういう意味で、「個人情報」というキーワードが広がることで私たちが失ったものは大きい。それは信頼感による生き生きした交流です。自分の中に守るべき価値/隠すべき宝物があると思いこむことで、その交流を失う。自然と発見もなくなる。

「信頼」とは、自分から贈与しないともらえない。リスクがあると知っていても、あえて内奥にあるものをさらけ出す。その反対給付として相手の信頼・同情・共感を得る。そういうプロセスではないのか?

もちろん、事実的にはどっちかが始めて、もう一人はそれにちゃっかり乗っただけということもあるかも知れないけど、そういう「抜け駆け」はいったん明確になると信頼を壊す。だから、どちらが贈与を始めたのか分からない、そういう起源の曖昧さの中にこそ信頼感は醸成される。

「個人情報」をかたくなに守ろうとする身振りは、信頼を拒否する身振りです。それに気づかず、自分の権利を守るだけだと思っている。「虚偽の社会意識」=イデオロギーとは、このことを言うのだと思う。顔が見える関係の中でこういう「不信」を出発点にすると、何倍もの「不信」となってはね返ってくる。「個人情報」の価値より、そちらのリスクの方を気にすべきでしょうね。

その意味で、ボカボの原則はたんなる試験対策ではない。参加者にとっては、根源的な信頼がなければ触れられない発見をする場なのです。ボカボのやっていることは、いつも「普通」からずれているのだけど、今度も激しくそうだったんだなー、と彼の嬉しそうな顔を見ながら思ったことでした。今回、たまたまうまく行かなかった人も、私たちの講座でそういう経験をしてくれていたらいいなと思います。

今度の「法科大学院 Start Up!講座」もぜひそういう経験にしたいと思っています。信頼感の上にしか、真摯な議論も思考も成り立たないからです。表面上はどんなに対立しているように見えても、底に共有するものがある。それは、どんなに紆余曲折があっても、おべんちゃらを言いながら底では相手を出し抜くことばかり考えている関係より、ずっと豊か。そう思いませんか? 

 

9/20

新・鎖国ムード

今週はリーマン・ショックで大変でした。知り合いにも一人リーマン社員がいて、入社当初は「おれより年収が高い」とお父さんが落ちこんでいたらしいけど、その栄耀栄華もあっという間。この破滅に突き進むスピードはすごいですね。経済学者たちは「さすがアメリカは処理が速い」などと相も変わらずぶっていたけど……

そもそもなんで経済学者は結局アメリカ礼賛になるのか? 春には「アメリカのファンダメンタルズはまだ強い」なんて言っており、今度は「日本に学んだから、アメリカの処理は迅速だ」だって。「ああいえばこういう」の繰り返し。どんな状況になってもアメリカ礼賛が結論なら、経済学者なんて楽なものだ。

実際、私の甥は今カリフォルニアのUCLAにいて、奨学金を受けているのだけど、奨学金が届かないので学費を払え、と大学側が言ってきたらしい。金が来たら返すから、ということらしい。それって「処理が速い」という美点なの? たんに金の計算で原則が全て変わる、という体質にすぎないのでは? 日本で、こんなことを大学がやったら、「教育機関がなんということをするのか?」とゴウゴウたる非難間違いなし。でも、それをやっちゃうのがアメリカ。そもそも経済学者たちは「金融危機」を訴えたブッシュの演説をちゃんと聴いたのか? 口調はふるえ、表情はおたおた。「処理が速い」なんて、ただ右往左往しているだけじゃないの? 

これに限らないけど、グローバル化で日本人に何か良いことがあったのかな? という疑問が湧いてしまう。たとえば、グローバル化に対応しようと、一時期、英語公用語の議論が盛んになって、小学生にも英語を教えるという体制になったけど、その結果はどうなるのか、ちゃんと予想した人がいるのだろうか? 英語を学ぶと世界に羽ばたける、というポジティヴ面だけが強調されたけど、ネガティヴ面もしっかりついてくると思う。日本で英語が通じるのなら、というわけで、同じ能力を持つ外国人が日本に押し寄せるからね。

良い例がステュワーデスとかパイロット。外国人が入ってきたために、給料はどんどん下がり続け、今や往時の数分の一になった所もあるらしい。。昔は、空港までタクシーで送迎という人もうらやむ仕事だったのにね。英語が通じれば十分ということになって、日本人という特質が通じなくなった。能力・資質があれば、誰でもいい。日本はまた経済的に豊かな国だから、そうでないところから高い給料を求めて、能力・資質がある人間がどっと押し寄せた。求人に対して応募人数は多いから、マクロ的に見て給料はどんどん下がった。当然の結末だよね。

英語が公用語化するということは、そういう分野があらゆる業種に広がるということです。今までは、日本人は日本人相手に競争していれば良かったけど、これからはその30倍以上の人数とサシで競争しなければならなくなる。しかも、そのほとんどの人は顔も知らない。選ばれるのは、その内の一人。給料は下がる。そんなキツイ状況にいつまで耐えられるのかしら?

私は中距離の人間関係が大切だと思う。家族のような近距離でもなく、地球規模の遠距離でもなく、アリストテレスが言ったような「ポリスの人間関係」。顔の見える中で言葉を交わし、議論を闘わせる。前に「だまされない〈議論力〉」にも書いたけど、議論というゲームにはたとえどんなに対立しあっているように見えても、基本的には信頼がある。信頼があるから、激しく対立も出来る。

でも、今のグローバリゼーションの状況は、眼に見えない世界システムに支配されているので、訳も分からず右往左往するだけとなる。だから、そんなシステムに左右されまいと自分に閉じこもったり、逆にそのシステムと一体化しようと「帝国」や「宇宙船地球号」あるいは「宇宙からの使命」を夢見たりする。これも「世の中が分かる○○主義の基礎知識」に書いたけどね。

10月から、「法科大学院 小論文Start Up!」と「法科大学院 適性試験Start Up!」が始まります。ここは毎年「中距離の人間関係」が成立する場になります。顔が見える中でワイワイ議論するから、対立しあっても孤立しない。反対意見は反対意見として受け入れられる場なのです。一人一人が参加できるから、結束度も満足度も高い。

他の学校では、講義で質問も許されないとか。ビデオを撮るので邪魔になるからだって……。とても驚きました。ここでも、システムの方が個人よりも優先されている。教育において、現場よりメデイアが優先されるなんて、とんでもない話だよね。ボカボはそんな中で孤軍奮闘しているけど、きっとこれが未来につながると信じています。

9/15

ひたむきさをシェアすること

まだ日中は暑いけど、その中にはっきりと涼しい風が混じる。蝉の声もしだいに鈴虫の声に変わってきました。ボカボの夏の講座も全て終わり、今度は10月からの「法科大学院 Start Up!」の準備。

思えば、今年の夏はいつもにも増して暑かった。ボカボもいつものLaw志望者の「法科大学院小論文 夏のセミナー」だけでなく、高校生向けの「大学入試 難関大小論文 夏のプチゼミ」も行い、WEB講座も人数が多かったので、てんやわんやでした。新しい優秀な添削スタッフがいたので、何とか乗り切ったけど……

そのおかげか、早稲田法科大学院の一次試験では、今年は受講者からかなりの人数が通り、その人たちと新しい人も交えて、9月の第一週には「法科大学院 面接対策ワークショップ」を行いました。初めての試みだから何人集まるのかナー、と心配だったけど、けっこう盛況で、これ以上来たら大変なところでした。

2分間スピーチと時事問題に関する質問、志望理由書に関する質問など。面接官役のスタッフから、受講者に対して容赦ない質問が浴びせられる。それを必死で切り返す受講者たち。途中で涙ぐむ人も…。それを周囲の人たちが固唾を飲んで見守る。つまり、たんに一人一人模擬面接をするというだけでなく、その面接を他の参加者も見守っていて、皆でシェアするわけです。

時事問題などは自分に出題された分だけでなく、他の人の問題も体験できる。もちろん、問題は一人一人全部違うから、問題を作る手間も大変だったのですが…。しかし、それより、他の人がどのように真剣に難局を切り抜けていくか、その勝負の雰囲気を体験できることが大きいよね。途中で皆を白黒させたり、脂汗を流していたりしたようだけど、まあこれだけやっておけば、試験場で落ち着いて答えられるよね。

…と言っているうちにもう早稲田Lawも中央Lawも二次が終わっている頃ですね。今年は、何人Law School合格者が出るのか、楽しみです。

そういえば「大学入試 難関大小論文 夏のプチゼミ」もバラエティ豊かでした。イギリス在住の高校生と首都圏の高校生、さらに40歳以上の東大博士課程志望者まで混じる始末。年齢差30歳以上。それが同じ部屋で同じ問題を解く。「いやあ、私が高校生の時にこんな授業受けていたら人生変わっていたね」。ポカンとする高校生たち。でも、議論が白熱するに従って、年齢差などどうでもよくなる。

この年長の志望者はとにかくエネルギッシュ。途中でディベートをやったのだけど、高校生たちの議論を迫力で圧倒。人生経験の差? それでも、後半は高校生たちも負けていないで、厳しい反論を出したりする。「楽しかったので、冬も是非来たい」というのがはじめて受講した高校生の弁。志望者の方は「夏のプチゼミ」の他に個別で面接対策もやり、研究計画書のアドバイスもし、個別で小論文対策もやり、夏の終わりにめでたく博士課程合格!「先生、私すっごく嬉しいです!」その顔は高校生と何も変わらない。

やはり「ひたむきさ」は大事ですね。年下の人と一緒にやるのはイヤだとか、体面を考えていたのでは、こういう結果は出ない。彼女は自分の弱いところを自覚し、こちらの提供する機会を最大限に利用し頑張った。課題を出すと、すぐ次の日には答案が返って来る。あわてて添削すると、また次の日にまた直してくる。だから、試験の前日「全力をふるったから、たとえ落ちても悔いはないです」と言いに来た。

現代ではいろいろ情報が出てくるので、その得失ばかり計算する傾向が強いけど、間違いだと思います。「これは損だよな」と手を抜くと、それは周囲にも分かり、微妙に結果にも影響を及ぼす。努力は確信を強め、確信はさらなる努力を生む。そういう良循環は手抜きをしていては得られないし、そのエネルギーだけが人を動かす。さらに、その充実感がその人のレベルを確実に上げる。

司法試験の結果が発表され、合格率が下がったと新聞で報じられました。とくに法科大学院未修者の合格率が去年より10%ほど下がったと言います。一部の法科大学院は役目を果たしていないとか、いろいろ言われる。でも、こういう統計数字だけに気を取られてはいけない。最初に70%なんてぶちあげたのが過大なだけで、法律未修者でも、前に比べたらずいぶん「広き門」になっている。社会人でも、法律系以外でも、法律家になれるという正式のルートが出来たことの意味は大きい。目の前の小さな得失で考えずに、自分の直観にしたがって大きな目標を定め、努力するというごく当たり前の姿勢に立ち戻るべきだと思う。

というわけで、秋の「法科大学院 小論文Start Up!。 次の年のロースクール入試のための講座なのですが、実は小論文は国公立志望の人がけっこう受講してくる。レベルも基本に戻りつつも、かなり高度なことをカバーする。高校生と博士課程志望者が一緒に受講し、双方ともに良い結果をもたらす、こういうのはボカボの大きな特徴。同様に、次の年の入試を目指す人と、直近の入試を目指す人が一緒に受講することの意味も大きい。

もちろん「法科大学院 適性試験Start Up!」も充実! これも単にやり方を一方的に伝授するだけではなく、顔を見合わせながら、一つ一つ方法を確認し、違う問題に応用していく。その作業を全員がシェアする。他人のぶつかっている問題を自分も共有することで、理解が深まる。今、私は新しい『法科大学院適性試験 攻略ブック』の原稿の真っ最中。その最新情報ももちろんシェアします。


9/2

熱い議論の夏

やっと「法科大学院 夏のセミナー」が終わり、恒例の「壮行会」も無事終了。早稲田・慶応・中央の各ロースクールの先輩たちも出席し、質問も活発でした。学士会館の荘厳な雰囲気の中、いやが上にも頑張ろうという気になります。

ビックリしたのは、去年の「夏のセミナー」受講生たちの顔がキラキラしていたこと。学期試験だとか、レポートだとかで大変な毎日でやつれているかと思いきや、「勉強が楽しくて仕方がない」と真顔で言うのです。「毎日新しいことが分かってうれしくて。この世の天国です」。

うーむ、この感じ分かるナー。私も大学院に入って、そう思ったものです。大学生時代は自分の学んでいることが何に役立つのか分からず、早く大学を出て、社会で自分の力を試したかった。でも、出てみるとつまらないことばかり。試しようがないどころか「お前は非常識だ」と言われるばかり。

社会に影響を与えるなんて、並大抵の事じゃない。もっと自分が成長して圧倒的な力をつけなきゃ、と思ったのが大学院進学のきっかけ。やってみると大変だったけど、メチャ充実していましたね。トイレの中でも電車の中でも、ほとんど本を読みっぱなし。夜は睡眠を削って、レポートを書く。夢の中でも、論文の表現を考える。

集中しているから、他のことは見えないし、見なくていい。そのときに経験したのは、日本の大学には見られなかった学問のスリリングさ。読む本の一つ一つ、書く文字の一つ一つがが自分の血になり肉になるという感じがひしひしと迫ってくる。雑事に悩まされず、一つの方向に全力を傾けているという意味では、たしかに幸福だし、「この世の天国」なのです。

ボカボのReal Schoolでは、このときの幸福を再現し、かつもっと高いところに行こうと努力しています。その試みは今のところうまく行っています。今年の「夏のセミナー」でも、毎回スタッフのリードのもとで、白熱した議論が繰り広げられる。毎回、予定時間を超えて熱い議論が闘わせる。終わっても、皆明日の議論のために夜遅くまで集う。

京都から毎週やってきた受講生も、「思い切ってやって来て良かった」そうです。彼女は毎週バスでやってきて、バスで帰る。宿泊場所はネットカフェ。土曜の夜を徹して宿題を書いて日曜朝早く寝て、午後の講義・演習に備える。頑張っているのだから、充実感があって平気だそうです。エライね。

天国とは、別に楽ちんなことではない。自分が精一杯やれているということ。そういう自分を全面的に肯定できる、ということなのです。周りから「ネットカフェ難民」と間違われても気にしない。崇高な目的のために献身している。その意味で、彼女も天国を経験できていたのかも知れない。

前に講義中質問が出来ない司法予備校のことを書いたけど、この傾向は大学受験予備校でもそういう習慣らしい。私は平気なので、大学受験予備校の授業中にも質問を募るのだけど、なかなか質問が出てこない。そのくせ、時間が終わるといろいろ聞きにやってくる。どうも教務課から「講義中は質問するな」という禁止令があったらしい。

でも、そのとき思った疑問を抑圧されるのは、すごく苦痛だし、講義が終わったら忘れてしまう。それに、ただただ知識を入れているだけではストレスがたまる一方。8月の金曜に開催した大学受験「夏のブチゼミ」では、私がいつも教えている予備校の生徒も出席していたのですが、問答形式で進んでいく授業に「疑問点がその場で解消されて、いつもと全然理解度が違う。勉強が楽しくて仕方ない。冬も絶対参加する」と言っていました。

そうかと思うと、W大学ロースクールに行っている旧受講生は、憲法で上位5位に入ったとか。彼はまったくの未修で、法律を本格的に学ぶのは今年が初めて。それでも、優秀な成績をおさめられたのは、全くボカボのおかげだと言います。「自分は未修だから知識はたいしてない。でも、それでも知識が豊富な既修者に負けないのは何故か? 知っているこことを分かりやすく書く技術・議論する技術をボカボで習っているからだ」と言うのです。

そういえば、去年法科大学院に行った未修受講生も憲法で最優秀を取ったと聞きました。「どこかで憲法を習ったのか?」と教授にわざわざ呼び出されたそうです。「知識はそれほどでなくても、ボカボで習ったことに留意すれば、成績は充分取れるようですよ」とすずしげに笑っていました。

これに限らないことだけど、現代では「情報が全て」と思いがちです。しかし、評価を決定するのは、情報の多寡ではない。むしろ、情報社会では情報を多く集めるのは簡単で、決め手にならない。むしろ、手に入れた情報をどれだけ矛盾なく整理し、具体的な出来事に適用できるか、にかかっている。それより大変なのは、集めた情報をどうスクリーニングするか。どう序列化するか、が問題なのです。その訓練が、日本では余りにも欠けている気がします。ボカボで習ったことが、ロースクールでそのまま適用可能であるとしたら、嬉しいことであると同時に、日本の高等教育の貧しさも証明している気がして、少々悲しい。

さて、この後は9/6, 7の「面接対策セミナー」があります。ボカボは文章訓練だけではない。oral な論理能力も磨きます。面接で半分落ちてしまうことを考えると、反対論も想定したガチンコ問答を経験しておくことは重要だと思います。数々のロースクール面接をかいくぐった俊秀若手講師が担当。予想問題も作りました。他の面接対策とはレベルが圧倒的に違うはずです。

さらに、10月の土日には「法科大学院 小論文Start Up!」も始まる。ネーミングは一見初級講座のようだけど、実は秋以降の国公立を受験する人も毎年半数程度は受講します。その意味で、レベルは相当なものですが、初級の人にも充分に役立つ。というより、小論文は様々なレベルの人が混ざる方が教育効果は高い。自分と異質な発想をする者への応答こそが議論と言うことの本質だからです。「法科大学院 適性試験Start Up!」は来年受験する人に必要な適性試験の基本とその応用までを徹底的に講義・演習します。乞うご期待。


Homeに戻る