2009年3月

3/27

移住の話

昨日、フィリピンに移住する友人の家に行きました。日本でもう30年も濃密に仕事をしてきたので、しばらく休みたいのだそうです。セブ島にコンドミニアムを借りて、本を読んだり奥さんとお話をしたり、しばらく楽しく過ごしたいのだとか。理想のリタイア生活ですね。

実は、私もずいぶん前からそういう生活を夢見ています。場所はセブならぬバリ島。もう良い場所を見つけました。綺麗な水の出る山際の別荘です。椰子の木もパイナップル畑もある。とはいえ、なかなかそこに長期滞在出来る時間がない。そんなこんなしているうちに、彼らに先を越されてしまったというわけ。正直言ってくやしい!

外国に長期滞在したことのない人は感覚が分からないかもしれないけど、アジアのいくつかの国では生活費がとても安くてすむ。たとえば、フィリピンではメイドさんや運転手が5,000円/月の給料です。しかも住み込みの方が安い。それに対して、車を買うと日本以上に高くてビックリ。人件費とモノの費用の差がすごくてなかなかしっくり来ない。しかし、彼は外国生活が長いせいか、その辺を楽々クリア。うーむ、さすがだよね。

そういえば、最近『中高年男性はアジアをめざす』という本が出版されました。仕事ばかりで家庭も崩壊した男性が、60歳をすぎて、生活費の安いアジアに移り住むというルポルタージュです。確かに日本では、仕事を辞めた人間は「社会の厄介者」扱いされ、安住の地はない。老後だけでも、ゆっくりのんびり過ごしたいという気持ちは分かります。もう若くない人間にとっては、成長至上主義でない場所の方が住みやすい。だから、リタイアした日本人男性がタイやカンボジア、インドネシアなどにたくさん長期滞在しているらしい。

もちろん、そういう人々をだます事件も増えている。私が聞いただけでも、現地の女性と結婚して、共同名義で家を造ったとたん冷たくされて、結局追い出されたなどという話も多い。でも、友人は経験豊かだからそんなヘマはしない。日本で若く美しい奥さんをすでに見つけており、あちらでは、毎日ビールを飲んで過ごしたいと言う。

この頃は、よく「承認欲求」ということが言われる。他人から「意味ある人間だ」と思われ、尊敬=承認されることが大事だというのです。それが自分のプライドとなって生きていける。でも、本当にそうかな? 

たしかに若いうちは「承認欲求」が強いかも知れないけれど、年を取って老い先短くなると、そういう他人との関係をどうこうというより、自分の人生を自分の満足のために使いたいと思う。他人からの承認のゲームに飽きてくるのです。だから「意味ある」と思われなくても、自分が満足できればそれでいいと思える瞬間が来る。友人のように「もう仕事が出来る人と思われなくても良いから、旨いビールを飲みたい」という欲求も出てくるのも当然です。

これに限らないけど、人生論の大部分は、これから社会の中で位置を占めていかねばならない若者向けが多すぎる。でも、これから高齢社会になっていくにつれ、そういう「近代的個人」の人生論はもう役に立たない。むしろ、人生をどう幸せに終わらせるか、ということに中心が移っていく。『徒然草』など、だいたいの話題はそれに尽きている。その意味では、中世の隠者的人生がもう一度復活してくるのかもしれませんね。「フィリピンの隠者生活」か、やっぱりいいなー。

しかし、私はもう少し頑張ります。「早慶9月AO入試対策」Gymもあるし、法科大学院Weekend Gymもまだまだ続きます。バリの棚田のイメージを脳裏に描きながら、今の一歩一歩を進んでいきます。その意味で、ずっと受験生のときと同じ精神状態にあるのかも知れません。うーむ、私はまだ「近代的個人」をやっているのだろうか?

3/17

『おくりびと』と地方経済と春休み

本木雅弘主演の『おくりびと』を見ました。アカデミー賞外国語映画賞を取ったということなので、どれほどの名作かと興味が湧いたこともある。また納棺師という特別な職業がどういうものか、見たかったこともある。

見終わった感想は「フーン」。どういうフーンかというと、「あ、アカデミー賞って、やっぱりこういう感じなのよね」というフーン。理由は、あまりにも一つ一つの場面が意味に浸透されすぎていること。

良い映画はたいていそうだけど、どこか一箇所「何とも言えない視覚の幸福」がある。それを空間感と言ってみたり躍動感と言ってみたり、いろいろするのだけど、やっぱりちょっと違う。作る人のこだわりというか触感が伝わってくるところね。

たとえば『七人の侍』なら、雨中の合戦で馬がドオーッと倒れるところとか。『東京物語』なら、歩き疲れて道ばたに座り込むシーンとか。成瀬巳喜男『浮雲』だったら、腐れ縁の二人が旅館で口げんかするシーンとか。瞬間いいなと思うのだけど、どこがどういいのか、言葉になりにくい。

でも、残念なことに『おくりびと』にはそういうシーンがない。ほとんどがすぐ言葉で意味づけられるから。たとえば、妻が夫の職業を知って実家に帰るシーンでは、「ああ、次に出てくるときは妊娠しているだろうな」と思う。生と死の対比の展開。その通りになった。主人公は小さい頃に父が家出をしている。ラストで父と和解するはずだ。やっぱりその通りになる。ここは父子の葛藤と子の自立のよくある組み合わせ。

さらに、死体を扱った直後に肉を食べるとか、ふぐの白子を食うとか。あるいは、死化粧をしたら「今日一番綺麗だった」と家族から感謝される泣かせのシーンとか、いちいちがデジャビュの世界。「あ、これってこういう意図ね」と頭の中ですぐ言葉にできるのに、映像はちょっと遅れて見えてくるので、どことなく新鮮さが乏しくなる。

風景も同じ。最上川に来る白鳥が何回も映される。普通ならキレイで済むところだが、死に関わる映画だから「魂が飛び去る象徴的シーン」。ね、すぐ整理できるでしょ? こんな調子で映画の終わりまで行ってしまう。もっと何気なく死を感じさせるものが欲しいのだが、最初からお決まりの風味づけを使い回している感じ。

たとえていえば、効果的と考えられるエピソードはとりあえずキツキツに詰め込んだ幕の内弁当というか、お子様ランチというか。結果として展開が荒っぽくて、絵がワサワサと落ち着かない。周囲ではすすりなく声も聞こえたけど、私は泣きようがなくて困った。『フラガール』のときも思ったのだけど、どうして最近の日本映画は秀作と言われる作品でも、こういう駅弁タッチになっちゃっうのかな? 

よいシーンを一つ挙げるとしたら、ラストのタイトルバックでしょう。キャストやスタッフの名前が延々と流れる漆黒の画面に、主人公と白装束の死体が出てきて、納棺の行為を見せる。白の衣装が黒に映えて美しい。所作は日本舞踊のよう。「丹頂鶴の舞」とかね。モックンはすぐれたダンサーだと思う。「あ、ここがアメリカ人が好きだったところね」と腑に落ちる。でも、ちょっと遅くないか?

結局、この映画は死を扱っているようで、死がメイン・テーマになっていない。主なる物語は主人公の成長、親との葛藤、家族の和解。一番強いのが「どんな仕事でも感謝されることでやりがいが出てくる」という仕事の喜びのメッセージ。でも、せっかく面白い素材なのだから、こういう手垢にまみれたfamily romanceで適当に処理するのじゃなくて、がっぷり死と四つに組んでほしい。映画が素材に負けている。

まあ、東洋の辺境国の珍しい風習を説明するのだったら、よくある処理をしておかないと分からないという事情もあるでしょう。アカデミー賞といっても、普遍的名作を選ぶのではなく、アメリカ人に分かりやすい基準で選ぶのだから、これでいいのかもしれない。そう思ったら、「初の外国語映画賞」なんて力こぶ入れず、気の利いたエンタテイメント小品としてみれば楽しめると思う。小品にしては上映時間が長すぎるけど。

死を扱った映画では、20年ほど前の伊丹十三『お葬式』が秀逸だったと思う。やはり山崎努が出てくるのだけど喪主の役。父親のお葬式のドタバタをコミカルに書いて、『おくりびと』みたいにセンチメンタルでなく、死を皮肉に眺める視線が新鮮だった。監督の批評的知性に感心したのだけど、『おくりびと』に感じるのは、むしろやや過剰なサービス精神です。

きっとこれが評価されたのは、映画の出来ということ以外に、現代の経済パニックムードがあるのでしょう。生産や産業、あるいは資本主義の限界が自覚される中で、バリバリ生きることに不信感を持ってしまう。だから、死を自覚する中にこそ、人間的成長があるというようなちょっとひねったストーリーになる。でも、それってやはり「成長」を信じているという意味では、変わっていないのじゃないの?

そういえば、日本の地方では建設業者が葬祭業者に業種転換する例が増えているとか。先進国の若者に、こういう働き口の可能性もあるよ、故郷に帰ってお出でよ、とアピールする意味ではこの映画はとてもよい宣伝になる。葬祭産業による地方経済の復活か…そういう少子高齢社会の「国策」にもこの映画は協力している。そう考えると、映画鑑賞にも社会的広がりが出てきますね。

さて、ボカボでは難関大9月・AO入試のための春休みコースを行います。毎週日曜日の午後、志望理由書や小論文の基礎的書き方を概説・演習します。志望理由書の書き方では、自分の過去と未来を結びつける作業をすることになる。小論文では論理的な書き方とは何かを明らかにする。一回ごとの参加も可能です。4月からの自分の勉強の方向を決めるためにも、気軽に来てください。

3/8

勉強できる幸せと勉強法の勘違い

「合格者の声」に63歳の方の文章を載せたら、あちこちから反響がありました。一緒の期に受講して、今法科大学院にいる人からは「ぜひお祝いのメールを送りたい」と言ってきました。それがまた良いメールなので、掲載します。

●やっぱりHさんですか〜。
なんだか凄く嬉しいです。
私も頑張らないと…。

私は入学後1年がたちました。
大学院入学後1年間で、選択科目以外の司法試験受験科目を一通りやったことになります。この1年間は、全てが新しいこととの出会いであり、楽しいことばかりでした。ただ、ここからは、今まで以上に正確に知識を吸収することと、それを正確にアウトプットできるところまで持っていくこと、が課題で、地道な作業が続くと覚悟しています。さらに、司法試験まであと2年しかないことや、もう受験生生活の3分の1終わってしまったことが、漠然としたプレッシャーとなっています。
毎日自習室にこもっていますが、結構きついのが現状です。

そんなときに、Hさんの合格。「司法試験合格まで何年かかるかわかりませんが、今、若い頃できなかった勉強ができてとても幸せです。弁護士を目指しながら勉強していることが、充実感ある人生につながっています。」とHPに書いてあるのをみて、私も大学院入学まで数年かかったことを思い出しました。また、藁にもすがる思いで、vocabowの門を叩いたのも思い出しました。

今ある幸せは、すぐ忘れてしまうものですが、今を大切に精一杯生きたいと再確認できました。ありがとうございました。

たしかに「今ある幸せ」を忘れないことは大事ですね。この年まで生きてくると、そういう「幸せ」が実現できることがいかに大変なことか、よく分かる。

今年は、大学院だけでなく、大学入試の方でもいろいろな経歴の方がいました。一度学校に入ったけど退学してしまった方、仮面浪人を続けていた方、就職していたのに退社して受験勉強をなさっていた方。いろいろな方が合格しました。でもその人たちには同じ特徴があります。それは、安定して努力できる状況にあったいうことです。

それには、自分の意志の持続もあるし、それを可能にする環境も整えなくてはならない。その過程で、周囲からの協力も必要になるかもしれない。そういう複数の条件が上手くかみ合ってこそ、結果が出る。合格すべくして合格する。それってやはり「幸せ」としか言いようがない。

…と書いていたら、受講者Yさんがひょっこりとやって来ました。「東亜大学大学院総合学術研究科法科専攻」に合格したのでお礼に来たとか。この学校は通信制なのですが、受験者550人のうち合格50人とすごく倍率が高い。学校を出ると税理士の試験がいくつか免除されるらしく今や難関校になっている。

ここの試験は特徴的です。今年は会社の帳簿閲覧権に関する一見バリバリの商法論述問題。だから、受験者は商法の判例を一生懸命勉強する。でも、手も足も出なかったという声がネットを飛び交っているらしい。Yさんは商法など勉強しなかったのに合格。たしかに、よく見ると設問の下に「この問題は知識を問うものではなく、読解力、考察力、文章力などを試すものです」と明記してある。

つまり、商法を材料としては使うのだが、答案を書くには知識は一切いらず、問題に書いてある情報だけで書ける問題だと言っているのです。それなのに、受験生の大部分はれを読み落とし、商法の知識を試されていると勘違いして「対策」する。それで時間を無駄にしたとしたら、悔やんでも悔やみきれないでしょう。

「他の席からは、最初から鉛筆の音が聞こえるのだけど、途中で止まってしまう。私は30分くらい、先生に言われたとおり、構成をしっかり練ってそれから一気に書きました」とYさんは言います。出題意図は比較的シンプルなので、その書き方でいいのですよ。「基礎から小論文を学び、最後に過去問の指導を受けたことが良かったと思います」。そういっていただけるとしたら、こちらとしても嬉しい。来年、この学校を受けるという方、商法判例を覚えるのではなく、ボカボにいらっしゃい。

今年は、ボカボで、大学の9月・AO入試などの対策講座も開きます。AO入試についてはいろいろ言われているようだけど、私は「入試の多様化」理念は基本的に良いことだと思います。いろいろな経歴の方がチャレンジして、自分の道を切り開いていけるからです。

前にはたまたま条件が上手くそろわなかったけど、今はそろっているという人は沢山いる。たとえば、前は「勉強なんて」と思っていた人が、勉強の必要性を痛感するとかね。そこでもう一度やり直す。これは、後悔したまま人生を送るよりずっと生産的です。そういう人は経験を備えている。欠けているのは、その経験を組織化して他人・社会に伝える技術です。それはボカボが十分提供できるはずですよ。


3/3

読むことと書くことの違い

今年の大学入学試験もそろそろ終わりですね。今年Real Schoolから慶応に入った受講生のお母さまから次のようなメールをいただきました。

●私は学生時代、Yゼミナールで小論文の添削のアルバイトをしておりました。バイト仲間で、そのまま講師になったAさんに、娘の小論文を見てもらえないかお願いした所、吉岡先生のボカボが個別指導で優れているからと、教えてもらったのです。
 本を読んでいれば、小論文は何とかなるものという思い込みがあり、娘にもやかましく読書をすすめたのですが、そのわりには稚拙なものしか書けないと心配してました。
 私もコーチングを見学させていただきましたが、小論文を書くとはどういうものかと説明なさる中で、時事問題などの具体例が大変面白く、こういう授業だと、生徒が自然に、地理や歴史を含めて、まわりの世界への興味をもつようになるなーと感心しました。同時に、大変恥ずかしくもなりました。どうして、自分の子供に、世界はこんなに面白いのだということを伝えられなかったのか。文章を読んで、分析して、考える作業は楽しいことなのに、苦手意識ばかり植え付けてしまったのかもしれません。
 先生が、小論文は楽しくなくてはいけない、10回書けば、ひとつステップアップするという説明が印象に残っております。ボカボから合格した試験まででちょうど10回めの小論文になりました。
 本人の頑張りもあるにせよ、吉岡先生の御指導がなければ、合格という結果は難しかったと思います。試験までわずかという短期間で、個別コーチングやすばやく的確な添削、心から感謝しております。

いいメールですね。教育の消費者の立場から、小論文や文章の書き方の問題点を明確に言葉化している。さすが添削の仕事をやった人は違います。私も色々考えさせられました。

まず「本を読んでいれば小論文は書ける」という思いこみが広く流通しているということです。どこの高校・大学に講演に行っても、先生方は「最近の生徒/学生は文章が書けない」とこぼしたあげく、「昔に比べて、本を読まなくなったからですよね」と言うのです。無下に否定するのも悪いので「ええ、そうですね」と曖昧な相づちを打ちながらも、そのたびに「ちょっと違うのだけどナー」と思う。

こういう幻想は強固です。なぜなら、間違いが三段論法で構造化されているからです。大前提が、本を読めば文章が書ける。小前提は、昔の子どもは本を読んでいたが、今の子どもは読まない。したがって、昔の子どもは文章が書けたけど、今の子どもは文章が書けない。ホントかよ? 

まず、小前提は疑わしい。私の通っていた小学校には小さな図書室があったけど、そこに通ってくるのは私を含めて全校で二人しかいなかった。競争して一日に二冊、三冊と借りて読んでいたけど、他の生徒はほとんど利用しない。皆、外で遊び回っていただけ。「昔の子どもは本を読んでいた」は嘘または幻想だというのは、この経験から分かる。それに対して、今の子どもは15分朝読書などで、前より本を読む機会に恵まれている。メールなどで文字に触れる機会も格段に多い。マクロ的に言うと、ずっと読書量は多いはずです。

一方、大前提も成り立たない。読めたからといって書けはしない。証拠はこれも私です。もう時効だけど、私は作文が大の苦手だった。作文の時間になると途方に暮れたね。一行目で躓く。しようがないから、宿題として家に持って帰る。一晩眠ると魔法のように出来ている。見かねた母親が夜中に書いてくれたんですね。一度など、それで県で金賞をもらったことさえある。「小学生にはとても書けないような巧みな比喩」というのが受賞理由らしいけど、当たり前だよね。

たしかに、読めることは書ける条件の一つなのですが、全部ではない。なぜなら、読み方にも「耽溺する」「理解する」「問題意識を持つ」などいろいろあり、むしろ自分の意見・主張を言いにくくなる読み方もあるからです。小学生時代の私の読み方はもちろん耽溺型。本の世界の中に、自分がまるごと入ってしまう。問題意識など持ちようがない。だからどんなに本が好きでも書けない。

そういえば、小説家の辻邦生は「私は小説が読めない」とエッセイに書いていました。小説を10ページほど読むと、登場人物が勝手に動き出し、先のストーリーがどんどん頭の中に思い浮かんでくるので、先を読み続けられなくなるんだ、とか。なるほど小説家というのは、そういう種類の人々か、と感心しました。読むと書くとはこれほど違う作業なのです。

その意味で言うと、現代の国語教育はどんどん自分の意見・主張を言えなくしているような気がしてならない。四文字熟語の知識とか、漢字の書き取りだとか、登場人物への共感とか、読書の習慣を付けるとか、そんなことにばかり一生懸命になる。たしかに、漢字も大切、情操の発達も大事でしょう。しかし、これらは所詮知識・情報をたくさん受容することにすぎない。一種の耽溺ですね。

だから、ここで伝達される暗黙のメッセージは「ひたすら受容せよ」。これが個人的な趣味ならそれほど害はないけど、組織的に行われるので、その裏に「さもなくばお前は失敗する」が必ずくっつく。「適応しなければダメ」とか「空気を読む」という若い世代の根深い恐怖感は、こういう教育が徹底したことに一つの原因があると思う。

書くためには、テキストから身を離さねばならない。そのためにはどうするか? まずテキストを要約する。それも、わざと書き言葉という扱いにくいメディアを使って客体化=モノ化する。さらに、それを他人から言われたと仮定して、自分が賛成できるかどうか考える。賛成/反対を表明したとして、それに対してまた他人がどう反応してくるか予想する。それに理由を付けて応える、データを出す…つまり、考えるプロセスの一つ一つに他人が介入し、それに自分が対処するという仮想の対話システムを作るわけ。こんな風な複雑なプロセスを通って、やっと「自分の意見を言う」という行為につなげられる。小学生の私がこんな複雑な思考をするのに時間がかかったのは当然です。

でも、小論文や作文の教育で、こんな面倒なことをサポートしてくれるところはめったにありません。たいていは「自分の気持ちを正直に書く」とか「名文を書き写す」とか簡単な方法論で片付けてしまう。後は、そのために応用できる知識をつけるために「日本の論点」を読めとか、呆れるほど粗雑な教え方しかしない。文章力がつかないのは当たり前だと思う。

このメールにもありましたが、本来「文章を読んで、分析して、考える作業は楽しい」。なぜなら、理解と問題意識をつなげる読み方の中には、世界を理解しつつ、自分がそこに参加していくための手がかりがあるからです。理解だけでは受動的に適応しているだけだが、「問題意識」を持てば、何がいけないのか、どうすればいいのか、と自分の関与する、あるいは関与したい範囲が自然に見えてくる。そうすると、自分がこの世でどう生きていけばいいか、自然に分かってくる。他者のいうことをひたすら受容しなくても済むからです。

このお母様のメールにはこうもありました。

●もしも合格できなかったとしても、先生に教わったことは、将来、ずっと役に立つはずだと娘が申していましたが、私も同感です。娘は、先生の個別コーチング・冬のプチゼミと受講して、小論文の課題への見方が昨年と全く変わったそうです。試験の当日も、プチゼミで教わったものと、ほぼ同じ形式、内容のものが出題されたので、落ち着いて取り組めたそうです。
 問題文に、具体例を削除した横線や、A=Cなどのメモが書いてあり、どういう解答の仕方をすればいいのか、私に説明してくれました。もしも合格できたら、必ず、先生にお礼を言いたいと強く思ったそうです。試験場には、お守り代わりに、「吉岡のなるほど小論文」を持参してました。

大学に合格できてホントによかったですね。でも、もっと大事なことはそこではないということを感じ取っていただけたとしたら、私たちボカボとしてもこれほど嬉しいことはない。これからの人生、頑張っていただきたいと思います。

ところで、ボカボでは4月から「大学入試 9月・AO入試対策Gym」を行います。最近では入試も多様化して、必ずしも春に受けなくてもよい。早稲田政経のAOとか商学部の9月入試など。科目も英語と小論文中心。慶応SFCのAOなどは前から有名ですね。4月からボカボで対策すれば、絶対間に合います。今回の春でたまたま苦汁をなめた方も勝負はまだ終わりではない。さらに9月入試で間に合わなくても、慶応の次の入試には役立つ。ドラエモンの「どこでもドア」じゃないけれど、「どこでもいつでも入試」と、それに対応できる根底的な力を身につけましょうね!

Homeに戻る