2009年6月

6/28

『1Q84』の愛とは?

ここ二日ほど村上春樹の『1Q84』を読んでいました。とくに積極的に読みたいという気分ではなかったけれど、「いろいろと興味深いから読んでみたら」とボカボの長谷眞砂子に促されて読んでみました。

私は村上春樹のファンではありません。かといって、アンチ・ファンでもない。『羊をめぐる冒険』や『ノルウェイの森』はまあまあ良いと思ったし、彼の昔の短編集や翻訳ははっきりと好きと言える。すべて読んでいるわけではないけど、そもそも小説はあまり読まないので、結局現代小説家の中では比較的読んでいる方です。

作家としての感じは「ムラが多い人だな」。面白いものと面白くないものの差が大きすぎる。最近作では『スプートニクの恋人』はひどかった。ドッペルゲンガーなんて現象をナマに出していて、すごくステレオタイプ。『海辺のカフカ』はラカン=ジジェク理論の引き写し。いろいろと勉強好きなのは分かるけど、ストーリーとしての成熟が今一歩。模索中なのかな、と思っていた。

『1Q84』はどうか? 一読して「なんじゃ、こりゃ?」です。長谷が指摘していたけど、村上はドストエフスキーのような小説を書きたいらしいが、足下にも及ばないほどへたくそ、物語がちゃんと終わっていない。最初に出てきたキャラクターが後半になると一斉に消えてしまう。たとえば、小松という編集者とか、「ふかえり」の保護者とか、上巻ではずいぶん細かく描写されていたはずなのに、下巻ではまったく出てこないのは何故か?

その代わりに、やたらと重大事件が進行する。宗教団体のリーダーは超能力を見せるし、青豆はそれを殺すし、天吾は「ふかえり」とセックスするし、リトル・ピープルというお化けは出てくるし、青豆と天吾はすれ違うし…でも、それらの相互の関係はどうなっているの? ジェットコースター的と言えば聞こえは良いけれど、最初に張られた伏線がほとんど無視されたままにイベントだけが暴走する。

わざとやったんでなければ、ストーリー構成が下手すぎる。交互にキャラクターを描いていく、という手慣れた構成だから、一見流れているようだけど、上巻を読んで、これが一体どうなるのか、と身構えていたのがすべて下巻では無駄になる。

そういえば、亀山郁夫は「物語に圧倒された」とほめつつも、「これだけの暴力と不条理に立ち向かうのが愛しかないところに慄然とした」とか書いていた。この批評は正確だと思う。カルト宗教という大きな問題を扱いながら、どうしてそういう不条理に惹かれるのか、そういう存在が日本の現代からどうやって出てきたか、という点は一切触れていないからです。

どんなすごい事件が起こっても、それはすべて愛の問題に解消される。愛さえあれば、すべては解決する。それだけが希望。でもね、これって流行歌の文句としてはいいけど、小説としては不当な単純化ではないのか? カルトをテーマとして出しているのなら、せめてそれをちょっとでも解決して欲しい。

でも、村上春樹にはカルト分析なんて意図はないのかも知れない。カルトは単なる不条理と暴力の象徴で、困難な時代に個人が生きられる力を得られるというのが主なるメッセージだとか。内田樹は「村上春樹の小説が売れるのは、その中に掃除と食事が頻繁に出てくるせいだ」と書いている。掃除は秩序を取り戻す象徴だし、食事はエネルギーを得る行為だから。掃除と食事をすることで、人間は自分を取り戻し、生きていくことが出来るのだと。その証拠として、鬱病患者に医者は「まず掃除をして、食事を取るように」と指示するのだとか。

なるほど。私も鬱になった友人に「毎日お風呂に入って、ご飯を食べなさい」とアドバイスしたことがある。でも、それは鬱という個人の病だからで有効なのであって、カルト教団の悪意や暴力という社会的な現象には有効なんでしょうか? 社会問題を扱うのなら、精神病とは違う処方箋が必要なのでは? 症状が違うのに、掃除と食事を処方するだけでは藪医者と言われても仕方ない。

自分の周りを掃除をしたからって、その範囲だけは綺麗になるが、世界の混沌はいくらも変わらない。それどころか、事態はもっと悪くなる可能性すらある。不況になったときに節約をするのは自分にとってはよい戦略だけど、社会全体でみんなが節約すると、不況を悪化させる結果になる。皆掃除と食事ばかりに集中するようになったら、カルトももっと社会に広がるということにならないか?

自分が生きる勇気を持つ、ということは大切です。「腹が減ったら戦にならぬ」もその通り。だが、腹が一杯になったからといって、戦ができる保証はない。戦をするには、戦略も戦術も人間も組織も必要でしょう。愛だけ、あるいは掃除や食事という象徴的行為だけで世の中が良くなるのだったら世話はない。その意味で、『1Q84』は問題を矮小化しすぎている。

私は、前に「現代はローマ時代に似ている」というような意味のことを書いたことがある(『世の中が分かる○○主義の基礎知識』PHP新書)。ローマ時代は局地的だけど、グローバルな世界です。一定の秩序はあるけど、ローマという遠い場所で決められ、自分達とは関係ない。そういう規則に秩序に振り回されつつ、日々の生活を生きる他ない。今のアメリカ発グローバリズムとそっくり。

そういう時代を生き抜くには、二つの有力な戦略があった。一つはストイシズム。世界の秩序を宇宙の法則とあきらめて、むしろ積極的にそれに従って生きようとする。現代なら金融ビジネスマンの生き方ね。もう一つはエビキュリアニズム=エピクロス的な生き方。自分達だけの共同体を作って、そこに閉じこもる。原理は「幸福に生きる」です。もちろん、この幸福はいたって貧しい。「一片のパンと一杯の水があれは、幸福これに勝るものはない」とエピクロスは言う。

でも、ローマの秩序に従って文句は言わないという点では、この二つは盾の両面です。つまり「他には何も要らない、幸福があればよい」という生き方は、「金を儲けるためには犯罪以外は何でもする」という生き方とは、社会全体のことは無視して、自分の心の安定を守るのが原理という意味では、鏡の関係をなすのです。

その意味で言うと、村上春樹の戦略はエピクロス的な生き方に見えます。「他には何も要らない、愛があればよい」というメッセージは「世界のことなんて放っておけ、自分の幸福の方が大切だ」という主張ですからね。ただ、それだから、社会に余り触れていない若い世代には、ポピュラリティもあるのでしょう。何か問題があっても、愛があれば僕らは乗り越えられるさ…♪♪ 実に希望に溢れた見方です。流行歌のリフレインみたいだけどね。

それどころか、この単純化されたリフレインは「成就さえできれば、日本を破滅から救える」と説いたオウム真理教の精神構造とも似ています。オウム信者だった林郁夫はそのシンプルな理論を信じて、出家して全財産をオウムに布施して、サリン事件の実行犯にまでなった。彼自身は、患者や世界を救おうという善意に溢れた人間だったのに。殺人をしなければならない羽目になる、というのが一番の謎であり、ポイントだと思う。でも、村上春樹は謎を解く代わりに、カルトの精神構造に寄り添おうとしているようです。でも、その結果、ミイラ取りがミイラになることはないのかしらん。

それとも『1Q84』にはそんな大それた意図はなく、ただ愛という結論にたどりつくまでの長い長いイントロなのでしょうか? 欲望は簡単に消費されてしまうから、人間はそれまで長い長い時間をかけて、その成就を引き延ばす。ローマ時代の貴族は、簡単に満腹になるまいとして、のどの奥をクジャクの羽でくすぐって、吐いてはまた食べたのだとか。それだけでない。面倒なテーブル・マナーとかグルメだとかいうものを発明して、食事を荘重な儀式のようにした。

欲望が満たされるまでの時間を引き延ばし、その欲望を味わい尽くそうとしたのだ。愛だって同じだよね。青豆と天吾も出会ってしまったら、後は退屈な日常が始まるだけ。だから、二人の再会を果てしなく引き延ばす。読者は「いつ彼らは出会うのか?」と固唾を飲む。物語も楽しめる。ハーレクイン・ロマンスと同じ構造だね。

でも、もしこんな物語だとしたら、カルトのために死んだ人、カルトのために殺した人、カルトに入って今でも社会に復帰できない人、などは浮かばれないんじゃないかと思う。カルトを扱うとしたら、こういう人々の無念を受け止めないかぎり、書いちゃいけないと思うけど。それとも、商売のためだったら何をテーマにしても良いのか? カルトをダシにしてハーレクイン・ロマンスもどきを売ってもいいのか?

実を言うと、私は予約100万部突破と報道されたこと自体、本当かしらという気がしている。「ふかえり」の書いた小説がフェイクだったように、この報道自体がフェイクで、それを村上春樹はストーリーの中であらかじめそれとなく触れていたりして…まあ、そこまではひどいことにはなっていないと信じているけど、この小説の出来の悪さを見ると、ちょっと気になる。愛を唱導しながら不信の種を蒔いてしまう。そういう意味なら、『1Q84』はむちゃくちゃ皮肉な小説かもしれません。



6/19

●コンセプチュアルとスピリチュアル

太宰治の生誕百年とかで作品、とくに『人間失格』が売れているとか。ところで、『人間失格』の中に「アント・ゲーム」があるのを覚えていますか?ある言葉の反対語・対義語(アントニム)を当てるゲームです。

●黒のアントは、白。けれども、白のアントは赤。赤のアントは、黒。
「花のアントは?」 と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語だ。星と菫だって、シノニムじゃないか。アントでない」
「わかった、それはね、蜂(はち)だ」
「ハチ?」
「牡丹に、……蟻(あり)か?」
「なあんだ、それは画題だ。ごまかしちゃいけない」
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」
「まずいなあ、それは浪花節の文句じゃないか。おさとが知れるぜ」
「いや、琵琶だ」
「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」
「ついでに、女のシノニムは?」
「臓物」(太宰治『人間失格』より)●●

といった具合。さすが太宰。エッジが効いたゲームですね。では「スピリチュアル」のアントは何か? 私は「コンセプチュアル」だと思います。

「スピリチュアル」は魂的・精神的というほどの意味ですね。宗教性の強い言葉です。医療などでは、末期の患者などの「スピリチュアル」な要望にも応えねばならない、なんてこの頃は言われますよね。「生きるとは何か」「生きている意味とは何か」「なぜ我々は生きているのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」すべてスピリチュアルに関係している。

明らかに、自分が生きている時間より死んでいる時間の方が多いのだから、生きているというだけで奇跡みたいなものだけど、それでも、人間は自分の生きている意味を探し求める。もちろん考えるのは生きている限りだから、生きるというバイアスがかかっている。だから、いくら考えても答えは客観的にはならない。それでも問わずにはいられない。

因果なものです。こういう問はopen-endedなわけ。どこで終わりということがない。一つが満たされるとその次、それが満たされるとその次の問が出てくる。ある意味で欲望と同じ、終わりなき構造をしている。そのうち、問うていること自体が答えのような気がしてくる。宗教問答ってそうなりがちではありませんか?

コンセプチュアルはその反対です。この意味はここまで、と概念や思いをあえて限ってしまうわけですね。そのうえで、「この意味は何か?」と考えていく。「人生の意味は?」なんて法外な問は最初から立てない。答えがあるとも思わない。むしろ、答えが一定の範囲で出てくるような問を立てようとするのです。

この間の原口典之展でも平面作品があったけど、それが実に「コンセプチュアル」でした。紙の上に白と黒で線や平面が描いてある。たとえば、白の紙の右半分に白の絵の具が塗ってあるのに気がつく。その境界にうすく黒の線が描いてある。よく見るとそれは切れ切れなのだけど、ザッと見るとつながっているような気がしてしまう。

二つの平面が区切られていると、人間は当然その区切りのところに線を予想する。だから、線が実際に描いていなくったって、そこに線を見てしまう。実際に描いてあるのは切れ切れなのに、そこに一貫した線を見る。さて、線という形象は我々の中にあるのか、外にあるのか?

こんな具合に、「コンセプチュアル」はある側面を取り出して、そこに注意を集中させる。夾雑物を排除して、それが何か、を追求する。ここだったら、線と面との関係。それ以外の要素は入ってこないように、注意深く排除する。だから原田の作品は、とても禁欲的です。白と黒の画面のみ。

そうかと思って連作をずっと見てみると、黒だと思った面がよく見ると絵の具でなかったりする。黒い金属(?)を張りつけてある。あれ、どこからこうなっちゃったんだろう。あわてて前から見直す。気がついていなかったけど、実は二つ前の作品から、絵の具でなくなっていた。ちくしょー、見落としていたか。視覚の不確かさにまた直面するわけ。

こうやって、ちょうど物理の実験みたいに、自分の視覚/感覚/思考に向き合っていく。「コンセプチュアル・アート」とは、モノを介して、そのプロセスを一つ一つ捉え直す作業だと私は思っている。

でも、こういう分析的な方法に耐えられない人がいるんだな。「美とは何か」「人生とは何か」「生きるとは何か」性急にその答えを教えて欲しい、という人が。それが「スピリチュアル」な人々。彼らは芸術にもそういうものを期待する。

若い人たちは、たいてい「スピリチュアル」ですね。「なぜ?」[どうして?」と聞きたがる。大人が言いよどむと「おかしい」と糾弾する。そんなこと言ったってねー。大人になるってことは、いかに大きなモノを残して時間だけが過ぎ去っていくか、それを自分はどうしようもなく指をくわえて眺めるほかない、ということに気づくことです。実際、私も「空はどうして青いのか?」なんて子どもの問に未だに答えられないまま。きっといろいろな問に答えられないままに、死を迎えるのだろう。それまでの宙ぶらりんの時間が「生」ということになる。

しかし、その宙ぶらりんに耐えられない人は、宗教に走って「これさえあれば大丈夫」と究極の救いを追い求める。神だとか、先祖の因縁だとか、とにかくこの世を一意的に説明できる原理を確保しようとする。

どうやって、それを信じられるようになるか? 心理的なテクニックを使う。他の一切の情報を聞かない。反対を唱える人を「悪人」として抹殺する。聖なる書物を信じる。権威者に帰依する、などなど。自分の信念の中に閉じこもる。すると、現実は自分の思いたいように見えてくる。カルト的心性の本質はこれだね。

近代=モダンとは、こういう心性から手を切って、自分で確実に分かるところからはじめよう、という運動だったはず。たとえば、デカルトの『方法叙説』はすべてを疑うというところから始まった。神や理性まで疑ったあげく、「疑う自分は疑えない」という逆説に気づく。そこからデカルトは理性も人間も世界も再構成するわけ。

その結果どうなったか? 『方法叙説』の最終章の身体論は間違いだらけだし、日常をどう生きるか=倫理については、「慣習と常識に基づいて生きる」などと結構ヘタレになってしまうのだけど、それでもデカルトの懐疑は今でも生きている。なぜなら、明快な方法が示してあるから。たとえ最後で間違ってもどこが間違いかずーっと辿っていける。間違いと分かったら訂正する。そういうオープンな精神がモダンの特徴です。

ただ、これは他の人間への信頼がないと出来ない。人間の寿命には限りがあるから、他人から指摘されて、訂正を続けているうちにどこかでぽっくり逝く。当然間違いは残されたまま。それを誰かがきっと直してくれる。そういう協働への期待って信頼以外の何者でもないだろう。

逆に言うと、皆が「スピリチュアル」に走る時代は、そういう相互信頼が崩れているのでしょうね。だから、自分達だけ救われようと閉じこもる。自分だけが「真理」を手に入れ、それを手に入れていない人を「悪魔」とみなす。そこに異を唱えるとノイズと見なされる。真理の邪魔だから排除・抹殺される。要するに精神がケチなのね。

いったい、どこで「スピリチュアル」は間違えたか? 自分の人生の中だけで全ての問題を解決しようとしたところでしょうね。それをあきらめる。他人に任せる。自分の分かったと思ったところをなるべく明快に人に伝える。問題を明確な形で次世代に残す。そうできれば「スピリチュアル」はなどなくても良いのではないかな。それが死を迎える人間にとって出来る最大のことのような気がします。

そういえば「あきらめる」の語源は「明らかにする」だとか。物事を明らかにすると、どこかであきらめるほかない。こういう逆説を信じられないのが、「スピリチュアリズム」の最大の傲慢のような気がしますね。

6/11

「もの派」の再衝撃

月曜日に横浜のBankARTでやっていた原口典之展に行ってきました。長谷に誘われ、スタッフの和田も一緒。和田が現代アートを見るのは初めてだというので、誘ったのです。私も昔埼玉県美術館でやっていた展覧会で、彼の作品がとっても良かったので、のこのことついていきました。

原口典之は「もの派」と言われるアーティストたちの一人。他に関根伸夫とか高松次郎とか、菅木志雄とか、面白い作家たちが沢山いました。もちろん、解説は長谷眞砂子。一時代、美術の概念を揺るがすような作品を作っていた作家たちなので、彼女の解説の言葉も冴え渡ります。

場所は、みなとみらい線の「馬車道」駅で降りて、徒歩5分ほど。BankARTは日本郵船の倉庫だったビルにありました。美術館らしいのは、旗が立っていることくらい。後は、まったくの倉庫という趣。でも、これがそっけないようで実に良い場所なんだなー。

まず、柱がよい。キノコを思わせるような柱が大きな部屋の中に、何本も立っている。最大荷重23tなどと赤い字で書いてあるのもそのまま。最上階は床もコンクリート剥き出し。屋根には明かり取りの天窓もあいている。レトロ・モダンというのか、懐かしい空間です。しかも、運河に面していて、向う側には赤レンガ倉庫や風車も見える。

そこにごろんと作品が置いてある。もちろん、まず見たかったのは有名な“Oil Pool”。イランのパーレビ国王が買い取ったという作品です。これは鉄製の巨大な浅いプール状の容器の中に原油を張ったもの。原油Crude Oilって見たことありますか? 原油の値段はいくら、ガソリンが高くなる、なんて経済ニュースにはよく出るけれど、実際にホンモノを見たことのある人は少ないはず。情報ばかりで実体を知らない。

黒曜石みたいに真っ黒で光沢があるんですよ。その原油がなみなみとプールの中にたたえられ、ピクリともしない。比重が重いのでしょうね。黒い鏡面のようになるので、天窓の光が映り、自分の顔もくっきりと映る。そこから強烈な匂いが立ち上る。何とも言えない感覚。触れてみたいような、触れたくないような…

昔、埼玉県美術館で見たときには、もっと小さい容器に入っていたけど、それでも、その存在感に圧倒された。というより、「存在感」とか「真っ黒」とか「原油」とかいう単なる言葉を超えて、そこにある「もの」の威力というか、迫力というか、それを感じるしかない。1バレルいくらなんて金勘定を超えた何か。そういう経済情報とは違った何かが、確実にこの世にはあるのだ、ということを思い出させてくれる。ま、こういう表現も言葉にすぎないのだけどね。

一見すると、アメリカのミニマルアートと似ている。前に川村美術館に行ったときのことを書いたけど、そこで出てきた一時期のフランク・ステラもその一派。彫刻ならドナルド・ジャッドなんて人もいる。だいたい、カンバスをただ真っ黒に塗ったり、つるつるに磨いた板を壁に立てかけたり、直方体を壁に取り付けたり、という具合。芸術を表現と考える人には、ミニマルアートは分からないと思うけど、自己表現を極度に切り詰めて「ただの物体」だけをゴロンと提示するあり方に「アメリカ工業社会のリアリティ」が強く感じられる、という仕掛けになっている。

でも、「もの派」の作品はどこか決定的にミニマルアートと違う。工業社会の「ただの物体」というのではない。もっと根源的な、社会や人間の意味を超えた「もの」の存在を思い起こさせる。ミニマルアートが禁欲的ではあっても、美術館という空間に持ち込むことで違和感を感じさせ、攻撃的な社会的意味を持つのに比べて、「もの派」の作品は実につつましやかです。“Oil Pool”のように強烈な匂いがしても、「そうか、これが原油っていうものだったんだよな」と納得させる。ある意味で懐古的ですらある。だから、旧倉庫の空間が似つかわしい。

逆に言うと、アメリカのミニマルアートが「工業社会の表現」という社会的使命を果たして、もう他の芸術の一派にとってかわられたのに比べると、「もの派」は今でも十分衝撃力があると思う。なぜなら、現在の情報化の中で「ものにぶちあたる」という経験はますます隠蔽・回避されるようになっているからです。原油とは何か、紙とは何か、土とは何か、それどころかコンクリートとはどういう経験か、それを個人的に確かめることは後回しにされ、世の中に流通している「意味」ばかりを追い求める。その象徴が「お金」です。

そういえば、「もの派」ではないけれど、赤瀬川源平が昔「千円札を描く」というプロジェクトをやっていました。毎日使う紙幣なのに、さてそれを記憶だけで絵で描いてみようとすると、描けない。その頃は伊藤博文の絵柄だったのだけど、いろいろな人に描かせてみると聖徳太子の絵柄(伊藤博文の前の絵柄です)になったりする。それどころか、ニューギニアかどこかで使われた日本軍の軍札の絵柄まで出てくる。我々が、いかに現実を見ていないで、情報に振り回されているか、証明してくれる実験でした。

しかし、60〜70年代に行われたそういう試みは次第に忘れられて、お金の追求ばかりが肥大した。80年代にはヒッピーならぬヤッピーなんて生き方がクローズ・アップされて、ネクタイを締めてスーツを着て、莫大なお金を稼ぐ姿が「カッコイイ」とされた。アートまでも村上某のように「芸術起業論」なんて言葉で語られるようになった。「お金を稼ぐことが存在の証」という現代にまで続く「資本主義礼賛」の始まりですね。それが、サブプライム・ローンという借金情報ロンダリングの破綻とともに最終的に崩壊したわけ。そういう時代背景を思いながら、“Oil Pool”を見ると感無量というか、何というか。資本主義の興亡までもが、真っ黒な面に映り込んでいる気さえしてくる。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず」と言うけれど、原油は水のようにすぐに世界を浄化してはくれない。むしろ、どっしりと地中に沈んで、周囲の変化を映し出し、その変化を底なしの存在の中に吸収する。表面に映っているように見えるのは、我々のきれぎれの想念や観念。我々が見たいと思っているものが見えているだけ。でも、それは本来何なのか? “Oil Pool”を見続けていると、そういう永遠の疑問の周りをグルグル回ってしまう。まるで、瞑想に耽るための機械のようです。こんなシンプルな仕掛けでこういう瞬間に触れることが出来るのだから、やっぱり「もの派」ってホントにすごいアートなんですね。原口典之展、お勧めです。

6/3

朋あり過去より来たる 

いつものようにメールを覗いていたら、「昔H予備校でお世話になっていましたSです。先生の本見ました。最初は同姓同名の方かと思いました」というメールが届いていました。Sくんは、今から20年前に私が大宮にあった予備校(今はもう廃校になっちゃいました。年月とは喪失の歴史でもあるわけです)で教えていた頃の生徒。「おー、あのSくんか」としばし思いにふけってしまいました。

たしかあの頃はボン・ジョビが流行っていたっけ。そういえば、彼からテープをプレゼントされました。ただ「小論文」という科目はまだ普及していなくって、私は「現代文」と「古典」を教えていた。こういうモロ国語系は何だか肌が合わなくて、授業はなるべく国語らしくなくやろうともがいていた。とくに「現代文」では、よく見るとバカなこともいっぱい書いてあるのに、一応正解を解説しなければならない。しかも、その正解なるものがどうもおかしいことがしばしば。私はことあるごとに「この問題文はねー」とブーたれていました。

そのときは、バブル期で、私は羽田から福岡の予備校まで毎週飛行機で通っていた。そしたら、そこの学生はチョー真面目なので「予備校の先生だったら、問題を尊重すべきでしょう。問題文を批判するなんて生意気です」と反発をくらいました。東京では「ちょっと過激な脱線」で通じた話が、九州だと「身分が下の者が勝手なことを言ってけしからん」となる。士農工商の身分制がまだ生きているみたいでちょっと不気味な反応でした。東と西の文化圏はこれほど違うのだな、とはじめて実感したのもその頃。

でも、Sくんは、そんな私の脱線話を面白がっていてくれたみたい。おおらかで良い人柄なんだなー。神保町のオフィスに来た彼はもう大人中の大人。その落ち着きぶりがまぶしいくらいです。でもその知性的な立ち居振る舞いの中に10代の頃の面影をまだ残している。自分の変化ぶりは自分ではよく分からないけど、他人の姿を鏡としてみないと、よく分からない。果たして、私はあの頃の面影をまだ残しているのだろうか?

そういえば20代の頃など、「先生の作品は停滞してますよ」などと手厳しい批評を喰らったこともあったっけ。哲学科から言語学の研究を経て、今は国立の研究所で脳の研究をしているとか。おー、すごいね。vocabowの沿革などを話し、お互いの20年間の変遷に触れ、ビルの屋上までツアーして、その後神保町の名店ランチョンで軽い食事。ちょっと気恥ずかしい言葉だけど「教え子」が立派になっているのはやはり掛け値なしに嬉しい。Sくん、また寄ってくださいね。

同日、法科大学院小論文Weekend Gym終講。数えてみれば1月終わりから毎土曜日16回、ほとんど4ヶ月も延々とやっていました。受講生の方たちも、すごい持続力だった。本当は4月末で終わりにしようと思っていたのだけど、受講生の皆さんのたっての希望で1ヶ月延長。皆、退屈ではなかったの?

「Weekend Gym本当に勉強になりました! 小論文の力が身についたのは言うまでもなく、頭の使い方も身につけることができました。おかげ様で、最近は日々の勉強が楽しくなっています」(受講生の感想)そう言ってもらえれれば、やりがいもあったというものです。専修大学から京都大・東大まで面白そうな問題は一通りやったはず。私も、皆といろいろ話ながら新しい問題も解いたし、解答例も皆さんの書いたものを元にして再構成したり、と毎週毎週有意義な経験でした。双方向の勉強というのはこういうものですね。

エラソーなことを言わない。問題文であっても批判する。自分の間違いは率直に認める。そういう対話的教授スタイルは今も同じです。30年前に九州でさんざん批判されても変えなくて良かったな、と思います。もし変えてしまったら、ただ「よくある国語の教師」に同化しただけで、小論文を教えるなんてことにならなかっただろう。そういう意味で「社会化」ということは誰にとっても、大変なことなのだと思う。Sくんと再会し、Weekend Gymを終えて、そんな感慨にしばし耽ってしまいました。



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