2010年1月

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政治に清廉を求めない倫理

 民主党の幹事長が政治資金規正法で検察の事情聴取を受けたらしい。マスメディアなんかでは、「自民党と同じじゃないか」とか「やっぱり金権だ」とまたまた批難が渦巻いている。私は、政治ネタにはあまり興味がないのだが、こういう空騒ぎはいい加減やめたらどうか、と思う。そもそも政治家の第一の資質は「清廉潔白」ではないはずだ。政治家本来の仕事で評価すべきなのに、別なことで評価してばかりという傾向は何とかすべきでしょう。

 マキャアベリの書いた『君主論』を読んだことがありますか? 近代政治を確立した名著だけど、その根本原理は「政治は道徳ではない」ということ。政治家の役目とは、国家社会を安寧に保ち、国民を幸福にすることであり、政治家個人が道徳的であることではない、と述べた。逆に言うと、どんなに清廉潔白な人物でも、その結果、国民が困窮したら意味がない。どんなに卑怯でもどんなに嘘つきでも、その結果、国民・国家が繁栄すれば、政治ではO.K.。

 この原理が、日本人はよく分かっていないらしい。だから、いちいち政治を道徳のレベルに引き下ろす。たとえば、政治家の愛人問題だの金権問題だの、で騒ぎまくる。そんなことは、プライベートの問題でパブリックの問題ではない。密告したり、こそこそ嗅ぎ回ったり、人の評判を落とす行動をとることこそ、道徳的にどうだかなと思います。

 そんなに「清廉潔白」がお好きなら、お寺の坊さんにでも首相や党幹事長をやらせたらどうでしょう? その結果、日本人がたくさん死ぬような事態を招いても、「諸行無常だ」と議会で感涙を絞る名演説をして、国民を納得させてくれるはず。あるいは東京地検の検事が政治家になったらどうか? いくら経済が低迷しても、「これこそ正義だ」と立て板に水の言い逃れをするだろう。

 要するに、それぞれの持ち分がちゃんとあるのだから、現在のように、国家の大事の時に他の分野に妙なちょっかいを出すものではない、ということです。リーマン・ショック以降、アメリカの衰退、中国の台頭など、世界の政治・経済状況は大きく変わりつつある。それを見込んで、国民も今までとは違った政党に政治を任せようとしたのだ。ところが、その選択を無にするようなタイミングをあえて選んで、法律家がちょこまか動き回る。何をやっているんでしょうね?

 ボカボに来た開業医の方が怒っていましたが、医療に限らず、日本の法律の使い方は実に恣意的だそうだ。いつもは法律を弾力運用していて、現実をけっこう容認しているのだが、いったん行政や司法の逆鱗に触れると、やたらと細かい法律を元にして、被疑者扱いする。よくある「別件逮捕」もその一例。福島の「産科医逮捕」もそう。「叩けば誰でも埃が出る」どころか、無理に叩いて何が何でも罪に陥れる。

 そもそも政治は多数の人数を動員する活動であり、一億・二億なんてお金はすぐ集まるのだし、そういうお金が集められないようでは、政治家は務まらない。実際、給料を考えてみても、400万の給料の人が10人集まったら、会社は毎月4,000万払わねばならない。100人だったら4億ですよ。政治活動で100人集まったぐらいじゃ、大した勢力じゃないだろう。しかも、政治的状況は時間と共に変わるのだから、カネの流れなんていちいち細かくたどれない。

 我が友人副島隆彦くん流の陰謀論を信じる趣味はないけど、これでは「陰謀」の状況証拠がそろいすぎ。少なくとも、判断として、もう少し状況が落ち着いてから追求すればよかったのでは? と思うのは、政治的常識ってものでしょう。正義が貫かれた結果、日本経済は沈没してしまったじゃ「正義」の意味はない。それとも、東京地裁は日本の政治・経済的没落を願う某国の手先だったりして…まさかね。

 そういえば、それが疑われる事件が昔あった。1970年から始まった田中角栄の裁判。新聞には今度の事件も「田中角栄の呪い」だと言うが、今から見ると、田中疑惑・裁判自体には種々の疑義がある。「土地転がしだ」と立花某などが騒いだのだが、そんなことで、あれだけのヴィジョンのある政治家を葬って良いのか?

 私の先生の小室直樹は、TVで「あれほどの大政治家をカネの問題などの些細な事件で告発するな!」と机を叩いて吠えたことで、TV界から干された。田中金権を否定する言論がTVに出るのはまかりならんと統制されたわけ。「政権を批判するのは報道の自由である」なんて議論があるが、とんでもない。「政権を批判する言説を批判する」のはご法度らしい。TV・新聞は自らの見立て以外の「言論」を許さない。その見立てが検察のリークに基づくものなら、何をか言わんや。

 結局、今になってみれば、田中角栄が独自に日中正常化をしたりしたのが、アメリカ政府の逆鱗に触れたから政治的に葬られた、というのが真相だとさえ言われている。だとしたら、TV・新聞はそういうアメリカ政府の片棒を担いで「報道統制」したことになる。だいたい、もし本当に田中角栄に罪があると確信しているなら、あの偉大なる小室先生を「干す」なんてするはずがない、と私は思う。角栄擁護の論陣を堂々と張られると都合が悪いから、TV・新聞に出させなくしたのだろう。マスコミは「言論の自由」どころか「言論統制」の権化なのです。

 実際、田中角栄が政治家として卓抜な技量を持っていたことは、裁判中の身でありながら、毎回選挙の度に議員に選ばれ、新潟では「角さん」のことを悪く言う人はいなかったことでも分かる。新幹線を引き、「裏日本」を繁栄させ、選挙区が発展したのだから、これ以上の政治家はいない。言葉の力もすごかった。私は、未だに彼の演説以上に迫力のある演説、選挙民が熱狂する演説を聴いたことがない。政治的信条は違うけど、「民主主義」とは、彼のためにあるような言葉だと思います。

 今度の検察の行動が、40年前の「田中逮捕」の二の舞にならなきゃいいけど、結局「歴史は繰り返す」のでしょうね。この事件も日本がゆっくりと衰退していく証拠かもしれません。


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若い人のための遅ればせの年頭挨拶

 現在の若い人たちの前途はあんまり明るくないと思う。何より経済状態が良くないし、雇用が少ない。私が大学を卒業したときも不況のさなかだったけど、これほどひどくはなかったと思う。「まあ、何とかなるさ」と楽観が出来た。だから、私は就職活動もせず進学もせず、面白いと思ったことだけで、20代を過ごしてきた。

 「働かなくっちゃ」と思ったのは30歳になってから。それも予備校の臨時雇い。ずーっとそういう形で働いて、そろそろ一本立ちしなくちゃヤバイぜ、と思ったのは40を過ぎてから。最初の本をその頃出して、実際、何とかなってしまった。もしかしたら、私は日本で最初のフリーターかもしれない???

 でも、そんなことを若い人に言うと、まるで珍獣でも見るような目付きをされる。「先生の時と時代が違いますよ。今は別の選択=オルタナティヴなんてないんです。ひたすら会社の言うことを聞かなきゃならないのです」そうかなー。別の選択の可能性が見えないだけじゃないかな、と思うのです。

 私が結局何とかなっちゃった1つの理由は、組織の論理から距離を取ったことだと思う。Yゼミに入ったときも、1年たったところで「センセー、他の予備校を全部止めてうちに専念してください」と事務方に言われた。これが一種の踏み絵。Yesと言ったら時給を上げてたくさん働かす。Noと言ったら忠誠心ナシとして冷遇する。私は即座に断った。

 だって、危なすぎるじゃないですか。Yゼミに専念すれば、一時的に賃金は上がるかも知れないけど、ちょっとでも生徒の評判が下がったら、即座に待遇は悪くなる。ある同僚なんか、それが怖いばっかりに地方校に行っても、授業以外の時間はホテルにこもりっぱなしで予習。「お前もそれだけやらなきゃダメだよ」なんてアドバイスしてくれたけど、彼はやがて生徒殴打事件を起こして辞めてしまいました。オレがこれだけ頑張っているのに、お前はちゃんと聞いていない。と、キレたらしい。

 全身全霊で入れ込みすぎると、人格の方が破裂をしてしまう。目の前ににんじんをぶら下げられて走る馬みたいなものです。「どちらがいいか」って突きつけられて、その時に最善の選択をしたつもりが、実は貧乏くじを引いてしまう。「これしか選択はない」と思いこんで動くとろくなことがない。状況はつねに変動する。もう少し周囲を見渡して、いろいろな可能性を見なければならないのです。

 そもそも、今の若い人は、いろいろなものをfixedに考えすぎだと感じます。この間、バリに行ったときに、ウチの若いスタッフを連れて行った。ヨーロッパに行ったことしかなかったので戸惑ったらしい。まずマネー・チェンジのレートが5m離れた店で違うのでびっくり。次に、ホテルの宿泊料が交渉すれば値切れるのでまたビックリ。大阪生まれの子がこれだから、こちらもビックリ。

 日本だと、システムでがっちりと決められて、価格は動かしようがないと思う。でも、それは思っているだけで、いったんシステム・クラッシュしちゃうと、価格なんてガラガラと変わる。昨日までの仕事から直ぐ解雇される。それを「グローバル化の影響」だの「世界金融危機」だの言っているだけ。

 本当は、動かしようがないものなど、ほとんどなくて、その日その日のあり方に従って、いつも考えながら微調整しなきゃならない。そういうカラクリが途上国に行くとよく見えるんですね。でも「途上国なんて」と見下すので、変化に対応する作業に慣れず、決定的に遅れる。そういうことなんじゃないかな。

変化に対応するには、いつも現在がどういう状態なのか観察して分析し、次にどういう風に変化するか予測し、そのうえで自分がどうするか、決めていく。でも、普通はそういう面倒なことをしないで、現状を動かしがたいと考えて、いい加減に山を張る。日本経済が順調だったら、株価が下がらなければ、日航が破綻しなければ…みんな、こういう「山張り」だね。

 もうちょっと自分で可能性を考えなきゃ。ただ与えられた状況の中でメリット/デメリットと感じるだけじゃなくて、どこにフロンティアがあるか、どこで自分の頑張りどころがあるか、今の状況をまず言葉にする。そのうえでどんな選択肢があるか考え、どれを選ぶか決める。さらに、最初の言葉化が間違っていた場合を想定して、別な言葉化も考えておく。ここまでやっておけば大間違いはしないはず。

 私がYゼミで一番良かったことは、むりやり小論文の授業を受け持たされたことです。前にも書いたけど、20年前はどうやって教えて良いか、何のマニュアルもなくて困った。でも、そのおかげで、自分で工夫する余地ということに気がついて、今じゃそれが自分の仕事となっている。短期的なデメリットが長期的なメリットになっているわけ。あのとき、英語や漢文は仕事が楽でいいなー、なんてうらやんでいたら、今の私はない。

「書く」ということは、独創的に考えることそのものです。書けない人は自分で考えられない。書いてあることを理解するだけでは、「あ、この料理美味しい」と言っている段階に過ぎない。料理人は、その味を記憶して(これはグルメの段階ね)、さらにそれを元に自分の工夫を付け加えて、新しい料理を作る。そこまでいって、はじめて「料理界で仕事をする」という段階に達する。理解し、記憶し、さらにそれを自分の状況に合わせて工夫する。だから書くことは考えることなのです。そういう仕事に関われたのは、本当にラッキーだった。

 ボカボでは、この1月から2月「大学入試 慶應・難関大小論文 冬のプチゼミ」「MBA小論文・研究計画書 春のセミナー」の各コースをオープンします。書くことで考えることの喜びを知り、考えることでこの世をサバイバルする。これらがそういう機会になるとしたら嬉しいですね。


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バリ人と経済

 あけましておめでとうございます。

 今、インドネシア・バリ島に来ています。現地に家を持ったのです。この村は家具作りアーティストの村。樹齢100年というようなライチの木を削って、肌合いを活かしながら全長3mから15mの巨大なテーブルや椅子を作る。こんなに大きなモノを買う人がいるのか、と思うけど、どうしてもこの大きさが良いらしい。 この場所は庭を見て決めました。

 この庭を作った人は人は趣味で、山から水を引いて池やプールを作り、気に入った花や木を植え、外国人がその綺麗さを気に入るという結果になった。物好きが昂じて、いつの間にか仕事になったという感じ。もっともその間には危機もあったらしいけど。
 
 我々は仕事というと何でもカネに換算して価値を考える。だから、「資格」がないと、カネを稼げないと焦ったりする。もちろんそれも一理あり、カネは世間の人が考えるモノの希少性を表す基準にはなるのですが、そればかりだと生きていくことは苦しい。なぜなら、カネは世間標準に完璧に合わせた基準であり、自分の持っている好悪や志向とは必然的に違ってくるからです。
 
 でも、希少性なんて言っても、環境によって変わる。たとえば、バリ島では希少性の順序が日本のそれとずいぶん違って面食らいます。今いる家では果物はただ。庭のパパイヤは毎日実が熟す。食べないと虫の餌になるばかり。パイナップルも毎日1つずつ熟す。フルーツサラダにして食べてもなかなかなくならない。食べ残しを冷蔵庫に入れておくと収拾が付かなくなるから、さっさと捨てる。「もったいないナー」と結構心理的抵抗を覚える。バリでは経済が生活の必要を中心として回っていない感じがする。

 こういう風に天然のモノが豊かだと、必死に労働して生活を維持していく、という感覚にはならない。だから、生活のためには労働しない。実際、バリ島の人は、暇なときは皆で寝ているか、喋っているか、です。一生懸命になるのは、むしろ宗教やアートのため。葬式の時の派手な棺桶も、祭りの飾り物も皆村人の手作り。皆でワイワイ言いながら準備している様子は、ほとんど学校の文化祭そのまま。作る喜び、協力する喜び、働く喜びの原体験とはこういうものだと思う。

 それに比べると、日本の現代社会では、喜びを起点として行動を決定してはいけない、世間並の基準に堅苦しく合わせて、行動すべきだと思いこむ程度が強いですね。それが「プロ」だと賞賛される。そういえば、昔、私がある予備校で教えているとき、生徒から「先生、もっとプロに徹してください」と注文を付けられたことがある。つまり、国語なら、漢字の書き取りをさせ、出題の欠陥には触れず、真面目に読解し、生徒の質問に備えて授業後二時間は教員室で待機…。こういう教師像を粛々と演じるべきだと18歳の少年が言うわけ。何だか大変だね。

 プロとは何か? 仕事でカネを稼ぐ人だ。だから、生活できるだけのカネを稼げれば皆プロでいいはず。だが、日本ではそれだけではすまない。世間が求めるスタンダードにいちいち自分を過剰に合わせ、瑕疵(かし)なく振る舞うことが求められる。人から「ここがダメ」「あそこが不足」と言われ続け、それをサバイバルすると「大人だね」と言われる。本当にキツイ生き方。そういえば、「プロに徹しろ」と言った生徒は、今、幸せに暮らしているだろうか? 世間基準に合わせようと必死になるあまり、意に沿わないことを無理矢理やって、鬱になったりしていないだろうか? あれから15年以上たったけど、ちょっと心配になる。

 「プロになろう」とか肩肘張らないで、もう少し、個人の実感から出発して生活できないものか、と思う。自分のやったことを評価するのは、社会的権威システムであるなどと思いこみすぎない方がよい。それより、とりあえず、作りたいものをたくさん作ってみる。すると、「きれいだな」と言ってくれる人が出てくる。それを信じて作り続ける。並べておくと、そのうち買いに来る人も来る。バリ人のそんなやり方を見ていると、この気楽さと明るさを我々も取り戻した方がよいという気がします。

 とは言っても、日本人が時間通りにきっちりとやる能力は大したものです。電気工事だと何日の何時頃と言うと、ちゃんとその時間にやってきて終わらせる。こちらでは、電話を引くときでも「今日来ます」と言っても、雨が降ると平気で次の日になったりする。社会システムより、自然のメカニズムに合わせると予定は延び延びになる。本来、自然に合わせるとは、生産性と矛盾するわけです。でも、これはある意味で究極の「エコ」と言っても良い。

  さて、2009年は昨日でお終い。今日、新しい年を迎えます。ついこの間お正月のおせちを作った気がするのに、本当に時間は速いものです。バリにいるので、恒例の「ボカボのおせち料理」はなしです。その代わり、現地の人から習ったソト・アヤム(鶏スープ)にモチでも入れて食べようと思います。青いパパイヤを入れるのも美味しそうだな。さて、どんな味になることやら。


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