2009年1月
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「どん底」のイメージ

「どん底の歌」というCDの看板が立っているのを見て、一挙に30年前の光景が蘇ってきました。横浜寿町の公園。周りには、むくつけき日雇い労働者たちが、酒瓶を片手にギラギラした眼でこちらをにらんでいる。負けじと私もウオツカをあおって、にらみ返す。いやー、怖かったナー。

何でそんなことになったか? その頃、私は演出家竹内?晴のところでスタッフをやっていたのですが、彼が「このグループでゴーリキーの『どん底』をやったらどうだ?」と言い出したのです。その頃、彼のまわりには、心理療法士や看護師、さらには教師、銀行家、学生、会社員など雑多な人間が集まっていた。時代の雰囲気もあったのか、皆これからどうやって生きていこうか、という不安と、何か手応えのあることをできないか、という気持ちに突き動かされていた。

ただ、いろいろレッスンをやって自分の身体とか対人関係の在り方とか気づいていくのはいいのだけど、それで何か決定的に変わるか、というと変わらない。とうとうしびれを切らしたのか、「芝居をやらんといけないのじゃないか」と竹内氏が言い出したのです。「俺は本質的に芝居屋だし、結局その方法でなければ突破できん」。素人の我々は、いったい何を言われているのやら、どう「突破」するのか、何が変わればいいのか、ぽかんとしたまま。でも竹内先生が言うのだから、とにかくやってみようということになった。

彼が選んだのはゴーリキーの『どん底』。ドヤで最底辺の生活をしている人々の物語。恋愛模様もないわけでもないが、皆とにかく逼迫している。金がない中で、互いに角突き合わせる。何とも陰鬱な芝居です。「どうせ、お前らも『どん底』にいるようなものだからさ」。面々はとりあえず文庫本『どん底』を読み、黒澤明の映画『どん底』を見て、おそるおそる稽古を始めたわけ。

私も役をもらって「サーチン」。昔、仲代達也がやったらしい。ほとんどアル中で、最終幕で「人間はすばらしいものなのだ」とチョー長い演説をする。「本当はお前は意地悪な家主役がぴったりなんだけどね…ま、いいか」と竹内氏。

予想通り、大演説がなかなか言えない。そもそも「人間!」という単語を発音すること自体恥ずかしい。「お前はプライドがあるから言えないんだ、酔っぱらいの戯言なんだから、もっとデタラメに言えばいいんだよ」とダメ出しが出る。でも、それが難しいんですよね。そもそもデタラメな酔っぱらいになるために一生懸命稽古するってどうやるんだ?

六ヶ月近くかかってもちっとも進展しない。「時間の無駄だから、もう止めようか」という声まで出たのだが、とにかく稽古場で数日間公演を行った。そしたら客が一晩で150人以上。素人芝居だからチョー大入り満員。びっしり入って立錐の余地もない。熱気もものすごい。しようがないから、私も汗をダラダラ流しながら、最終幕の「人間!」の大演説までとにかく必死につとめた。ちょっとだけ自分のしょーもない性格も変わるような期待も持てたし。

でも、これでとりあえず終わったなと思ったら、今度は、この『どん底』を横浜の寿町でやりたいと主張する奴が出てきた。寿町は日雇い労働者たちが集まる本物のドヤ街だぜ。そんなところで、我々が何かできるのか、芝居なんかやったら殴られるんじゃないか? 最初は震え上がりました。それでもおそるおそる打ち合わせに行ってみたら、やっぱり大変な迫力です。

たとえば、頭から血を流している男が広場でたき火に当たっている。昨晩ケンカしたらしい。その血が額からあごにかけて流れたまま固まっている。片手は股間をぼりぼりかいている。「仲良くしような」と平然とその手で握手しようとする。あるいは、寿町で活動しているボランティア・グループに、上演のことについて相談していると「お前ら何をグチャグチャやってんのや?」と酔っぱらいが乱入。それを止めようと蒼白になって立ち上がる人々。

乱入してきたのは、O氏というひげ面の元高校数学教師。止めに入ったのが、いつもロシア語の本を抱えている外語大学の元教授T(?)…というのだけど、これも本当だかどうだか。各人が勝手に「俺は教授だー」とか「元は宮様だー」とか名乗るので、それを信じるしかない。信じないと怒るし、アイデンティティなど混乱しっぱなし。…『どん底』のストーリー以上のメチャクチャさです。学生とか看護師とか、ささやかであっても、とにかく娑婆に職業を持っているニワカ役者にはとても太刀打ちできない。

でも、とにかく上演しました。まず公園を掃除して、そこに建築現場でよく使うイントレを建てる。麻袋を裂いて引っかける。塗料をぶっかける。ロシアの安宿を表現した装置のつもりです。準備していると、酒瓶を片手に男たちがのぞきに来る。イチャモンでもつけられるんじゃないかと思ったけど、遠巻きにしてじっと見ている。

照明の電源がないので、近くの電柱から盗電! かつて電気工事士だった人がスルスルと登って、あっという間に配線してくれました。照明が明々とつくと皆拍手! 役者が出てくるとまた拍手! 効果音が入るとまた拍手! ときどき訳が分からない怒声(?)も入り交じる。そんなわけで、通し稽古なんて気が散って出来るわけがない。出入りだけ確認して、ほとんどぶっつけ本番。

そのときの記憶は少ない。結構皆楽しんでいたのかもしれない。ストーリーや台詞を理解しているのかないのか、とにかく喝采あるいは怒鳴り声が来る。あまりのハイテンションに、私も素面じゃ太刀打ちできず、ウオツカを一瓶あおって登場! 大声を出して跳んではねて…とりあえず、酔っぱらい度ではO氏に負けないようにと…追い詰められると人間開き直って何とかするものです。「ニーンゲン!」の大デタラメ演説も寿町のときのが一番ちゃんとデタラメに言えた気がする。「はじめは寿町でこんな奴らが何が出来るのか、と思ったけど、けっこう出来たじゃないか」。竹内氏の言葉を聞いて、ドッと力が抜ける。

ハチャメチャな経験だったけど、今から振り返るとやって良かったと思います。とりあえず、自分達とは全然違ったものに出会って、自我を震撼させたたから。現代では、こういう異物というか他者というか異次元というか、そういうものに出会う経験が極端に少ない。「階層化」とか言って、自分と同じ世界にいる人、あるいはそれ以上の世界にいる人とばかりつきあおうとする傾向が強い。これでは、結局、自分の幻想やイメージを追っているだけになる。

その意味では、私にとって「どん底」は人間と人間がナマでぶつかる、というけっこう良いイメージなのです。「どん底の歌」というCDが売れるからには、またこういう時代が来るのかもしれない。豊かさの中で、何だか生きる意味がグズグズと曖昧になってきたこの30年に比べれば、貧乏かも知れないけど、集中して対立したりするものがあるだけ、なんぼか精神がシャキッとするような気がする。そういう楽天的なイメージを持つのは間違いなんでしょうかね?


1/21

私の読書癖…

年末から年始にかけて、資料あさりもかねて、いろいろな本を読みました。水村美苗『日本語が亡びるとき』については以前に書いたけど、その他、井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』浜井浩一『刑務所の風景』ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』Richard Rorty『Philosophy and Mirror of Nature』リービ英雄『英語で読む万葉集』古田博司『東アジアの〈反日〉トライアングル』『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』大澤真幸『不可能性の時代』湯浅誠『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』。こうしてみると、ほぼ二〜三日に一冊の割合かな。読み出すと止まらないんですね。

『イスラーム哲学の原像』はイスラム神秘哲学「存在一性論」についての講演をまとめたもの。絶対的な存在が展開して世界を作るという図式。タモリの空耳アワーではないけれど、読んでいると頭の中に後期ハイデガーの「存在からの贈り物」という言葉がリフレインする。言ってる言ってる…。著者の井筒俊彦は前にも一度凝ったことがあります。でも、28年間で8刷しかしていない。名著だと思うけど、28年待って増刷している書店をほめたい。

『Philosophy and Mirror of Nature』は才気煥発な哲学書。もう亡くなったアメリカ哲学の大御所であるRortyに向かって「才気煥発」は変だけど、読後感は正直そういう感じ。アメリカ分析哲学にヨーロッパ哲学をチャンプル(まぜこぜに)したような内容。クワイン、デイヴィットソンに並べて、サルトルが出てくるたりが面目躍如。無国籍料理というか、グローバル化というか、とりあえずアメリカ哲学に馴染みがない私にも比較的読みやすかった。ありがたいことです。

『読んでいない本について堂々と語る方法』はハウツー本的だが、実はフランス風エスプリと教養に満ちた傑作読書論。ムージルの『特性のない男』など渋い小説を引きながら、全ての本を読むのは不可能だし、むしろ読まない方がその本については語れる、大切なのは一つ一つの本の内容ではなく、それらが全体の中で占める位置づけだ、と論を進める。今書いている速読術の本で私が主張していることにも通じていて、かなり共感。水村美苗『日本語が亡びるとき』なども、大上段に日本語の危機など嘆かないで、これぐらいしゃれっ気があるともうちょっと趣味がいいのにね。

一方、『東アジアの〈反日〉トライアングル』は朝鮮研究者による東アジア評論。韓国と北朝鮮の歴史認識は結局自己正当化一辺倒で同じだとか、北朝鮮は中世国家、韓国はナショナリズム確立期なので、日本への批難はやまない、東アジアの連帯など幻想だと説く内容は刺激的。韓国の前政権がアメリカや日本より北朝鮮に肩入れするイデオロギー性を持っていたなど、思わず頷いてしまう。同じ著者が編集した『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』も、「焼肉は朝鮮が本場ではない」など韓国のウリナラ思想の逆を行って面白い。

『刑務所の風景』は犯罪学者によるレポート。近来の「厳罰傾向」によって、刑務所の人員収容率が過剰になった、高齢者・精神障害者など社会で生きられなくなった人々の収容施設になった、など冷静につづられる。面白いのは、著者が「冷静に伝えたい」と述べているのに、アマゾン読者評では「偏向している」とイデオロギー的反応が少なくないこと。ネットでの発言はこういうタイプが多いね。「刑務所は来る人を拒めない」というところがグッと来る。たしかに「能力がない人は市場から退出して欲しい」とネオリベは言うが、その人はどこに行くのか? 市場が社会・国家であるとすると、その先は「死」しかない。これだけでも市場原理主義が社会・国家の原理としておかしいことが分かる。

『反貧困』は、その市場原理主義の日本での帰結を活写した本。日本では、一度雇用や福祉からすべり落ちると、どこにも救済の引っかかりがなく、最底辺にまで落ちこんでしまう。「誰でもが同じように『がんばれる』わけでない。『がんばる』ためにはそれを可能にする条件がある」これを「溜め」capabilityと言う。失業しても貯金がある。しばらく我慢していると友人が新しい仕事を紹介してくれる。こういう貯金や友人が「溜め」。しかし、貧困ではこれがない人がほとんどであり、簡単に「自己責任」など言えないはずだと主張する。力強い文章。

ちょっと期待はずれだったのが『英語で読む万葉集』。英語の訳はなかなか面白いのに、それに付いている解説が鈍重。何を言いたいのか、よく分からない。もっとも、この著者の文章はいつもそんな感じがするんだけど。『不可能性の時代』も何だかなー。現代日本社会論なのだけど、見田宗介の社会意識論に従って解説している枠組みが受け入れられない。そういえば、見田さんのゼミは昔出席したことがあるのだけど、どうも肌が合わなかった。そもそも、秋葉原事件とかマスコミに載った事件を元にして社会を語る手法はミーハーすぎる。

ここで問題! この中で私が最後まで読んだ本はどれでしょう? 逆に途中で止めた本は? そもそもまったく読まなかった本はどれ? …ふーむ、バイヤールが言うように、たしかに本は読まなくても語れるようですね。

さて、受験シーズン真っ盛りです。ボカボも次々駆け込みの受験生がやって来る。読書は著者との対話ですが、それに習熟するにはやはり長い時間が必要です。でも、ボカボのリアルスクールでは、他の参加者と討論することで、その本質が短時間で身につけられます。なかなかエキサイティングな経験になるでしょう。



1/12

風邪と国民文学

三が日が終わったら風邪を引いてしまいました。最初はインフルエンザを疑ったのだけど、医者は「ただの風邪ですよ」とそっけない。「総合感冒薬とのどの炎症を止める薬だけで良い」というのですが、個別コーチングをこなす傍ら、高校での講演やそのための大量の添削、さらに資料作りなどと多忙を極めていたら、夜中に咳が止まらなくなった。あわてて次の朝医者に行く。すると「薬を変えましょう」と態度一変。今度は咳止めや抗生物質をさっと手渡す。そのうえ「不整脈があります。心臓のエコー検査をしましょう」。結局何ともないことが分かったのですが、なるほど病院とは「病気を生産する工場」だと実感した次第。

それにしても待ち時間が長い。私は問診と検査の間に本を二冊読み終えてしまいました。一つは水村美苗の『日本語が亡びるとき』、もう一つは大澤真幸『不可能性の時代』。それでも時間が余ったので、この頃凝っているRichard Rortyの“Contingency, irony, and solidarity”を読み進める。

水村さんの本は自分の半生を振り返りつつ、英語の覇権のために日本語がインテリの間で使われなくなる、そうすれば日本文学は滅びる、というエッセイ。「警世の書」だけあって、後半はほとんど悲鳴のよう。「どうしてもこれを書いておかねば」という必死の思いが伝わる。…でも、こういう発想は、いかにもアメリカで高等教育を受けた特徴が色濃く出ていて、それ特有の歪みが出ているような気がするのだけどね。

まず、元ネタがB.アンダーソンの『想像の共同体』というところから引っかかる。インドネシアを舞台にナショナリズムを論じた古典だから、アメリカの大学院生(とくに比較文学をやる場合)の必読文献。懐かしいナー、と思いつつ、だけど日本の文学者でこれを読んだことのある人がどれだけいるかな、と突っ込みたくなる。文学を論じるときの前提となっている教養がずれている。

もう一つ「叡智を求める人々」=学者はどんどん英語で発表するはずであり、日本語に興味を持たなくなる、という前提。でも、これが原因で日本文学がなくなる? アメリカの大学のエリート意識は強いから、つい大学=世界という意識になる。私もシカゴのドクターを受けようかなと思っていたときに、担当教授から「ボクシングの国内レベル試合から、世界チャンピオンの舞台に出ていくようなものだから」と言われたのを覚えている。

ただ、それは額面通り信じられないのです。だって、私がそのとき勧められた学科はEast Asian Studies。日本・韓国・中国のことを英語で研究する学問。でも果たして、これが日本研究の世界チャンピオンの舞台? と疑問を覚えた。たんに日本人が英語というメディアを使っているから、世界的学問と言われるだけじゃないのか。

そもそも「一流の学者」たちが英語の「図書館」に吸い込まれていく、という彼女のストーリーは印象的だけど、それを「日本の(文化的)植民地化」という隠喩で表せるとは思えない。たぶん、このストーリーはケニアの作家'Ngugiの“Decolonizing Mind”から来ている。これもアメリカの比較文学の必読書。ナイロビ大学で学んだ著者が、英語で書き疎外感を味わう。そこで敢然と現地語であるキクユ語で書いて国民的作家になったという話。植民地における文化的エリートの苦労を書いて涙なくして読めない話です。

しかし、このストーリーは必ずしも日本に当てはまらないよね。アメリカの黒船襲来以前に印刷文化が栄え、日本語の書き言葉が成立して、ある意味で「国民的な文学」が近代以前に存在した国。その中では、文化的エリートは自国語で書いていた。それを、そもそも西洋支配以前は書き言葉がなかったケニアと比べるのは無理があると思う。英語に堪能だといって、自国民と結びつけない日本人作家などいないだろう。

それどころか、日本をアメリカと比べるのさえおかしい。ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』にもあるけど、アメリカには強固な反知性主義の伝統があり、文化・文学なんて一部階級のものにすぎない。だから大学で守られた。Creative Writingなんてクラスが大学にあるのも当然。しかし、日本では大学で文学をできるなんて思っている人はいない。むしろ、世間に一定の需要があったから、「出版界」や「文壇」という大学外の機関が作家養成を担当したし、その事情は今でも変わらない。

その結果、日本ではアメリカと違って文学は大学エリートの愛玩物ではなくなった。むしろ、大学をドロップアウトした人々が一般人を相手にコミュニケートするときの道具。だから理論的には多少ゆるゆるだが、とりあえず一般読者から遊離しないで済んでいる。そういうことではないかな。

これほど随分条件が違うのだから、学者が英語で書くようになったぐらいでオタオタする必要はない。実際、水村に賛意を表明している人でも、ホンネは日本語で書くことの有利さをしっかり感じている。たとえば、内田樹は「水村氏の文章に感動した」と書きながら、その二、三日後には「内向きですが何か」というエッセイで日本語で書けば「1.3億人の読者がいる」ことの幸せをしっかり強調している。

http://blog.tatsuru.com/2009/01/05_1110.php

物理学でも数学でもそうだけど、学問で英語を使って書くのは、それを読んでくれる人に届けるため。たいていはすごく少数。理論物理などの論文を読む人は世界に何人もいない。だから、一番届きやすい英語で書く。それだけの事情にすぎない。それ以外の人に書くのなら、日本語で間に合うし、実際にそれで十分読者が見つかる。

だから、水村さん心配ご無用。日本語は亡びません。それが、たとえ二葉亭四迷や夏目漱石の域に達しない「幼稚な/未成熟な」文学が繁栄したとしても問題ない。それが世界に流通すれば(たとえばマンガのように…)、その意義付けを「世界語」である英語が後付でちゃんとやってくれると私は信じている。だから、安心して日本語で文学していればいい。

それより問題なのは、英語教育はnativeがいいという信仰でしょうね。大学の求人を見ても、英語を教えるのはnativeという「常識」になってきたらしい。これは間違いだと思う。英語について英語で解説を受けたからって、誤解に誤解を重ねるだけだと思う。むしろ明治の頃に倣えばいい。最初は「お雇い外人」にやらせた教育も、次第に日本人で外国語が堪能な人間が増えるに従って、次々に首を切り、日本人教師に変えていったという。小泉八雲の晩年なんか、それで悲惨なものになった。しかし、グローバル化に対して、国民的一体感を涵養するにはこれしかないと思う。なぜなら、島国の日本語は外国語を対象化する経験でしか豊かにならないし、そうやって今まで日本語は生き延びてきたからだ。

1/3

多次元世界の新しい年

いつものように年末は忙しかった。「冬のセミナー」の開催+予備校での講義+個別コーチングの三重苦。30日にようやく終わったと思ったら、息もつかせず掃除とおせち料理の製作、あっというまにカウント・ダウン。ドドドッという感じで新年になだれ込みました。まあ、皆さんも同様の状況でしょう。今年も宜しくお願いいたします。

いつものように今年のおせち料理の写真をアップします。残念ながら皆様に味わっていただくわけにはいかないけど、雰囲気だけでも感じてください。手前味噌だけど、今年も美味しかった。力一杯尽くしただけあって、正月の言祝ぎに心残りなし、です。

  09お節 

こういう儀式は大切ですね。生きてきた時間をあえて切り取り、その時点で安全無事を有り難いと言祝ぐ。年を取ると、このメカニズムが身にしみて分かる。迷信とか風習だなんて、簡単に片付ける物ではない。なぜなら、人間の生きていく時間とは、物理的時間とは違うからです。

物理的時間は数直線で表される。だから、どの時間も同じ質しか持たない。互いを分かつものは何年何月何日という時間でしかない。いわばのっぺらぼーの時間。でも、人間の時間は「そこまで生きてきた」という事件の連続です。当然、それまでに櫛の歯のように脱落していく人も出てくる。あの人もこの人も…と失った友人の顔を思い出す。だから、今生きていることが「有り難い」と思うわけ。

クリプキだったかな、「多次元世界論」は論理的に存在するはずだと主張していたのは。人生のイベントごとに、あちらに行った可能性とこちらに来た可能性の両方が考えられる。今たまたま私はこちら側にいるけど、まかり間違ったらあちらにいるかもしれない。そういう「あちら側」の宇宙もきっとどこかには存在する。

いつだったか、私は初夢でアメリカで強盗に襲われた。ホールド・アップさせられて、財布を取られて、あまり入っていなかったので強盗が逆上して私を撃とうとする。逃げようとしても体が動かない、「もうダメだ」と思い、バン!と音がしたときに目覚めました。「夢だ、良かった」という思いとともに、あまりの迫真さに「あのとき撃たれてしまった私がいる世界がある」と今でも感じるのです。

そう思うと、今生きていることが奇跡のように思える。思わず今の瞬間を言祝ぎたくもなるわけ。「多次元世界」はSFの話ではない。むしろ、我々の日常経験の時間は「物理的時間」ではなく「多次元世界」の姿をしているのではないでしょうか。当然「こちら側に来ている」ことの「有り難さ」(原義でいえば、めったにないこと)を喜びたくなる。

とくに、バリ島の人なんてほとんど儀式のために生きている。しかも時間の区切り方がすごい。「100年に一度のお祭りだ」とか「300年に一度のお祭りだ」とか、いつ聞いても「特別のお祭り」なのです。個人の小さい出来事ではないのです。

たしか今年はバリ最大の寺院ベサキ寺院の「300年に一度のお祭り」のはず。しかし、歴史の本を読むとベサキ寺院はオランダの植民地だったときにオランダの援助で作られているので、300年はたっていない。それに、7〜8年前だったか、ベサキの「300年に一度のお祭り」にはプリ・アグン(王宮)のチョク・パルタさんに連れられて出席したはずなんだけどナー。「300年に一度のお祭り」はいったいいくつあるのか。

しかし、こんな疑義を挟むのは野暮、あるいは西洋科学的時間観に毒された見方というものでしょう。時間の「有り難さ」をそういう特別な形で表す一種の比喩と見ればよろしい。我々の正月も一年に一度なんていわず、「100年に一度の正月」といきたいものです。そう考えると「有り難さ」も百倍する。そういうものではないか。

皆さんもきっと言祝ぐことがたくさんおありでしょうね。今年もよろしくお願いいたします!そして旧年中に合格なさった方はぜひボカボにお知らせください。



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