2009年8月

8/26

教育の晩夏状態

添削とReal School夏のセミナーと講演に明け暮れていたら、あっという間に夏が終わっちゃいました。いったい、今年の夏は何をやっていたんだ? それなのに、家の前には、毎年のようにセミやバッタの骸が並ぶ。諸行無常の感を強くする季節です。「晩夏」という言葉がありますよね。あのうら寂しさは何とも言えない。

それと逆行するように、世は総選挙で騒がしい。あの政策をどうする、これをどうする、と新聞には毎日のように「識者の声」が掲載される。教育政策についても、これをやれ、あれをやれとうるさい。

でも、前から思うのだけど、教育談義っていうと、日本では初等教育にばかり集中するのは何故か? 私は日本の初等教育は比較的上手く行っていると思う。秩序を守る、読み書き計算が出来る。それだけ出来れば十分ではないか、と思うのです。それにちょっと社会常識があればよい。

それだけやるのも大変な作業です。フーコーの著作を見れば分かるけど、教育は秩序を身体にすり込む作業。教室の構造、机の並び方、私語の禁止、授業時間と休み時間の対比、などなど。すべて、集団秩序の維持に奉仕させられるべく配置されている。「ゆとり教育」なんてあったけど、失敗しちゃいましたね。それも当然。学校は「ゆとり」とは反対の目的のために空間も時間配分も作られているからです。

私は、小学校は「ゆとり教育」なんて言わず、強制/矯正一本槍で良いと思う。小学生に自主性なんてなくていい。でも、問題なのはその後だと思うのです。教育システムが充実しすぎると、中等・高等と進んでも強制/矯正が強化される。一度、秩序が注入されたのだから、後はそれを使って、自分なりに動いてみる期間が必要だと思うのだけど、それが保証されていない。それが日本の教育の最大の欠陥だと思う。

言語はその典型だと思う。母語は人から教えられたものだ。単語も文法も論理も表現のストックも与えられたもの。どれも自分が発明したものではない。だから、最初はひたすら覚えるしかない。外国語の勉強の辛さを考えれば直ぐ分かると思う。しかし、そういう事情を乗り越えて、それを「自主的/創造的に」使う。そうすると、それは自分にとっての「母語」、つまりアイデンティティになる。

文章の書き方には、この構造が明確に出る。ボカボで教えているのは、主に論文というタイプの文章ですけど、これには厳格なほどの決まりがあります。問題と解決と根拠。このどれを抜かしても論文にはならない。根拠も論理と証拠に分かれ、この二つは厳密に内容が対応する。しかも…とめどなく、キマリが出てくる。これをクリアしないと、人を説得できない。つまり自分の意見が書けない。

逆説的なようですが、自分の意見・主張を書くには、言語にビルトインされた、自分のものではない形式に則って書かなければならない。これは、ある種のゲームをするのと似ているかもしれない。ルールを知らないと、ゲームに参加することが出来ない。ルールを守り、逆にそれを利用して、自分のスタイル・考えを他人の分かるような形式にしていくわけ。

つまり、文章が書けるようになるには、二つの段階がある。まず、ひたすらルールを覚える段階。その次には、それを自分なりに工夫してみる段階。そうしてはじめて自分のスタイルが出てくるわけだ。機械の慣らし運転みたいなものですね。組み立てたものを動かして、滑らかに動くように調整する。そうして、はじめて自由自在に動かすことが出来る。

ところが、この頃「文章の書き方」を教えると、初期段階に固着している人が人が多すぎる。一番良くあるのは、「文章を書く」とは内容の真似だとシンプルに思いこんでいる人。こういう人は、オウムのように、どこかで見たような言い回し、陳腐な情報を振り回す。ルールどころか、一挙手一投足まで縛られているわけ。大切なのはルールをジャンビングボードとして、どこまで飛べるかであるのに、鎖につながれたイヌみたいに、同じところをグルグル。これを直すのに、えらく時間がかかる。

次は、「何を書けば良いんですか? 教えてください」と泣きついてくるタイプ。人から教わった内容しかアウトプットできない習慣になっている。書きたい内容は自分で考えなさいと言うと、「それを教えてくれるのが教師じゃないのか。やる気がないのか?」と逆ギレする。困ったものです。

こういう人たちは、初等教育の方法論に過剰適応した人々だと思う。強制/矯正の構造がルールだけでなく、内容にまで刻印されてきちゃったわけね。昔から言う「優等生タイプ」ってこれだと思います。この頃は、一流大学のレベルまでこういう学生が多くて、そらおそろしくなります。どこかで、ルール習得というレベルを離れ、自分なりの工夫を盛って遊んでみたという経験が必要なのだけど、そういう時間が全然取れていないんでしょうね。

残念ながら、「教育」で世界を充満させちゃうと、そういう経験からはどんどん遠ざかる結果になる。むしろ「教育」の裏側、あるいは「教育者」の及ばない範囲でそういう自由は得られる。ルールを頭から信じるのではなく、ルールの裏をかき、それをどう利用すればいいかやってみる。その余裕がないままに、ここまで来て、急に「さあ自分でやれ」と言われるからキレるんだと思う。

その意味で、教育にいろいろと世の中が介入するのは止めるべきだと思います。教師も内容まで関与するのを止めて一歩退く。学生が何かしても、教師や学校のせいにするのはやめる。学生が試行錯誤するのを社会が許す。要するに放っておく。そういう寛容がないと、強制/矯正の構造にばかり習熟した「優等生タイプ」のバカが世に溢れると思う。そういう人が社会のトップを占めるから、社会は更に不寛容になる。いやな悪循環ですね。こういう息苦しい感じが、今年の晩夏の特徴かも知れません。

さて、ボカボではこういう風潮を少しでも改善しようと、今年もいろいろな企画をしています。ボカボの教室では、他のメンバーの考えを聞きそれに応答する中で、自分で考える訓練を行います。間もなく、参加者達の表情がパッと輝き出すのを見ると、その経験が喜びであることがわかります。自分で考えること、人に問いかけ応えることは楽しいことなんですね。

まず、9月初めの「法科大学院 面接対策」。去年はじめて開いて好評だったので、今年も開催。面接は「そのままの自分で行けばいいや」などと思いがちだけど、それは間違い。逆に「こう答えなきゃ」とかちかちになるのもNG。リラックスしつつ、現代問題にもさらりと応答する。そういう域に達しなければならないのです。今年も早稲田・中央などのローの先輩たちが本番さながらの訓練をします。

もう一つは、10月から始まる「法科大学院・国家1種 スタートアップ」。「小論文スタートアップ」「適性試験スタートアップ」とも、今年は、国家公務員1種の対策も盛り込みました。「判断・数的推理」「文章理解」は法科大学院適性試験の「推理・分析」「読解・表現」とほとんど同じです。どちらか一つの対策をすれば、もう一つにも応用可能。法科大学院受験と公務員受験の両方をにらんでいる方は効率的な勉強が出来ます。ぜひお出でください。

8/9

近頃腹に据えかねる著作権の言い訳

この間から、いろいろな大学・大学院のHPを見ていて、憤慨しています。大部分の学校が、自分のところの入試問題を公開していないのです。とくに、「著作権の問題があるから公表できない」と問題文のところを真っ白けにして掲載してあるものが多い。

でも、HPに掲載するために必要な著作権料は1年間に5,250円(日本文芸家協会)ですよ。10年分掲載したって大した額ではないでしょう。どこの大学・大学院も少子化でたくさんの受験生が来て欲しいはず。受験生なら、誰だってそこがどういう問題を出すか知りたい。それなのに、肝腎の問題を出そうとしない。金が惜しいわけでないとしたら、たんに著作権を取る手間を惜しんでいるのか。そうだとしたら、とんでもない怠慢だと思う。

かつて、私も高名なある筆者の文章を使ったことがある。編集者に言うと「あの人は著作権にうるさいから絶対にダメ。使えません」と言う。「そんなことあるものか」と、私はその人の事務所に直接電話をかけて依頼した。そしたら、「いいですよ」とあっさりOK。「ちゃんと言ってくれれば別にいいんですよ」。編集者の思いこみと怠慢だったのである。

どんな筆者だって、自分の文章が世に流通しないことを望みはしない。ただ、自分の作品を使って、知らない奴が不法に儲けているのはおかしい。そういうまっとうな感覚から著作権を主張する。それに対して、「あの人はうるさすぎる」とレッテルを貼り、自分で交渉しようとせずに、ただ敬遠する。その態度にいらだって、「よーし、そっちがそう来るのなら」と、筆者の方は態度を硬化させる。こういう関係はあまりにも不幸だ。風通しが悪い。コミュニケーションの欠如そのもの。何が悲しゅうて、こんなひどい関係をわざわざ作り出すのか?

怠惰な人間のやることは、こういう風に世の中を悪くしていくのである。権利者にはちゃんと許可を取ればいいのだ。やるべきことはそれだけ。それなのに、「権利を振り回されるのではないか」とやたらと怖がって敬遠する。「強欲だ」と陰口を言う。それくらいなら、情報開示をしなきゃいいと勝手にリベンジしようとする。馬鹿を見るのは、情報を隠された受験者たち・読者たちである。

何が「情報化社会」なのか呆れる。むしろ、実際にやっているのは「情報隠し社会」じゃないか。やるべきサービスをちゃんとやる。その最低条件もクリアできないのなら、大学職員なんて辞めた方が良い。ただの無駄飯喰らいだ。官僚の悪口をあれこれ言う前に、ちゃんと情報開示しない自分達の方を改革すべきだと思う。もちろん、著作権者の方も何でもできると思わない方がよい。許可を求めてきたら、粛々と許可すべきだ。正当な理由もなく、著作物を掲載を拒否するなんてとんでもないことだ。

しようがないから、私たちボカボは受験生たちの好意にすがっている。受講者たちは「お世話になったから」と自分達が受けた学校の問題を必ずと言っていいほど持ってくる。それを元にして、我々は小論文の方法を教え、文章の読解を教え、ともに議論して問題理解を深める。有り難い。涙が出るほど、善意の関係なのである。でも、本来なら、こういう苦労はすべきものではない。誰だって、簡単に問題が手に入って当たり前ではないか。それにボカボには手に入って、他の受験生は手に入らないなんて、不公平だと思うよ。

それに、この傾向が続くと、日本人の言語能力は確実に低下する。まず、英語力が大変なことになる。今や大学では英語学習のために、自由に英文が使えなくなっている。著作権を取るのが面倒だから、自分で書いた方が速いというわけ。その結果、大学の教員が自分達で英文を書いて、それを学生に読ませる、というシステムになった。某有名大学もそのシステム。でも、これは多様性を確実に毀損する。お手本としてもレベルが低くなることは間違いない。

それどころか、こういう著作権バトルばかりしていると、ネット上の日本語だって確実に低くなる。ネットで出回るのは著作権フリーの素人の陰口とかくだらん感想ばかりになる。レベルの高い文章は駆逐される。そういう文章ばかりを見て育ってきた人々の言語感覚がどうなるか、2ちゃんねるの惨状を見よ! こういう読者が好む文章とはどうなるか、私は本気で心配している。課題文を削除した人たちはこういうことに手を貸しているのだ。日本の文章を悪くした責任をちゃんと取ってくれるんだろうな! (柄が悪くて済みません。でもすごみたくもなる…)

8/2

筆無精の筆ならし 

三日坊主の日付を久しぶりに見てゾッとしました。7月はたった一回しか書き込みがない。我ながらひどい筆無精です。職業はwriterなんて言えたものじゃない。

思い起こせば、7月はいろいろなことがありました。映画にも行ったし、高校の講演にも行ったし、高齢社会についての講演も聴いたし、どれも有意義だったと思うけど、何も書かなかった。

もちろん、言いたいことは山のようにある。まず、映画はひどかった。前に沢木耕太郎について文句を言ったけど、今回もまたまた失敗。沢木の映画評を見て、つい面白そうかな、と思ってしまったのが大間違い。『扉を叩く人』。妻を亡くした初老の大学教授がひょんなことからアフリカ出身の青年とルーム・シェアをすることになり、アフリカの太鼓ジャンベを習って「しだいに心を開いていく」物語だそうな。

しかし、途中でその青年が不法滞在で収監され、大学教授は収容所に面会に行くのだが、結局アフリカに強制退去させられる。教授は一人地下鉄の駅でジャンベを叩く。ヒューマン・ストーリーという雰囲気で沢木は書いていたけど、台本が甘い。まずジャンベで「心を開く」ってどういうこと? 公園で皆で一緒に叩くところもあったけど、だから何? そんなことで孤独がイヤされるのなら世話はない。

青年との交流も、ただ収容所に面会に行き続けるだけじゃね。遠くに住んでいた青年の母親も心配して駆けつけるのだけど、結局「私たちにやれることは何もない」とあきらめる。そのうちに、教授と美人の母親はデキちゃう。次の日、母親は息子の後を追ってシリアに行く。あまりにもスラスラと話が進んで、何だかチョーシが良すぎるのです。

要するに、不法滞在者というテーマを利用して、適当に初老の男の再生とラブ・ストーリーに仕立てて一丁上がりって感じ。「心の交流」が持てて、結局、教授は何も失わず、美しい思い出を得る。そんな自己愛にスパイスとして使われたアフリカ人こそ良い面の皮だと思うけどね。

結局、こんな安っぽいオタメゴカシでアフリカ人に対して同情したというイメージを拡げただけ、害悪をまき散らす。それを「良心的」な映画だなんて、沢木某の鑑賞眼はどうかしているよ? 間違った映画の鑑賞態度を広めているだけなんだから。もう、身の丈に合わないことをやるのは止めた方がよいと思うよ。

そもそも、良心や善意というのは気をつけないと自分に甘くなる。それどころか悲惨な結末も招く。かつて、ある本で読んだけど、アメリカの会社がアフリカの子どもたちに粉ミルクを送った。栄養を付けてもらおうと思ったのだ。ところが、その結果、たくさんの子どもたちが食中毒を起こして死んでしまった。

なぜか? 粉ミルクはお湯で溶く。ところがアフリカではガス設備など普及していないから、簡単にお湯を沸かすことができないのです。だから、母親たちは粉ミルクはお湯で溶いて赤ん坊に飲ませた後、残ったミルクも取っておく。それをそのまま次の日赤ん坊に飲ませる。当然、細菌がむちゃくちゃ繁殖しているから、飲んだ赤ん坊は下痢を起こして死ぬ。

つまり、善意と良心だけでは不十分で、その実現の仕方が問題なのです。そういうところをきちんと描かないで、ボンヤリと「国家の不条理」は良くないとか、描くからダメなんだ。そういえば、昔の左翼の生き残りとかに、こういうアマちゃんがいたよなー。

逆に、国家の側が良いことをすることだってある。国際文化会館で、日本政治の研究者ジョン・キャンベル教授の「日本の高齢化社会」という講演を聴いたけど、なかなか良かった。その中で、彼が強調していたのが「日本の官僚は比較的良くやっている」ということ。

とくに面白かったのが、日本の民主主義のモデルはアメリカにあるが、こと厚生行政に関する限り、アメリカの民主主義は“terrible”だそうです。素人の政治家たちが勝手なことを言うから、制度が無茶苦茶にいじられ、悲惨なことになる。それに比べれば、日本の官僚たちはきちんと制度設計していると言うのです。たとえば年金、健康保険制度など、アメリカと比べれば日本はかなりまし。ただ、そこに政治家が人気取りで介入してくるから、おかしなことになる。さもありなん。

そういえば、「官僚が悪い」はこの頃の決まり文句です。官僚が社会をダメにしたみたいに言う。A新聞の経済欄なんて、必ず「官僚支配をなくせ」で終わっている。じゃあ、官僚がいなくなったらどうなるか? 素人が勝手なことを言ったら、たいてい経済も社会もメチャクチャになる。たとえば、中国の文化大革命。工場の下っ端が、工場長の命令は「権力的だ」なんて難癖をつけて、首にした。そのおかげで中国経済は3割ぐらいに落ち込んだ。

そういえば、かつてA新聞は文化大革命を一貫して支持していた。きっと「官僚バッシング」首謀者はかつてのマオイストの生き残りだね。…ええっと、後は高校の講演のことを書かなければならないんだっけ?

…なんて、いろいろ考えているうちに、またいつもの年のように志望理由書の洪水がザザーッやって来て、すべてを押し流してしまったのです。洪水と共に怒りも記憶も去りぬ。Gone with the flood of statement!  毎日毎日、ひたすら他人の文章を直す。「助けてください」と悲鳴のようなメール。放ってもおけないから、修正しては送り出す。そんなことを繰り返していると、もう自分の頭脳の中には帰れなくなる。言葉の森の中に迷い込み、出られない。

それでも、8月になってやっと一息つきました。この文章も久しぶりの復帰、筆ならしのつもりです。どうでしょう? 何とか書けているでしょうか? せめて日本の官僚の文章並みには?



Homeに戻る