2009年10月

10/21

個人=故人をしのぶ

日曜日に東京賢治の学校でひらかれた「竹内敏晴さんを偲ぶ会」に行ってきました。竹内敏晴は私の師匠のひとり(もう一人は小室直樹)で、若かりし私は彼の演劇研究所に7年ほど演出助手としていました。ほとんど20代のすべてです。この時代が人生の方向を決める時期だとしたら、私は竹内敏晴で人生を決定したことになる。

はじめて彼の姿を見たのは22歳の時だったかな。その頃中野坂上にあった地下の小さなスペースに行くと、研究所の卒業公演の稽古をつけていた。それまで芝居の稽古はいくつか見ていたので珍しくはなかったのだが、彼の演出ぶりには目を引きつけられた。「こう座って、こう立って、こんな風に言ったら」とやってみせる。普通は、いくらそんなこと言ったって、なかなか結果は変わらない。人間なんてそんなものです。

ところが、その理路を役者がたどっていくと、一瞬で演技ががらがら変わっていく。「なるほど、ここはそういう意味だったのか」と新しい世界が開ける。人間行動のロジックを、これほど精密に認識し、それを人に明確かつ具体的に伝えられる人に、私はそれまで会ったことがなかった。「この人の元で学びたい」とそのとき決意しました。

それから、彼の元でいろいろなレッスンを受けた。たとえば「トラの飛び込み」。いわゆる飛び込み前転。基本的な体操だが、やり方に特徴がある。マットの向こう側にハンカチを丸めたものを置く。それをウサギと見立てる。自分はトラだ。「うぉーっ!」と天に向かって吠える。か細い声しか出ないと、「ダメ、もう一回」とストップがかかる。「うぉーっ!」「それ行け!」走り出す。マットのところで踏み切り、空中に飛び出す。ハンカチ=ウサギに飛びかかる。後のことはもう覚えていない。気がつくと、手にはハンカチ=ウサギを握っている。「どう飛びつこうなどと考えるな。ただ、トラになる。飛びついてしまえば、後は身体が自然にやってくれる」というのが彼の教え。

あるいは「出会い」。部屋の両端に二人が後ろ向きに立つ。竹内さんが手を叩くと、振り返って相手に向かって歩き出す。後は? 「何をやっても良い。ただし、言葉は使わないこと」。いったい何をやればいいのか? とりあえず相手にお辞儀をしてみる。落ち着かない。両手を握ってみる。何だか違和感がある。握った手をどうして良いか分からない。そのうち、相手は手を振り放す…いったいどうすれば出会えるのか? でも、「出会い」ってそもそも何だ? 私のやっていたのは単なる「お行儀」なのか? そもそも、私は他人に何を望んでいるのか?

「話しかけ」もやってみた。数メートル先に背中を向けて聴く人たちが座る。その人たちの誰かに向けて話しかけるだけ。「こんにちは」でも「良い天気だね」でも良い。しかし、これがなかなか上手く行かない。「声が届かない」「誰に言われているか分からない」「私を飛び越して向こう側に行った」「空中で拡散した」などなど、聴いている人からメタクソに言われる。話しかけているつもりで、ちっとも声は届かない自分。何だ、こりゃ。

さまざまなゲームというか試みをしている内に、自分がいかに人にいい加減にしか触れていないか、上の空か、思い知らされる。なかなか出来ず、怒られたり、笑われたり、ときにはちょっと評価されて喜んだり…。そんなことの繰り返し。感覚を日々揺すぶられる中で「自分とは」「他人とは」「世界とは」などと根本的な疑問を考え出す。思えば、良い青春を送らせてもらった。

「でも、独り立ちしなくっちゃな」と思いはじめて、研究所を辞めてから25年。会ったのは数度。その間、ずーっと彼の元で学んだことのはなんだったのだろう、と考え続けてきました。去年の秋に久しぶりに彼のレッスンに出て、前より緊張せずに自然体でいられた。またこれからつきあい始めようかな、と思ったら、ガンのため急逝。でも、亡くなる前に会えて良かったと思います。

この年になると、葬式に出席する回数が多くなる。日本の葬式は湿っぽくていけない。坊さんの読経の声があり、人々は喪服で不機嫌そうに集まり、神妙な表情をつくり、霊柩車が不安そうなクラクションを鳴らし、粛々と火葬場に向かう。何であんなにウソっぽい陰気と悲しみを装うのか?

それに比べると、竹内さんの「偲ぶ会」は良かった。秋晴れの多摩川の川べり。ぽかぽかと暖かい。誰も不機嫌そうではない。退屈な読経もない。皆ニコニコしている。楽しそうに思い出を語る。ときどき、彼の言動に笑い声も混じる。喪服を着ている人もいるけど、ジーンズ姿もかなりいます。それでも、故人を重んじている感じ、尊敬の念が満ちている。

これは彼の生き方にも関係していると思う。天から授けられた使命を、やるべきことをすべてやりきった、という感じがある。彼にしかできないことを、彼なりの仕方でやり抜いた。まさに「天職」Berufですね。

実際「竹内敏晴ってどんな人?」って言われると、まず肩書きに困る。一応「演出家」とは言うのだけれど、実は芝居の演出をやっていたのはずいぶん昔です。この頃は、教師や心理学者や子どもたちを相手に、もっぱら上に述べた「レッスン」しかやっていない。それを巷では「竹内レッスン」と言うらしい。「どんな人?」「えーと、レッスンをやる人」「どんなレッスン?」「竹内レッスン」「???」職業名なのにもう固有名が出てきてしまう。こういうのは、他には野口三千三の「野口体操」くらいしか知らない。

しかし、「野口体操」なら、少なくても身体を使うことだと分かるけど、「竹内レッスン」はそもそも何のレッスンなのだか。言葉のレッスン? 身体のレッスン? こころのレッスン? からだとこころのレッスン? 人間関係のレッスン? 演劇のレッスン? 哲学のレッスン? そのどれでもあり、そのどれでもない。しようがないから、「竹内の…」と名前を出して名付けてしまったふりをする。

哲学では、固有名とはそもそも名前なのか、という大問題があるけど、彼の「レッスン」も、おそらく彼のやっていたことの社会的記号ではない。「竹内?晴」という固有の存在の仕方が、他人と世界に向かってパワーとなって溢れ出たものだったのだと思う。そう言ってみて、やっと落ち着く感じがする。

だから、たぶん彼の仕事の形式を踏襲する人はいるけど(私も大学で教えるときは使っている)、それと同じほどの集中度、同じほどの精密度でやれる人はいない。つまり弟子は沢山いるけど、後継者はいないのです。後継者になろうと思ったら、そこには「××レッスン」と自分の名前が入る。つまり、彼の方法とは必然的に離れる。離れる形でしか彼と関わるしかない。そういう逆説的な構造をしているのだと思う。

でも、個人が個人に影響を与えるってそういうことだと思いませんか? 「個人」とは「他の誰もその人には代われない存在」です。彼がいなくなったら、誰も彼の代わりはできない。できるのは、彼がやろうとしたことは何だったのだろう、と自分一人一人で考えて、それを実行していくこと。でも、それは彼ではなくて、私のすること=仕事になる。そうやって、私は彼と分かちがたくなっていく。そうやって、自分も誰かにとって代わりのきかない存在になっていく。

だから、「偲ぶ会」に参加した人は誰も悲しがってはいなかった。涙を流していた人はいたけど、天職に出会うという幸運な存在に自分が触れ得たし、自分のこれからの方向も決まって幸運だったし、という喜びやうれしさもそこには確実に入っていたからだ。願わくは、自分もそうやってあの世に送られたいと思う。たぶん、無理だろうけど。きっと私の葬式では、お追従や形だけのお悔やみばかり、裏では悪口も言われて終わりだろう…

新聞の死亡欄には、竹内敏晴(本名・米沢敏晴)と書いてありました。私は、彼の「竹内」という名は、二度目の名前だとは知っていた。青年時代に何の事情でか養子に入ったと言う。しかし、もう一度名前を変えていたとは知りませんでした。何かに帰属すること、何かの一部であること、自分をそういう形で確認すること。それが普通であるのに、彼は「竹内」であることもやめていたとは…。戦後という時代は、こういう独自の自分の支え方=個人を生んでいた。それは結構すごいことかもしれませんね。合掌。

10/10

この頃、聞いたこと・考えたこと

在日コリアンの友人が「韓国では、日本にこれだけ多くの在日朝鮮/韓国人がいるとは、実は知られていないんですよ」と言う。えーっと絶句してしまいました。政治犯などが、強制連行などで日本に連れてこられたという政治的な事実は知っていても、それ以外に経済的理由などで日本に来た人が何万人もいるとは知らないらしい。だから、在日コリアンの人が韓国などに留学しても、「韓国語を話せない在日コリアンなんているのか?」とびっくりされたり、逆「差別」されたりするらしい。すごい現実認識だよね。

日本人と韓国・朝鮮人の話は実にtouchyな話題だが、案外、基礎となる事実自体の共有がないままに、机上の言葉が応酬されていることが原因のような気がします。「歴史認識の共有」などという言葉が、前に流行ったけど、あまり進展はなかったようですね。でも「棄民」とか「強制連行」とか政治の話をする前に、まず、どれくらい沢山の在日朝鮮/韓国人が日本に住みついているか、その人々の状態がどうなっているのか、統計的な数字だけでも共有に出来ないのでしょうかね? そうすれば、ずいぶん「認識」が変わってくると思うのだけど。

もう一つ、ボカボのスタッフからの情報。「覚醒剤取締法の本来の趣旨は、暴力団の資金源にならないようにすること」であったとか。「だとすると、本来、覚醒剤を使った人を罰するのは二の次で良いのであって、そちらの方向ばかり強調される現在の方向はおかしいのではないですかね?」たしかにそうでしょうね。数年前から、「覚醒剤は絶対にダメ」という一般向けキャンペーンが盛んになされているけど、立法趣旨から言ったら、消費者側に偏りすぎている。もし供給者側に向けるのだったら、もっと違う方法でなければならない。

きっと、暴力団の勢力が弱まってきたので、警察の暴力団担当の仕事が次第に少なくなり、しようがないから一般人対象にキャンペーンを始めて、自分達の存在をアピールしたというのが、真相ではないのでしょうか? 今度の覚醒剤騒ぎは、そういう警察という官僚機構の延命策なのではないかという見方も出来る。世の中の動きは、経済を標準にして考えるとすっきり見えてきますね。

さらに、もう1つ。しばらく前に、沖縄戦で「住民の自決に軍の命令があったか」という問題が言われ、「軍の命令があった」と信じられる理由があったという判決が下った。しかし、この判決は今ひとつピンと来ない。自決までするんだから、軍の強制があったに違いないという論理は、どうも古くさい感じがするのです。

フーコーは「近代的権力とは、圧倒的な暴力ではない」と言っています。むしろ、それは「さまざまの微少な力の配置」であると…。一つ一つは些細なものにすぎないのだけど、それが組み合わされると、人に死まで強制する力を持つ。大江健三郎は「沖縄ノート」で軍隊が加害者、住民が被害者というシンプルな図式を貫いたけど、これが何となく違和感があるのは、フーコーの権力図式をまったく無視しているからだと思う。軍隊に協力した民間人はいないのか、むしろそういう人々が主導して自決が行われたのではないか、という視点は抑圧されてはならないと思う。

これら、三つに共通するのは何か? 反対意見は、実は、主流の意見と同じ無知に基づいているかもしれない、ということです。

たとえば、「強制連行」を批判し、「日本は韓国に謝罪すべきだ」という左翼の議論は、在日コリアンのほとんどが自ら望んで日本に来たという事実を無視しているし、「覚醒剤止めますか、人間止めますか」というキャンペーンは、覚醒剤がなぜ良くないのか、という起源の議論に目をふさいでいる。さらに、沖縄戦で日本軍の責任を追及する議論は、権力とは、上から押しつけであるという思いこみに基づき、それに末端がどう協力するか、という視点を欠いている。

ある詩人は、「広島の原爆を、その死亡者数の多さで批難する人は、原爆を作って投下した人と同じ発想に基づいている」と言っています。死亡者数が多いという批難は、容易に死亡者数が多いから爆弾として効果的だった、という論理に逆転するのです。大切なのは、「数」という議論から離れ、「死」がそれぞれの人にとって固有のものであり、比較できないのだ、という視点に立つことだと彼は言います。

反対意見を出すときには、自分が主流の意見と同じ前提に立っていないかどうか、点検すべきでしょうね。これは、自戒も込めて言うのですけど…

ボカボでは、「法科大学院 Start UP!」が始まっています。ここでは、皆の思考過程をすべて公開する。これは、上に書いたような矛盾に陥っていないか、点検するという意味もあります。そういう意味では、ボカボの講座のコンセプトは「自分の思考の限界を超える」という効果を持っているのかも知れません。ささやかかも知れないけど、ソクラテスのやったことを受け継いでいるつもりです…頑張らなくちゃいけませんね。




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