2009年9月

9/28

わざわざ罪を作り出す社会構造

私は芸能界には別に興味ないのだが、沼尻エリカという女優が事務所を解雇されたのだとか。その理由が、日食の時に、電動機自転車に乗って遊んでいたら、それが本来はナンバープレートを必要とする原付扱いであったため、視聴者が通報したんだとか。

もしこういう「告げ口する小学生」まがいの人々ばかり繁殖してきたのなら、日本社会はエライことになっていると思う。進んで権力の手先となる人々が世に溢れるのだから。監視カメラの是非などが問題になっていたけど、これならカメラなどなくても、「監視社会」はりっぱに成り立つ。

電動機自転車が原付かどうか、これは分類の問題だ。警察は「原付」にした方が自分のコントロールが効くので、そうしたがるだろうが、警察が言ったからと言って、正しいわけではない。要は、事故が起こらなければいいのであり、そのために規則がある。電動機自転車が原付かどうかも、その原則に基づいて決めるべきものだ。それを規則を守ること自体が目的となる。こういうのを本末転倒、難しい言葉で言うと「規則の物象化」というのだ。

今の日本社会は、こういう本末転倒=物象化で溢れている。きっと戦後一貫して大きな社会変化がなかったので、規則の細分化の方にばかり頭が行ってしまったのだろう。「小人閑居して不善を為す」の典型みたいだ。所詮文明など、人類の狂気にすぎない。そう考えれば、一度、終戦後のように社会が機能停止してしまわないと、「あー、規則なんてこんなものか」と正気に戻らないのかもしれない。

こういう本末転倒は、薬物に対する世間の反応にも表れている。たとえば、覚醒剤を使うことが良いとは思わないが、騒ぎすぎでは? 何でも取り締まれば良いというものではない。そもそも現代では、確実な快楽を得ようと言ったら薬以外残っていないのではないかと思う。食べ過ぎると太るし、ブランドは飽きるし、飲み過ぎると肝臓をやられるし、恋愛やセックスは人間関係が面倒だし、家や車も一応持っている、となったら、後は薬ぐらいしか出来ることがない。

私は、薬物にもJ.S.ミルの「他者危害原則」を適用すべきだと思う。つまり、他人の迷惑にならないことなら、基本的にやって構わない。覚醒剤の幻覚で、人に危害を加えたらどうするのだ、という議論があるが、そうなったら罰すればいいだけの話だ。犯罪をする前に罰することはない。そもそも、覚醒剤を使うと他者を傷つける率が増えるというデータがあるのかどうか。また、その比率が増えるからダメだという原理なら、そうならない大麻は即自由化されねばならない。

中毒者が出たらどうするのかって? 今でさえ、失業率が上がって職がない。グローバル化でさらに職が減るのが必定なのだから、中毒者が多くなるのは、むしろ失業者に不満を与えない効果があるはずだ。エイズ蔓延が心配なら、安全な注射器を配ればよい。また、犯罪に手を染めるのは、薬がイリーガルになって値段が高すぎるからだ。許可すれば、一気に値段が下がって、タバコ並みになるだろう。そうしたら、生活が破綻しないから、犯罪には走らない。

要するに、薬物が作り出す社会的トラブルはすべて経済の問題である。合法にして、正常な経済の中に組み込めばずっと害は少なくなる。アルコールを禁止した禁酒法がアメリカでマフィアを跋扈させ、犯罪を多発させたように、余計な法律があるから、かえって社会不安が引き起こすのである。だいたい、この頃の刑法の改定など、ほとんど薬物がらみであり、そのコストだってバカにならない。そろそろ、自由化した方が楽だよ、という声が出てきても良さそうだと思う。

こういう馬鹿げた規則に血道を上げる原因の一つに、現場に通じていない人間が規則を作っていることがあると思う。そういえば、沼尻エリカの夫の高城剛が書いていたけど、着メロの著作権をどうするか、ということを着メロなどやったこともない人間=有識者が決めているのだという。要するに、その資格も経験もない人間が、たまたま何かを決める場所にいるから、自分達の思いこみで議論しているだけ。これじゃ、規則が現実から乖離するわけだよね。こういう不条理な権力配分が、今の日本の閉塞感を生み出しているのだとしたら悲しいものがある。

ところで、ボカボでは10月から恒例の「法科大学院・国家1種 小論文Start Up!」「法科大学院・国家1種 適性試験 Start Up!」を行います。去年も、ボカボからたくさんの合格者が出たけど、とくにめだったのが「Start Up!」に出ていた人の健闘です。とくに適性試験は今度で今までの形式は終わりだけど、なんだかんだと言って、早めに対策をした方が確実に伸びる。これは、小論文も同じです。また、これは毎年の傾向だけど、10〜11月の国公立を目指す受講者も多い。毎回の議論の中で思考が鍛えられるから、格好の対策になるのだとか。その議論のレベルは、きっと政府審議会などを遙かに超えた本質的なものだと思いますよ。来たれ、Start Up!に。

9/16

チャンプルとしてのスタートアップ!

前回チャンプルの話をしましたが、10月からの「法科大学院・国家1種 小論文Start Up!」もそうです。国公立をねらうボカボ経験者と初心者が一緒に勉強します。この頃の若い人は、ついキーワードで考えるから、「Start Up!」って易しい問題をやる初心者向きの講座なんでしょう、と聞いてくる。そうではないんです。

私は自分が小論文を教えだして、色々なことを学んだと思っています。それまで無自覚にやれていたことを、他の人に伝えるという中で、その意味を考え出す。それを繰り返す中で理解が深まる。考えてみれば、文章を書くということは「自己表現」ではなく、「他人への通路を見つける」ということです。

だとすれば、熟練者と初心者が一緒にやって悪いということはない。もちろん、熟練者特有の問いにはボカボ・スタッフが答えるし、初心者の疑問には自ら答えることで自分の意図をより正確に表す技術を磨かれる。そういうことだと思います。

問題だって、易しい/難しいだけで区別できるもんではない。表現は易しいのに、考えだすと大変という問題も多い。東大法科の問題なんて見た目が難しいものなどほとんどない。でも、考えでがある。根本的な問題は、いつもシンプルな外見をしているものです。

そんなわけで、「自分は小論文が書ける方だが、国公立にはちょっと不安かも」と思っている人も、心配せずに「法科大学院・国家1種 小論文 Start Up!」に来て欲しい。きっと、そこで確認することが多いはずです。また、初心者は何も考えずに、とにかく体験することです。文章を書くことは、ロースクールに行ってもずっと続けなきゃならない。その意味で、いくら早くはじめても早すぎるということはない。そういえば、ボカボの受講者はロースクールで「憲法」の成績が良好であるという余録もあるようです。「憲法ってほとんど小論文ですよね」とかつての受講者たちは言う。

さらに言えば「法科大学院・国家1種 Start Up!」と言うけれど、実はMBA志望などの人にも来てもらいたい。素材は人権なども入るけど、未修者の問題は実は法律には限らない一般的な社会問題です。コンフリクトの処理やベストな問題解決など、発想はMBAでも十分使える。社会科学全般の思考を深めるにはもってこいです。その意味で、チャンブル・チャンプルはこの講座のキーワードでもあるのです。

もちろん来年受験準備の方は「法科大学院・国家1種 適性試験 Start Up!」への参加も大歓迎! 今年は、特に適性試験はやさしくなったとは言っても、妙なところで取りこぼしている方が多いようです。せっかく実力があるのに志望校を1ランク下げなければならないのは残念です。今からしっかり基礎を固めておきましょう。おそらくボカボは唯一、「法科大学院 適性試験」の少人数対面授業をおこなっている所です。苦手意識のある人も、講師に納得できるまで質問して疑問もすっきり解決します。まず、適性試験で高得点を取ることを目指しましょう!


また、今年度から法科大学院 Start UP! 講座は「国家1種」試験にも対応させました。なぜなら、ロースクール受験者は「国家1種」受験を併願する場合が多いのですが、試験内容も共通点が多いのです。ですから、両方の試験に対応させ、効率よく学べるように、カリキュラムを工夫しました。ほら、ボカボのチャンプル精神は健在でしょ?

来たれ、「法科大学院・国家1種 Start Up!」チャンブル・チャンプル講座へ!

9/10

チャンプル・チャンプル!宣言

この一ヶ月、一念発起してインドネシア語を習っています。柳田国男は40歳をすぎての外国語習得は時間の無駄だと述べているし、私も学校時代いろいろ語学に手を出して失敗したので、インドネシア語はなるべく避けていたのだけど、長谷眞砂子がバリに家を持ったので、もう観念するしかないと思いました。これからはお手伝いの人とか、庭掃除の人とかと、たとえば「椰子の実取ってね」なんて、地元の人とも話さねばならないでしょうからね。

でも、実際に習ってみると、これが結構楽しい。まず先生が格好いい。東京外語大大学院のKくん。サッカーに情熱を燃やし、ギターも弾き、演劇の舞台にも出るという絵に描いたような好青年です。一寸見には、黒澤明の映画『七人の侍』にでも出てきそうな感じです。

インドネシア語自体も素敵です。時制や人称による変化がなく、分かりやすいということもあるけど、発音が可愛らしくて快感。たとえば、「もうご飯食べた?」は「スダッ・マカン・ブルム?」と言う。何となくリズムが歯切れ良くって、いかにも「これから屋台で飯でも食おうぜ」みたいな感じが漂いませんか? 欧米語の厳めしさという仰々しさがなくてカジュアルな響きがする。

それに、インドネシアは親日国家の最たるものです。よく「左翼」の人々は「アジアの人に贖罪を!とかギャアギャア喚くけど、そこでいう「アジア」とは、たかだか中国と韓国・朝鮮とシンガポールに過ぎない。後はせいぜいフィリピンかな? 彼らの頭の中には、マレーシアもベトナムもタイもインドネシアもミャンマーもすっぽり抜けている。そもそも、そういうことを言う連中はアジアなんて行ったこともないのだろうと私はにらんでいます。

とくに、インドネシアでは、日本軍兵士は独立戦争に協力したので、「独立の英雄」「救国の英雄」になっている人が多い。バリ島には日本人兵士の石碑まで建っているらしい。これで、日本人の評判が悪かったらおかしいよね。私がバリに行き始めたときは15年以上経つけれど、日本人と見ると「これ知っているか?」と軍歌を歌ってくれる老人がまだいた。

Kくんによれば、インドネシアでは文化や社会が何となく日本と似ていると言う。島嶼国家だし、大陸文化の影響をあれこれ受けた「雑種=まぜこぜ文化」(インドネシア語でチャンプル・チャンプルと言う)だし、それぞれの地方の特色は強いし、近代化以前は小さなスペースの中にいくつも「国」があった分権状態だっし、稲作文化だし、年寄りを敬うし、葬式・結婚式が派手、などなど。バリはとくにヒンドゥー教なので神様も知っているものが多い。

しかも、世界第三位の人口ですよ。近頃、インドや中国の購買力が上がったことばかりが注目を集めているけど、インドネシアだって2億人以上もいるのだから大したものです。石油や鉱物資源も豊富。自然だって豊か。親日で人口が多くて日本からも比較的近くて自然がよいと条件がそろっているのだから、韓国とか中国とか面倒な国と付き合おうとするばかりじゃなく、日本はもっとインドネシアに肩入れした方が得だと思う。

でも、日本はその辺の事情をうまく利用しているとは思えない。この間、フィリピンとインドネシアから介護の人を呼ぶという制度が出来たが、バカばっかりやっているとKくんは憤る。最初、300人受け入れると約束して、経済事情が変わったからと言って、60人返してしまった。その人たちだって、日本に来ようとするからには日本語塾に通うとか、それなりの準備もしただろう。優秀な人材も集めたはずだ。それを補償もしないのは卑怯じゃないか?

さらに、日本にいる3年間に日本語に熟達して、日本語の介護士試験に通らなきゃならない。仕事をしながら日本語の勉強をさせて、日本人と同じ条件で試験させるなんて、ほとんどイジメとしか思えません。日本語のカタコトだって構わないはずだ。自分達の英語力を考えてみろ!

しかも、日本語を教えるって言っても、日本語教師がインドネシア語を話さない。日本語を日本語で教えたって効率が悪い。日本のジェット・プログラム(英語を英語で教える)の失敗を見れば明白なはず。フィリピンは英語だから、英語と日本語が出来れば何とかなるだろうって妥協して教師を集めたらしいが、それってインドネシア人に対する明白な差別だろう! 3年間で合格せず、インドネシアに帰る羽目になったたら、彼らは間違いなく日本に憾みを抱き、親日家から「反日家」になるだろう。

しかも、今度のことについては、政府からインドネシア語学会に一言の相談もなかったとか。政府から諮問されれば、皆喜んで協力しただろうとKくんは言う。ちょっと配慮してやれば、問題は解決するのに、わざわざ事態を悪化させているのはなぜか?

原因はハッキリしている。日本の中の看護師とか介護士とかの圧力団体が「自分達の仕事がなくなる」とか「時給が下がる」とかイチャモンをつけているのだ。官僚の方もそういう奴らがうるさいので、「条件を厳しくしますから、それほど影響はないですよ」となだめにかかる。それに対して、インドネシアの少女たちには自分達の声を届ける圧力団体がない。その結果、こういうむちゃくちゃな制度が出来上がるのだ。

しかし、はっきり言っておくが、日本に来ようというインドネシアの少女たちは、介護の仕事でもして小金を稼ごうという日本の介護士志願より数段人間として上等なはずだ。日本で働けると希望に燃えているインドネシアの少女たちと、日本のデモシカ介護志願を総取っ替えすれば、日本の介護のレベルは数段上がるはずだ。それなのに、声が大きい者の言うことばかり聞いて、勤勉で能力ある人間の声が通らない。

そもそも、介護の仕事の時給なんて、これ以上下がりようがないくらい落ちている。汚れ仕事を嫌がる日本の若い層がやるものだろうか? しかも、少子化で労働力がなくなるといって騒いでいるのだから、若い能力のある人々を積極的に入れるべきだ。そういう勤勉な人々が多くなるのは日本社会のためでもある。それも、中国や韓国など、日本をrespectしていない連中を入れても仕方がない。自分達の国を助けてくれた、と信じている国の人々を優先すべきだ。

ムハマド・ユヌスは途上国の人々に対して、物資やカネの援助をしてもダメだという。それは援助を期待する体質を生む。むしろ、自分達の力を発揮して、自分達の生活を向上させる仕組みを作るべきだという。だとするなら、この介護士の制度はうってつけだ。一生懸命やれば、必ず報われる。ならば、彼らが成功できるように後押ししてやるべきではないのか? 日本の圧力団体の言いなりになるなんて、この制度を作った奴らは何を考えているんだ? 末端に矛盾を押しつけて、自分達はのほほんと既得権を守る。こういう連中には即刻退場を願いたい。

そもそも、日本で働けるという希望が大きくなれば、アジアで日本語を学ぼうという人が増えるはずだ。そうなれば、海外旅行をするのに英語でなけりゃ、なんてことにはならない。日本語がアジアでのリング・フランカ(共通語)になる。これで、「英語でしゃべらナイト」なんて積年の英語コンプレックスも雲散霧消。英語を第二公用語にしろ、なんて妄論/暴論よりも数段すぐれた考えだと思うけど、どうだろうか?

インドネシアも日本も、「自分こそが正統だ」とか「文化の源だ」とかケチで傲岸な優越コンプレックスがない。良いものは皆外からやってきた。その恵みを受けて、生活しやすいように工夫してきた。その結果、いろいろな文化が流れ着き、混じり合い、吹きだまり、発酵して、独自の文化を生み出した。こういうチャンプル・チャンプル!精神は貴重だと思うし、それを共有するという人々とは連帯すべきだ。地理的に近いからと言って、「東アジア文化圏」などと安易にひとくくりにして、互いに角突き合わす関係よりずっと生産的だと思う。




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