2009年7月

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『エヴァンゲンリオン』のコンサバ度 

この間、映画館で『エヴァンゲンリオン』を見ました。色々な人が『エヴァ』についてコメントはしているので、どんなもんかしら、と見に行ったのです。見た感じは「なるほど」。これなら、いろいろ言いたくなるはずだ。

なぜなら、この作品は、今の若い人たちの置かれている状況を、SFの象徴を使って直接表したものだからです。だから、誰にでも理解できる。でも、そうであるだけにむちゃくちゃステレオタイプだし、視野も狭い。狭いからこそ、宇宙とか永遠とか新時代とか「向こう側」と一気につながろうと無茶言うんだけどね。

だいたい「使徒」という敵側の設定からして、何だか分からない。昔の敵役みたいに、キャラクターが明確ではない。あるいは「この世を滅ぼしてやるぞー」なんて、極端なことも言わない。ほとんど人格を持たず、ひたすら地球を攻撃してくる。昔だったら、これを不条理absurdityと言っただろう。世の中の仕組み=メカニズムがまだ分からない子供から見たら、たしかに世界はこう見えるだろう。

それに対して、こちら側のあり方は極端に懐古的。町並みは昭和の感じ。学校も木造。出勤時刻になると、サラリーマンたちがぞろぞろ踏切を渡る。私の記憶では、この風景は今から30年ぐらい前です。しばらく来ていてちょっとヨレッとなった下着のイメージというか、自分の身体にぴったりと張り付いたようななつかしい環境。こっちは、明らかに「家庭」の象徴でしょう。

ただ、これは限定された平和。なぜなら、それを取り巻く海はセカンド・インパクト(核爆発か?)のせいで真っ赤に染まり、生物もいないから。この荒涼とした風景は、実社会あるいは経済社会の隠喩ですね。脈絡なく使徒がその向こうから現れ、破壊の限りを尽くす。主人公たちはエヴァに搭乗し、それに対抗する。指揮を執るのは冷徹な父親。反発を感じつつも、その指令に従って戦闘を続けざるを得ない。何か形を持たない「悪」が平和を壊し、絶対的父の指示に従って、子どもたちが死をかけて戦うという太平洋戦争みたいな構図なわけ。

これは、でもグローバル化の子どもたちが置かれている状況とも考えられます。世界を動かしているメカニズムはどうなっているか分からない。でも、いつの間にかそれは影響を及ぼす。家庭が安定した環境に見えたのもつかの間、日々脅威が出現する。それに対抗しようと、スキルや知識を得ようと一生懸命努力する。でも、そんなことで危機に対抗できるとは思えない。でも、そうしなきゃとにかくダメ。容赦なく模擬テストの日は迫り、準備したのにさんざんな成績。あっそうか、「使徒」って模擬テストの隠喩なのか? 

広い世界に出て行こうにも、子どもには生き延びる力はない。だから、エヴァのスーツも(たぶん技術とかスキルとか知識を表している)に立てこもり、「集中力」(?)という何とも頼りない力で動かす。エヴァに搭乗する子どもたちは、世界を救う英雄であると同時に、無力な存在という二重のイメージを背負わされるわけ。自分は今はまだ無力だけど、そのうちにスキルや知識を身につけて、現実世界で活躍できる。エヴァは、その先送りされた自分の能力のイメージだったりして。

そういう意味で言えば、『エヴァンゲンリオン』は見事にチョー保守的かつ体制順応的な作品です。たいていの人は、この経済・社会システムの中で生きていくしか道はない。だから、不安・不満があっても、それを押し殺して、自分のやっていることはとりあえず正しいと信じて続けるしかない。そういう意味で言うと、『エヴァンゲンリオン』は現代社会に順応するサラリーマン予備軍=子どもたちの心情の忠実な反映になっているわけ。結局、この作品は意外に先端的な作品じゃない。オジサンたちが酒場で飲んで会社の愚痴を言うように、『エヴァンゲンリオン』の活躍を見て、子どもたちも憂さを晴らしているのかもしれない。

でも、こういう古典的な「大人になり方」は、今通用するのでしょうか? 産業社会の中で、与えられた仕事を禁欲的にやり続け、皆で豊かになろうというような高度経済成長モデルはもうなくなってしまいました。今は、そういう経済はどちらかというと中国や印度に行ってしまった。日本は、むしろ人のやらないニッチを見つけて、そこを細々やるしかない。だから、父のやったことはもう踏襲できない。ルールは変わってしまった。そんな中で、こういうフロイト的状況に耐えることに意味があるとは思えないんだけど。

そういえば、この作品には古くさい父権のイメージも欠けていません。自分の能力はどこまで上がっているのか、さっぱり分からない。判断も出来ない。「父」の命令を聞いて、一生懸命やっているのだけど、褒められもしない。目の前の平和が取り戻されれば、とりあえず落着。そんなことの繰り返し。フロイト的な状況というのか、教育的状況というのか。今は何の役に立つか自分では分からないけど、教師=父は知っている。だから、反発を感じつつも、その通りやる。そのうちに、教師=父の追い越す能力を身につけることを信じて…。

とすると、林道義だか、今の日本には父がいないと嘆いていたけど、心配には及ばない。むしろ、象徴的な「父」は『エヴァンゲンリオン』の中で活躍しているのです。現実の父親は頼りなくても、「父とはこうあるべき」というロールモデルはアニメのなかに立派に(?)生き続けている。その意味で、『エヴァンゲンリオン』は「保守道徳」の鑑と言っても良い。ならば、『エヴァンゲンリオン』を礼賛する「若手世代」たちは、林道義の同類。意外に高度成長の幻影にあこがれるチョー・コンサバなのかも知れない。若いように見えて古くさい。うーむ、人は見かけによらないですね。気をつけなくっちゃ。



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