2009年4月

4/27

裸と犯罪

あるアイドルグループのメンバーが公然わいせつ罪で捕まったとか。同情にたえない。普通、公然わいせつ罪とは衆人環視の場所、たとえば電車で陰部を露出するとか、ストリップ劇場で性行為を見せるとか、相当意図的にやった場合に限られる。公園で泥酔して脱いだぐらい、普通は適用しないものだ。

前にも書いたと思うけど、警察には「前さばき」というものがあって、軽い罪のほとんどは立件しない。普通の人は、罪を犯すと刑務所に入れられると漠然と思っているようだけど、そんなことはない。とくに初犯の場合は、なるべく「なかったこと」にして、社会復帰させる。その代わり、累犯の場合は更正不可能としてパン一個盗んだだけでも、懲役など厳しい刑になる。今回の場合など「なかったこと」にするのが当然だろう。それを「公然わいせつ罪で捕まった」という騒ぎにして、活動自粛させるとか。

そういえば、昔ケニアのナイロビで泥棒がリンチされるのを見た。早朝、騒がしいのでホテルの窓から見てみると、若い男が大勢の人に追いかけられているのだ。途中で追いつかれて、彼は群集に殴られたり蹴られたり。20分後、群衆たちは潮が引くように去っていったが、路上には男が横たわったまま。生きているのか死んでいるのか分からない。

その頃は、ケニアは日本と違って法治国家じゃないからしようがないナー、などと思っていたが、この頃の日本のメディア・大衆も変わりがない。とにかく犯罪は大騒ぎして罰しさえすればいいと思っている。トラブルの元が自分達の内部にあるなどとは思いもよらない。だから、ちょっとでも犯罪と関わり合いそうなものは、なるべくボコボコにして、自分達とは違う世界に送り込んでしまおうとする。

だが、思っているより法の目は細かい。酔っぱらってそこらで立小便すれば軽犯罪法だし、自転車を拝借すれば窃盗だし、喧嘩すれば傷害罪。普通人だって、その全部を守るのは不可能なぐらい。問題を重ねて起こす人間には、厳しく接することができる分、厳密に適用しすぎると、善良な市民も縄目にかける。だから、その適用は緩やかなさじ加減になっている。

ところが、大衆・メディアはそのへんがよく分からない。だから、文字通り法を適用して、本来寛大な扱いをすべき行為に最大限の罰を下してしまう。これは、単なる無知なのだけど、自分達はそれを「正義」だと思っているから困ったものである。

他方で、こういう扱いが広がれば「犯罪者」は極端に増える。実際、日本の刑務所は過密状態らしい。定員の1.5倍とか2倍近く収容されているとか。しかも、その大部分は「筋金入りの悪人」というより、社会不適応者、つまり知能が低い者、精神病者、高齢者の収容所になっている。本来ケアされるべき人が、刑務所に入っているという状況なのだ。

だから、懲役も成り立たない。刑務官が指示を与えても、その指示を理解できなかったり集団行動が出来なかったり周囲と些細なことでトラブルを起こしたりするので、作業させられないとか。多少でも指示が理解できる「人材」は引っ張りだこで、態度が良くても仮釈放になりづらいほどだとか。逆に言うと、収容者の大部分は、そもそも普通の能力がないので、悪を計画・実行する能力自体も欠けている人たちなのだ。

そういえば、この頃の犯罪はずいぶん杜撰だ。タクシー強盗なんて、割に合わないのに頻発する。運転手の持っている金など少額にすぎない。ときどき営業所に戻って売り上げを渡すからせいぜい二万円。コストとベネッフィットの差を考えると、死刑を覚悟しても二万円を選ぶのだから、自分が二万円という金額を得る確率が絶望的に低いと判断しているわけ。経済的・心理的にも「社会的弱者」という言い方がこれほど似合う人々はいないだろう。

「一定の収入がないにもかかわらず, しかも常に道を守りぬく心を持ちつづけられる者は, ただ学問修養の出来た立派な人物だけである。一般人は, 一定の収入がなければ, 常に道を守り抜くことなど出来ないのが通例である。かりそめにも人間として常にまもるべき道を持たない者は, 放辟邪侈なことでも, 何でも平気でやってしまうであろう。こうして, ついに罪を犯すようになってから, その罪の内容にしたがってその民を刑罰に処する。これでは, あたかも刑罰という網をあらかじめ張っておいて, 民をその中に追い込み, その網に引っかけるようなものであり、絶対にやってはいけない」(孟子の言葉)

この基準によれば、タクシー強盗が頻発するような社会、ささいな罪でも厳しく罰しようとしゃかりきになる社会は、「民をその中に追い込み, その網に引っかける」社会であろう。犯罪に不寛容な態度は、犯罪をなくすより、むしろ犯罪を積極的に作り出す。その意味で、冒頭の事件など同輩が「社会人として許されることではない」なんて涙目で訴えたらしいが、かえって「公然わいせつ」と世間から見なされる事件を増やしかねないね。むしろ、「こんなことしちゃって…あいつってバカだねー」と笑い飛ばすのが成熟した対応だと思うのだが…いかがだろうか?

4/17

ロースクールの逆襲

文部科学省がロースクールに定員の削減を求めたらしい。東大京大などが来年1〜3割の定員削減をするとか。また「教育改革病」かとうんざりだ。

これに限らないが、文部省が「教育改革」に乗り出すと、いつもろくなことが起こらない。ロースクールだって問題の根源は最初に設立の数を認めすぎたことだ。その結果、定員が増えて、司法試験の合格率が下がった。だから質を高めるために、今度の「改革」をするのだと言う。でも、このロジックはおかしい。定員が増えて、司法試験の合格者数が変わらないなら、合格率が下がるのは当たり前。受験生の質とは関係ない。論点がずれている。

そもそも司法試験の合格率を上げたいのなら、ロースクールの設立数をはじめから絞れば良かったはずだ。それをしないで、申請があったところは認めた。やっていけない学校が出るのは眼に見えていると、前から指摘されていた。当初は自然淘汰に任せようとしていた。ところが、問題が顕在化すると、その方針を貫かないで、定員を絞って合格率を上げようとする。こういう行為を泥縄と言うのである。

定見の無さは教育内容にも反映している。一昨年、去年とロースクールで「指導」を受けたのは、慶応大・一橋大・千葉大など「試験のための特別の教育」をしたと批難された。でも、試験用の勉強なしで合格できないのは大学入試を見たって分かる。「試験の勘所を教えてどこが悪いのか?」とロースクール生はびっくりしていた。とくに慶応大の例など、まるで教授が不正を犯したようなメディア報道がなされたが、実態は試験対策をやや突っ込んで解説したにすぎない。それを偏った報道でつるし上げるのは、ほとんどいじめか人権侵害だ。

今回の定員削減には中央大学は従わないようだ。「自分達は教育の質の向上に努力しているからだ」と言う。当然だろう。たしかに、スタッフのラインナップを見ると、有名教授を招くなど積極的な動きをしている。それなのに定員削減せよと促すのでは、「努力」を強調する一方で、努力したことを評価していないことになる。いったい、どちらホンネなのか?

しかも、今回定員削減したところは、国立中心・大規模校で、司法試験の合格率も悪くない。そこを先に減らすのは、まず文科省の言うことを聞きやすいところから「改革」させて、言うことを聞かないところに圧力をかけようと言うことらしい。実際、実は、東大は今度の措置を先取りして去年から合格者数を大幅に減らしている。東大には文科省からの情報が速く入るネットワークがあるのかな。でも、これはやり方がいかにも不公平で陰険な感じさえする。

法曹を作るシステム自体が、これほど首尾一貫せず、人権無視で、不公平かつ陰険な印象を与えているのでは、法に対する社会的信頼は下がるばかりだ。一連の動きを見ていると、文科省にいかにリーダーシップがなく、いかに正義という観念と無縁であるか、がよく分かる。もうロースクールは文科省の管轄から外し、法務省の管轄にでも移した方がよいのではないだろうか?

しかし、このドタバタを見ていると、本来の教育分野でも、きっとデタラメなことが行われているのだろうね。私は現場の教師から理不尽かつ首尾一貫しない行政のことをあれこれ聞いている。教育行政が教育効率を落としており、「改革病」「改革疲れ」という言葉まであるくらい。ただ、この分野ではあまりにも文科省の支配力が強く教師たちが従順なので、問題が目立った形では出ないだけ。弁護士や検事など、黙っていない人たちが関わるとメチャクチャさがはっきりするので、問題は同じなのかも知れない。

黙っていないといえば、今回のロースクールの「質の低下」にしたって、弁護士会などがワアワア言うだけで、肝腎の当事者たちの声は聞こえてこない。いろいろ聞いてみると、現場で司法修習生の指導に当たっている人々は「修習生の質は下がっていない」と言っているらしい。むしろ、優秀だと言う人もいるくらい。とすれば、「質が下がった」騒ぎは、新しいやり方を経験してこなかったロートルたちが、とりあえず新参者をバッシングすることで、自分達の地位を上げようとする魂胆なのだろう。日本社会で頻繁に見られる「若者バッシング」がここでも見られているのかもしれない。

現場の正直な声は外には出てこない。ワアワア言っている声だけが選択的にメディアにのる。それをみて、また文科省がオタオタする。まったくやりきれない構造だ。そもそも教育制度は人間形成に関係するのだから、結果が出るまでには最低10年はかかる。文科省は、無駄な「教育改革」からさっさと手を引き、どんな結果になるのか見守る期間を取るべきだと思う。それができないというのだから、よくよく自己保身にしか関心のない連中なのだろう。

4/10

春の憂鬱

桜がそろそろ散り、学校がそろそろ始まり、花粉症はそろそろ終わりかけ。とはいうものの、春は憂鬱。今日は、大学の初講義だったのだけど、久しぶりに大学に行くと、空気が重苦しい。「桜の木の下には死体が埋まっている」と書いた作家がいたけれど、そんな格好いい話ではない。春には何となく皆の恨みがこもっているような気がするのです。

ある先生が嘆いていたけれど、今の学生たちは大学の講義に出席しすぎる。まるで高校生みたいに勤勉に出席する。でも、それと裏腹のように講義を理解したり、自発的に興味を持ったりという感じはしない。ひたすら義務だから、という一念に動かされ、生き生きしたところが感じられないと言う。私は、こういう重苦しさの一つの原因に内申書重視などの多面的評価があると思う。以前、これは試験地獄を救済する策として言われてたこともあったけど、結果は逆になっている。なぜか? 自我を目覚めさせる余裕を失わせているからです。

自我が目覚めると、親や教師から言われることに従いたくないという気持ちになる。だから成績は確実に悪くなる。もちろん、何をやりたいか、ははっきりしていない。柳田国男は「涕泣史談」の中で「泣かずに訳を言ってご覧」という言葉が理不尽だと述べる。訳を言葉で言えないから泣くのであって、言葉で言えるのなら泣きはしない、と言うのです。サボりも同じ。なぜ、勉強したくないのか分からないけど、とにかくサボるのです。でも、それが自分の意思の手応えなのです。

私事を言って申し訳ないけど、私も高校生の時などほとんど勉強しなかった。毎日家を出て、一時間目の点呼だけ受けるけど、後は映画を見に街に出かける。その時間はすごい解放感でした。映画を見るのが一番したいことというわけではないけど、とにかく自分で時間の使い方を決める。当然、成績は急降下。順位など下から数えた方が早い。

内申書もさんざんでした。「人の意見を聞かない。頑固」なんて書いてある。それでも、大学に入れたのは、当時内申を重視していなかったせいです。入試は一回限りの試験で決まるので、その人の本質が分からないと人々は批難するけれど、学校から実質的にdropoutしていた人間から見れば、高校生活という過去は問わないという杜撰な姿勢はむしろ好都合だった。

そもそも、人の能力を正確に測ろうとすればするほど、システムは内面をコントロールする結果になる。たしかに、努力や能力が社会的地位に反映するのは良さそうだが、それをやろうとすると、個人を社会システムがいつも監視・評価するということになる。初等・中等教育というシステムで、つねによい評価を得た人を評価するということは、従順で自我がない人々にアドバンテージを与えることです。高等教育で価値があるのは、むしろ自我が強く、自分で何でも考えないと気が済まない人。そうでないと、新しいことにチャレンジできない。でも、高校での評価を厳密にすると、そういう余裕の時間はマイナスに評価されてしまう。システムを首尾一貫した良いものにしようとすると、必ずしも全体として良い結果を生むことにはならないのです。

その象徴が、内申書・志望理由書で「ボランティア体験」を書くという傾向かな。「有利にするためには、これからどんなボランティアをしたらいいか?」と受験生が聞いてくる。どこがvolunteer=自発的なんでしょうね。むしろ、「ボランティア体験」を書くという制度に従順に従うという非自発性を助長しているだけ。結局、過去をいちいちチェックするというシステムでは、適応の姿勢を過剰に示さないと生き残れない。システムを精密にすると、かえって全体が息苦しくなるのです。

その意味では、システムが杜撰なだけ、昔の方がかえって人生のリセットをしやすい自由があったのかもしれない。そういえば、去年は「KY」という言葉が流行ったけど、「空気読めない」とはそこらじゅうに蔓延している監視権力のシンボルかもしれない。これが「監視だ」と指させないほど監視が遍在しているから、「空気」という言葉になっちゃう。こういう矛盾と不満が、人生の岐路である春という季節には鬱積している。散っていく桜を見ながら、そんな妄想に駆られました。



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