2009年11月

11/30

師走に向かって撃て!

いよいよ明日から師走。言い古されたことだけど、一年が経つのは早いもの。10月、11月の繁忙期が終わり、ボカボもやっと一息、というはずが、早稲田政経AOや慶應院の政策・メディア研究科とか、続々と合格のお知らせが届きました。うれしい悲鳴です。

早稲田に受かったのは音楽家です。『のだめカンタービレ』じゃないけれど、ずっと音大でヴァイオリンをやっていた人。日本のクラシック音楽が解釈論ばかりで、どんどん仕事の場が縮小していることを憂えて、自分が音楽業界を何とかしたい、と思ったわけ。その意気やよし!

いつも思うのだけど、現実はマンガではない。音大出の立場から言うと、『のだめカンタービレ』なんてまったくずれているとか。音楽という「意匠」はまとっているけど、若者の社会化がスラスラ行くというサクセス・ストーリー。でも、現実の音大では、有名なコンクールに入賞する人なんて10年に一度しか出ず、後は音楽をどう社会に活かして生きていけばいいのか困る人が多いのだとか。

私も演劇に関わっていたことがあるけど、『ガラスの仮面』などひどいと思う。『何たら天女』とかいう伝説の役を巡って、才能のあることを周囲からも認められた二人のライバルが競う、なんて、もう完全に妄想の世界。こういう絵空事をロールモデルとして職業を決めなければならない日本の少年少女はホントに気の毒だと思う。

どんな芸術でも同じだけど、「一将功なって万骨枯る」。サクセスした人の裏側には膨大な失敗が横たわっている。しかも、それは必ずしも本人の才能のせいとは限らない。ちょっとした運や先生との関係や、性格の相性と関係する。練習を一生懸命すると他の人と波長が合わず孤立するし、社会的に活動するとコミュニケーション力は上がっても腕は上がらず先細り。すごい矛盾を生きなくてはならない。それを『何たら天女』とか、バカじゃなかろうか?

他方で、慶應に入った方はSEを長くやっていました。そこでセキュリティの仕事をしていたのですが、システムの作り方にいろいろ問題と無駄があることを痛感した。その組み方を考え直し、それをインターネット上に公開し、共有財産にしようというのです。これも、志が良いと思う。

二人とも経歴が個性的です。自分で経験を積み、その中で問題を見つけ、解決しようとあえて今までの路線を変更した。音楽家は、半年以上、演奏活動と両立しながら、小論文を持続的にやってきた。SEの方も、今までの仕事を辞めて背水の陣を敷き、ボカボで指導を受けました。小論文などあまり経験がなく、最初は苦労していましたが、回を重ねていくうちに、みるみるうちに上達していきました。やはり、継続は力ですね。この頑張りがあれば、二人とも絶対に社会・業界変革できると思いますよ。

ボカボはこういう自覚的な人々を応援・ヘルプする役目があると思います。成熟社会となった日本の社会では、スルスルと既存の制度を上がっていくことは、過剰な競争を作り出し、かえって無駄が多い。むしろ、今までつながると思わなかった領域を自分でつなげて、社会の問題を解決いる新領域を作る必要がある。

それを察知してか、日本社会も社会人入試、AO入試など制度上は少しオープンになったけど、実質的にはマスプロ教育の体質が今でも濃いので、こういう志を丁寧にケアする体制にない。つい、学生を大量に集めて、一律に「経済」とか「政治」とか授業してお金を取るという発想になりやすい。でも、こういう自覚的な個性はそれではうまく育たない。それぞれの興味と関心に合わせて、オーダーメイドで実力を付けていくようにしなければならないのです。そんな丁寧なサポートができる教育機関はめったにない。それをボカボがやれているということは、日本社会に対して確実な貢献だと自負しています。

11/21

冬季うつ?!

「冬季うつ」という病気の概念があるのだそうです。冬に日に当たらないでいると、朝起きられない、気分がふさぐ、などの鬱状態になるのだとか。日をしっかり浴びるのが回復へのきっかけになるそうです。この感じ、分からないでもありません。

私も11月は少し苦手です。なんとなく疲れやすいし、特に今年は寒さが身にしみるなー。

先週前半当たりから、無理がたたったのかついに熱を出してダウン。ほとんど二十年ぶりの経験です。寝ていてもじっとしていられない。起き出してうろうろしないと、体中ズーンと重い。今は良くなったのですが、三日坊主はもう二週間もお休みしていました。ごめんなさい。

もしかしたら、日本社会自体がそうなのかもしれない。もうすぐだか、もうすでにだか、世界第二位の経済大国ではなくなって、中国の後塵を拝すらしい。一人当たりの国民所得はもともと高くないから、後は威張れるものが何もない。ズルズルと衰退していくだけ。そういうクラーイ雰囲気。そんな社会情勢が、私の体調にも影響しているのかも…

一番問題なのは、頑張っても何も良いことがないらしいこと。せいぜい自分の今の地位を維持することが出来る可能性が少し増えるだけ。それも後何年続くか…ああ、冬季鬱にふさわしい、頑張る気力が失せてくる話ですね。

唯一面白いのが「事業仕分け」でしょうか? 久しぶりに、政治のダイナミズムを感じました。あれを見ていると、国の事業にただぶら下がって食っている人がいかに多いか、よく分かる。気力も体力もあるのだから、自分で何とかしろよ、と言いたくなる。国や公共団体に頼って生活する大人たちがいるから、若者も「あれでいいんだ」と思ってしまうんだと思うな。

そもそも、この頃「仕事がない」「仕事をよこせ」なんて議論も多いけど、国が人々に仕事をやる、なんて無理だと思うよ。もう日本の公共インフラは充実していて、後残っているのは保守修繕くらい。そこで、たとえ仕事を無理に作っても、「事業仕分け」で廃止になったような不要物をまたぞろ作るだけだと思う。

グローパル化・貿易自由化の中では、一国でやれることには限りがある。労賃を高くすれば、外国から労働者が入ってきて、競争が激しくなり、また安くなる。物の値段を高止まりさせようとしても、安い外国産が入ってきてダメ。新技術を開発しても、そのうちすぐに他国に模倣される。しばらくの間しか持たない。一息つくまもなく、またあたらしい技術開発にいそしむ。

結局、どこかに「良いところ」があれば、そこはすぐ人だかりがして、荒らされて「普通のところ」になってしまうんですね。「グローバル化による利益」はそのしばらくの間だけ続く。やがて、荒らされ尽くすと人々はまた別の「良いところ」めがけて流浪する。そういう構造に、もう国家はなすすべもない。

そのあげくはどうなるか? 人的・物的交流が日常化して、労賃も世界で平準化すると予想されます。今までは「日本に生まれてラッキー」なんて思えていたけど、インド人や中国人、あるいはマレーシア人の同等能力の人と同等賃金になる。そういう時代が10年後か20年後か。「君は来週から雲南の工場に転勤ね。給料は現地物価に合わせて支給するから、家族も連れて行くように」なんてことになるだろう。

経済を豊かにするにはグローバル化しかない、というのは経済学者の一致した意見です。でも、そうなったら、「日本に生まれてラッキー」はまったくなくなる。インドも雲南も日本も全世界が平準化されて、競争に巻き込まれる。他人よりちょっとすぐれていたらお金は沢山もらえるけど、そうでなければどこまで落ち込むやら…これってむしろ反ユートピアのイメージですね。日本の未来visionは、元気が出ない。

だから国家に期待してもダメ。自分で自分の食い扶持は見つけなきゃ。「事業仕分け」で無駄を削っても、それが若者に回ってくるわけじゃない。今までの借金部分、つまり、国債を買ってくれた人に回るだけ。あんまり期待しない方が良いのです。それより起業したら? 人に使われているだけではなく、自分が仕事を作り出す。国家に期待するのではなく、自分に期待する。

昨日も、そういう人が志望理由書の相談に来ました。自分が今までやってきた社会人経験を活かして、健康ビジネスに進出したい。しかし、経営や関連分野の知識が足りないから、大学院に行って補充したいというのです。文章には色々欠陥があったけど、話を聞いてみるとアイディアはしっかりしている。「この文章をこう直したら…」とコメントしていると、「うまく行きそうな気がしてきました」と顔が輝いてくる。

こういう人がたくさん出てくると良いですね。もう就活に頼るなんて依存心は捨てて、チャンスさえあったら「自分でやるんだ」と思わないと、この冬季鬱=停滞状態は変わらないと思います。

ところで、東洋経済新報社から『「眼力」をつける読書術』を上梓しました。よく受講者から、何の本をよんだらいいのか、どう読んだらいいのか、聞かれます。ビジネスマンや読書の初心者にもわかりやすく、読書についてボカボメソッドで説明しました。気軽に読めるので、ぜひお読み下さい。

11/5

意欲に期待しないで、資格に期待する人々

今日は二週間ぶりのインドネシア語講座がありました。vocabowの3Fでやっています。講師の先生が格好いいことは前にも書きましたよね? 近頃珍しい行動派の青年。若い人たちが内向きになって、就職や格差にばかり血道を上げていることに比べたら、のびのびと好きなことをやっている姿は本当にすがすがしい。

だけど、やはり語学習得はしんどい。外国語を習うということは、頭の配線を変えることですからね。今までつながっていなかった箇所がつながり、当然つながっていたと思うところが切断される。しかも、毎日繰り返さないと、その配線は直ぐ元に戻ってしまう。たゆまぬ活性化が必要。大人になってから楽器を習ってもなかなか上達しないと言うけど、ちょうどそんな感じなのかもしれない。

内向きと言えば、インドネシアの看護師・介護士の話がまた新聞に載っていました。試験が大変らしい。「褥瘡(じょくそう)」なんて日本人でもどう読むか分からない漢字満載で、ふりがなも書いていないとか。病院などでは、人手が足りなくて困っているから、早くたくさん合格して欲しいのに、漢字が読めないので試験の意味が分からず、なかなか合格率が上がらない。インドネシア人に日本語を教えるノウハウがまだ確立されていないらしい。

逆の立場だけど、私もこれだけインドネシア語で頭を絞っているから、彼らの苦労にはホントに同情する。日本語は、漢字・カタカナ・ひらがななんてまず文字が難しい。私も色々言語をやったけど、格別難しかったのは古典ギリシア語だった。まず文字を覚えるので一苦労。活用を覚えるので二苦労。この二つを越えないと知らない言葉が出てきても、辞書が引けない。日本語も、活用はギリシア語ほどではないけどかなりあるし、文字は膨大。辞書を引くまでに何ヶ月かかるのか。私がインドネシア人だったら、呆然としてしまう。

そういう困難にもめげず、日本に来て稼ごう/働こうと思った人々の意欲と向上心は評価すべきだし、日本が公平な社会である限りは、その意欲には報いなくてはならないと思う。それなのに厚労省は「これは、現場の労働力不足を補う政策ではない」と言い張っている。看護師・介護士の有資格者で働いていない人が全国に55万人いるから、まずそれを活用すれば、不足の問題は解決するのだとか。

ウソだね。ウソでなかったらバカだね。なぜって、この議論が破綻していることは医師不足の時に証明されているからです。医師不足が騒がれたときに、全国には医師免許を持っていながら医師として働いていない人が3万人(?)いる。そういう人々を活用すれば、医師不足は解消するという意見がありました。だが、結局、医師は増えなかった。なぜか?

たしかに、今まで休んでいた人は一時的にかり出されたけど、実戦力にはならなかった。だって10年も現場を離れていた人が、たとえ資格を持っていると言っても即戦力になるか? その間に医療機器も作業もすっかり変わって、またイチから覚え直さなきゃならない。その再教育の時間とコストがすごい。結局、資格を持っていても役に立たなかったのです。

そもそも資格がありながら業務をやっていない人は「やれと言われればやれるけど、かったるいからやりたくない」と思っている人たちです。働きたくても働けない、という困窮した失業者とは訳が違う。現在の状態と資格を生かして働くことを両天秤にかけて、働くことにはメリットがないからと、「働かない」を主体的に選択した人なのだ。そんな人たちをわざわざ引っ張り出しても、一生懸命学習する気もない。むしろ、不慣れで事故を起こしたりしたら、もっとひどいことになる。そういうリスクを考えないのでしょうかね?

これは一種の資格信仰でしょう。資格さえあれば何でもできると思っている。しかし、実際は、資格は出発点に過ぎない。後は、現場で意欲を持ってやることでスキルを伸ばすしかない。でも、資格をとることでしゃかりきになってきた人たちは、現場から学ぶ姿勢が薄い。むしろ、おカミからお墨付きを得るともう努力をせず、資格があるからとエラそうな地位に就こうとする。資格社会には、こういう人間を生み出す弊害の方が大きいと思う。資格を持っていても現場の仕事に就こうとしない人など、かえってトラプルメイカーになる。もういい加減に失敗から学ぶべきだと思う。

こういう当たり前のことが、今の日本ではきちんと認められなくなっている。意欲は分かるけど、とにかく資格がないと……。こういう怠惰な精神構造だから、介護の試験が漢字能力や日本語検定みたいな些末主義になってしまうのでしょうね。まあ、厚労省の人々もそういう資格試験を勝ち抜いてきたクチだから、感覚が少々ずれているのは当然かもしれない。バカな幻想を追っていないで、現実に目覚めよ!と私は思うのですが、もう目覚めるチャンスがなくなったのが、現在の日本社会なのかもしれない。




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